W-21
「――なッ?!」
突如として再動した異形の大蠍。
グライオンが動くとは思っていなかったのか『女郎蜘蛛』から驚きの声が漏れる。
『彼女』も此処までの数の差を相手に戦闘を再開するとは思っていなかった為に息を呑む。
反応の遅れる『女郎蜘蛛』達。
体長の半分は占める長く太い尾に黄色――
じめんタイプの光を宿した牙蠍。その尾を勢い良く地面へと――
「やっばいッ――『いと』『とと』『まる』
とびはねて!! 『ばち』『ゆゆ』『るる』は
まもる!」
――振り下ろす寸前そう叫ぶ『女郎蜘蛛』。言下にその指示を実行に移す大蜘蛛達。
「わッ?! え?!」
月の輝く空高くに跳び上がる極彩色の大毒蜘蛛達。それらの伸ばす蜘蛛糸を絡めとって自身も空へと上がる『女郎蜘蛛』。更に、別の蜘蛛糸を操って、繊維の寝椅子に横たわる『蝙蝠少女』までもが持ち上げられた。
いきなりに宙へと上げられ戸惑いの声をあげる『彼女』だが、次瞬に凄まじい轟音と、直撃でないがしかし強い衝撃が襲いそれも止まる。
局所的だが地面を揺らす程の一撃。地面を離れていなければどうなっていたか分からないその衝撃をまともに受けた電気の大蜘蛛はどうなったのか。
視力の悪い眼で見下ろし探る『蝙蝠少女』。
そして見つける。白い――
ノーマルタイプの激光を発しているデンチュラの姿を。
グライオンの
じしんの衝撃をその白いチカラで相殺したのか、無傷で電気蜘蛛達は存在していた。
安堵するのもつかの間、びぅ、と地面から強風が吹き付ける。
何故? と視線を巡らせて見るクロバットの翼をもつ『彼女』。
「わ!?」
「うえ、しつこいわねえ」
答えは彼女等へと迫っていた。灰と水色の光を散らす風の渦を背に生み出し、その
おいかぜを自身の皮膜の張った翼へと当てて空へと向かい舞い上がるグライオンがその答え。
自在に風に乗る牙蠍。両腕の肉厚な鋏を振り翳し、地上のデンチュラ達へと軋んだ咆哮と共に幾つもの岩石を撒き散らす。
じしんの衝撃を無効化する程に大量のチカラを放出した黄色い大蜘蛛達には、その岩による攻撃からもう一度身を
まもる為には時間が足りなかったらしい。
どうにか蜘蛛糸のバリアで直撃は避けたものの、大量の岩石に動きを封じられてしまうデンチュラ達。三つの繭状の蜘蛛糸の塊が幾つもの岩に
埋もれる。戦闘続行不可能。
更に、自身に
おいかぜを当ててアクロバティックに攻撃を仕掛けてくるグライオン。両の肉厚な鋏を振りかぶり襲い来る。
鋭い牙を剥きだして迫る異形の蠍。
空へと跳べるが飛べない大蜘蛛達にそれを避ける事は難しく、『彼女』も風を操る程には回復していない。
対して人を乗せる程の安定性は無いが自身に風を当てて空を飛ぶグライオン。速度も何もかもアリアドス達を上回って牙を剥く。
まず両の鋏をアリアドス達へと向ける空飛ぶ異形の大蠍。
開かれた肉厚な対の鋏。勢い良く振り抜かれる。放たれる岩の錐。
先の飛竜ボーマンダが放つ物と比べれば小ぶりなストーンエッジが、しかし七つ夜風を背に受け殺到。
只跳んで落ちるしかない蜘蛛使い達に只の攻撃を避ける事でも難しく、
おいかぜによって加速し迫る岩の破片を避ける事は更に難しい。
ならば迎撃するしかないが、その時間は荒ぶ風が吹き飛ばす。
おいかぜを受け加速したストーンエッジ。空を貫き肉薄。
嗚呼、当たる。と状況把握に努めていた『彼女』がその事実に感情の色を付ける作業を忘れて認識した次の瞬間。
「蠍が空を飛ぶのだから、蜘蛛が飛ばないわけがないじゃない」
凛。と呟かれる女の声。
「あ、わッ」
それが響いた刹那にぐい、と蜘蛛糸に宙吊られた『彼女』の身体が横に引っ張られる。
末尾に居た『蝙蝠少女』の身体が引っ張られたのだから、『女郎蜘蛛』とアリアドス達も縦の動きではなく横の動きで空を滑る。刹那前に毒蜘蛛達の居た空間を七つの岩片が突き抜けて彼方に消える。
しかしそれでグライオンの攻撃は終わりでない。外した事を理解した『蠍』が次の指示を叫ぶ。
曰く、「噛み裂け」。
その指示に従い、風を羽に受けて襲い来る牙蠍。その鋭い牙に炎熱を宿らせて。
だが、
「うふふふ。鬼さんこちら、手の鳴る方へ――って感じかしらん」
凶悪に歪んだ面相で迫るグライオンが近づく度にそれから離れる様に『女郎蜘蛛』達は空を滑り移動する。
躍起になって追い縋る異形の姿にニヤリと笑う女とギチギチと鳴きながら糸を吐き出し空飛ぶ毒蜘蛛。
自身も蜘蛛糸に掴まりながらも、空いた片手で蠢く女の白い指を視界に捉えて何をして空を飛んでいるのかは分からないが、取り敢えず蜘蛛糸でなにかしらしているのだとそう考える『蝙蝠少女』。
だとしたら、蜘蛛糸の万能感が凄い。等と考えて小さく笑う。
「そして、さあ! あたし達だけを気にしてて良いのかしら!?」
快活な笑声と共に響く言葉。それに空飛ぶ蠍とその主が反応する前にどろどろと粘質な笑いが夜闇に満ちる。
唄う様に。嘲る様に。
そして瞬く二条の光。
放たれた
サイケこうせんと
れいとうビームに狙われたグライオンはその身を削られながらも直撃は避けた。僅かにその凶相を顰めながらもその射出点へと視線を向ける。
「先にそいつらを黙らせろ」という『蠍』の大声。
その指示通りに風を繰って、自身を狙った二体の亡霊へと向かい軌道を曲げる異形の蠍。
冷笑憫笑を混ぜ合わせ
嗤笑と化した混成物を振り撒いて、迎え撃つは宙へと浮かんだユキメノコとそれを浮かべたムウマージ。
『彼女』達の代わりに空中戦を繰り広げる二体。それを横目に、『女郎蜘蛛』とアリアドス達が指と脚を蠢かせる。
すると、徐々にと高度が下がっていく。
やはり、蜘蛛糸を何かしらして風を掴んでいたらしい。何をしたのかは『蝙蝠少女』には分からなかったが。
「ああ助かった。この状態だと戦闘は無理か……流石にもうアリアドスだからバルーニングは大変ね。
おいかぜがあって良かったわ。あんた達もご苦労様。もうちょっと気張ってね」
そう『女郎蜘蛛』が呟いて、手持ちの毒蜘蛛達へと声をかけているのが聞こえるが、矢張りその大半を『彼女』は理解出来なかった。
「貴女も大丈夫? ごめんなさいね、いきなり吊り上げちゃって」
「あ、はい。大丈夫です」
地面に立って辺りを見渡す『蝙蝠少女』へも、『女郎蜘蛛』の言葉がかけられる。
相変わらず痛みはあるが、大分羽を休められた事で動くことも儘ならなかった先程よりも身体に力の入る事を実感しながら応える『彼女』。
背の翼もバサリと震わせ調子を確かめる。飛ぶまではいかないが、風を掴む事程度は出来そうな回復具合。
嗚呼、全身に血が巡る。翼膜の張った翼からの感覚も昨日までの自分の身体を否定していた時とは違い不快感を感じない。
そんな事を思いながら、ふ、と口元を綻ばせた『蝙蝠少女』。その次瞬、“何か”を翼を含めた全身が知覚する。
同時、娘である『滅びの紡ぎ手』の方へと視線を向けたスカートスーツ姿の『女郎蜘蛛』の舌打ちが響いた。
苦々し気なその音を塗りつぶす、暗闇の中を影が蠢く様な、見えないのに見えていると言うべき不思議で不気味なその感覚が、何を捉えての結果なのか。それはまだ分からない。
しかし、何故『女郎蜘蛛』が忌々し気に舌を打ったかは氷解する。
『女郎蜘蛛』につられて『姫』『滅びの紡ぎ手』等と呼ばれる少女の参戦した場所へと視線を移せばそこでは、人間異形が入り乱れての攻防戦が未だ繰り広げられていた。
「わッ……」
『彼女』が息を呑む程に目まぐるしく光の軌跡が生まれては消えるその中で。
静かに、しかし確かな威力を宿した応酬を展開する老人と中年男。老執事の振るう風切る特殊警棒を受けて流し固く握られた拳が放たれる。
それを僅かな動作で避ける最上礼服を着込んだ老執事。
追撃を繰り出すもう一人の礼服を着た壮年の執事。その拳が動く前に、四つの鋼拳が四方から襲い来る。
唸りを上げて迫るメタグロス達の豪腕。
それを避けようと動く壮年の男――『妹様』側の『家令』。
「おや。何処に行く気ですか?」
「――ッ。……いえ、そういえば屋敷の戸締りはしてきただろうか、と思いまして」
だがそれは叶わない。『ノラ』と呼ばれる少年側の老年の男――『セバスチャン』が戻される腕を掴んでいる。
「おやおやそれは無用心な」
「ええ。ですから離してはいただけ――」
「しかしそれでは『久遠寺家』の使用人としていただけませんね?」
細身に見える老体ながら、燕尾服の下から見て取れる程に盛り上がる筋肉を有した男の引きに微動だにしない。終いには涼しい顔で小さく微笑む『セバスチャン』。
斯くして、彗星の如く放たれた鋼の重撃が突き刺さる。
尾を引く光の軌跡。重々しい打音。金属質な咆哮。重量のある金属生命体が動いた事で轟と巻き上がった粉塵。
その光景を目の当たりにした『蝙蝠少女』が思わずに、
「大丈夫なんですかあれは」
と口に出せば、
「どっちの『家令』もあれくらいじゃ死なない超人だから大丈夫よ。あたしの可愛い娘が殺人犯にはならないわ」
と、何処かズレた『女郎蜘蛛』の答えが返ってきた。
心ここにあらずにも感ぜられるその様子に、あの『家令』と呼ばれる者達の戦いは『女郎蜘蛛』にとってはどうでも良いものなのだと『蝙蝠少女』はそう察する。
ならば、と視線を巡らす『彼女』のぼやける視界に入った情景は。
何時の間にかにレース生地の髪留めを着けた人型の異形――サーナイトの一体に抱えられた少女の姿が。
ぐったりとした『グラエナの少年』を抱えているのと、『蜘蛛使いの少女』を抱えている何方が『右鏡』で何方が『左鏡』かは分からないがともかくそれら二人と二体に向かい、『てふてふ』の四羽と剣魔が二体、更に少年少女を抱くサーナイトと同種である一体が迫っていた。
『家令』一人を抑える為に数を割かれた事による当然のこの帰結。
「よく鑑みれば、戸締りはしましたし、留守を守る者も居ましたね」
「それは良かった。しかし物忘れは注意しなければなりませんよ。私も三月前の夕餉の内容を思い出せないことが稀にあり戦々恐々していますから」
「そうですね。少なくとも貴方よりも早く
呆けるわけにはまいりますまい。なので頭を使う様気をつけます。――『前騎』『後騎』、それに『
天地』。そちらは任せます」
「若年性のものもあると言いますがね。……『右鏡』『左鏡』、それから『
天地』。任せましたよ」
だがその選択は間違っていないのだろう。
朦々と烟る塵埃の中から、芯の通った男の声が発せられたのだから。内容はともかくとして穏やかなその声色はとても鋼の巨腕の殴打を受けたものとは思えない。
あの見るからに超重量の攻撃でも然程の影響を与えられなかったのか。
そう理解して『蝙蝠少女』はぞわりと背筋が寒くなる。
思わずに『彼女』が自分の身体を抱いた。その直ぐ後に。
ぐしゃりとした砕音を響かせて中空からユキメノコが落ちてきた。勢い良く地面へと叩きつけられて沈黙する小さな女氷霊。これまでの、際限なく粉砕された氷像ではなく今度は本体らしい。
「大丈夫ッ?!」
それを受けて気が付く『蝙蝠少女』。少女達の方へと意識を向けていてグライオンと戦うそちらを忘れていた。
けれどもそちらに視線を向ければ今度は少女達の状況がわからない。
――ならば。回復した今なら出来る。
痛み軋んだ身体に活を入れもう一度
ちょうおんぱによる反響定位を再開する。
断続的に苛む痛み。けれど発熱し続ける身体と心を冷やすには力不足で不十分。
音無き音の反響は、霞んだ視界で捉えるよりもはっきりと『彼女』に全体の様子を知らしめた。
ユキメノコは死んではおらず、小さくだが指先が動いている。しかし起き上がる様子は無い。
それを討ったのであろう空を舞うグライオンは、ムウマージと交戦中。
違和感。三霊の最後の一。ゲンガーの姿が無い。
『女郎蜘蛛』は乱戦続く娘の方に視線を向けていて、その手持ちのアリアドス達もそれに倣う。
『不協和音』や『レディ・バタフライ』組達とその中心に居る『妹様』に動きはなく。
四足の鉄塊達の拳を受け止めた『家令』は傷を負った様な仕草は見せずに既にその屹然とした佇まいで姿勢を正し、『セバスチャン』へと静かに向かい立つ。それを至近で囲う四体のメタグロス。
勿論、メタグロスの攻撃の近くに居た老執事も無傷。真っ直ぐに背筋を伸ばして泰然と佇んでいる。
しばしの休戦。切っ掛けを待つ様に動かない。
そして。
『女郎蜘蛛』の娘である『滅びの紡ぎ手』『姫』と呼ばるる少女達の状況は。
左方より飛来するムクホークとウォーグル。右方より来るエアームドとオニドリル。それを相手取った『姫』のバチュルとアリアドス。異形の鳥達の猛攻をどうにか凌いでいるが徐々にと押され始めている。
その後ろにつけ二体の異形蜘蛛を支援する片眼鏡を掛けたサーナイト。更にその背後に立つ二人と二体を庇う様に両腕を広げ二種の障壁を張り備えている。
そして蜘蛛達とモノクルを着けた仲間に守られる少年と少女を抱えたホワイトブリム着用のサーナイト二体は、何時の間にかに当初の位置から後退していた。
犬耳犬尾を生やした少年は未だに動く事は出来なそうだが、対して少女の方は異形の細腕に收まりながらもその十指を蠢かせ小蜘蛛と大蜘蛛の糸を操り、自身も戦いに参加していた。
少女の操る蜘蛛糸が二体のエルレイドに絡みつき動きを封じている。
そこまでを反響音によって知覚した『蝙蝠少女』だが、しかしそれ以上の事は出来そうにもない。毒光の刃をもって斬り込む事は体力的に出来そうに無く、飛刃を放てば少女達に当たる可能性も無くはない。
ギリ、と知らずの内に何も出来ない自分に歯噛みする『彼女』。……その傍らで苛立たし気に顔を顰めた『女郎蜘蛛』も似たような心境なのだろうか。
ちょうおんぱによる定位を続けながら眼で見た、その凛々しい美貌に浮かんだ色をそう『彼女』が推察した、その一瞬後。
「あ」
それが少女と『彼女』、或いは『女郎蜘蛛』の誰の口から発せられたのか。若しくは全員か。
兎も角も己を縛する蜘蛛糸を力任せに切り刻み、そして二体の剣魔が疾駆した。闇も風も切り裂いて真っ直ぐと少年少女へと向かい迫い来る。
直ぐ様に蜘蛛糸を舞わせる『姫』。しかし撚られ織られて網と成す前に縮地の勢いで迫るエルレイド達は駆け抜ける。
更に四羽の鳥ポケモン達と戦う二体の蜘蛛を通り抜けざまに斬りつけて、障壁を張り待ち受ける片眼鏡のサーナイトへと肉薄。
「『ちょび』ッ『ウェブ』! 大丈夫?!」
響くソプラノ。少女の叫び声。
「ばか! その前に自分の身を守りなさい!!」
それに切羽詰まった
母の声が混ざり合い、
「嗚呼、そうでした。ご報告が遅れましたが、お嬢様が娘さんを迎えたいという事ですのでお連れいたします。御母堂、ご承諾を」
低く響く男声が掻き乱す。
「――ふざッけるな!!」
爆ぜる『女郎蜘蛛』の怒声。その勢いそのままに白く靭やかな手先が真直に『家令』へと向けられる。
そして周囲で蠢くアリアドス達が即座にその怒りを汲み取った。僅かの間も無く
どくばりを幾多も撃ち放つ。
それが切っ掛け。相対し張られた糸の様な危うい緊張感を伴って静止していた燕尾服姿の二人と四体の金属生命体が再び動き出す。
一瞬の合間に幾つもの動き。
それら全てを、全霊の力を傾けて疼く痛みを抑えつけ
ちょうおんぱを発し続け『蝙蝠少女』は把握する。
筋骨逞しい『家令』に向かい放たれた極細の
どくばり達は、四足の一本を掴まれ振り回されて盾にとされたメタグロスの身体に当たり融ける様に掻き消える。
轟音。咆哮。その騒音の中で金属の巨体に紛れ、静寂を体現し動く『セバスチャン』の一撃。
それが『家令』を穿つ前。宙に舞って撃ち合い斬り合うムウマージとグライオンの軌道に変化が見えた。
激しい応酬はそのままに『レディ・バタフライ』『てふてふ』達の居る位置へと段々と高度を下げていく二体。
『てふてふ』達の指示出す叫び。『レディ・バタフライ』の意味の無い笑声。
その他数多の雑音を背景に、『セバスチャン』のモノクルを着けたサーナイト『
天地』の張った障壁が『家令』のエルレイド『前騎』『後騎』によって断ち割られる。
その背後。斬りつけられて動きの鈍った二体の蜘蛛へ、とどめを刺そうと四羽が迫る。
瞬いた刹那にも啄み引き裂きそうな勢いで迫る四羽――オニドリル、ムクホーク、ウォーグルにエアームド。肘から伸びる刃を伸ばし、前傾姿勢で更に踏み込む二体の剣魔。
異形の鳥達と剣魔の合間に出来た空白地。その地面が波打った。
それに伴い闇を這いずる見えざる影の悍ましい気配がまた一段と濃くなる。
ぞわりと粟立つ肌。その原因が次瞬に出現。
それは、影からずるりと這い出る様に現れるゲンガーであった。あの粘つく笑みの影霊が影に沈む場面を『蝙蝠少女』は見たはずだが、その時は何も感じなかった。
この非日常に非日常を重ねて異常を異常と感じなくなるこの場に置かれて、自身の感覚が鋭敏化して反転し動かなくなっていた感情が暴走しているのか。
そんな考えが浮かぶのと並行して、影より這いずり出た亡霊が動く。
這い出てそのまま宙まで浮かび、短い両腕を大きく開いたゲンガー。耳奥にねとりと響く不快な笑声を上げながら、山吹色の雷撃を四羽と二体へと放つ。
眼の眩む電光。激しい放電音。けただましい鳥達の悲鳴染みた鳴き声。それとは別に僅か漏れる苦悶の声。
「ごめんねッ。でももう少し頑張って! 『ウェブ』は、
いとをはき続けてッ。『ちょび』は
ほうでん!」
その中で、傷を負いながらも少女の声に従って、
いとをはき全羽を絡めとる極彩色の毒蜘蛛と、小さい身体には不釣り合いな程の電撃を
ほうでんする黄色い小蜘蛛。
追い打ちをかけられた四羽の異形が沈む。戦闘不能とは言えないまでもこの刹那の復帰は不可能。
一方。ゲンガーの
一〇まんボルトを食らい僅か硬直した二体の剣魔へと向け、両腕をそれぞれに向けたサーナイト『
天地』。そしてモノクルの奥の赤眼に光が灯り見開かれる。
放たれる濃紫色をした影の珠。至近距離からのそれをまともに食らい吹き飛ばされる二体のエルレイド。
転がる剣魔達を尻目にニタリと顔を歪ませて、片眼鏡のサーナイトの正面に浮かぶ影霊。
それに、ふ、と小さく口角を上げて返すサーナイト。
「まだ! 後ろ!」
幽かに弛緩し、動きの止まったそこへと届く『彼女』の声。同時に『
天地』の瞳が見開かれる。先の様な攻撃の挙動というわけではなく、恐らくは只驚いた結果として。
では何に。
それは。三日月の様に大きく口を歪めて笑い浮かぶゲンガーの、その背後。白い足元をはためかせ跳んだ黒縁眼鏡を掛けたサーナイトが肉薄していたこと。
『蝙蝠少女』の声と『
天地』の様子によって笑みが吹き飛ぶ『ノラ』と呼ばれる少年のゲンガー。瞬時に転回。その刹那の合間に黒色――
あくタイプの波動がずんぐりとした身体から勢い良く噴出する。
全方位に噴き出した
あくのはどう。
だがそれが至近のサーナイトの白い身体を貪る前に、ゲンガーの身体が高圧電流に蝕まれた。
宙に浮かんだまま痙攣するゲンガー。意味を宿さない絶叫染みた鳴き声と同期して黒い波動が霧散する。
右の手から
一〇まんボルトを発する『家令』の黒縁眼鏡を掛けたサーナイト『
天地』は、加えて左手を影霊へと向ける。
そして黒縁眼鏡の奥の赤眼が燦爛と煌いた。左の掌から放たれる半物質と化した強大な念――サイコショック。それがずんぐりと丸い亡霊の身体を直撃した。