W-14
「ぅ、ぐ。……あれ、『セバスチャン』?」
呻きながら現在の自分の状態を把握したらしい少年が顔を上げ、小首を傾げて呟いた。
「いや、だから『ノラ』君。私の名前に『セバスチャン』の要素は全く無いので――」
「あんだテメエッ! そのバケモンぶっ殺す邪魔してんじゃねえよッ」
「――その呼び方は止めて下さいと言っているでしょう?」
男の怒声はさらりと聞き流し、少年に『セバスチャン』と呼ばれた老人は、皺の刻まれた穏やかな顔に苦笑を浮かべながら少年を窘める。その間、白手袋を嵌めた左手で掴んだ『雑音』の特殊警棒はピクリとも動かない。
「放せよ! このジジイッ!!」
業を煮やした『雑音』が右脚で蹴りを放つ。一切の容赦は無く、細い老体をへし折る勢いで。
「『
右鏡』、『
左鏡』」
「あ、わッ」
ふぅ、と小さく溜息を吐き何やら呟きながら、右腕から少年を放す
老者。空いたその掌で金髪の『雑音』のダメージジーンズを履いた脚を受け止める。
放られた『ノラ』と呼ばれる少年は、しかしそのまま地面に落ちることはなく、老人の後ろに粛々と控えていた二体のポケモンに素早く受け止め抱えられて後退。
「くッ。テメ――」
「『
天地』」
疳高に吠える『雑音』の声を遮る様に、老紳士の声が静かに響く。
その言下。脚を振り切った男の横合いに空間から滲み出るかの如く音無く現れたもう一体のポケモンが、薄緑色のほっそりとした両腕を伸ばしてその掌を『雑音』へと押し付ける。
そして空間移動して現れた人に似たそのポケモンの、
片眼鏡の奥の赤い瞳が大きく見開かれた一刹那後。桃色に光る念の力が半物質と化して両掌から放出。
「ッグ、ごふッ――?!」
脇腹にサイコショックが直撃した金髪の男の身体が、濁った声と共に素っ飛んだ。
「ふぅ。ありがとうございます『右鏡』、『左鏡』。それに『天地』」
奇声と共に地面を転がる金髪の男を気にすること無く穏やかな声でポケモン達を労う、夜の最上級礼服を着た白髪頭の老人。外見だけでなく、『雑音』が横に飛んでいく時に離した伸縮式の金属製警棒をクルリと回し持ち手を白手袋を嵌めたで握るその所作も、とても優美なものだった。
作り出した大鼬が沈黙した結果、徐々に光の弱くなりゆく擬似太陽に照らされ立つ、白いボウタイをした老紳士の言葉に静かに応えるのは三体のポケモン達。どれも同一種。
身長は女性と比べれば高めで男性と比べれば低め。人で言う頭髪は薄緑で肩口までのセミロング。肌は純白、瞳は赤。胸元に突き刺した様な赤い突起が覗いている。そして動く度にひらりと靡く下半身。
少年に『セバスチャン』と呼ばれた老年の男性と同様に上品な物腰で佇む三体のサーナイト達。その内の少年を抱える二体はレースの付いたホワイトブリムを頭に着け、残りの一体はその大きな瞳の右側に片眼鏡を装着している。
いきなり現れたそれらを見て、何者だろう。と彼女は思う。少年を助けた所から考えて、味方、なのだろうか。
「あら。遅かったのね『セバスチャン』」
「ええ。申し訳ありません。貴女から『ノラ』君と『執事』が此処に居るという情報を頂いてから直ぐに仕事を片付け迎えに来るつもりだったのですが……『お嬢様』から“
苟も我が家の『
家令』なのだからそれ相応の格好をして行け!”と申し付けれまして。その分遅れてしまいました。……後、私は『セバスチャン』ではありません」
「アハハハッ。だからそんな格好なのね。あたしは何時ものお洒落なスーツでも充分だと思うけども。ねえ、『セバスチャン』?」
「いや、ですから――」
凛と響く声で、親しげに話しかける『女郎蜘蛛』に微苦笑しながら応える『セバスチャン』。その様子を見て『彼女』は老紳士とその手持ちであろうメイド・執事風の三体を敵ではないと判断した。
「――ッ」
次瞬。視線をそちらに向けたままでいたその死角から、一条に纏められた大量の水が勢い良く迫ってきていた。絶大な圧力を孕んだそれが迫る音でようやく気が付いたクロバットの彼女。未だ反響定位を使える程には落ち着いていない。というよりも使える使えない以前に痛みが酷く、立っているのもやっとな状態。
「ん。ウェブ」
「あぁ、いと、とと、まる」
『彼女』とほぼ同時に、それに気が付く蜘蛛を従えたる母娘。迫るハイドロポンプに驚くこともなく、自身の
大蜘蛛達に声をかける。
「ソーラービームッ」
「ソーラービーム、よろしく」
続く言葉は二人共に大方同じ。
言下に、指示の通りに動くアリアドス達。闇に飲まれて消え行く擬似太陽の最後の陽射しを頭に生えた角へと集め、翡翠色の光の帯を撃ち放つ。
計、四条の
くさタイプの熱線が迫る巨大な水流へと真っ直ぐと突き刺さる。直後、水が爆散。細かな飛沫が辺りに飛び散った。
そして、爆ぜたのは水流だけではなく、周囲の空気も同様に。
その衝撃波は水を放った者にも、翡翠色の光線を放った者達にも同等に襲い来る。
「――わッ?!」
「きゃ――」
「――ッ。……おっと。大丈夫かしらん? ほら、ちゃんと地面を踏みしめて
確り立つ!」
不意の熱水を伴った爆風に背中の翼が煽られてまず『彼女』が体勢を崩した。力の抜けた脚でどうにか立っていた為によろめいて、咄嗟に傍に居た少女の細い肩を掴んで巻き込んでしまう。
それを片手で支えた後に、ポン、と『彼女』と少女の腰辺りを軽く叩いて笑う『女郎蜘蛛』。その弱い衝撃さえも今の『彼女』にはかなりの痛みを響かせる。ぐ、と漏れそうになる苦鳴をどうにか無理矢理に飲み込んだ。
「あちゃあ、此処まで濡れるとは思ってなかった。風邪を引かないうちに帰らないとねぇ」
「あぅ……」
「熱くて、風が吹くと寒いとか……」
結構な量の熱された水を被ってしまった『彼女』達。火傷をする程のものでは無かったがしかし、代わりに冬の夜の風が容赦無く身体の熱を奪っていく。
痛みと熱さと寒さで泪の滲むぼやけた視界の中では、周囲の極彩色の大蜘蛛達は地面に張り付くように身を屈めてやり過ごしていた。
一方ハイドロポンプを放った楕円形の水兎はというと、
まるくなり、衝撃を耐えたらしい。幾重にも重ねた水の紗幕の奥の円らな瞳を血走らせて、鋭い鳴き声と共に威圧的な視線を送ってくる。
「さーてっと、結構不利になってきたんじゃない? ねえ『指揮者』さぁん?」
バクフーンの作り出した太陽を模造した光球の生み出した
にほんばれの掻き消えた夜暗に響く、くすくすと小馬鹿にしたような笑いを発しながら『女郎蜘蛛』は二体の異形を傍に置いて立つ男に言葉を放る。
その言葉を聞いて『彼女』は状況を整理することにした。状況が目まぐるしく変化して、全く今、自分がどういったことになっているのかすら掴めなくなってしまっている。
まずは己自身。とても動けるとは思えない。可能な限り表情に出さないようにしているが、焼け付くような熱を伴う激痛を腹部が発し続けている。肋骨か何かが折れているのかもしれない。空を飛ぶことは疎か、
ちょうおんぱ等の
わざも使うことは出来ないだろう。
次に、レースの付いた髪留めを着けたポケモンに抱かれているグラエナの特徴をもった少年。こちらも霞む視力で見る限り動けそうにない。六体居た手持ちの異形達は、先ほどの火炎地獄を勢い良く白の光を放つ事であらゆる攻撃を防ぐ
わざで身を
まもり耐え切った小さな氷女と小魔女、影の中に逃れた影霊の三体以外は戦闘不能。動けなくなった他の二体と違い、ボールに戻せていない片腕を失ったヨノワールは地面に臥したまま動かない。
「『セバスチャン』さぁん! 『ノラ』ちゃんは大丈夫ですかー!?」
そして、どうやら『ノラ』と呼ばれている少年の知り合いらしい母娘と老人。味方してくれる存在らしい。彼らの手持ち達は、殴り、蹴り飛ばされた四足の鉄塊達以外は無傷で存在している。また、四体の鉄塊達も戦闘続行可能のようだ。周りでギチギチと顎を鳴らす巨大な蜘蛛を濁った視界の端に収めながら、老人と少年の近くで沈黙していたメタグロス達が動き出すのを見届ける。
その影で少年を抱えていない方のホワイトブリムを着けたサーナイトが、優しく抱かれた少年のその腰に装着された球の一つを手に取って、倒れた巨霊へと向けて開け放った。閃光と共に紅白の球の中へとヨノワールが吸い込まれて消える。
「『セバスチャン』ではないのですが……。――ええ、大丈夫そうです。怪我はしてますが血は止まっていますし。『右鏡』と『左鏡』の
いやしのはどうをかけているので傷自体は問題ないでしょう。只、頭を打っているので帰ったら診せた方がいいでしょうね。……しかし、私はそれよりもそのお嬢さんの方が心配ですが」
「あ、そっか。――お姉さん、大丈夫?」
唐突に、そんな言葉を投げかけられて、現状把握に集中していた思考を引き上げられる。長めの前髪から覗く瞳で真っ直ぐと彼女を見つめる少女――『姫』。その瞳に心配そうな色を認めた彼女の心臓がトクンと跳ねた。
悪意や嫌悪、好奇に満ちた他者の視線や、謝罪するような『おじいちゃん』の視線になら慣れている。けれどもこの少女の放つ様な優しい視線には慣れていなかったから。
「ぇ、ぁ、うん。大丈――」
「はいはい、やせ我慢やせ我慢。痛い時は痛いって泣いて喚けば良いのよ」
何と返せば良いか分からずに、反射的に「大丈夫」と答えようとしたそれを、中途で遮る凛とした『女郎蜘蛛』の言葉。
「ああもう全く。おチビちゃんも、そこの頑固娘も、そして貴女も何で誰かに頼ろうとか考えないで耐えようとしちゃうのかしら? その為の大人、でしょう? 『お嬢様』とか見習いなさいな。 遠慮は要らない。大いに巻き込め! 図太く図々しく!」
に、と口角を上げて発せられた笑声と共に上げられた両腕の指先がまた別の生き物の様に蠢き出す。そうしてスカートスーツの女の足元に織られ作られたのは――
「取り敢えずまずは、“立ってるのも辛い”とか言ってみるのはどうかしら? 軽く触った程度で泣きそうになってるくらいなのだし」
――膨大な量の蜘蛛糸を用いて作られた寝椅子だった。なだらかな曲線を描く蚕の繭にも似た長椅子が其処に存在していた。
「一応粘り気のない糸で作ったけど、何割か混じってるかも。……さぁ、これ、使う? 使わない? 『蝙蝠少女』さん?」
不敵な笑みを浮かべて問いかけてくる。その傍では原材料である繊維を生成したアリアドス達が表情の読めない眼を『彼女』に向け、カサカサと長く多い脚を動かして暗闇に白く浮かぶ寝椅子を囲う。
『女郎蜘蛛』の言葉通りに、やせ我慢をしていた『彼女』はそれを看破されてどうすればいいのか迷ってしまう。
数秒の沈黙。その間に反芻する女性の言葉。そうして『彼女』は気が付いた。『蝙蝠少女』などという揶揄するような呼び方をされたにも関わらず、『不協和音』達に対するような気持ちが芽生えない。少なくとも、あの男達と違い言動に悪意を感じない。だからだろうか。
そんな事を考えながら、自身の口角が上がるのを自覚する。
「はい。じゃあお言葉に甘えて使わせて貰います。ありがとうございます。えぇと、『女郎蜘蛛』さん?」
「ふふふ。ええ、どうぞ」
彼女は自分でも驚くほどに堂々と応えることが出来た。そして思う。頼っていた事を反省したり、今度は頼ってみたりと慌ただしい。と。
しかし、こうも考える。自分で頑張るのと誰かを頼る事は多分どちらも大切な事なのかもしれない。何故なら、まだ一五年しか生きていない子供が一人で出来ることなんてたかが知れているから。けれどそれでも自分で頑張らなければならないとも強く思う。
――だって、どんなものでも自分の人生だから。他の誰かが頑張って、私が頑張らないのは何かが違う。
――でも。
「後、図々しいですけどお願いします」
「ふふ。何かしらん?」
以前ならば吐き気がしただろう『蝙蝠少女』という呼称も、怒りも諦観も何も感じない。
大蝙蝠の翼を背に持ち、反響定位も行うことが出来、更にはポケモンの
わざを行使することは事実だ。それを受け入れた彼女にはどんな呼び名もすんなりと受け入れられる。或いは気にならない。
疲労と痛みに寒さに恐怖、様々な要因で震える身体でよろよろと歩を進め、蜘蛛糸の椅子へと辿り着く。
「助けて、ください」
――あらん限りの力を振り絞り、手を伸ばして足掻くから、その手を掴んで引き上げて。
「うふふ。言われなくても」
「私もお姉さんを助ける!」
「ッ、あり、がとう、ございます」
棘のある言動と自信に満ちた風貌から気の強さを感じさせる『女郎蜘蛛』だがしかし、凛とした雰囲気はそのままに優しく微笑みそう返してくる。
帯びる雰囲気は正反対の『姫』も母親同様に、目元にかかる髪から覗く瞳に何か強い意思を宿らせた笑みと共に、鈴の音の様なソプラノに力を込めて宣言する。
生まれて初めて助けを求め、それに応えてくれる人が居る。その少し前の自分にはありえなかった状況に彼女は胸が熱くなり言葉が詰まる。そして、手を伸ばす前に手を掴んでくれた少年に、助けてくれてありがとうと伝えたい。
死灰の様だった彼女の心は、救われた。尤も、肉体の方はボロボロで、状況も好転しているのか悪化しているのか判断できないが。少なくとも『不協和音』に出血を強いているのだから悪化はしていないとも考えられる。
――嗚呼、だけれども。
痛みとは別の理由から瞳に滲む泪を拭いながら、糸の塊へとうつ伏せに倒れこむ。翼がある為に仰向けの体勢は出来ないのでそのまま痛む脇腹を庇いながら。それを繊維のソファは柔らかく受け止めた。
「あぁ。でも『蝙蝠少女』はまだいいけれど。やっぱり、『化物』は嫌だなぁ」
予想外の心地よさに思わず心の中で考えていたことが溢れ出た。誰に何と呼ばれようと受け入れたり流す事も出来るだろうが、だからと言ってそれが好ましいという事とは直結しない。
「あはッ。そうそう。気に入らないならそれを言葉にしちゃいなさい。溜め込んでも良いこと無いわよ。ねえ? 『セバスチャン』!」
「私は常々その呼び名は嫌だと言っているような気もするのですが……」
「言ってるのだから溜め込んでないわね! だから大丈夫!」
明るく響くスーツ姿の女性の笑い声と若干暗めの老人の溜息混じりの言葉が交わされる。
「…………。……マリルリ、こっちへ。『雑音』、何時まで寝転んでやがる。とっとと起きろ。他の奴らもだ」
『彼女』達に対して沈黙を保っていた『指揮者』の言葉が小さく、しかし強く空気を震わせた。