W-3
「――?」
疾走するウインディ。当然の如く暴風が襲う中、その豊かな体毛が覆う丸太のように太い首元にしがみ付いている彼女は、『彼』の発したものとは別種の笑い声を聞いた気がした。いや、確かに聞いた。歓喜に満ち溢れた狂った笑い。その残滓が吹き荒ぶ風に混じり彼女の耳で響く。
思わず、振り返る。その拍子に、背中の翼が背後の少年を掠める。「うおっ、とッ」と驚きながらも揺れの激しい獣の背中で跨った状態で首を反らし器用に躱した少年。ニット帽を被った頭が揺れ、収まりきらず覗いていた肩に届きそうな長さの黒髪が靡く。
彼女の霞む視界に映った光景は、少年の向こうで凄まじい速度で遠ざかる無機質な倉庫群。壁に大穴の開いた一棟、その中。闇の塗り込められたそこに、夥しい量の瞳が浮かんでいた。
「――ッ!??」
全力で前を向く。背中越しに「うおッ! またか!」という少年の声。背中の翼がまた掠めたのだろう。適当に謝る。聞こえているかどうかはわからない。彼女の頭の中では振り返った際に見た光景がこびり付いていてそれどころではなかったから。しかし、後ろへと流れる風に引っ張られるので、背の翼を折りたたむ。
何時までたっても黒い視線が離れない。
視力は良くない。見間違いだ。そう自分に言い聞かせる。しかし見えただけでも数百は存在した、平面的な模様の様な黒い瞳の群。只、背後にある、というだけなのにその眼差しが脳裏に浮かび、落ち着けない。それを振り払うかのように彼女は軽く頭を振る。
「……ん? どうしたの? お姉さん。……あ、何か見られているような感じがするなら、逃げてるんじゃなくて帰っているとかって思うといいよ。『執事』達の
くろいまなざしって滅茶苦茶強えーけど見境ないからさ」
「帰る? 何処に?」
――私には帰る場所なんて無いんだけど? その言葉は口には出さずに、首だけで振り返り、訊く。少年の言葉にあった“
くろいまなざし”という単語に対しては興味が湧かなかった。ポケモンの技だろうか? そこまでポケモンについて詳しくない彼女は“
くろいまなざし”に対しての思考をそこで打ち切る。
ウインディが一歩を踏み出す度にその背中がうねる。硬い毛の感触と、獣の臭いと体温、それと肌を刺すような夜気。烈風と共に代わり映えのしない景色が後ろへと流れていく中で、少年は長ズボンの上に巻いた風にはためく腰布を押さえながら、
「『お嬢様』のお屋敷ッ。でっかくてすっげー広いんだぜッ! って、あれ? お姉さんのさっきの叫んだのってそういう意味じゃなかったの? あそこから連れ出してお屋敷に連れてけって感じで」
と、犬歯が覗く位に満面の笑みを浮かべ答えた後、首を傾げ訊き返して来る少年。
ああ、『彼』がそんなことを言っていた気もする。お金持ちのお嬢様、だったか。先程の叫びは衝動的なもので何かを考えた結果の言葉ではなかったが、それも良いかもしれない。もしかしたら哀れに思って手を差し伸べて――
そこまで彼女は考えて、ふと疑問が浮かんだ。
何故私が哀れまなければならない。
――それは私が化物だから。
疑問に、そのような言葉が答えとして浮かぶ。
化物。何故化物か。
――それは私の背の翼のせい。
ならばこの翼を引き千切れば私は人間?
彼女は
徐にその背の翼膜の張った華奢な感触の翼へと右手をかける。掴む。そして、力いっぱいに前方へと引き寄せた。無理な力を加えられた翼が引き攣り、痛む。涙が滲むのに構わず力を込める。痛い。痛い痛い。
だが、腕が翼であるクロバットの特徴を有する彼女にその華奢な翼を手折る力すら無かった。否、華奢に思えるその翼は思う以上に丈夫であったというのが正しいか。しかし、そんなことは彼女には意味を成さない。
腕も脚も無ければ良かったのに。中途半端にニンゲンの姿をしていることが忌まわしい。
砕けるのではないかというくらいに奥歯を噛み締める。翼を掴む手から力が抜け、ウインディの橙の毛皮へと落ちた。
声無き慟哭を彼女が上げている最中に、「あ」、という少年の声。一刹那後には彼女の視界はぐるりと回転していた。少年に抱きかかえられ宙を舞う。
辛うじて認識できるのは獣と風の咆哮と、あとは翡翠色を拳大の光が掠めていったくらい。彼女が
抱かれた少年の温もりだけが暖かい。
「だーッもう! 『執事』の役立たず!! ――お姉さん、足速い?」
走るウインディの背から彼女を抱え跳躍した少年が、その衝撃を最小に和らげながら着地し嘆いた後に、彼女をそっと降ろし真剣な顔をして訊いてくる。
「あ、え?」
状況を飲み込めず、若干うろたえながらも彼女は首を横に振る。飛ぶ事に身体を最適化させた異形の大蝙蝠の特徴を持つ彼女の足は歩く事が限界だ。走ることなどは考えられない。
満月の薄ら寒い光が注ぐ夜闇に幾重もの獣の唸り声が響く。それに混じる軽薄な笑い声。それらを聞き、遅れて状況を理解する。
霞む視界を巡らして見れば異形の怪物たちとその主人の男が二人、それらが彼女達の進路を塞いでいた。
「ギャハハハハハハハハハハハハハハハハッ!! はい、ゲェェェムオォォォバァァアアアア。あの化物のせいで俺達がゲームオーバーかと思ったけど
大逆転ぇぇん!」
熱帯植物の葉のような四枚の翼で羽ばたき、長い首を持つ巨体を浮かべるポケモンに乗り、馬鹿笑いを続ける軽薄な男はそう言い更に大きく笑う。
牙を剥き出し唸る少年のウインディと対峙するのはエネコロロと、首元から炎が猛る異形の大鼬。
「ったく、あのバケモンめ。『殺戮人形』がまだ生きてたなんて聞いてねぇぞ。――手前ぇら随分と手こずらせやがって。餓鬼、手前ぇは殺す。バケモン、手前ぇは死なせねえが、殺してくれって泣いて縋るまでぶちのめす」
前半は独白を、後半は彼女達に向かい殺意すら込めてリーダー格の男は吐き捨てる。それに呼応するかのように黒服を纏うリーダー格の中年男を背に乗せた、巨大な翼を広げ空に浮かぶ柑子色の異形――カイリューが一啼き吼えた。
それは最早、音とは呼べない衝撃。空気の振動が見えるかのような大音量。思わず耳を塞ぐ彼女。見れば少年もニット帽の上から耳なのか頭なのか、微妙な位置を手で押さえながら視線を二人の男へと向けている。
耳奥に残響が未だ鳴り止まない次の瞬間に、カイリューとトロピウスに乗った男が飛び降りる。着地。黒いスーツの裾と逆立った金髪が靡いた。
その刹那後に眼を焼くかのような閃光が幾つか瞬く。
「トロピウス、
タネマシンガン!! エネコロロ、
みずのはどう!! バクフーン、スピードスター!! ウインディぶっ殺せ!! 」
「カイリューはドラゴンクロー。バシャーモは
ほのおのパンチ。ルカリオ!! ボーンラッシュ! 餓鬼を殺せ!」
同時に男二人の指示が飛ぶ。一気に捲くし立てるその指示に従い、閃光と共にボールより現れたもの達を含めて総勢六匹の異形が動き出した。
それに続き指示を終えた二人組も動き出す。
トロピウスはその長い首を若干反らし大口を開け、そこに集めた草を司る翡翠色の光弾を機関銃のように連射。エネコロロからは青色のチカラが真っ直ぐに撃ちだされる。狙いはオレンジ色の巨犬――ウインディ。
少年に向かい巨大な翼を広げ翔ける竜の両の爪は、蒼と橙の光によって二倍程度に長く鋭く。赤い羽毛に覆われた鳥人の拳には橙色の炎が帯びる。
「ッ!?」
自然、少年の傍らに居る彼女に向かうようにも見える異形達の突撃に、思わず息を詰まらせ眼を瞑る。
しかし、打音はすれども彼女には衝撃一つ無い。そして少年の苦悶の呻きも聞こえない。代わりに聞こえるのはびちゃり、という粘ついた水音と獣の唸り声。
眼を開けば、二体のポケモンの爪と、炎打を紫の身体で受け止める生きた汚泥が目の前に存在していた。身体から生やした四本の腕でカイリューとバシャーモを押さえ込んでいる。
少年は居ない。
連続する打音。その方向に視線を巡らすと具現化した長骨を打ち込むルカリオの絶え間ない攻撃を、靴の裏で受け止め流す少年の姿が。小さな身体で舞うように、薙ぎ、足下を狙い叩きつけ、それを更に振り上げてくる長骨の連撃を受け流す少年。骨が纏った地面タイプ――黄色の燐光が夜闇に散る。
多重の咆哮。
それに視線を移せば大鼬――バクフーンが白く光る星屑を散弾のように撒き散らしている。それを巨犬は口から吐き出した火炎で焼き尽くす。
己を囲うように放たれる一撃一撃を銀色に鈍く輝くその尾で打ち払い、身を翻すウィンディ。一対三という数の不利をものともせず、相手の放つ攻撃を受け切る雄雄しき炎犬。
間隙など見えぬ程の光の弾幕を、空間に生み出した火の粉を散らして相殺。
それによって生じた合間を縫うように
しんそくとでも言うべき速度で駆け抜け、三匹の内最も後方に居た葉竜に肉薄。
白光の軌跡を橙色の身体の背後の闇に延ばしながら大地をその逞しい四肢で蹴り、宙を浮かぶトロピウスへと跳び掛るウインディ。大口を開け剥き出しの牙に焔が覗く。
焔を纏う牙がトロピウスの細く長い首を捕らえる
弾指前、同じく白光の軌跡を延ばし肉薄してきた蒼狼の蹴りがウィンディの顔面を捉えた。
「ギャハハハハハハハッ! 銃は苦手だけど殴り合いなら得意だぜぇぇ?!」
「顔近づけて怒鳴んな!! つーか殴り合いじゃねえし! 『
麗火』! そいつら任せたぞ!!」
何時の間にか少年の相手が代わっている。麗火と呼ばれたウインディへと
しんそくで接近し蹴り飛ばしたルカリオに代わり、金髪の軽薄そうな男が格闘戦を行っていた。少年の言うとおり殴り合いではない。少年は蹴りが主体であるし、軽薄な男といえば右手に特殊警棒を握りそれを振るっている。
「指示は俺がやるから手前ぇはその餓鬼殺せ! ――カイリュー、バシャーモ何やってやがる!!
かえんほうしゃ!! んなヘドロの塊なんざ焼けッ! ルカリオ! 手前ぇはその三匹にそいつ近づけさせるな!! 手前ぇらは包囲射撃隊形維持!」
軽薄な男と二人分のポケモン達への指示を飛ばす、リーダー格の男の声が彼女の背後から聞こえた。……。……背後。背後?
この場の状況に圧倒され思考が上手く回らない。
――背後。
ああそうか。後ろからリーダー格の男の声が――
「え?」
ようやく把握。振り返る彼女。
「
遅ぇよ!」
しかし、既に後数歩という所まで黒服を着た男は迫っていた。右手には拳銃。次の瞬間には眼前へ。
横薙ぎに彼女の頭を狙い拳銃の台尻が振るわれる。
見た目からして重く硬そうなそれ。思わず両腕で頭を守るように覆い、身を強張らせ目を瞑る。
何か、女性が呪文か何かを呟くような不思議な音が彼女の耳に聞こえた。重ねて背筋が凍りつくような甲高い鳴き声。そして冬の夜の寒さとは別の冷気。
硬質な硝子の壁か何かを叩いたような鈍い音が響く。次いで舌打ち。
「てめ――ぐおッ!?」
怒声の中途で空気を無理やり吐き出されたかのような男の声。その後にコンクリートの地面を転がる音が。それも複数。人と獣の呻き声が様々な音の響くこの場に混じる。
眼を開ける。
まず眼に入ってきたのは硝子のように透明度の高い氷の壁。そして次に彼女が見たのはふわふわと宙に浮かぶ亡霊が二体。三角錐の帽子に長い外套を羽織ったようなシルエットの異形――ムウマージ。それと、振袖を着た少女のようなシルエット――ユキメノコ。何処かの言語の呪文を謡うような鳴き声を発しながら彼女を見据え微笑する夜魔と、何も発さずに流し目で微笑む氷女。本当に笑っているのかは分からないが、少なくとも彼女にはそう見える。
何時の間に現れたのかムウマージとユキメノコを含めて四体、ポケモンが増えている。その全てが亡霊――ゴーストタイプ。
地面へと転がった状態から起き上がり、眼を血走らせながらその太い腕に紫電を散らせ振るわれる巨竜の拳。それを掌で受け止め、もう一方の掌を冷気を纏う拳へと変え、柑子色の竜の顎を殴りつける一ツ眼の巨影。腹部に浮かぶ顔のような模様が鈍い光を上げ明滅する。ヨノワール。これが三体目。
四体目はというと、ベトベトンと押し合いをしていた場所から離れた場所に居るバシャーモの、その嘴が吐き出した火炎を冷気を伴う風で相殺しケタケタと笑う、ずんぐりとした影――ゲンガー。
そして、カイリューとバシャーモから開放されたベトベトンは四体の敵を相手に孤軍奮闘する炎犬への援護を行っている。
ウインディを囲う四体の付近へと投げ付けられる汚泥の塊弾。着弾と同時にその汚泥は爆散する。直撃はしないがその衝撃の度に四体の連携が微かに乱れる。
視界の外で爆竹の破裂音のような軽い音が連続して響く。次いで何かが欠ける音。刹那後、彼女を守るように存在している氷壁にひびが走った。蜘蛛の巣状に罅割れ濁ったその先には手に持つ拳銃の弾倉を入れ替え、彼女へと向け直す黒服の男が。
「安心しろ。死にはしない。ただ手足が撃ち抜かれて泣き喚く破目になるだけだ。売値は下がるが。……まぁ買い手次第では傷跡くらいは消してくれるかもしれないぞ?」
その言葉に彼女が答える前に、「バケモンは大人しく人間様に飼われとけ。そうすりゃ痛い目を見なくてすむ」と冷たい瞳を微塵も揺らさずに言う黒服の男。
男の声色に既視感。過去数多の『人間』達が彼女に発してきたものとよく似ている。
何か言い返そう。そう思っても頭の中は空白で、音が喉に詰まったような呻き声しか出ない。
言語として表せられない激情を込め睨みつける彼女。力が入ったのか、背の翼が若干広がる感覚。嫌悪感しか覚えないその感覚に、言いようの無い感情が渦を巻き始める。
何故こんなにもイラつくのだろう。奥歯を噛み締め自問する。しかし、答えは出ない。
彼女の激情に呼応するかのように、黒服の男が動く前に彼女の傍らの魔女帽の亡霊が謡い、氷霊が舞った。