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「ふぅん。お前が『翼の生えた女の子』か。気分はどうよ?」
彼がこの場所にやって来たのは唐突だった。足音一つ立てずに、彼女のすぐ傍らに佇んでいた。
目を塞がれた彼女には彼がどういった表情でその言葉を言っているのはわからない。しかし侮蔑も好奇も哀れみさえも篭らない無感情な声に相応しいのは、やはり能面のような無表情だろう。
最悪よ。そう答えようにも喋ることすらできない。
「ああ、猿轡で喋れねえか」
今気が付いた、といった風に呟く彼。屈み込む気配がしたと思った刹那、さり、という音が彼女の口元で鳴った。
「これで喋れるだろ。今の気分は? 翼の生えたお嬢さん?」
彼の言葉通り、彼女の口内を満たしていた猿轡はその機能を失っていた。口の中に押し込まれた布を吐き出す。唾液を吸って重くなった布の塊が地面へと落ちたのか、水気を帯びた音が響いた。
久方ぶりに自由になった口に違和感を覚えながらも、それでも言おうとしている言葉は一言だけ。呟くように小さく紡ぐ。
「……最悪」
口に出して再認する。物心ついた頃から最悪だったこの人生を。親に捨てられ、常に好奇の視線に纏わり付かれ、施設の子供たちからは排斥され、職員は腫れ物に触るように接してきた。そして今、彼女は商品として此処に居る。走馬灯のようにそれらが浮かび、随分昔に涙の枯れた瞳が発熱する。
目隠しされた暗闇の中で彼女は思う。この背の翼が無ければ親に捨てられることも、こんな場所で自由を奪われ転がされていることなんてなかった。そう思う。
このまま私はどうなるのだろう、と彼女は思考する。
たった一つの例外を除き彼女の人生は底無しの沼に沈んでいくようなものだった。時計の針が進む度に更に深みに沈んでいく。行き着く先は……何処なのだろう。
既に彼女の買い手は決まっているらしい。軽薄そうな口調の男が、彼女がこの場所に連れてこられ意識を戻した時にそう言っていたのを聞いている。ならば買われた先でどのような扱いを受けるのだろうか。
この“最悪”の終着。……恐らくは、今までよりも更に深い不快な所だろう。
「へえ。最悪か。なら、これから何が起こっても別に良いんだな? 例えば、お前を買った脂ぎったおっさんに玩具にされても」
立ち上がる気配。それに続く相変わらず、感情を伴わない彼の言葉。それを聞いた彼女は、ああやっぱりという感想を抱いた。やはり、私の人生は好転しないと彼女は諦める。
此処で死ぬのもありかもしれない。舌を噛み切って死ねるのかは知らないが。或いは、すぐ傍に居る彼に殺してもらうのも良いかもしれない。確実に命を散らしてくれる、そんな気がする。
塗りこめられた暗黒の中で光明が見えた気がした。
「こ――」
「ところで、お前はこの最悪な状況でどうしたい? 死にたいか、殺されたいか、死にたくないか、生きたいか」
「殺して」と言いかけた彼女の言葉に重ねるように彼は一方的に問いかける。
突然の問の意味を理解出来ない。そして理解しても早々に答えられるものではない。返す言葉を失った彼女に彼はこう続けた。
「死にたいならその為の道具は貸してやる。殺されたいなら殺してやろう。死にたくないのならこのまま俺は消えてやる。売られても別に死にはしない。慰み者になるだけだからな」
抑揚のない平坦な、感情の感じられない口調で彼は紡ぐ。
そして、反響する低音は続けられる。
「だが、もし生きたいのなら乗りかかった船だ。此処から連れ出す序でにお前の生きる場所を勝手に提供してやろう。俺みたいな『化物』を雇ってしまうイカレたお嬢様が居るんだが、コイツが他人の運命とやらに干渉するのが趣味でな。金を巻き上げるのもいいし、住み着きたければ住み着けばいい。大金持ちだし、屋敷の部屋は恐ろしいほどに余っているから」
無感情だった声に感情が混じり始める。今の彼の表情を夢想するなら、契約を迫る悪魔が浮かべるような溶けるように妖しい笑みだろうか。化物に契約を迫る悪魔、か。悍ましい。などと小さく笑う彼女。
悪魔。そう思えば確かに、得体の知れない彼には言いえて妙だろう。いきなり現れ、一方的に捲し立てる。彼の言葉は何処まで本当なのだろうか。全て虚言? それとも全て真実?
……全て諦めたはずなのに、彼の言葉に惑わされる。やはり悪魔だ。そう彼女は心の中で毒づく。
そもそも、何の為に彼は現れた? 彼女の中で疑心が膨らむ。夏の雲のように急速に大きくなるそれは彼女を黒く覆っていく。
口を噤む彼女。不信が
驟雨のように激しく彼女を打ちつける。
「どれを選ぶにしても、早くしろ。神様の気紛れも、悪魔の親切も、他人の偽善もどいつにしてもせっかちだからな。決断は迅速に。決断をしないで流れに身を任すっていう決断も然りだ。残念ながらあまり時間が――」
数え切れない破裂音が反響し彼の言葉が掻き消される。液体を地面に叩きつけるベチャリという音と、何かが詰まった重い物が落ちる鈍い音が彼女の耳に届いた。
「ギャハハッ! 亜人の餓鬼の前でペラペラ話してたオッサンに見事命中! 俺のが仕留めたっすよね?」
「誰の弾でも関係ねえよ。外して商品に傷つけてたら殺すからな手前ぇら。……ったく、全力疾走させやがって」
粘性の高い液体が彼女の頬を滴る。痛みは無い。伝う液体は彼が居たであろう方向からの飛沫だから。埃の臭いに混じる臭気に眉を顰める彼女。微かに額の辺りに当たる感触は……球?
「ったく。何するつもりだったんだコイツ。……おい、死んだだろうが一応確認して来い。影になっててよく見えねえ」
リーダー格らしい男の言葉に一人の若い男が返事をし駆ける音を聞く。それ以外に走り寄る足音の他に複数駆けて来る足音も聞こえて来て、止まる。
その足音が止まるのに続いて「……おい、何であっちに行った奴らまで此処に全員居んだよ。あっちの商品の方どうするんだこの馬鹿共!」というリーダー格の男が激昂。それに対し軽薄な口調の若い男が「あー大丈夫じゃないっすか? ポケモンはボールに入れてアイツが持ってるらしいんで。犬とか猫はまぁ盗まれたらドンマイってことっで良いじゃないっすか。銃声聞いたらみんな飛んで来ちゃうっすよ」と馬鹿笑いしながら返している。
何だったのだろう。結局、何も変わらなかった。彼女の心を掻き乱し勝手に死んだ。馬鹿か。掻き混ぜられ四散した諦めがまた固まり始める。……しかし、この臭いは何なのだろうか。埃と火薬の臭いに混じるこの青臭い――
そんな彼女の思考を爆音が吹き飛ばした。何かが崩れる音と、それに伴い風が吹き込む音。獣の低い唸り声。これまでの臭気に混ざりこむ悪臭。そして――
「ったく、約束は守れよな『
執事』!! この嘘吐き!」
声変わり前のソプラノを張り上げる少年の咆哮が響く。
「なッ!??」
唐突な闖入者に絶句する彼女を攫った男たち。
「ったく。こんな場所で油売りやがって。……あぁもうッ、コイツ買いに来たんだろ。こんな場所に転がしとくなよな。無事、だよな? コイツ」
満ちる火薬の臭いをものともせず、その突如現れた少年が小走りで彼女の近くへと寄ってくるのを知覚する。それに続いてズルズルと何か粘性の高い物が引きずられるような音と、のしり、という重く大きい何かの歩く音が響く。そして、彼女のすぐ近くに屈み込む気配と共にそんな言葉が少年からこぼれた。
「あなたは、何?」
この場所にそぐわない、
厭きれを内包したその呟きを聞いて、彼女はその少年へと語りかけていた。いや、無意識の内に呟いていたのが正しいか。先程まで彼女に語りかけていた彼が何者かもわからない内に退場し、代わりに訳の分からない少年が現れた現状に理解が追いつかない。混濁した頭の中で、最も単純な疑問が溢れ、口からこぼれた。
その呟きに少年が彼女へと視線を移す気配がした。
「いや、それよりも何でお姉さん目隠ししてんのさ。……うし、外してあげる」
子供らしい遠慮の無い口調でそう口にした少年は、彼女がその言葉を理解し何らかの反応を示す前にブツリ、と彼女の眼を覆っていたそれを引き千切った。唐突に、目の前が明るくなる。尤も、暗黒よりもマシな薄闇になった程度だが。そして、眼の悪いクロバットの特徴を持つからか、はたまた別の要因かは不明だが、視力の悪い彼女の薄暗い微かに霞むその視界に最初に入ってきたのは犬歯を覗かせて笑う、ニット帽を被った少年だった。その後ろに彼女を覗き込むように橙と黒の毛並みの巨犬――ウィンディと紫色の粘体の塊――ベトベトンの存在を彼女が煙る視界に確認した刹那、水面を叩きつけるような水音と、爆竹の爆ぜるような軽い音が反響した。
それに続き、微かだが舌打ちのような獣の鳴き声が耳に届く。彼女がその音のした方向へと視線を向けると、ベトベトンが人に似たシルエットの青い何かを腕の形へと変えた身体の一部によって受け止めていた。更に、彼女と少年の前へと庇うように伸ばされたもう一本の紫の腕越しに金色に染められた髪を逆立てた軽薄そうな男が鈍い銀に光る拳銃を向け粘つく笑みを浮かべているのが辛うじてわかる。そして、目の前にある紫の腕から小さな金属片が零れ落ち、澄んだ音をさせながら転がった。
「ギャハハ。おいおい何だよこの餓鬼は。あのオッサンの知り合いかぁ? ……まぁ、んなことどうでもいいか。商品の化物、何逃がそうとしてんだよオイ。今からぶっ殺してやるけど、心の準備はオーケー? ガタガタ震えてワンワン泣きながら小便漏らして命乞いすれば気が変わるかもよー? ギャハハハハハハハ!!」
そう笑いながら、銃口を下げずに言う軽薄な男。その隣に立つ、リーダー格らしき黒服の男が「商品傷付けたら殺すぞ。……ルカリオっ!! 何やってんだ、一旦戻れッ」と、前半は軽薄な男、後半はベトベトンの腕と自らが具現化させた長い骨――のような物を握り締め鍔迫り合いのように拮抗していた青い二足の獣へと叫んだ。二足の狼はすぐさまバックステップで後退を計る。
一〇メートルはあるだろうか、その距離を三歩も使わずに己の主人なのだろう、リーダー格の男の傍らへと降り立つ二足の青狼――ルカリオ。唸り、前傾姿勢をとるそれを一瞥した後に彼女たちを見据える主人である中年男。その頃にはもう、少年の乱入による混乱は治まっていた。
「化物?」
突き刺さるような視線に晒されながら、少年は小首を傾げてそう呟いた。彼女へと視線を移し、もう一度首を傾げる。彼女の背に存在する二対の蝙蝠の翼を見ながらも、どうして『化物』なのか理解できない、とでもいうように。
膨張する殺意を一身に受けながらも意に介さずに少年は、牙を剥き男達を威嚇するウィンディの横腹を撫でながら彼女の後ろに回り込む。そして――
「背中に羽が生えてるだけで化物にはならねぇよ。その程度じゃ化物じゃない。――まだ足りない。ん? まだ多い、か?」
離れている男達には聞こえないであろう、或いは最初から聞かせる気もないのか、さほど大きくない声量でそう言いながら少年は彼女の拘束をブツリ、ブツリと引き千切っていく。
「だから、勝手なマネしてんじゃねえよ餓鬼ッ」
数発の炸裂音。それは軽薄そうな男がその手の拳銃を発砲した音。
思わず眼を瞑る彼女。少年に向け放たれた結果など見たく無い。その直後濁った水音が響く。しかし、背後の少年が崩れ落ちる音も、苦悶の呻きも聞こえない。恐る恐る眼を開けてみる。
紫の壁が視界一杯に広がっていた。
一瞬、それが何か分からなかった。しかし直ぐに理解する。ベトベトンがその紫色の泥のような身体を伸ばして広げそして
かため、銃弾から少年を庇っていた。その壁から幾つかの金属片が紫色の滑りに塗れながら落ち、微かな金属音と共に転がった。
「だからあのバケモン傷付けたら殺すつってんだろがッ。お前は何だ乱射魔か!? 手前ぇはあの餓鬼の前に居るもんが看板か何かにでも見えてんのかおい!」
そう怒鳴り散らしながら蹴り上げるリーダー格の男。蹴られた軽薄な男は大げさに痛がりながら「大丈夫ですって。俺が的外すのは二回に一回位っすから」などとヘラヘラ締まりなく笑いながら抗弁し、「全然大丈夫じゃねえッ!!」と更に顎を殴り上げられた。一八〇センチメートルはある長身が、痛みからか小さく屈み込んだ。
それを見下ろしながらリーダー格の男はふぅ、と息を吐き――
「さぁ、悪ふざけもここまでだ。とっとと終わらせるぞ。……お前はもう銃使うな。ポケモン出せ」
――と先程までの激昂を感じさせない冷たい声で他の男達に宣言する。一〇人近く居る男達が小さく返事をし、頷く。最後に、銃の使用を禁止された軽薄な男は「は〜い。了解っす」と投げやりに返事をすると立ち上がり、腰のベルトへと着けた球へと触れる。薄闇を一瞬塗り替える閃光は収束し一匹の獣の形を作る。三角形の大きな耳を持ち、凛と澄ました雰囲気を持つ猫のような異形の獣――エネコロロ。だっただろうか? 自分の記憶をたどる彼女。彼女は見たポケモンの全ての名前がすぐさま出てくるわけではない。勿論、その知識に無いものもありうる。が、恐らくはそれで正しいはずだ。何時か見たポケモンコンテストのテレビ中継。それに出場していたトレーナーの一人があのポケモンで演技を見せていたはず。他のポケモン達は何というのか曖昧だが。
美しい毛並みを逆立て臨戦態勢を取るかのように、低い姿勢を取るエネコロロ。その隣で笑みを浮かべる軽薄な男。似合わない。そう彼女が感想を抱くのと同時に、軽薄な男は一層と野卑た笑みと共に言葉を紡ぐ。
「ま、オッサンもお前の逝く先に居るだろうから寂しくはないと思うぜ? ギャハハハハハハッ!!」
軽薄な男の下卑た哄笑に、少年が小さく笑うのを背中越しに聞く。続いて冷めた口調で吐き捨てるように呟いた。
「『
執事』と俺が同じ場所に逝くわけないじゃん。あの嘘吐きは地獄逝き決定だもん。だって――」
――銃なんて効かないのに、俺のトマトジュースだけ放ってくからあそこで穴だらけになって中味ぶちまけてるんだぜ? ちゃんと後で返せ、って言ったのに。