X-1
X
――さあ
戦ろう。
――勝手に死ね。
≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠
「……ヒヒ。キヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ。キヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」
クロバットの翼を有した少女の罵声を受け止めた『彼』は反り返るように笑い出す。気でも
狂えたように、何処までも下品にその哄笑は止まらない。低かった声が裏返る程の狂笑に、周りの男達も訝しむような気配をみせる。しかし『彼』の発する異様な雰囲気にあてられて、この場に現れた『少年』と大型の異形獣を引き連れた『大男』、この二人とその獣達以外の一〇数名の男達は大地に縫い止められたかのように動かない。
天を仰ぎ、両手を広げ、この世のものとは思えない笑い声を上げる『彼』。
そしてそのまま首だけ動かし『蝙蝠少女』へと視線を向けて、
「キヒャハハ、そうか。それがお前の選択か。ヒヒ、良い。面白いぞ。――チビッ! そいつ連れて、とっとと帰れ!」
「りょーかいッ。『執事』は?!」
「きゃッ!?」
未だに笑いの残る『彼』の言葉に二つ返事で答えるニット帽の少年。即座に少女を腕力に見合わぬ華奢なその腕で抱え上げると、既に背後の大穴へと反転を終えている橙の毛並みの大犬へと飛び乗った。それと同時、腰のボールから閃光が奔り、ウインディの傍らに居たベトベトンのどろり、とした身体を包みそのまま中へと引き摺り込む。
「適当にやったら追うわ。ほれ、行け。目の前の『怪物』がそろそろ我慢の限界だから――巻き込まれて肉片になる前に」
『彼』の言葉の後半が届くか届かぬかという間で、少年少女を背に乗せた異形の巨犬がその逞しい四肢で地面を蹴って
驀地に疾駆する。
『少年』のベトベトンが壁にと空けた大穴から、夜空の広がる外界へと橙色の異形の獣が跳び出して行く。
その背に向かって、
「……ッ。逃さねぇよ餓鬼共!!」
一〇数人居る男達の一人がそう叫び、ばらばらと他の輩達口々に汚く呪詛を吐きながら後を追おうと動き出す。
「応。逃がさない。逃げられない。――お前達がな。きひひひひひひひ」
そこに。気色の悪い笑声混じりの『彼』の声が。
決して大きくはない声量で、しかし不自然に広がる男声がその場に充満する。
そして。その醜悪な笑い声が空間を蝕んだ事を示すかの様に、その中空へと数百数千の黒い瞳が浮かび上がりそれらが一斉に見開かれた。
「……ッ?!」
ほぼ月明かりだけが光源であるにも関わらず、ぎょろりと動く個々の動きさえ見て取れる平面的な不気味な瞳。その場の全員を取り囲む形で展開した夥しい量の黒い瞳の眼差しに射竦められて、少年少女を追おうとしていた男達はギクリとその動きが止められてしまう。
「あ゛ァァァん? 何なんだよ手前ぇ!!」
リーダー格らしい中年男以外は着崩した服装の男達の中でも、とりわけ崩れた着方をした青年が甲高い声で、この異様を作り出した『執事』と少年に呼ばれた中年男へと威嚇する。
伸ばした状態の金属製の特殊警棒を向けて、金髪を逆立た青年が喚き散らすその姿に視線を向けてニタァと口元を歪め『彼』は口を開く。
「きひひ。嗚呼、俺か? ――“何なんだ”と訊かれれば答えは一つなんだが、そういうことじゃあねえんだろうなあ」
何時の間にか取り出し火を点けたのか、紙巻き煙草を指に挟んで紫煙を吐き出しながら『彼』はそう言って一旦言葉を切る。そして煙草を持っていない方の手をダークスーツのポケットの中に突っ込んで、その顔に浮かべた笑みを一層酷薄に歪め――
「これはあれだろ。俺の呼び名を訊いてるんだろ? なあ?」
そう金髪の軽薄そうな
形をした青年の問いに問い返すのと。
「ああ? ……ん? どうしたアブソ――ッ?!」
その青年が腰辺りに一旦目をやり、その直後に横に跳ぶのと。
一瞬前に青年が居た空間を大太刀が空気ごと両断したのが同時だった。
唐突に現れた歪曲した長大な刃の刀を振るったのは――宙に浮かんだ右手。
「ッ?! ――ルカリオ、アイアンクロー!」
大太刀の柄を握り浮かぶその右手。その手首から先は存在しない異様を見て、大半の者の動きが止まった。
動揺は見せず、しかし紫煙を纏う『彼』を見据えて動かない大男『八色』とその手持ちの巨大な異形獣達。
それとは対照的に動揺を垣間見せながらも傍らの異形へと指示を叫ぶリーダー格の男。その声通りに浮遊する右手へと向かい、主人である黒服の中年男の横に控えていた二足歩行の狼が跳びかかる。
灰色と藍色の光で作られた長爪をその手先に作り出した異形の獣。吼え声と共にその光爪による熾烈な斬撃を繰り出した。
「呼び名だとそうだな――」
その様子を見ながらも気にする
素振りを微塵も見せずに『彼』は言葉を続ける。
その間にルカリオの一撃は大太刀とそれを握る右手へと肉迫。
しかし。勢い良く振るわれたその爪撃が触れる刹那前、大太刀も浮かぶ右手も霧散して掻き消える。
結果、蒼い狼のアイアンクローは空を切り裂いたのみ。
「――『殺戮人形』とか云うのがあったな」
ふぅ、と煙を吐き出しながら『彼』が呟く。そうして、す、と
衣嚢から出した右手。その内に黒い霞が結集し先程の刀が現れる。
「――ッぎ、ぐぇ」
それとほぼ同時。息を呑む音のすぐ後に、意味を成さない濁った音を発した男が一人。そして間も無く響くぼきりという鈍い音。
そうして出来上がったのは首をあり得ない方向にねじ曲げられた男――だった肉塊が一体。そのままぐらりと崩れる死体の、唇を半開きに唾液の垂れるその頭へと柔らかそうな黒い腕を回して笑う影が一つ。
爛々と爛れた林檎の様に赤い目をした小さな影は、しがみついた男の死体が倒れ伏す既のところでふわり、とその身を翻し着地する。
その様子を表情を変えぬまま視線も注がず見届けて、その手の長大な刀を放り投げる『彼』。
地面を滑り転がるそれを。拾い上げたのは男の首をへし折り殺害した小さな
黒い縫い包み。
理解を超える事態に大半の者達は動けない。
そんな呆然と立つ男達の内の一人へと太刀を両手で引き摺って、ジャリジャリと刃先で
混凝土で固められた地面を削り迫る生きた人形――ジュペッタ。不気味に駆ける真っ黒な縫い包みは、ジッパーの様な口を歪めてひらりと地面を蹴って顔面の引き攣った男へと最接近。
「莫迦が! 避けろ!」
「危ねえぞ避けろ!」
浮き足立つ男達のその中で、比較的にはまだ余裕のあるリーダー格の中年男と先の大太刀の一撃を躱した青年が同時に声を上げる。
しかし。
「ひぃッ?!」
言われるまでもなく、心までもを削り取る様な音と共に異形が両手で刃を抱えて迫り来る事に平常心を欠いた男は逃げだそうと身体を動かすが、けれども全方位から見つめる
くろいまなざしが許さない。必死の形相でもがいても、只の一歩もその身は動かない。否。動けない。
そして。仲間二人の声も甲斐はなく、真正面から大太刀の一撃を頂戴してその男の首はごろりと落ちた。
生臭い鉄錆の臭いと熱をその断面から勢いよく噴き出しながら崩れ落ちる、二体目の屍と成った男。
その鮮血を浴びながらジッパーの様な口をギィと歪め、抱えた大太刀をまた地面で削る低さに構えたジュペッタがびちゃり、と重く湿った足音で一歩を踏み出した。
「きひゃは。乾いたらまた一段と黒くなりそうだ。きひひッ。逃げたければ逃げろ。決して逃がさないから。きひゃはははははははははははははははは!」
血に濡れた呪人形の姿を見てそう笑う『彼』。
異形にも刃物にも硝煙にも血煙にも闘争にも、果ては死にさえも近しい立ち位置に居るであろう男達。そんな者達であっても、この状況は悪夢めいた悍ましいものであるようで、その様子を眺めて薄笑う八匹の巨獣を引き連れた大男――『八色』以外の者達の顔に恐怖の相が浮かぶ。
そして、それが肥大化し膨張し恐慌へと移行していく。
その、僅かに前に。
「手前ぇ等!! この男を無視して餓鬼共を追えッ!!」
その感情を圧殺するリーダー格の男の声が爆ぜる。
「りょーかいっス! けど大丈夫なんすか!?」
刹那の間も置かずに応えたのは金髪の髪を逆立てた青年だった。腰に装着した球からポケモンを繰り出してその背に跳び乗る。傍らに控えた可憐な猫型の異形――エネコロロも主人を追って巨大な植物の葉の如き翼を羽撃かせる異形の背に。
「『八色』! そいつの相手はお前に任せた。……存分に戦れ」
「……了解した」
自身も腰のボールから巨竜を召還しその背に乗ったリーダー格の中年男の言葉に、静かに重く響く声で応える大男。その声色には溢れんばかりの喜悦が宿り、口元は裂けた様に大きく歪んでいる。その様子に、大男――『八色』の足元で牙を剥いている巨大な異形の獣達が発する唸り声が更に大きく凶悪に。
そして風を巻き起こして
そらをとぶ二体の異形達。カイリューもトロピウスも、その背に乗った者達も周囲の黒い瞳の視線や『殺戮人形』に目もくれず宙を駆ける。只真っ直ぐと、外へと走り去って小さな背が見えるだけの少年少女の姿を追って。
「――。だから、逃がさないと言っているだろうが」
それを見た『彼』の様子に微かな感情の揺れが生じた。しかし即座にそれは消え去って、元の冷笑的な表情でもって視線がある一点にと投じられる。
その先にはリーダー格の男の言葉も虚しく、
くろいまなざしの呪縛に絡めとられ動けない男達が。
逃げようと思えば思う程、逃げた瞬間に死角からの攻撃によって致命傷を負う様な想像。逃走しようと考えを蝕み、選択を阻む。そんな思考を膨れ上がらせる暗示を刷り込む闇色の瞳の視線に囚われた男達。故に逃げ出す以外の選択肢を見出し実行する精神力を持っていなければこの様に、立ち向かう事も放棄する事も出来ずに立ち竦むのみ。
そんな『彼』の手中に落ちた内の一人。殴打でもされたのか左の頬を大きく腫らした三十代位だと思われるその男と視線を合わせると、『彼』の瞳が不気味に発光する。
「さっきは殴って悪かったな。時間制限が欲しかったんだ。お陰であの餓鬼の選択を見れた。礼を言おう。――そして、新しい仕事だ。あいつら追って引き摺り降ろせ」
『彼』の瞳が発する
あやしいひかりを直視した顔を腫らした男は、次瞬にゆらりと身体が弛緩して上体を屈めて前傾姿勢に。首もぐらりと傾き下を向いて動かない。
唐突に奇怪な動きをし始めた男へと、周りの仲間達が声でもかけようと云うのか視線を向けて恐る恐るという感じに口を開く。
だがそれよりも早く、その男の身体は爆ぜる様な勢いで走り出した。
――正気を失ったと言うより他の無い動きでもって。
両眼は見開かれその焦点は見当違いの方向に振れて痙攣し、口はだらしなく開いたまま舌をだらりと覗かせ唾液を滴らせ、意味の篭もらない声を甲高く発し続けながら走る男。その一挙手一投足の悉くは生理的な嫌悪を生じさせるのには充分だが、しかし、或いはそれが故に、中空を加速し飛んでいく異形達に追い縋るという尋常でない速度で駆動していた。
最中。首無しの死骸の側に佇む呪人形が、その手の大太刀を狂走する男へ向けて放り投げる。
放物線を描いて飛んでくるそれを、躊躇なく刃を握って受け取る顔の腫れた男。どろりと刀身を液体が伝うがしかし欠片の正気も戻さぬままに疾駆し続ける。
憑かれた様に奇怪な動きで、常軌を逸した速度を生み出すその代償として、一歩を踏み出す度に男の身体が軋む。皮膚の裂ける音。筋繊維が千切れる音。骨の軋り。それらが狂声とを混ぜて悍ましい様態で駆けるその脚が、一際強く地面を蹴った。
混凝土を踏み割って、異様な体勢のまま跳躍する男。間接の可動域など最初から無かった様に不自然に伸ばされる左腕が、羽撃く葉竜の脚を掴む。
「あァん? どうしたお前ら。……げ。何だこれ気持ち
悪い」
脚を異常な握力でもって掴まれたトロピウスと、それを見たエネコロロが主人である金髪の青年へと短く鋭い鳴き声で異常を知らせる。二体の警戒音声によって気が付いた青年が、己が手持ちの脚にとしがみつく仲間の成れの果てを見て顔を顰めてそう呟いた。
その直後。
葉竜の肉が突き破られる程の力が狂った男の手に込められた。そのまま左腕一本の力のみで男の身体が飛び上がる。
悲鳴を上げるトロピウス。その翼が起こす風音。それに狂声を混ぜ込みながら、男は柄へと持ち直した大太刀を振り降ろす。
あり得ない体勢からの、埒外の力の篭もった斬撃。
脳天へと風音さえも断ち割りながら迫るその一撃を、
「う――ぉおおおおおおお?!」
太い胴にと跨ったまま、甲高く罅割れた絶叫を上げながら手にした伸縮式の警棒で防ぐ青年。受け止めた金属製の警棒を微妙に傾け相手の力を逃し受け流す。ギャリ、と刃が滑っていく。
軌道を逸らされた斬撃は、金髪の青年を切り裂くことは無かったが、勢いが死んだ訳ではない。そのままトロピウスの背を斬りつける。
「あ、やっべ。おいこら大丈夫か! ――あアアアもう何なんだよッ。落ちたら殺すからな! そんでもって手前ぇは落ちろ!!」
生物を斬る事に特化した刃が分厚い皮膚に喰い込んで鮮血が噴き出し、一際大きく声を上げる葉竜。体勢が崩れ、ぐらりと飛ぶ身体が揺れる。
傷ついた己の異形を心配しているのかいないのか、判断しかねる言葉をかける青年。
しかし、素直にその言葉へと短く鳴いてトロピウスが応え、翼を操る。結果安定。しかし更なる苦鳴の鳴き声が発せられる。
勿論正気を失くした男の動きは止まっていない。四足で飛ぶこの首長獣は小さくない。小さくないが青年とエネコロロが背に乗っている現状、それ以上の余裕はあまり無い。
しかしその狭いスペースへと手に持つ刀を突き刺して、それを支えに留まる狂人。
じくじくと、沸き出しているトロピウスの血液が羽撃く翼に巻き上げれて空に散る。
「『
雑音』! 遅れるなこの莫迦が!!」
そこに、柑子色の巨竜に乗って先を行く男が振り返る事もなく放った言葉が届いた。
低いがよく通るその声に心配の気配は微塵も無い。寧ろ怒りが込められてさえいるような声色であるそれに対して青年は、にへらと笑みを浮かべ――
「ギャハッ! そもそもカイリューとトロピウスじゃ遅れるのは当たり前っすよ先輩!! ――つーか、何俺の手持ちに刀突き立ててんだよ。お前は侍なんですかぁぁぁァァああァ?!」
応えた。
その直後。
癇走った大音声と共に滑り落ちる様に、大太刀を突き立てた男へと脚から向かっていく。
迎える男も焦点の定まらぬ瞳で、唾液をまき散らしながらトロピウスの身体へと刺した刃を躊躇なく引き抜いた。噴き出す血飛沫。そして葉竜の更なる悲鳴が重なる。勿論それに意識を男が向けるわけもなく不自然な挙動で大太刀を振り上げる。
自然、バランスが崩れるが元より姿勢を保つ事などしていない。まっとうな者でならそのまま地面へと落ちていくであろう体勢で立ちながらも、振るわれる太刀筋にブレはない。風を斬る白刃は迫る青年――『雑音』を両断する軌道を描く。
だが。その斬撃が何かを斬り裂くことはなかった。
確かに青年が滑り落ちる様にして放った蹴りが届くよりも、振り抜かれた刃の方が早かった。しかしそれよりも、トロピウスの背に乗るもう一体――エネコロロの動きは早かった。
するりと流れる様に肢体を躍動させて、『殺戮人形』に狂わされた男へと接近。そして勢いよく反転。鈍い銀色の光を帯びた尾が振るわれる。
鋼の硬度と化して尚
靭やかな長い尾が、太刀を持つ男の手首を下方から叩きつけた。
結果。熟れきった果実を枝ごと潰すかの如き鈍い音と共に男の手首が千切れ飛ぶ。
肉塊と鮮血と共に宙を舞う大太刀。しかしその程度で狂った男は動きは止まらない。一層激しく狂声を吼え、至近で牙剥く異形猫の横腹を蹴りあげる。
淡黄色の毛皮を纏う脇腹に、男の爪先がめり込んだ。
劈く異形猫の苦鳴。そのまま弾き飛ばされた先は何もない中空。その刹那後。『雑音』の蹴りが男の腹に突き刺さる。
くの字に身体を折り曲げて勢い良く突き飛ばされる男。不気味に蠢く手足で藻掻きながら落ちていく。
「ギャハッ。ざまぁみろ! ……つーか何があったんだよお前」
投げ出されたエネコロロの脚を掴んで強引に引き戻した『雑音』が哄笑をあげた直後、変わり果てた挙動のまま地面へと叩きつけられた仲間へと問いかける。勿論応えなどあるわけがない。
受け身も何もなく転がり落ちて止まる狂った男。しかしその動きは止まらない。ぶらりと折れた両腕を振り乱し狂声をあげながら、中程からへし折れた脚で立ち上がる。
尚も追撃の構えを見せるそれへ。
「ルカリオ。
はどうだん」
リーダー格の男の声に応える吼え声と共に放たれた、茶色の光球が直撃。頭部が肉片と骨片をまき散らして消し飛んだ。
そうして漸く動きの止まる男。血飛沫を噴き出しながらぐらりと崩れ落ちる。
「ぎゃはははは!
流ッ石先輩!」
「
五月蠅え。とっとと行くぞ馬鹿が」
狂わされた男との攻防は時間にすれば僅か。瞬く間に過ぎるも二人を乗せた二体の異形は先を行くウインディを駆る少年の開けた壁の大穴へと辿り着こうというところ。
仲間の死であることなど関係ないのか、その様をみて軽薄に笑う青年。
その笑声に、耳奥にへばりつく『彼』の笑い声が混ざり込む。
「――ッ?!」
「おおおおう?!」
次瞬。主人を乗せ飛翔する異形達がこの黒き視線の満ちる場から飛び出すその寸前に。
眼前へと白い冷気が結集。巨大な雪の結晶めいた身体に円かな二つの瞳を輝かせた異形の姿となって現れる。
突如の出現。しかし巨竜達の動きは止まらない。浮遊して待ち受けるフリージオへと先制しようというのか寧ろ加速。
だが。咆哮と共に振るわれた竜の爪が届くより早く。幾多もの本数の氷の鎖が張り巡らせられた。
突如として生まれたそれらが羽撃く異形達へと絡みつく。
四肢を。胴を。翼を締めあげる氷の結晶が連なる縛鎖の群。
鎖の音がぎり、と軋む度に二体の翼の異形の苦悶の声が上がる。
自身の作り出した氷の縛鎖による光景に、その姿からは想像できない高く澄んだ鳴き声を響かせて、顔面全体で破願する氷の異形――フリージオ。
「きひゃはッ。よくやっ――」
この巨大な氷結晶の異形も黒衣の『彼』の手持ちであった。この場から離脱しようとしていた者達の捕縛に、嘲るような笑い声でそれを成したフリージオへと言葉をかけた、その刹那。
「すまないが。そろそろ相手をしてもらえるか」
空気の壁を突き破り
でんこうせっかの勢いで、結果生じる衝撃波をまき散らし、八体の獣達が『彼』の元へと殺到する。
そしてその先頭には獣では無く、ぎらりと輝く凶器を手にした大男。しかしその顔は、背後で駆ける血走った瞳と開いた顎から牙を剥き出しに音無く哮る異形獣達よりも燦然と、爛れた光を帯びた瞳と裂けた様に歪んだ笑みを湛えていた。
そんな一人と八体の獣達が瞬きよりも速く距離を詰め『彼』へと肉薄。
目線だけを迫るそれらに向けて苦々しく顔を顰める『彼』――『殺戮人形』だが、しかしそれだけで何か動きを見せる間は存在しなかった。
音を置き去りにした獣の
かみつきと斬撃の九閃が瞬く間も無くその身を消し飛ばす。
此処で、漸く大男『八色』が動き出す前に発した言葉が響き、八体の獣達の哮る絶唱がそれに追いつき塗り潰す。
「体勢維持! そんで、
かえんほうしゃと
ほのおのパンチ。とっとと抜け出せ」
「バァクフゥゥン! と言いたいとこだけど流石に重いな。エネコロロ、カイリューを
まねろ!」
その後に響く爆音。
それに混じってそんな二人の男の指示が。そしてその言葉通りに火炎を繰って縛鎖を融解。
「あ、手前ぇ! トロピウス燃やすな馬鹿!! そんで手前ぇもいちいち悲鳴上げるなうざってえ!」
そんなざわめきも発しながら氷の鎖を抜け出して加速。追うフリージオ。しかし巨竜と異形猫の吐き出す炎に近づけない。
そして。二人の男とその手持ち達は
くろいまなざしの満ち満ちた倉庫を飛び出した。
その様子を終えた体制で視線だけで見ていた『八色』と八匹の巨大な獣達。
音を超える速度での駆動という常軌を逸した異常を平然と行う九体の異形達。その中の人の形をした『それ』は、刹那前の喜悦に満ちた表情とはうって変わった静かな表情で、ソニックブゥムに吹き飛ばされ転がる他の男達へと言葉をかける。
曰く。
「逃げないのか逃げられないのかは知らないが、ならば戦わなければ死ぬだけだぞ」
それを受けて、「しかし、戦う相手が砕け散ったのに何と戦えと」と男達の中の一人が呟いた。
その通り。まさしく言う通り。戦う敵が居なければ戦うも何もない。
得体の知れない不気味さを纏った男であったがしかし、純粋無垢な暴力の体現者達にとっては塵芥に過ぎぬのだと口々に出しながら弛緩していく男達。
『彼』の手持ちである呪人形も氷結晶の顔面も健在である。尤も、たった二体で九体もの相手をするのは難しくも見える。
故に。終わった、と緊張を解くのもわからないでもない。
だが。しかし。
その周りで男達を見つめる視線が消えていない。
「きひゃはははは。自己紹介の途中で逃げ出すわ襲ってくるわってのはマナーがなってねえなぁ。さあ。静聴してくれていた健気な生贄共、自己紹介を続けるぜぇい? キヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
淀んだ笑い声と共に闇色の霧が結集する。弾雨に曝されて尚無傷で復活した『彼』が再度、無傷で姿を現した。
それも硬直する男達の頭上に浮かんで。
「さて、他には何て呼ばれていたかね?」
宙に浮かんだ人の形をした何かは、足下の人間達を置き去りに、笑い声の混入した言を止めずに紡ぎ続ける。
その異様に呑まれてか頭上を仰いで男達は呆然と立ちすくみ動かない。或いは動けない。
見入られた様に『彼』の言動から視線が逸らされない。
「そうそう。――『暴食の夜霧』」
「……あ? なんだこれ――」
宙に浮遊する『彼』の言葉が終わるのに同期して、男の一人の身体に紫色の霧が纏わりついた。
その直後。
「え。――ギャ――――」
皮を肉を腱を骨を貪り咀嚼する不快音が断続的に響きだす。
絶叫としては短い。だが断末魔としはまさしくそれの発声。それを最期に男は纏う紫霧に血霧を混ぜ込んで、徐々に徐々にとその身体が消えていく。
ぞぷり。ばつん。ばきり。くちゃくちゃ。ぐち、ぐちゃ。
分すらかけずに、欠片も残さず男一人を喰らい尽くした紫色のガス。
その正体は異形の気体。気体の異形――ガス状ポケモンのゴースが二体。
それらが宙に浮かぶ『彼』の顔に浮かぶ笑みと同質の色の込められた笑い顔を、気体の中に作り出して生理的な嫌悪感を想起させる鳴き声を辺りにまき散らす。
「ああ、後は――『無慈悲な亡霊』」
不気味で不快な笑い声の中で、坦々とそれこそ本当にどうでもいいことを思い出す様に『彼』――『殺戮人形』『暴食の夜霧』、そして『無慈悲な亡霊』と呼ばれていたらしい男が呟いた。
直後。
「え、ぁ――。ッひ。ぎ――」
三本指の影色の手だけが四つ現れ、一人の男の四肢を掴む。
みしり。ぶつり。ぐしゃり。
そして次の瞬間に響く不快音。
また一人。竦んだ男の発した困惑が混じり漏れ出す吐息と続く恐怖に染まった短すぎる断末魔が、照明少ない廃倉庫の薄闇を震わせた。
埒外の力で腕脚を引き千切った浮遊する二対の両手。更に、絶叫を上げようとしていた喉を噛み千切った二つの顎。それを有するは。
裂けた口元を大きく歪め、独立浮遊する両手に握った肉塊を振り回し、血潮を振りまく異形の亡霊――ゴースト。これも二体。
「それで、ああ――『反逆の影』」
「ッ。テメエ調子に乗ってんじゃねえ! ぶち殺すッ!!!」
薄笑いを浮かべながら滔々と言葉を続ける、宙にと浮かぶ亡霊使い。
そんな『彼』に漸く一人、八体の異形獣を引き連れた大男以外の者が牙を剥く。
上擦った叫びと共に、右手は握った拳銃を構え、左手は腰に付けたモンスターボールの機構に触れる。
閃光。銃声。焼けた硝煙の臭い。召喚された獣の唸り声。吐き出される薬莢の転がる小さな音。
だが。全ての銃弾を吐き出したにも関わらず、当の『彼』は無傷。着ているダークスーツを綻ばせる事すら出来なかった。
「――ッ!? なら――」
それでも諦めない男。足下の自分のポケモンへと指示を飛ばし、自身は空になった自動拳銃の弾装を入れ替える。
その様子を口元を歪め、しかし視線を向ける瞳は冷徹に見やる『彼』。そんな彼がしたことは。
黒衣の衣嚢から取り出したのは、安っぽいオレンジ色の外装に包まれた紙巻き煙草。その内の一本を器用に口だけで咥えると人差し指をその先端にゆらりと翳す。すると音無く点る小さな火。紫色の燐光の散る不気味なそれが、煙草の先端を炙って赤く点火する。
肺へと入れた紫煙を吐き出しにやりと笑い、両手を激昂する男へ向けて指先を上にと揃え手招く『彼』。あからさまなまでの挑発としてのそれを見て、唯一人反抗した男の顔がもう一段階怒りに染まる。
だが。しかし。その怒りが実を結ぶことはなかった。
怒気を宿した大声で、指示とも喚きとも言えるだろう言葉を男が発するその
最中。
男とそのポケモンの足下。その
闇がとぷんと静かに波打った。
「――ッ!! ……は?」
そして。
熱り立ち空中の『彼』のみを凝視していた男とその手持ちが異変に気が付いた時には、もうその脚は影から伸びた三本指の影色の手によって掴まれていた後だった。
間を置かず、人と獣の脚を掴んだままにその手が影の中へと沈み戻る。
結果。ぞぷん、と一人と一匹は影の中へと引きずり込まれ姿を消した。
数秒の静寂。その後。
消えた男と獣に代わり、耳奥を通り越え脳髄を掻き毟る様な不快な笑い声を上げて二体の亡霊が現れる。
大きく裂けた口元を歪ませて、ふわりと宙に浮くゲンガー二体。そのそれぞれの手に掴まれ揺れるはぐずぐずに崩れて血を滴らせる屍二つ。
ケケケと笑いながら無造作に、ずんぐりとした亡霊は掴んだ死体を放り捨てる。
死臭を振りまき、ごろりと転がる二つの死骸。辛うじて形を留める頭部に残った光を失った瞳が向ける視線に突き刺され硬直するそれの仲間達。
青ざめた顔で声すら上げられずにその場で震える男達。その背後へ『彼』はゆらりと音無く舞い降りて。
「きひひひひひひひひひ。次は誰だろぉうなぁ?」
直接頭蓋の中で響く様な不快な笑いの混じった声で、振り返る事すら出来ない黒服の男達の中の二人の肩に手を乗せ顔を寄せて語りかける。