W-2
……。ああ、あの臭いはトマトジュースのものだったのか。音はそれの入ったペットボトルの落ちる音? 少年の言葉を聞いて、無意識に頬に付いた液体を自由になった右手で触れ確認してみる。ああ、これもそうだ。
どうも、理解できる許容量を超えてしまったらしい。あー、なるほど、とそれ以上のことを考える事が出来ない。
男達は一瞬沈黙。近くに居た彼女はともかく、距離の離れている男達にはトマトの臭いなどわからないらしい。
そして堰を切るような大爆笑が起きる気配。
しかし決壊する刹那前に――
「ああ、
悪ぃ。面倒だったから霧にしなかったわ」
――闇色の霧が結合するかのように集まり、男性のシルエットを作り出した。それは、彼女へと語りかけた彼と寸分違わぬ声で少年へと悪びれずに言葉を返した。
「ったく。てか、何してたんだよ? ずっと見てたんだろ? この覗き魔」
「あー、霧になったのは良いんだが、元戻る前に手前ぇが出てきちまったからどう収拾つけようか悩んでた。つーか、何でお前来てるんだよ。良い子で待ってろっつったろうが。序に知らない間に変なの手持ちに加わってるし。何時捕まえたんだよ」
「冷やかしてくるって言って行ったのに、帰ってくる前に銃声したら来るだろ。アイツは何かあそこに居たら寄って来たから何となく捕まえた。あ、名前は『
泥濘』な。結構強ぇよ。あの壁壊したのコイツのヘドロ
ばくだんだし。……ちょっと臭うけど」
結集した黒霧はスーツを着た中年の男の姿となり彼女の前方へと完全に顕現した。銃撃を受けたその身には、傷一つ見当たらない。
男達の理解の許容も超えたらしく酸欠の魚のように口を開閉している中、彼と少年は緊張感を微塵も感じさせない
体で会話を続ける。
一通り話した後、少年が手に持ったモンスターボールを「コイツ買いに来たんだろ? 落としてんじゃねーよ。バカバトラー」と、彼へと突き出すように掲げると、彼は一瞥し、「ん、ああ」と返事にもならない呟きを発した後に、視線を移した。
「
悪ぃがソイツ、お前が持っててくれ。そこの餓鬼がとっとと答えねぇから時間切れだ」
初めて、彼の言葉に緊張感が混じる。しかしその内容に、答える間も無く姿を消したのはお前だろう、と心の中で毒づく彼女。しかし、口に出すのは躊躇われた。息苦しさを感じる程の重圧感が秒毎に増してくるが故に。……今以上に常軌を逸した状況を作り出す何かが来る。そう確信する。
静寂。獣達も人間も化物も呼吸音以外を発していない。誰もその場から動かない。動けない。
彼の視線が向いている方向へと彼女が視線を移すと、コンテナ等が置かれたこの区画の出入り口らしき場所が見える。背後にある少年達が空けた大穴以外では唯一の出入り口。その奥の闇の中から、硬く響く足音と獣達の息使いを奏でながら、ロングコートの前を留めずに着込んだ大男と、超大型犬程の大きさの獣達が姿を現した。
無造作に伸び目元を遮る波打つ茶色い髪の合間から、彼女の霞む視界でも間違えようがないくらいに大きく、深く、裂けるような笑みを湛え無言で彼を見据え歩を進めてくる男と、それに劣らず凶悪な面相で地を踏む大きな獣達。
男のその右手に握られている物は、肉厚な刃物だろうか。薄闇に注ぐ光を反射し銀に煌くそれを見て彼女は思った。拳銃などよりも、痛みを想像できるだけこちらの方が恐ろしい。
そしてそれよりも。人とは、ポケモンとは思えぬ雰囲気を帯びたこの悍ましいモノ達の方が何よりも恐ろしい。ぞわりと肌を粟立てながら背に翼を生やした彼女は思う。
「さあ、最後のチャンスだ。餓鬼、お前はどれを選ぶ? 人形としての生か、化物としての死か、人間としての死か、人間としての生か? 或いは化物に成り果てるか? それとも何も選択しねぇで膝抱えて嘆くか?」
ゆったりと歩みを進めている男から視線を逸らさずに彼が問う。
嘲るようなその声色の中に微かな切迫感を感じ取り、何故だか彼女も焦ってしまう。周りの男達が落ち着きを取り戻してきたことも関係あるのかもしれない。しかし、彼が何を言っているのか理解出来ない。選べ? 何を。そして、その何かを選択した結果、彼が何をしてくれるというのか。思考が煙る。頭の中が白濁し何を考えれば良いのか分からなくなる。わからないわからないわからない。何故自分がこんなにも悩んでいるのかわからない。
もう、どうでもいい。
惑乱の末に、伏したまま両手で頭を掻き毟り思考を投げ出す彼女。訳の分からない彼の言葉になど、回答は沈黙で充分だ。短い、髪質の硬いその感触を掌に感じながらそう思う。
「選択を投げ出すのは無しだ。選べ。選択し決断しろ。思考を止めて投げ出すことは許さない。決定しろ。それさえすればどんな答えを選ぼうと、俺が鉛色一色の煮え切らねぇお前の人生、極彩色に塗り替えてやる」
まるで心を読んだように、口を噤んだ彼女へと彼は言葉を紡ぐ。
それを聞いた彼女の心に小さな、本当に小さな火が点いた。理由は分からない。彼の言葉の意味もわからない。しかし、その火種は彼女の中の満たす諦念を燃やし徐々に大きくなるのだけは理解する。
酸素の代わりに彼女の中の炎は絶望を取り込み燃焼する。そしてその熱は、先程までの彼女には存在しなかった怒りという激情となって大きく爆ぜた。
「……。……ふざけるな。いきなり現れて意味の分からないことを並べ立て、尚且つ私の人生をアンタが塗り替える!?
塵芥程も価値の無い私の人生だけど、それでもこれは私の物だッ。アンタの物じゃない!! 私に何かしてくれると言うのならアンタの言う鉛色一色の私の人生、それを塗り替える絵の具と筆と、場所と時間を私に用意しろッ!! その為にまずこの状況を突き破り、粉砕し、撒き散らせッ!! それが出来ないなら自力でどうにかするから拳銃でもナイフでも置いてとっとと消えろ!!」
伏した身体を起き上げて彼女は吼える。その咆哮は支離滅裂と言って良い程のものだったが、彼女がこれまでの人生で発してきた言葉のどれよりも感情的なものだった。全てを諦めて惰性に身を任せ、しかしその結果に悲観してきた彼女が初めて自発的に、流れに抗った。
「……ヒヒ。キヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ。キヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」
彼女の罵声を受け止めた彼は反り返るように笑い出す。気でも
狂えたように、何処までも下品にその哄笑は止まらない。低かった声が裏返る程の狂笑に、周りの男達も訝しむような気配をさせる。しかし彼を除けばただ二人とその獣達以外は大地に縫い止められたかのように動かない。動けない。
天を仰ぎ、両手を広げ、この世のものとは思えない笑い声を上げる彼。見るからに無防備な狂った笑い。しかしその身から漏れる気配はまるで鋭利な針の束の先のよう。皮膚を貫かれるような錯覚すら覚える。
「キヒャハハ、そうか。それがお前の選択か。ヒヒ、良い。面白いぞ。――チビッ! そいつ連れて、とっとと帰れ!」
「りょーかいッ。『執事』は?!」
「きゃッ!?」
未だに笑いの残る彼の言葉に二つ返事で答える少年。彼女を腕力に見合わない華奢なその腕で抱え上げると、既に背後の大穴へと反転を終えている橙の毛並みの大犬へと飛び乗った。それと同時、腰のボールから閃光が奔り、ウインディの傍らに居たベトベトンのどろり、とした身体を包み、そのまま中へと引き込んだ。
「適当にやったら追うわ。ほれ、行け。目の前の怪物がそろそろ我慢の限界だから――」
――巻き込まれて肉片になる前に。
彼は多分そう続けたと思う。彼女にはよく聞き取れなかった。何故なら、首だけで振り返りそう言った彼の言葉が終わらない内に、彼女と少年の乗った巨犬がその橙と黒の毛に覆われた太い四肢にあらん限りの力を込めて加速を始めたから。
「……ッ。逃がさねぇよ餓鬼共!!」
そのような内容の怒声が聞こえた。男達の誰かが発したのだろう。いきなりの事に若干うろたえたようだが持ち直し、彼女達を追おうとするが――
「――――」
――『バトラー』と少年に呼ばれていた彼が何か呟いたその後は男達が狼狽する気配のみで追ってくる様子は無い。
その隙に、
しんそくと言うべき速度で橙の巨体は疾駆する。