W-8
振り下ろされる炎拳。
男の言葉に少年への攻撃を中止し、首だけで振り返る二足の昆虫。次いでその鋼の身体も反転させようと動かすが、しかしそれは叶わない。
少年が、左の鋏を掴んだまま放さないが故に。
圧倒的な熱と圧をもって唸る剛拳。それがハッサムへと当たる刹那、彼女は現状全てを認識した。
「ダメッ! 避けて!!」
次瞬、彼女は切迫した叫びを上げる。無論、それは
ほのおのパンチに狙われた紅い昆虫にではない。
それは巨霊に。しかし届かない。勢い良く放たれる右の拳。
それが、肩口から切り飛ばされた。
炎を散らしながら放物線を描いて飛んでいく
巨きな右腕。夜闇に溶けるように霧散していく。
「ギャハハハハハッ! ゴーストタイプに
あくタイプは効果抜群ぅぅぅぅううん。ってかー!!」
すぐ後ろまで近づいていた『雑音』の笑い声が響く。
何が起きたか。あの一瞬、ヨノワールの攻撃の隙をついてその足元に潜り込んだ白毛の獣。それが、その頭の鎌状の歪曲した角によって炎を宿した亡霊の腕を断ち切った。
闇色の霧が勢い良く噴き出て宵闇に溶ける。ぐらり、と傾く亡霊の巨体。しかし只倒れるのではない。
頭に直に響く巨霊の低い咆哮。それと共に残った腕を振るうヨノワール。茶色の激光を纏った巨拳が足元の白い体毛に覆われた獣の胴を打ち据える。
気合の篭った拳を食らい、濁った呼気を洩らしながら吹き飛ぶアブソル。水飛沫を上げながら地面を派手に転がり続ける。
そして腕を振り抜き、一つ眼の亡霊が地面へと崩れ落ちる刹那、不快な虫の翅音が大きく響いた。
ハッサムの背にある翅が細かく震え、不快音がさんざめく。次の刹那、薄緑――
むしタイプの光がさざめく翅音と共に、大きく爆ぜた。
衝撃波と化した音波が彼女と少年、そしてヨノワールに向かい襲い来る。
至近距離で生じた、聴覚によって視ている彼女には巨大な壁とも知覚できるそれ。ハッサムの左の鋏を掴んでいた少年も崩れ落ちるヨノワールも躱す余裕など勿論無く、二人と一体は吹き飛ばされる。
苦悶の鳴き声一つ洩らさず転がる一ツ眼の亡霊。羽根突きの羽根の様に宙を吹き飛ぶ最中、再開した反響定位によってヨノワールが未だ生きている事を確認し安堵する彼女。
……幽霊が生きているというのは少し、可笑しい気もする。等と思考が緩んだ次の瞬間。
「ハッサムは羽付きの餓鬼を捕獲! ルカリオ! 手前ぇ何を梃子摺ってやがる! メタルクローじゃねえ、シャドークロー!! 距離を取らせるな! バクフーン! カイリューが落ちたんだからユキメノコも相手しとけ!!」
「ギャハハ!
あくタイプに
むしタイプは効果は抜群か?! ああ? グラエナの化物よぅ!!」
機関銃の如く捲し立てる『指揮者』の指示と、『雑音』の哄笑が大きく鳴り響いた。
その怛刹那後にガゴン、と鈍い音。
僅かに遅れ、子犬の悲鳴の様な少年の苦悶の声。
犬耳の少年が吹き飛んだ先で、手に持つ特殊警棒を用いて金髪がその頭を殴りつけた。濡れた地面へと叩きつけられ苦しげな呻き声を零して倒れ伏す。
そう把握した彼女。しかし何か行動を起こす前に、ハッサムが地面を蹴って駆けてくる。
「ッ!」
二対の翼を繰り態勢を整え、腕を鞭の様に振るい放たれる彼女の攻撃。
しかし、薄く灰と水色の光を散らしながら飛ぶその難視の刃も深紅の鋏の一撃によって霧散。迫る紅い虫の勢いは微塵も落ちない。
一瞬の内に懐へと潜り込まれる。肉厚の鋏の付いた両の腕が僅かに引き絞られるのを彼女は霞んだ視界に捉えた。
何をする? 攻撃。否、どれをやっても防がれる気がする。離脱。否、間に合わない。
どうすればいい?
無数の選択肢。しかし彼女は選べない。
刹那の猶予は瞬く間に無くなった。鋼の光を放つ紅い一撃が弾丸の如く放たれる。
しかし、それが彼女を打ち抜く直前に何かがハッサムへとぶち当たる。その衝撃で異形の昆虫は地面を転がった。
ハッサムへと激突したものが何かと言えば、先程までゲンガーと血戦を繰り広げていた蒼い人狼。それが橙の光を散らす紫色の炎に包まれて飛んできた。
状況は動き続ける。
ルカリオの身体を炙る紫色の不気味な
おにびを放ち、それごと殴り飛ばした影霊。次いで、ケタケタと笑いながら濃紫色の影球を放つ。
狙われたのは、首元から炎の鬣を纏う大鼬――バクフーン。宙に浮かび揺れる夜魔を、濃紫色の長く鋭い光爪で切り裂こうとしていた刹那に被弾。勢いよく弾かれ地面を転げまわる。
「ッグ!?」
「うおッ!? がぁああ、うざってぇ!!」
ハッサムとルカリオが未だ戦えることを確認し、様子を把握する為か一歩引いた黒服の『指揮者』と、倒れ伏した少年を思い切り蹴り上げようとしていた『雑音』に向かい氷弾が。
こおりのつぶてを投げつけたのはユキメノコ。初弾は命中。続き、小さな両手に一つずつ氷塊を作り出しもう一度投げつける。
しかし、不意を打たないその二撃目は、容易に旋棍と特殊警棒によって打ち砕かれてしまう。
雪霰の中、グシャリと氷の砕ける音と砕けた冰片が地面に落ちる小さな音が彼女の耳に届いた。現状は知覚している。しかし目まぐるしく変化するこの状況に呑まれどう動けば良いかわからない。
一瞬を突いてムウマージが宙を滑る。三角帽の様な頭もローブの如きその身体も風に揺らして一直線に空を駈ける夜魔。向かう先は未だ倒れた少年。
「……ああ? 何だ手前ぇ」
しかし、あと少しという所で少年の傍に立つ金髪の男に気がつかれた。
だが夜魔の直進は止まらない。微塵の躊躇なく突き進む。
「ギャハハ! 何だ? 自殺志願かッ?」
それを見て品無く笑う金髪の軽薄な男。そのまま特殊警棒を握る手を振りかぶる。
ムウマージが肉薄する。
風を切り唸る金属製の警棒。
「……ッ、この馬鹿――」
『指揮者』の中年男がその様子を見て何やら叫ぶ。
しかしそれは遅かった。
振り抜かれる『雑音』の鈍器。何を砕く事も無く。
「あ」
間の抜けた声。軽薄な金髪男が勢い良く打ちつけた一撃は、しかしムウマージの身体を通り抜けた。
詠う様な鳴き声を発する妖しき夜魔には無論、特殊警棒による傷は無い。
「やっべ――」
クスクスと笑う様に鳴きながら、眼前で間抜け面を見せる『雑音』へと濃紫の影の珠を叩き込むムウマージ。至近距離から放たれたシャドーボールに弾き飛ばされた金髪の青年は地面を転がりのた打ち回る。
「ッチ。馬鹿野郎! ゴーストタイプを殴りつける奴が――……ああ? クソが。ハッサム、ルカリオ!
まもる!!」
「きゃッ」
『雑音』が転がる様を見て怒鳴る『指揮者』。しかしその中途で、雪霰に隠れ何時の間にか小さな氷女がその正面に出現。
勢いの増す雪霰。ゾクリとする程に冷たい鳴き声をユキメノコが発した。その刹那、クロバットの特徴を持つ彼女は宙を飛んだ。
背の翼によってではない。ケタケタと笑いながら空を滑り近づいてきたゲンガーに抱き抱えられて。
目まぐるしく彼女の視界の景色が回る中、極大の
ふぶきが『指揮者』とそれを守るように立つ二匹の異形へと向かい放たれる。
意思持つ様に敵へと吹き荒ぶ雪嵐。しかしその一撃は、両の腕を交差させた赤と蒼の二体の異形が放った白の激光によって掻き消える。全員
ふぶきによる傷は無し。
次瞬に動き出す蒼い狼と赤い鋼虫。瞬く間にユキメノコへと肉薄し、反応しきれず立ち尽くす雪女を色を帯びた光を纏う拳と鋏で殴りつける。
粉砕。小さな氷女の身体が砕け散る。
霰の中、澄んだ音を響かせて冰片が飛散する。
が、しかし、
「チッ」
黒服の男の舌打ち。同時、その手持ちである二体も同様に、苛立たし気な唸り声を上げる。
何故か?
それは、冷たい微笑を湛えて優雅に佇む小さな雪女が存在していたから。
『指揮者』達がユキメノコの攻撃を防いでいたその隙に、翼を持った彼女と倒れた少年を抱え、『指揮者』とも『雑音』ともその手持ち達とも距離をとったゲンガー。そのずんぐりとしたシルエットが宙に浮かんでニタニタとした笑みを貼り付けたその傍らに、砕け散った筈のその小さな氷女は確かに居た。
「大丈夫、なの?」
反響定位によって、砕かれたそれは雪霰が固まり作られた雪氷像であることは分かっているが、しかしそれでも訊いてしまう。
彼女のその問いに目を細め小さく鳴いて首肯するユキメノコ。その視線が彼女から移る。
「そんで、俺も、大丈夫」
その先にはグラエナの少年が。粘着く赤い液体を滴らせる頭を片手で押さえながら呻くように彼女へと宣言する。犬歯の覗く痛々しいその笑みに息が詰まる。
地面にボタボタと血を零しながら、金髪と黒服のひとでなし達の視線すらから守る騎士の様に彼女を背に立ち上がる少年。
その小さな身体に収まらない頼もしさを感じるのと同時に、それに対する自らに違和感が。
しかしその違和感の正体がつかめない。もやもやとしたそれが気になって、少年へと何か声を掛けたいと思いその肩へと伸ばした手が中途で止まり、声も出てこない。
「あぁん? まぁぁぁあだ生きてんのかよッ。早く死ねやバケモンがッ!!」
搾り出すようにしてようやくかける言葉を思いつき口に出そうとした刹那に、そんなダミ声が響く。
尚も「死ね」「殺す」と喚き散らす『雑音』。その腹を
旋棍で打ち据え黙らせる『指揮者』。悶絶する『雑音』を放置して、彼女達へと声を放つ。
「嗚呼。強い。強いな、餓鬼。手持ちも強いが何よりお前が強い。心は強靭。身体は頑強。俺の数分の一しか生きていねぇ餓鬼のクセに俺達に喰らいついている。……或いは、
驕るわりには俺らが弱ぇだけなのか」
「ちょッ、先輩! 俺ら『不協和音』があんなバケモンの餓鬼に劣るっつーんで――」
「よし。黙れ『雑音』。つーかその呼び名は良い意味が一つも無いから忘れろ」
「――ぐげッ」
吹き荒れる雪霰の中でも良く通る声で言を紡いでいた黒服の中年男に、口を挟んだ軽薄な若い男はもう一度旋棍の一撃を貰い再び悶絶した。
「……いや、おっさん達は強えーよ。正直かなりキツイし。『
執事』の手持ちだったこいつらが居なきゃ、そこの頭の弱そうな人が言うように俺は殺されてるだろうよ?」
未だ血を流す少年が、肩をすくめてそう答える。