W-15
その地の底から響くような重低音を聞き、翼付きの『彼女』は現状把握を再開する。
蜘蛛糸の椅子にうつ伏せに寝転んだままぼやける視界を巡らせれば、アクアリングで鎧ったままの水兎が短い脚でトテトテと自身の主人の元へと駆けているのが辛うじて視認できた。
握る旋棍をくるくると弄びながら立つ黒服の中年男性――『指揮者』。その傍らで男同様に、マリルリの泡によって劫火から身を守った二足の青狼が牙を剥き出し唸り声を上げている。それとは対照的に紅い鋼虫は静かに佇んでいる。尤も、感情の読めぬ瞳に何を宿しているかはその佇まいからはわからないが。
そして、その他のポケモン達ともう一人――『雑音』は戦闘続行不可能。
故に残りは今現在立っている一人と三体。
「え……?」
「……ママの仔たちの
かみなり、直撃したのに……」
「うわぁ。しぶと過ぎでしょ」
「おやおや」
「……ぐぅう、何、が? 『セバスチャン』」
「『セバスチャン』ではありません」
その筈だった。
だが、黒服の男の声を受けてから時を移さずに、唸り声と共に地面を踏みしめ立ち上がる異形が二体。
柑子色の巨竜――カイリューと赤白黄色の羽毛に彩られた二足で立つ鳥人――バシャーモが再び戦線に復帰する。
「ギャ、ハッ。あー……俺はちょっと無理かもっす先輩。手持ちの奴らは平気でしょうけど」
地面に転がったまま、『指揮者』の言葉にそう返す『雑音』。その言葉通り、カイリューとバシャーモに続き、続々と立ち上がる軽薄な男の手持ち達。
「んな御託はいい。手前ぇもとっとと立ちやがれ」
「いやー、先輩、俺メタグロスに殴られたり肩外れたり毒針刺さってたりするんですけど……」
更に、倒れたままの金髪の男は「頭グワングワンしてるっすマジで」と力の無い声で付け加える。
されど。
「俺はお前の状態なんざ訊いてねえ。俺が立てと言ったならごちゃごちゃ言わず直ぐ様に立ち上がれ。例えその眼が灼かれていようが、或いは手足が潰れて砕けていようとも、果ては頭が吹っ飛ばされていようが知るか。立て。立って俺の言うとおりに動け」
それを黒服の『指揮者』は切り捨てる。
仲間さえも駒の一つとしてしか見ていないのか。そんな感想を『彼女』が抱いたその次呼吸に、冷たい声色をした男の言葉が続く。
「他の奴らは疎か『コンサートマスター』すら最後の最期で立つのを止めやがったんだ。『楽団』最後の一人の手前ぇぐらいは気張れや『雑音』」
「……。……ハハ。ギャハ、ハハッ! 卑怯だ。それは卑怯っすよ『指揮者』さん。皆の事を言われたら、俺は立つしかないじゃないっすか」
男の言葉が何に働いたのかは知れないがそれはともかく、力無く笑いながら軽薄な男がゆらりと立ち上がる。
「うふふふふ。ボロボロの身体でお疲れ様。でもそんな満身創痍でまだやるの? そろそろ疲れたでしょう? あっちの瓦礫の下に居るお仲間と同じ場所に逝くか、諦めて消えてくれない? あたしも娘も、明日は仕事と学校があるのよ」
結果、二人の男とそのポケモン達の全てが『彼女』達を見据えてくる。
そしてそれらの視線を真正面から受け止めて、『女郎蜘蛛』が冷く笑いながら嘲るように言い放つ。
言葉と共に、蜘蛛糸を操る際には何か別の生き物の様に蠢く白く嫋やかな指先が翻り、一点を指し示す。勝気そうなアーモンド形の瞳が不敵な笑みを浮かべ、視線を向けるその先には崩壊し尽くして原型を留めない、倉庫群だった物の成れの果てが。
そしてそれとはかなり離れているというのにしっかりと分かるほどに判然と、異様なまでに激しい破壊音と数多の光の軌跡が巻き荒れているのが感じられる。
そこでは朦々と立ちこめる
塵埃と、幾種もの色合いの光が混ざり打ち消し合って弾け飛ぶ。そんな目が眩む程の破壊の中で、縦横無尽に飛び回っている幾多もの影が何なのか、そしてこの、破砕音に混じって耳朶を打つ笑い声は一体誰が発しているのか。翼を持つ『彼女』がそれらを理解する前に女が再び口を開いた。
「見ての通り。聞いても然り。貴方達の『真性の怪物』ならこっちの『真性の化物』との遊びに夢中よ。『戦闘狂い』とまで称される『八色』様が、前代無敵の『殺戮人形』をほっぽり出してこっちに来ることは、まぁ、無いでしょうねぇ?」
凛とした端麗な顔をニタリ、と歪ませて『女郎蜘蛛』は男達に向かって小馬鹿にするように言葉を放つ。
そして事実としてこの女情報屋の言う通り、『不協和音』全員が立ち上がったとはいえその誰もが満身創痍。最も無事である『指揮者』も、地面を転がる程度の攻撃は受けており、中でも巨大な生きた鉄塊を持ち上げる少年の一撃の直撃は、表情に出さないまでも看過出来ない影響をその屈強な身体に与えているはずである。
更に、距離を離れた瓦礫の中で破壊と狂笑を撒き散らしているのは、あの悪魔の様な男と、悍ましく凶悪な姿の獣達を引き連れた大男なのだろうか。と『彼女』は推測し、破壊音が一向に静まる気配が無いことからその二人は此処には来ないのだろうと結論づける。
そして、『女郎蜘蛛』の言葉の通りだとするならば、黒服の中年と軽薄そうな男の仲間は瓦礫の中で更に残骸を生み戦い続けているその『真性の怪物』『戦闘狂い』――『八色』と呼ばれる大男以外は既に亡い、ということになる。そうだとすると大男と今、此処に居る二人以外に一〇数人は居たあの男達を全て屠った『執事』とやらは一体何なのだと『彼女』は疑問に思う。
――嗚呼、だから少年は彼のことを『化物』と呼び、少女は“強過ぎる位に強い”、女は『真性の化物』等と言うのか。そして、その『彼』と戦い続ける大男も同様に逸している。それこそ、『化物』だ、『人間』だ、だのと思い悩むのが滑稽にさえ思える位に。
と、そんなことを考えている自分自身に『彼女』は少し驚きながらしかし、つい先程までの全てに絶望していた頃の己の視野が驚く程に狭窄していたことを自覚する。
――まぁけれど、ここまで逸脱した世界が在るとは思っていなかった。しかしそれならば、
大蝙蝠の翼で空を飛び、
わざを発する私をも世界は別に厭わない。だってあの世界では気持ちの悪い化物でも、眼の前で繰り広げられるこの世界では空が飛べてポケモンの様に
わざが使えるだけの子供だから。
見様によって世界は玉虫色に変化する。
諦め続けた一五年と比べては一瞬とも言えるが、しかし濃密なこの夜の出来事を咀嚼し飲み込んで、そう彼女は理解した。
「ギャハ! それがどうしたブス野郎!」
「それだけの声量が出せてよくも“立てねえ”とかぬかしやがったなこの野郎。あと頭に涌いてんのは何時ものことだが、出来るだけ喋るな。こっちの頭が痛くなる」
子供でも言わないような、と言うよりも『女郎蜘蛛』への罵倒にならない言葉を『雑音』が甲高い声で吐きだしたのを、『指揮者』が冷たくあしらった。
そこに。
「きゃはははッ。その名に違わず騒々しいわねぇ『不協和音』ぅん?」
「あら、あたしはこれくらい賑やかな方が好ましいわ」
鼻にかかった甘い女声と、『姫』とはまた違う涼やかな幼いソプラノが唐突として夜闇に響き渡る。
それを聞いて『彼女』は、また、この世界の住人が増えたのか。等とどこか他人事のように考える。
けれど、近くに立つ『女郎蜘蛛』がその整った顔を苦々しげに歪ませて舌を打つのを聞いて、自身もその世界に居るのだと思い出す。
考え方や感じ方を新たにするのは中々難しい。心の中でそう思い、小さく息を吐く『彼女』。
「……『レディ・バタフライ』に『てふてふ』? 何しに来た? それにその餓鬼は何だ?」
人知れず『蝙蝠少女』が気落ちして小さく溜息を吐いたその間に、突如現れた人物達を訝し気に見回して、黒服の『指揮者』が問いかける。
「きゃは、あんた馬鹿なのぉ? アタシがお仕事以外でこんな所に来るはず無いでしょお? そこの蜘蛛女じゃあ、あるまいしぃ。そしてこの娘はぁ、アタシのぉ依頼主。長期契約を結ばせてもらってるわぁん」
「ああもうイライラする喋り方ね相変わらず。頭の中身足りてないんじゃないの? 『妹様』を連れて何しに来たのよ、蝶女」
甘ったるく間延びした口調でケラケラと笑い、男の問いに答えているようで答えていない『レディ・バタフライ』と呼ばれる派手な容姿の若い女。それに、検のある口調で『女郎蜘蛛』が噛み付いた。
「あらぁん。おばさんがうるさぁい。きゃはははははッ。……まぁー? そんなに教えて欲しいなら教えてあげるけどぉ。えぇっとねぇ、このお嬢様が良さげな番犬が欲しいなぁって言うからぁ、飼い主に信頼されてない可哀そーな番犬二匹紹介しようかなぁって思って来たのだけれどぉ……チビッ子にぃ、おばさんにぃ、お爺ちゃん相手にボロボロにされちゃってるとかぁ、勘弁して欲しいわぁん」
「ガァアアア!? いきなり来てバカみてぇな喋り方で何だテメエ!! 周りの白い奴らごとぶっ殺すぞ!!!」
「うるせえ黙れ。手前ぇも馬鹿だ。……それで? 情けないことこの上ない犬っころを見て、それでそのお嬢様とやらはどうするんだ? なあ、教えてくれよ情報屋『レディ・バタフライ』。――用が無くなったのならその目障りな取り巻きごととっとと失せろ。お前らの色合いは目に痛い」
薄紫色に彩られたぽってりとした唇から発せられる、明らかな嘲りを多分に含んだ『レディ・バタフライ』の言葉に反応して吠え猛る『雑音』を一蹴して、『指揮者』が砕けた口調で、しかし最後は冷たく静かな重い語気へと変えて言葉を重ねる。
殺意まで込められていそうなその言の葉を受けた派手な格好の女達へと、『彼女』は視線を移して改めてそれらの姿を確認する。
見るからに派手な女の方は、波打つ長い頭髪を緑と桃色の二色に染めて、首には長く黒いマフラーを巻いていた。纏った革のジャケットと、同素材でプリーツのあるミニスカートは純白。短いスカートからすらりと伸びた脚を覆っているのは黄と青の縞模様のタイツ。その足先は踵の高い深紅のショートブーツを履いている。そしてゆっくりとした動作で腕が動く度に様々に飾られた爪が煌き、幾重もの腕輪がしゃらんと掠れた
音を散らす。
更に。服装だけでなく化粧も派手な女と小さな少女を守るように囲う、無言の男達の服装も全員が夜闇に映える白いスーツと同色の中折れ帽、そして顔の上半分を覆う黒い仮面という派手で面妖なものだった。
なるほど確かに目に痛い。光源は星と月の光のみで尚且つ、霞む視界で捉えているにも関わらず目立つそれらを見て、思わず『蝙蝠少女』はそう思う。
「
高ぁい声と
低ぅい声で鳴かないでぇ? 耳に痛いからぁ。カルシウム足りて無いんじゃなぁい? 骨でも持って来てあげましょうかぁ? 駄犬さん達ぃ。きゃははははッ。――それでぇ? お嬢様はあの駄犬さん達、どうするぅ? いやホント、堕ちぶれたとは聞いてたけどぉ、ここまでとは思って無かったのぉ」
噛み殺すが如く牙を剥く金髪の男とそのポケモン達の視線と、射殺すが如き黒服の中年男性とその手持ち達の視線をケラケラと笑いながらあしらって、隣に立つ栗色の長い髪を側頭で二つにまとめた少女へと言い訳めいた言葉と共に問いかける『レディ・バタフライ』。
問いかけられた上等そうなコートを羽織った、『少年』や『姫』よりも少しだけ年上だろうその少女はと言うと。長身に高い踵の靴を履き『雑音』並に高くなっているその身を屈ませて覗き込んでくる『レディ・バタフライ』の大きな瞳と、それを飾る何重にも重ねられた付け
睫毛が瞬くのを見つめながら無邪気に笑い返した。
「あら、むしろお姉ちゃんの『執事』を含めたこれだけの人達を相手にしてまだ生きてるのだから、褒めたい気分なのだけれど。下種らしく粗野だけれども、その分丈夫なのね。……うん、番犬には丁度いいわよね。そういうわけであれらは持って帰りましょう」
そして愛らしい顔でにこりと微笑み、家具や道具を選ぶ様な口調で『レディ・バタフライ』に答える少女――『女郎蜘蛛』曰く『妹様』。一体誰の妹なのか、と『蝙蝠少女』は考えるが答えはでない。
それだけで終わらずに、一呼吸後に二つ結びにした栗色の髪を揺らしながら、先の人間を物の様に扱うのとは違う調子で少女は声を張り上げた。
「……それよりもッ!! 『ノラ』ちゃんに『姫』ちゃんお久しぶりッ! 相変わらず可愛いわねーッ。そこの翼のお姉さんもとってもキュート! どう? 全員あたしの所に来ない? お姉ちゃんなんかよりも、それはもう可愛がってあげちゃうけど」
毒のない無邪気な笑顔を振りまいて、気さくに気楽に可愛らしく、心の底から歓迎するという感じの声でそう提案してくるその少女。
「……ん、ぁ、え? 『妹様』? 何でここ――」
「何度でも言います! 私も『ノラ』ちゃんも貴女の所に行く気はありません!!」
「あ、じゃあ私も遠慮しておこうかな?」
朦朧とした『ノラ』の言葉が終わる前に、それごと劈く様な『姫』の大音声が間を置かずに拒絶する。それを聞いて『彼女』も蜘蛛糸の長椅子に寝そべったまま小さく手を挙げて拒否の意を示した。
誘った全員に
峻拒された『妹様』だがしかし、愛らしい顔に咲いた笑みは
萎れない。
「あら残念。また振られちゃった。だけれども――」
無邪気な成分はそのままに、それに不敵な色を
滲ませて、満開の笑みを咲き誇らせる栗色の髪の少女。
「――あんなに弱々しい『ノラ』ちゃんを見たら抑え切れないわ。あたしもポケモントレーナーの端くれですもの」
「きゃははッ。そぉねぇ? トレーナーだもの、弱った
仔を見つけたら力の限り抱き締めて、気を失ってる間に捕まえて、優しく優しく目が覚めるまで介抱してあげなくちゃねぇ?」
「そして、元気な子でも欲しかったならば弱らせて動けなくして捕まえるのよね?」
「うん。うん。その通りぃ。それがポケモントレーナーよぅ。……あ、彼処の『クロバットの翼のある子』もご所望かしらぁん?」
「ええ。欲しい」
「きゃは。かしこまりましたぁ」
邪気無きままに一切の悪意無く、しかし不穏を孕んだ甘ったるい会話が豪奢な女と清楚な少女の間で交わされる。
色々と何かが違う気がすると『クロバットの翼のある子』と呼ばれた彼女が思ったのとほぼ同時、『妹様』の返事にけらけらと笑いながら答えた長身の女が閃光に包まれた。