V
V
――退屈だ。
≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠
切れかけた蛍光灯がちらつく小部屋で、味わいの深みなど皆無の苦いだけの珈琲を啜りながら男は長い息を吐く。不味い珈琲は、退屈な小夜の睡魔を追い払うことだけは出来たようで、煙る頭が若干晴れる。
不味い珈琲の入ったコップを置いた男は軋んだ音を響かせる、ささくれ立った木製の机に投げ出した足を降ろし中断していた投擲用のナイフの手入れを再開することにする。
乱雑に置かれた全長一五〇ミリメートル程の刃物達、その一本を手に取り端に寄せていたセラミック砥石を引き寄せて研ぎ始める。
――刃の成形は終わったので次、は。
男は使っていた長方形のそれを退かし、別の砥石を目の前に置き傍らのコップに入った水をかけてまた研ぎ始める。
刀身から持ち手までが一体となったステンレス製の投擲用ナイフ。それが蛍光灯の光を反射しギラギラと光る。
そのまましばらく刃と砥石の当たる音が小さく、淀みなく紡がれていく。
一本目を研ぎ終え、男が二本目を手に取った瞬間に部屋の隅に座っていて此方を眺めていた軽薄そうな男が話しかけてきた。
「『狩人』さん。ん? 『
狂獣使い』さん? んん、『八色』さん? ……まぁどれでもいいか。真剣な顔して何してんすか?」
「……暇潰しだ」
答えるのも面倒だったが、答えなければ更に五月蝿くなりそうなので手を止めずに一言だけ返す男。一瞥もせず乱れた茶色の髪の隙間からただ手元の刃物のみを凝視する。
「あー確かに暇っすよねぇ。客なんて来ないし、亜人のメス餓鬼とか商品狙ってくるような命知らずも来るわけないし。なんせあの『八色』が居るんすから」
答えても五月蝿くなった。ケタケタと笑いながら此方を見る軽薄な男を無視して男は夢想する。
皮膚を肉を裂く感触。腱を骨を絶つ感触。視界を染め上げる緋色。鼻孔を擽る鮮烈な鉄錆の香り。苦悶の声は果肉を潰す水音に彩られ鼓膜を震わせる。
そして。滾る八頭の獣達が貪る肉の塊となった――
今までのそれらの光景と経験を反芻すると、自然と口元が緩んでくる。
記憶の彼方に意識が傾くが、しかし男の手は止まる事はなく動き続ける。
暇、暇と連呼する金髪を逆立て軽薄様相の男の声。それを聞きながら、このナイフを投げつければ喧しい独唱も消えるのだろうかと考える男。しかしそれは自制する。
それを行えばこの浮き立たない時間を、この場に存在する者全てを殺戮し尽くすという多少は心躍る出来事で払拭出来るかもしれない。が、一応仕事だ。内容に魅力を見出すことは難しいが報酬の払いは良い。評判を落とすのも良くない。仕事が減れば強者と闘争することの減少に繋がる。故に、己の内に生じた衝動を抑える男。
――『妖美な毒』程の手練が襲い来るような仕事ならば良かったのだがな。
蟲惑な微笑で狂わせ、二足の毒蛙と共に蹂躙する女を思い浮かべると、ドクン、と男の心臓が拍を刻み、血が沸き立つ。
否、寧ろあの女は逃げる事が上手かったか。幾度も遭遇しているにも関わらず、致命傷を負わせた事がないのだから。
『狩人』『
狂獣使い』『八色』等と呼ばれる男に並び称される者は少ない。先の『妖美な毒』の他と言えば後は『慈悲無き亡霊』くらいか。尤も、五年程前のある事件以降その名を聞かないので会うことは無いだろうが。
『慈悲無き亡霊』が『反逆の影』となったその事件。
概要を聞いただけで、当時の男の心はざわめいた。
殺し合うに値する猛者を男は求める。このような職に就いたのも只々命を燃やし尽くすような争闘を行いたいが為なのだから。抵抗の無いものを引き裂いて肉片とするのも嫌いではないが、やはり生か死かという極限が好ましい。
だが未だ異常無し。密猟や強奪したらしい商品を求める客すら来ない。ポケモンの他にも、高級犬等も檻に入れられ置かれているらしい。愛玩動物としてポケモンの人気は高いが、人間並み、或いはそれ以上の長命さや
わざと呼ばれる様々な現象の発現の危険性等から、一〇数年程度の寿命しか持たず危険性も精々牙や爪程度である普通の犬や猫といった愛玩動物も人気がある。らしい。見た目の美しさや愛らしさなど男の理解の外である。
畢竟。
退屈。
この一言に尽きる。
澱んだ空気の満ちる中、光のちらつきが目に障り、軽薄な男の甲高い声が耳に障る。
「五月蝿えこの馬鹿。そんな暇なら商品の点検でもしてこい!」
取り出した
携帯電話を弄りながら喚き散らす軽薄な男に、沈黙を保っていたリーダー格の男が一喝した。
男は雇われているだけの為、この倉庫の中での指揮を執っているのはこの黒服の中年の男である。足を組んで座り込み片目を開けて軽薄そうな男を睨みつける。
「ええー。でも、他の奴らが行ってるし、俺が行っても邪魔なだけっすよー」
鋭利な怒気を孕んだ視線を真っ向から受け止めながら、しかし萎縮することなくヘラヘラと子供のような口調で言い返す若い男。
この部屋に居るのは男を含めこの三人だが、それ以外に一〇名が周囲の警戒などで巡回しており、総勢一三名の男達がこの無機質な倉庫に存在していることになる。
よって、大抵の面倒事は男の元に辿り着く前に沈静されてしまうだろう。只『八色』が居る、というだけの示威的な効果を望んだ雇い主の無愛想な顔が浮かぶ。
故に男は永久とも感じられる物憂いな時間を、刃を研ぎ上げる事のみに集中しやり過ごす。
全ての投擲用のナイフを研ぎ終えてしまった男はそれを収め、長く息を吐いた。腰元に下げた
刃渡り九寸の狩猟刀も研ごうかと思い、しかしつい最近研いだ後に使用していないことを思い出し留まる。凝り固まった首を回す。バキボキという鈍い音が響く。
「だっから先輩! その店マジでオススメですって。可愛い娘しか居ないんすからッ。この街の五本の指に入る美人が十何人居るっす!」
相変わらずの高揚加減で騒ぐ外見も中身も軽薄な若い男。この五月蝿い男にとって五本の指とは一体何本の指のことを言うのだろうか、と男は内心首を傾げる。
その言動全てが軽い若者の言葉に、無言の圧力で返すリーダー格の中年男。組んだ足が神経質に揺れている。
その様子を無感情に眺めながら、男は着込んだロングコートの内ポケットに入れた懐中時計を取り出し開く。
いつの間にか、日付が変わっていた。
――後五時間程で亜人の少女の取引きが始まるか。
その現場を警察に囲まれるというのも面白そうだが、などと妄想する男。その場合は
SITが来るのだろうかそれとも
SATか? どちらにしても楽しめそうだ。実際には起こらないであろう景色を脳裏に浮かべ男は心の中でクツクツと笑う。
明滅を繰り返す蛍光灯。。
そのちらつきから視線を動かした男の視界が、一瞬赤く染まる。ぞわりと肌が粟立つ。……何かが、来た。
警戒。男の研ぎ澄まされた察知能力が何かを捉えた。
その刹那後、リーダー格の男の
携帯電話が震える。操作し耳に当てる中年男。
「……あ? 客? ああ、わかった。お前は指示に従っとけ」
「おお! 客っすかッ!! 因みに誰からだったんすか?」
通話の終わったリーダー格の男に間髪入れずに質問する軽薄な男。それには答えず、黒服の男は男の方を向き説明し始める。
「四〇代くらいの男が色違いのイーブイを売ってくれと来たそうだ。見張りの一人が知ってる奴らしいから、アンタの出番は無い」
それに男は無言で軽く頷く。あの程度の気配ならば男が出ずとも問題は無い。……無いが男の何かが疼き出す。
収まらない違和感。予感とも言い換えても良い。それが、止まらない。止まらない。止まらない。止まらない。
何が起こる? 否。既に起きている。
ぎゅ、と己の身体を抱くように腕を回す男。分からない。何だ? どうなっている?
頭を机に突っ伏す。身体が小刻みに震えだす。息が詰まる。
しかし笑いが止まらない。
そうして何分経っただろうか。男の視界がまたしても赤く染まった。今度は先よりも濃い紅に。
これは。小物では、ない。
鼓動が大きくなる。男はゆったりとした緩慢な動きで立ち上がる。机の上のカップを手に取り珈琲を飲み下す。
そしてまた、リーダー格の男の
携帯電話が空気を震わせた。
それを視界に捉えながらも男はこの部屋の出口へ歩き始める。
男の行動を見咎めた黒服の中年男が、制す為か腕を男へと向け口を開くが、手にした
携帯電話から響く裏返った若い男の声に遮られる。
大半が罅割れた声を男は聞き取れなかったが、電話口の中年男は聞き取ったようで大声で叫び返す。曰く――
「ああッ? アイツをぶん殴って消えただぁッ? アイツの知り合いじゃなかったのかよオイ!」
言いながら勢い良く立ち上がるリーダー格の中年男。それに続いて軽薄な男も「ギャハハ、何か面白そうなことになったっすね」などと言いながら立ち上がる。
出入口の前で歩みを止めていた男を押し退け、中年の男と青年が安っぽい扉を蹴破る勢いで、弾丸のように詰め所となっていたこの部屋を飛び出して行った。
それを見送り、男は再度ゆらりと歩を進める。焦りも油断もその所作には見られない。只々歓喜の思いが心に満ちている。
急く必要はない。しかし
逸る気持ちを抑えることも難しい。故に普段どおりの歩調より若干早足で薄暗い通路を進む。
「ふふ、はははは。ハーッハハハハハハハハハハ!!」
コンクリートが剥き出しの通路を靴底が叩き、小気味良い軽い音が反響する中で男は笑う。ゆったりとした動作で両腕を広げ、抑えきれずに高らかに笑う。
地の底から轟くかのような笑い声が反響する中で真っ直ぐと歩を進めていく男。
獲物を捉えた獣の様に鋭敏化した男の知覚が、行くべき場所を示している。亜人の少女が居るという場所。それ以外に無い。
歩を進め続け目的の場所への距離が残り半分程になった頃、数多の炸裂音が反響してきた。聞き間違えようも無い程に聞き飽きた音を聞き、しかし浮かべた笑みは崩れない。
銃火器程度で死ぬわけが無い。
男の視界が
三度赤く染まる。今度のそれは何処までも何よりも赤い鮮血色。それが薄暗い通路を一瞬ぬるりと染め上げる。
これ以上ない程の無意識での警戒。即ち、理から外れた人外めいた何かが現れた。
久々の獲物だ。
否。久々の敵だ。
故に久しく――否、男の人生の中では片手の指で余る程度にしか行えていなかった血潮を撒き散らし、肉片を巻き上げ、脳髄までも痺れるような闘争が行える。
さあ打ち倒そう。打ち倒されよう。粉砕しよう。粉砕されよう。蹂躙しよう。蹂躙されよう。引き裂こう。引き裂かれよう。噛み砕こう。噛み砕かれよう。殺そう。殺されよう。――さあ。笑い、哂いながら
闘争しよう。
男の溢れんばかりの狂喜に呼応するかの様に、腰元に着けた紅白の球から閃光が奔る。
八閃。
八つのモンスターボールから現れたシルエットは超大型犬程の大きさの四足の獣達。狂犬の様に、唾液を撒きながら唸り己を仰ぎ見る獣達の視線を受け止める男。照明の壊れた廊下に蔓延る漆黒の中に煌く八対の瞳。恐らく自身が浮かべているであろう色を感じ薄く微笑み、しかし無言で進む男。
自身の分身とも言える闘争本能と破壊衝動の塊である狂獣達を引きつれ、男は前進する。
男と獣達の狂気を宿した呼気が粘ついた闇へと溶けていく。