W-17
吸えば痺れる鱗粉が
雲消霧散した今、用をなさなくなった防塵マスクを外した『レディ・バタフライ』は自分の五体のアゲハントが一掃されたにも関わらず肩を軽く竦めるだけの反応しかせず、余裕の感ぜられる表情と所作で白いレザージャケットの胸ポケットから賑やかな色合いの箱を取り出した。そして吹き続ける風を気にする事無く手にした箱の底を軽く叩き一本の紙巻き煙草を抜き出すとそれを咥え、細かい意匠の施されたオイルライターで火を灯して紫煙を燻らせる。
「……あの、何が、起こってるのか、全く、わからないんですけど、とり、あえず、あの、派手な、人達って、そんな、に、強く、なかったり、します?」
派手な出で立ちの女から吐き出された煙が刹那に吹き消されていくのを眺めていた『彼女』は、ふとよぎった疑問をおずおずと『女郎蜘蛛』へと問いかける。無差別に吹き荒ぶ凶風に煽れるのを耐えながら顔をそちらに向けて。
派手な容姿の女のアゲハント達が容易く蹴散らされたのを見た事に加えて、自身と少年が相手にした二人組の男とその手持ち達と比べ、計十数人居るにも関わらず『レディ・バタフライ』と『てふてふ』達にそれほどの圧力を感じない事がその理由。
「え? あぁまあ、あれは蝶女を含めて一二人居るんだけど、全員合わせてあっちの漫才コンビのツッコミと同じくらいかしら? 今のところは。 ……というか、言いたくないけどそれでも一人一人結構強くはあるからそう言えちゃう貴女も相当よ? 自覚してる?」
相当強いのか、相当おかしいのか。或いはまた違う“相当”なのか。笑顔で毒を吐くだろうスーツ姿の女の声色と表情からそれは読み取れない。
「多分、無自覚、です」
しびれごなを多少は吸ってしまったらしく唯でさえ動かない身体が更に動けなくなっている『蝙蝠少女』、勿論口も何時も以上に舌が回らない。
搾り出すように発せられた言葉はしかし、不遜とも捉えられそうなもの。だがその物言いにも『女郎蜘蛛』は、にやりと不敵に唇を歪めてくつくつと声を押し殺して笑いながら応え、言葉を続ける。
「そ。じゃあ自覚しときなさい。貴女は所謂『普通の人間』じゃない。それを
自慢にするか
劣等感にするかは自由だけど、あっちで馬鹿やってる『
執事』や『
八色』みたいにはならないことを勝手に祈っとく。そして願わくば“グラエナの耳と尻尾があるだけの只の人間”って言ってるおチビちゃんみたいに素敵な『蝙蝠少女』とならんことを」
ふざけた感じで軽い口調だが、しかし『彼女』へと向けられた女の顔は凛とした雰囲気を纏う真剣なものだった。
「……はい。あの子みたい、に、なれるか、は分からないけど、でも、なりたいから、頑張ってみます。……私が、『蝙蝠少女』、なら、あの子は、『狼少年』、とか?」
「『ノラ』ちゃんが嘘つきみたいな感じになっちゃうからダメです」
「ああ、そうか。ごめんなさい」
『蝙蝠少女』と呼んだ事に続いて、真正面から“普通の人間ではない”と断言されたにも関わらず、彼女の中で特に怒りは生じない。それが自身がそう思っているからか、この『女郎蜘蛛』の言葉に悪意を感じ取れないからかはわからない。これらの事を『不協和音』の二人に言われたならば全霊の力を込めて否定しているかもしれない。などと考えて小さく笑いを零す彼女。
その様子をスーツ姿の女は眺めて微笑んで、軽い口調で声を響かせる。
「さあさ、あの気紛れな蝶女が血迷って本気出さない内に片付けるわよ」
「あれ、あの、派手な、人は、あんまり、強くない、みたい、な感じ、じゃ?」
「ん? ああー、あの蝶女はねぇ、手持ちの一体だけ強いのよ。尤も、滅多に使わないけど。ほら、さっきのそれほど強くないアゲハント達居たじゃない。あの仔達って長ったらしい舌噛みそうな名前つけられてたの覚えてる?」
「あ、はい」
「あれはぶっちゃけオマケみたいなもんでねー? よく出してるんだけどペットの側面が強いの。だから名前も舌噛みそうなのだけど。でも、残りのその一体だけは生粋の戦闘用で、名前も呼びやすいのよ。あの蝶女は『レディ・バタフライ』とか呼ばれてるくせに切り札は――」
と、そこまで言った所で唐突に『女郎蜘蛛』が言葉を切る。一旦『彼女』へと向けられた視線が別の方向へ移る。その視線の先にはツインテールにした栗色の髪を風に泳がせれながらにこにこと笑んだ少女が。既に防塵マスクは外していて、円らな瞳で愛でる様にうっとりと『少年』、『少女』、『彼女』へと順繰りに視線を注いでくる。
それを受けて、ぞわりと肌が粟立つのを蜘蛛糸のソファに伏せる『彼女』は自覚する。悪意も邪気も感じないのに恐ろしい。そんな、愛らしい容姿の女の子に向けるには相応しくない感想を抱いた。
「――いや待って。何で『妹様』が外出してるのに蝶女と『てふてふ』だけなの? 『
家令』は……? あれが居ないわけ、――否、居るのは絶対。なら何処――」
寒さや冷えが理由とは違う悪寒を感じながら、言葉を切って何やら考え込んでしまった傍らの女性へと恐る恐る声をかけようと『彼女』がしたその次瞬。
「――ッ?!」
『彼女』の耳が渦巻く凶風の音の中に遠く、空気を裂く音が紛れている事に気が付くのと、
「ッ! ママ!!」
同様に何かに気が付いたのか、手持ちであるメタグロス達やグラエナの少年に老人とその手持ちのサーナイト達が居る丁度上空辺りを指指し、母である『女郎蜘蛛』へ何か伝えようと叫ぶ少女の声と、
「――空かッ。『ばち』『ゆゆ』『るる』『いと』『とと』『まる』!! 撃ち落せ!!!」
気が付いた蜘蛛使いの女が、舌打ちと共に自身の大蜘蛛達に指示を叫ぶのがほぼ同時。
その様子を見つつメンソール煙草を燻らせていた『レディ・バタフライ』が薄紫色に塗られた唇からふぅと吐き出したのは肺の中の煙。風に渦巻く紫煙。離れているのに鼻を刺す様な煙草の臭いと強いミントの香りが混ざったものが風に乗って『彼女』に届く。
烟る煙が凶風に完全に掻き消される前に、満面の喜悦と共に煙草を挟んでいない方の手が軽く握られ親指を下にした状態で漂う煙を断ち割る様に勢い良く振り下ろされる。
「きゃはッ!! 『グラエナの男の子』はぁ『
鷲』、『
鷹』、『
雀』、『
白刃』、それにぃ『オジ様』方にお任せしまぁす! 『蜘蛛使いの女の子』はぁ『
企鵝』、『
鴉』、『
白鳥』、お願いねぇ? 『クロバットの女の子』の方は残りでGOッ! ……あ。駄目だわぁ。『蠍』と『火竜』は、おばさん黙らせてぇ、その後に『クロバット』の子をお願ぁい。『
綿毛』と『飛竜』があのゲンガー達のお相手よぅ。それと、駄犬さん達は最初のお仕事よん。こっち来てお嬢様守って
頂戴」
「苛つく喋り方で指示するな。頭が痛くなる」
「勝手に指図してくんじゃねえよアバズレ女。死ねッ」
出す指示さえも甘ったるい口調で行う『レディ・バタフライ』へと悪態を吐きながら、しかし従って動き出す『不協和音』。
それとは正反対に気障りな所作で了承し、各々動き始める白服黒仮面の『てふてふ』達。
その白服達が手に持った球から自身の手持ちの異形を繰り出し、閃光が拡散するのと同時。『女郎蜘蛛』の大蜘蛛達が空に向けて放った計六条の、紫電の束と桃色の燐光を散らす虹色の光線が天高くから
真直に勢い良く落ちてくる四対の異形達に――
「ちィッ。……追撃は無し! 全員この子を守って!」
――全て当たらない。紙一重の所で降下の軌道を変えられて躱される。
風を切り裂き少年と老人達へと頭上より迫る大型の鳥型ポケモン達への追撃を諦め、自身と『蝙蝠少女』を狙う二人と二体へと視線を向けて臨戦態勢へと入る『女郎蜘蛛』とその手持ちの大蜘蛛達。
「……。守るって言ったけどごめんなさい! ママ達、お姉さんのことお願い! 行くよ! 『ウェブ』、『ちょび』!!」
「はいはいこっちは任せなさい。でも気を付けなさい? おチビちゃんに助太刀行って、あんたに何かあったらおチビちゃん悲しんじゃうわよ?」
動きざわめく人と異形達の姿へと視線を巡らせ、最後に少年達へと留めた少女が何やら決意したかの様に固い声で『彼女』に謝り、母に請う。
それに応える母親の軽い調子だけれどもしかし確かに娘を心配し、だがそれ以上に背中を押す言葉を受けて、自分の手持ちである極彩色の大蜘蛛の身体に少女がしがみつく。少女を背負ったアリアドスの黄色と薄紫色のニ色に分かれた幾多の脚が地面を噛んで、体勢が前傾に。
「気に、しない、でッ……! 後、怪我、しない、でねッ!」
極彩色の毒蜘蛛が動き出すその寸前。どうにか声を絞り出し、『蝙蝠少女』は少女へと言葉を送る。自分を守ってもらって、少年に何かあったらそちらの方が目覚めが悪い。誰も守ってなどくれなかった今までを粉砕してくれたその事実だけで、まだもう少し自分でも足掻いてみせる。だからむしろ行って欲しい。そんな事を思い彼女の放った言葉に蜘蛛使いの少女は大蜘蛛にしがみついたまま『彼女』を向き、掌大の黄色い小蜘蛛の張り付いたポンチョの下から伸びる右手の親指だけを立てて笑んで応えた。
次瞬、強靭な脚でもって地を蹴り少年達の方向へと真っ直ぐに
とびはねるアリアドス。真直に跳び上がれば天高くまで届くであろうその脚力そのままに、高さは捨てて横へと向かい跳ねて跳ぶ。