W-5
「だめッ!」
思わず声に出していた。危険を知らせるわけでもなく、指示を出すわけでもない意味の無いもの。しかし、自分を守る為に他の誰かが死んでしまうなんて駄目だ。そんな思い故に発せられた叫び声。
そして何も出来ない……否。しない自分が許せない。しかし、すれば自らを化物と認めることになる故に煩悶する彼女。『
指揮者』が何やら指示を出しているのが聞こえ、『
雑音』の笑声、少年の叫ぶ声がそれに混じるが、その内容は頭に入ってこない。私は化物か。それとも人間か。その言葉が思考に混じり上手く回らない。
あの悪魔のような『彼』と、騎士のような少年の言葉を受けてから、自分がどちらなのか判らない。分からないわからないワカラナイ。
彼女の思いなどお構い無しにバクフーンの一撃は止まらない。そして、マリルリと拮抗した押し合いをしている故に態勢を変えることが出来ないウインディ。
そして、その必殺の一撃が届く瞬息前、バクフーンのものかウインディのものか、はたまた別のもののか判らない咆哮と共に、夜闇を塗りつぶす白い光が瞬いた。
一瞬、視界が焼ける。白に塗れた朧げな景色の中で辛うじて見えたのは、迫る影の纏う茶色の光を、この景色を作り出した白の烈光によって吹き飛ばし身を
まもり、次瞬蒼と橙――ドラゴンタイプの光の奔流で自身より二回り程小さい獣を吹き飛ばすウインディであろう大きな肢体。
裂帛の気合の篭った鳴き声。くぐもった呻きを上げながら地面を転がる影に向いていた視線をそちらに向ける。もう視界は大体が回復している。
更に雨脚が強くなる。豪雨と言っても過言ではない勢いで彼女達に降り注ぐ。
彼女の向けた視線の先では、ウィンディの懐に入り込んだマリルリがその橙の毛皮に覆われた腹へと飛び上がるように拳を打ち込んでいるところだった。
雨水をその身の周囲に集め、それを纏い間欠泉が吹き上がるかのような勢いで上方へと殴りつける水兎のその一撃。五倍以上の体重差があるにも関わらず、ウインディの巨体が吹き飛んだ。
そして宙を放物線を描いて舞った巨犬は水の溜まった地面へと落下。鈍い音が響く。
彼女の悪い視力でも仔細に見て取れる位置へと落ちてきた巨獣の巨体。その大きな口腔から零れる濁った呻きと吐瀉物を見て声が出ない。喉が震え、視界が滲む。
寒さだけが理由で無い震えを刻む彼女を、ずぶ濡れの体毛の陰から覗くウインディの瞳が映す。
一瞥、という程度の時間、焦点の合わない双眸に見据えられ視線が固定する。瞬き一つすることが出来ない。そして心臓を締め付けられる錯覚すら覚える。何故? 何故異形であるこの私のためにこの
子達が傷ついているのか理解できない。私の為に血を流す行為に意味はあるのだろうか。無論、そんなもの考え付かない。親に捨てられ、施設では只一人を除き接する者は無く、そして、見知らぬ男達へと売り払われた人モドキ。こんなモノを助ける意味などあるわけが無い。
「『麗火』! だいじょぶか?!」
「ギャハッ! 脇見一瞬、怪我一生。ってかー!?」
彼女の内に入った思考の外で、響いた声と打音。次瞬、少年の苦悶の声を彼女の耳は拾う。
それを聞き身体の硬直が解けた。其方へと視線を移す。しかしその刹那前、影よりも濃い紫光の球の群と翡翠色の光球の群が彼女へと飛来した。
「ッ――!?」
シャドーボールと
タネマシンガン――ゴーストタイプと草タイプの弾幕。闇夜に爆ぜる濃紫と翡翠色の光の群は圧倒的な質量をもって彼女に襲い掛かる。先程までの彼女の周りの亡霊を狙うものではなく、対象は――彼女。
彼女の身体を掠める光の弾丸。肌を削る微かな痛みと共に血が滲む。しかし直撃は皆無。何故ならば――
「……だから、何で!? 何で私なんかを庇うわけ!?」
――間へと立ちはだかった二体の亡霊が全霊の気迫をもって放つ黒と青――悪と水タイプの波動によって彼女への直撃の射線を全て薙ぎ払ったが故に。空間を包むかのように広がったそれは光弾を飲み込み相殺していく。
しかし、全てを消し去ることは出来ず己の身へと二色光の弾丸を受ける夜魔と氷女。傷つき血の代わりに黒い霧を滲ませながら、尚続く弾幕に対し応射する。
騒然としたこの場に響く混濁とした音の中、夜色の外套を羽織ったような身体を揺らしながら澄んだ声で呪文を謡う夜魔とひらりと振袖のような腕を揺り動かし舞う氷女。優美なその所作。しかしその顔に滲み出た苦悶の表情をを認めた瞬間、彼女は叫んでいた。しかし勿論返答など無い。その代わりに、ただ一瞬、彼女へと視線を向けた二つの相貌は「何を言っているんだコイツは」と言っているような呆れを含んだものだった。
そして「何も気にすることはない」という風に小さく微笑み前を向き直るムウマージとユキメノコ。気迫の混ざる甲高い声を上げながら尚迫る光弾を光の奔流によって薙ぎ払っていく。
それがもし、悪魔的な笑いを浮かべた『彼』だったとしたら。『彼』が血に塗れながらこれと同じように己の身を盾にしようとも叫ぶことは無かっただろう。あれは違う。犬歯を覗かせ笑う少年や、
謡い舞い微笑する二体の亡霊、
猛る炎犬、
巨影、
生きた汚泥。そして
嘲りの哂いを響かせる影霊。それらとは違いすぎる。何が。全てが。
「『指揮者』さ〜ん。いいんすかー? 売りもんの亜人の餓鬼狙っちゃって」
「逃げられるよりかマシだ。……幾分かはな。この騒ぎだ。取引は中止になっちまうが、まぁ商品が無事ならまだなんとかなる。――カイリュー! 何時まで殴り合ってやがる!
はかいこうせん!! バシャーモ! 手前ぇは羽生えた方のバケモンの方行け! 殺したら殺すぞ!! アブソルは一旦
退って
ねむれ! ルカリオはその間ヨノワールとゲンガー抑えろ!! トロピウス!! マジカルリーフに変更!! バシャーモに当てるな!! エネコロロはトロピウスを
まねろ!! マリルリはアクアジェット!! ウインディの息の根止めろ! バクフーンは目標変更!! 『雑音』諸共餓鬼を焼き尽くせ!!」
少年の蹴打の合間に発せられる『雑音』の軽薄な声での問いに即答し、そのまま矢継ぎ早に指示を飛ばす『指揮者』。バシャーモと共に少年を相手にしていた『雑音』はそれを聞き大きな哄笑を上げる。
「ギィヤハハハハハハハハハハハ!! じょーだんキツイっす先輩ッ!! ――っておお!? マジでやるんじゃねえよバクフーン!? ヒノアラシの時からの仲だろうが手前ぇ!! がぁぁぁ、おいこらバケモン! 俺が焼け死ぬ前にとっとと死ね! マジで!!」
大きく口を開けたバクフーンの放った夜闇を橙色に照らす劫火が少年と『雑音』を襲う。しかし、やはり
主人であるこの軽薄な男を燃やすことに躊躇いがあるようで周囲を囲うようにそれは大地を舐め、直撃はしなかった。
雨の中に生まれた炎の壁。彼女の身の丈の五倍、一〇倍はあるその火炎、雨でなければどれほどの火力だったのだろうか。
火炎の生み出す熱気と共に背筋の凍る暴力的な多重の咆哮が響く。
轟音の連続。
少年から彼女へと攻撃対象を代えた赤い鳥人が疾駆する。
二色の光弾は淡い七色の光を帯びた葉状の刃の群へと代わりムウマージとユキメノコ、そして彼女の身体を少しずつ斬り付けていく。
ベトベトンが粘性の身体を変化させ作り出した巨腕を押さえつけた、柑子色の巨竜の口腔には白色の光の塊が生成されていく。
戦闘の
最中、体力の回復の為に白毛に覆われた身体を丸め短時間の睡眠へと入ったアブソル。無防備なそれを見逃すはずがなく、大地を滑るように移動し眠る白獣へと迫る一ツ眼の巨影と哂う影霊。
それを、両の手に帯びた鈍銀色の爪状の光による斬撃によって阻止するルカリオ。
またもや降りしきる豪雨の雫を身に纏い、長い耳を揺らしながら今度は水平方向に跳び出すマリルリ。流線系となった水を
鎧い跳ぶ姿はまるで砲弾。狙われるはよろめきながらも立ち上がった炎の巨犬。
過剰なまでに過敏になり過ぎた彼女の五感はまるで時間を凝縮したかのようにこの場の様々な様子を仔細に知覚する。
例えば、雨粒の一つ一つ。例えば、玉虫色の葉刃が掠め散った血の飛沫、その一つ一つ。例えば、満身創痍の巨犬の荒い呼吸音。例えば、少年と『雑音』を囲う炎の檻が雨粒を蒸発させる音。例えば、彼女に向かい跳ぶように駆けて来るバシャーモの、貫くような視線を送るその瞳に映る自分の姿。例えば――
「化物化物って五月蝿ぇな!! 俺は人間だって何度言わせんだ!! 人のこと化物って言う前にお前はどうなんだ?!」
「アァ? 俺は人間様に決まってんだろ。手前ぇの眼、オカシイんじゃねぇのかぁぁ? ギャハハハハ!!」
――炎の籠に囚われた、少年と『雑音』の言い争い。
バシャーモとの距離が瞬きの度に縮まっていく。地面を舐めるような前傾姿勢で疾駆する異形が迫る。
「お前みたいな奴が『人間』だって言うんなら俺も『人間』だ!!」
逃げなければ。そう思うのに身体が言う事を聞かない。
「だから手前ぇの何処が人間なんだ? その犬耳は飾りか? カチューシャなのか? そうすっとその尻尾は何処から生えてんだ? あァ!?」
雑音が濁流のように飛び交うこの場で何故ここまで明確に聞こえるのかわからない。
「見た目は確かに違うさ! だけど――」
鳥人があと一歩の跳躍で彼女を捕らえることの出来る距離まで迫る。しかしまだ彼女の身体は動かない。早く逃げなければ。頭の片隅でそんな言葉が浮かび増殖していく。逃げなければ。逃げなければ逃げなければ。逃げなければ逃げなければ逃げなければ。逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ。逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ。逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ。逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ。逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ。逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ。逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ。逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ。逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ逃げなければ。
「――笑いながら奪って傷付けて殺すようなお前らよりも、よっぽど俺は『人間』だ!! こんなことして笑ってる奴が『人間』って自称するなら、ちょっと見た目が違う俺がそう言ってもいいだろうがッ!!」
逃げ――“逃げなければ”という言葉が文字にすればゲシュタルトの崩壊を起こしそうになる程に浮かんだ彼女。そんな真っ白になりかけた頭に少年の言葉が響いた。
それは世界を守る正義の味方の言葉のように不純物の無い綺麗事ではなく、自分の世界を守る偽善者の不純物だらけで自分勝手な世迷言。矛盾を孕む子供の言葉。笑っていないのは確かだが、彼女を守る為に振るうソレは男達を傷付ける暴力と言わずに何と言えばいい? 振るって良い暴力が在るとでも思っているのか?
だが、それでも、居るはずもない正義の味方よりも彼女の味方になってくれる偽善者の方が兆倍も京倍も頼もしい。
――否。違う。
他人を偽善者呼ばわりする前に自分のことを省みろ。傷ついてまで誰かを庇い守るような善行なんて偽善でもやってきたか? 己を除外し考えてしまう思考を改める。偽善者? ならば自分は何だというのだ。
さしずめ悲劇のヒロインか? ……反吐が出る。何もせずただただ嘆いて拗ねていた奴が主役なんて。そんな奴が幸せになれるはずが無いだろうが。
大なり小なり道を踏み外さない人間などは居ない。問題はその踏み外した道の、その
縁をどうにか掴み戻ること。踏み越え踏み抜き、奈落の底の
淵へと堕ちぬこと。
行動しろ。例え道を踏み外しても己を見失わずに、曖昧だが確かにある秩序によって構成された世界の中で生きればいいのだ。人の秩序に生きるなら、それは化物でないだろう。
漸進だろうが何だろうが進め。抗え。諦めるな。
刹那の内に彼女がそう悟った
怛刹那、バシャーモの両腕が眼前に。
捕ま――否。これも違う。まだ捕まらない。もう何も気にしない。これをしても化物などではない。
三本指のバシャーモの腕に捕まる弾指前、彼女は――
――飛んだ。