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冬に入り始めた最近では珍しいうららかな陽気の下で佇みながら、彼は紫煙を燻らせていた。一面の枯れ始めた芝を駆け回る二人の子供と一匹の巨犬を眺めながら、口に咥えた紙煙草を指に挟み、ふぅと吐き出す。
――俺は何をしているのだろう。
あの何を考えているか分からない『お嬢様』に言いつけられたことなど、無視しても構わないだろうに。
何で此処に居るのだろうか。
「人の目の前で煙吐き出すの止めてって何回言ったかしら?」
紫煙で肺を満たしながらそんな事に思考を裂いていれば、凛とした女の声が鋭く刺してきた。
彼のすぐ隣、。葉のさざめく常緑樹に寄りかかるようにして佇む女が、化粧に彩られた魅力的な顔をしかめ、右手で扇ぎながら言ってくる。
「煙はそっち行ってねぇだろが。コイツが喰ってるんだから。これ、何回言ってるっけか?」
灰色のダッフルコートを羽織った女の方を向かずに咥えなおした煙草の煙の渦巻く空を、人差し指で指し示し返す。雲ひとつ無い空へと昇っていく煙は、唐突に中途でかき消える。
彼は右手を気だるげに掲げると、パチンと指を鳴らした。軽い音が昼時の公園に響く。次の瞬間、彼の周りを紫色の気体が覆う。すぅ、と空気が色づいたかのように現れた影。それは異形の生き物たちの一種、ガス状ポケモン――ゴースだった。三日月のように笑みの形に歪んだ口から、笑い声のような鳴き声を発しながらクルクルと彼の周りを漂う。
彼の言葉に、女は腕を組んでつまらなそうに小首をかしげ言い返す。
「届かなくても、なんだか不快なのよ。臭いが付きそうで。というか、いつ見ても悪趣味ね。おチビちゃんのウィンディの方が万倍良いわよ」
「だから臭いも行ってねぇだろ。……ってなんかもう不毛だ、悪趣味で結構。で、頼んどいたモンは?」
一方的に話の内容を変え、紫煙を纏いながら女へと問いかける彼。短くなった煙草をダークスーツのポケットから取り出した携帯灰皿で揉み消し仕舞う。悪趣味と言われたが、しかし慣れているため聞き流し、新しい煙草に火を点ける。
ゴースも彼の周りを漂いながら満面の笑みを浮かべたまま、その紫色の霧の一部を女へと伸ばし、楽しそうに眼前でゆらゆらと漂わせてみせる。
全く気にしていない様子の陽気な亡霊を眺めながら、彼は視線をずらして「早くしろ」と彼女を促す。
「全く。……ほら、お望みのモノよ。可能性のある業者が適当に書いてあるから。本命は一番上のやつね。他のは可能性が
零じゃないってだけだから期待はしないで」
長い溜息を一つ吐きながら、肩から提げた鞄から出した数枚の紙を彼の眼前に突き出す女。
受け取ろうと彼が手を伸ばすとそれを翻し、口元を隠すように持った女は目元しか見えない状態でにやりと笑ってこう言った。
「お礼は? それとお代は?」
「チッ。……ありがとうございます、たった一日での迅速な対応は情報屋の世界広しといえど『女郎蜘蛛』と名高い貴女以外には不可能でございます。料金はこの通り用意していますのであの糞生意気なお嬢様名義で領収書をお願いいたします。――これで満足か?」
「ええ、誠意を微塵も感じる事ができない見事な棒読みそのものだったので二割くらいは満足いたしました。お節介でしょうけど、言わせていただくなら雇い主に対する忠義をもう少し持った方が良いと思いますよ? 彼女は貴方の主人でしょう? ねえ、『
執事』?」
『女郎蜘蛛』。そう呼ばれた情報屋の女は、彼の棒読みの言葉にさらに平坦な言葉を返し微笑んだ。挑戦的で妖艶な笑みを孕んだ視線が彼を刺す。
――やり辛い奴。
そう思い舌打ちをしようとした刹那、女の上の樹の枝がざわめいた。
眉根を寄せて上を向く女。それに僅かに遅れ、身長が一六〇センチメートルほどである女の一メートルほど上部で重なる葉を掻き分けて現れたのは、ポンチョを纏った一〇歳程の少女と大蜘蛛だった。
「あ、ごめんなさい、ママ。おじさんもお話の途中にごめんなさい。この仔も一緒に遊ぼうと思って……」
ばつの悪そうに謝ってくる少女。もっとも、目元を覆うおかっぱ頭な為、表情は読み取れず声色での判断だが。少女の傍らに居る極彩色の大蜘蛛――アリアドスは全く感情の読み取れぬ無表情。
「あー、まぁ気にすんな嬢ちゃん。というかウチのチビはどうした? アイツには飽きたか?」
「え、いや、そ、そうじゃないです」
「オレがどうした? 『
執事』」
木の上であたふたする少女を眺めて、底意地の悪い笑みを浮かべていた彼にかけられたボーイソプラノ。足下で彼を見上げる一〇歳くらいの少年。
「ああ、居たのか『ノラ』。別に何でもないぞ。お前が嬢ちゃんに愛想を尽かされた、とかそんな感じかと思っただけだ」
「え、マジか!?」
「あぅ。だから違いますってぇ」
「あーもう、うちの娘をイジメるな中年。ほら、危ないから降りてきなさいな」
女は木の上の少女へとそう言うが、少女は地面を見下ろし動かない。
「はぁ。登ったのはいいけど降りられないってあんたは猫か。『ウェブ』、抱えて降り――」
「怖がらなくていいぞ! オレが受け止めてやるから!!」
『女郎蜘蛛』の発した、少女の傍らの大蜘蛛に少女を抱えて降りてくるようにとの指示を掻き消すように、声変わり前の少年の大声が。ニット帽を被った少年は犬歯を覗かせた笑みを浮かべながら両腕を少女の居る樹の上に向けて掲げる。
それを聞いた少女は意を決したのか、身体を宙に投げ出した。固く身体を硬直させて落ちてくる。自分で着地することを全く考えていない態勢だな、とそれを見て彼は思う。
「よッと。……どこも痛くないか?」
見事に少女を受け止めた少年は、腕の中の少女の顔を覗き込みながらそう訊く。コクン、と小さく頷く少女。それを見て少年は「よかった」と顔を綻ばせる。
「相変わらず力持ちねぇおチビちゃん。ホント、四〇過ぎてもだらしない男に育てられてるとは思えないほど
騎士ねぇ」
「十八で子供産んだ女に育てられたとは思えないほど嬢ちゃんも姫様だがな。うちの暴君みたいな『お嬢様』とは正反対の」
「何よ?」
「何だよ」
冷たい視線が交差する。睨み合う『執事』と『女郎蜘蛛』。『執事』の手持ちであるゴースは何事も無いようにニタニタとした笑いを未だに浮かべ、少女の手持ちであるアリアドスは自らの尻から出した糸で樹からぶら下がったまま無感情に微動だにしない。
それを眺めながら少女を未だ抱えた状態で不満そうに少年が言ってくる。
「チビって言うの止めてくんない?」
「あら、いいじゃない可愛いし。それにどうせそのうちに私もその中年も抜かしちゃうでしょ。『
執事』、一七〇無いし」
「そのうち俺を見下ろすようになんだから今は見下ろされてろ」
女と彼の言葉に「直ぐ抜いてやるッ」と呟く少年。それに「がんばってッ」と励ます少女。なんだかからかいたくもなる気がする。そう彼は思う。
少年の長ズボンの上に腰布のように巻いた大きな布が風にはためく。それを見ながら、そういえばコイツら二人と遊んでいたウィンディは何処に行ったのかという疑問が湧いた。
先程まで派手なオレンジ色の毛並みを揺らしながら走り回っていた巨犬。そのトレーナーである少年は此処に居る。ボールに戻したのだろうか。
「つか、『ノラ』。ウィンディは何処行った? ボールん中か?」
「ん? 『
麗火』? あそこに居るけど?」
抱えていた少女を降ろし、少年が指差した先へと視線を移すと少し離れた広場の真ん中で巨大な犬がお座りの姿勢でポツンと佇んでいた。どこか哀愁すら漂っている。
それを見て、いたたまれなくなる。こちらの視線に気がついて尻尾を千切れそうな程に振り始めるのを見ると更に。
――お前、そんな奴だったか?
「用事は終わったから行くぞ。なんか可哀想だから呼んでやれ」
彼の言葉に「りょーかい」と答え、親指と人差し指で輪を作りそれを口元に当てる少年。少しの間の後、ピィィという甲高い音が響く。
少年の指笛の音を聞いて、地面を抉る勢いで駆けてくるオレンジ色の巨犬――ウィンデイ。
「んじゃ、コレ、ありがとよ」
呼ばれて
しんそくの勢いで駆け戻ってきたウィンディに抱きかかえられて、顔を思い切り舐められている少年。それを視界の端に捉えながら、彼は『女郎蜘蛛』から受け取った書類をヒラヒラと揺らし軽い口調で礼を口にした。それとほぼ同時に腰のボールから閃光が奔り周りを漂っていた紫の霧が吸い込まれる。
言われた女は小さく溜息を吐きながら「ああ、そうだ」と呟いた。言葉が続く。
「さっきも言ったけど、リストの一番上のが最も可能性高いんだけど、そこ、『八色』が居るらしいから居る間は行かないのが吉よ。あんたが行ったら問答無用で殺しに来るだろうから」
「うげ、『怪物』かよ。何でそんなのが居んだよ」
「お金持ちの変態親父が好きそうな『翼の生えた女の子』を仕入れた業者が受け渡しが終わるまで雇ったらしいわよ。受け渡しは明朝早くらしいから、その後に行けば?」
女の言葉には「ふぅん。翼の生えた少女、ねぇ」と遠くに視線をやりながら呟く彼。その後に「あー、そうすっかな」と気の無い返事で答え、肩越しに手を振りながら止めていた大型バイクへと歩み寄る。それに跨り、ハンドルにぶら下げていたフルフェイスのヘルメットを手に取ると。
「どうでもいいけど、スーツにフルフェイスのヘルメットとライダーブーツって似合わないと思うんだけど」
「うるせー。ヘルメットは趣味だ。そんで革靴だとシフトチェンジで直ぐボロボロになんだよ。つかノラッ、いつまでじゃれてんだ! 行くぞ!」
巨大な犬に押し倒されるように顔を舐められている少年に向かい、叫ぶ。
「おうッ……ちょ、くすぐったいッ」
悪戦苦闘しながら、なんとかボールにウィンディを収めることに成功する少年。勢いをつけて起き上がる。そして女と少女に手を振りながら駆け寄って来る。ニット帽から覗く長めの黒髪が揺れる。
「ふぅ。
暑い。
執事、何か飲みたい」
蒸れるのか、被ったニット帽を脱ぎ、それで扇ぎ風を送る少年。その頭には三角形の獣の耳が存在していた。黒い毛並みの犬のものを思わせるそれ。普通、耳のあるべき場所には何も無い。
それを眺めながらグローブを嵌めた彼は面倒くさそうに言葉を紡ぐ。
「つか学校じゃ脱いでるとか言ってなかったかソレ。何で被ってんだよ」
「学校じゃ取ってるけどさ、知らない奴の視線が気になんだよ。犬耳で尻尾生えてるだけの人間がそんな珍しいのか? って思うくらいにジロジロジロジロと」
腰の布に隠された滑らかな黒い毛並みの尾を撫でるような仕草をする少年に、「ふぅん。ま、俺には関係ねぇからどうでもいいわ」と気の無い言葉と共に、ヘルメットを放り投げる彼。
異形の獣『グラエナ』の特徴を有した人間――本人曰く犬耳と尻尾が生えただけの人間――の少年は受け取ると、被りなおしたニット帽の上からそれを被り、バイクの後ろへと飛び乗った。
それを確認し、エンジンが唸り声を上げる。
「んじゃ、またなー!」
母子に大きく手を振る少年の頭を「ほれ、行くぞ。落ちたくなければ掴まれ」と言いながら軽く小突く。
「わーってるよ」と腰周りに子供の華奢な腕が回される感触。そしてバイクが動き出す。
母子の子の方が小さく手を振っているのと、左手の中指だけを立てて此方に向ける子の母である女が流れていく景色と共に後ろへと消えていった。それが妙に印象に残り、相変わらず下品な女だ。という感想が頭に浮かぶ。
風を切りながら、その風音に負けないよう声を張り上げ、彼は少年へと訊く。
「んで、何飲みたい?」
「えっと……トマトジュース!」
「……数ある飲み物ん中からその選択には脱帽するわ。あー、コンビニ見つけたら教えろや」
「あいよー。……あ、来る途中にスーパーなら見た気がする」
「んじゃあ、そこでいいか。どっちだ」
「あっち」
探し物の前にまずはトマトジュースか。わけわかんねぇ、とフルフェイスのヘルメットの中でニタリと笑いダークスーツの彼とニット帽を被った犬耳の少年を乗せた大型バイクは適当に進んでいく。
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「此処、どこ?」
日付の変わる頃。『女郎蜘蛛』のリストをひたすら回り、その全てで求める品物が無かったことに辟易しながら辿り着いたのは人通りなど皆無に近い深夜の倉庫群であった。情報によればその殆どが使われていないということだが。
まあ尤も、此処以外で目当てのものが手には入るという期待はそれほどしていなかったが。それでも一日中バイクで移動するのは堪える。
唸りをあげるバイクを止めると、後ろに乗った少年が訊いてきた。
エンジンを切り、ヘルメットを脱いだ彼はくぁ、と欠伸をしながら一瞥し、説明するのが面倒だと言わんばかりの気のない口調で話し始める。
「あー、此処なら『お嬢様』の希望の品があるだろ、って場所だな。出来ることならあんまり来たくなかったんだが」
朝食を摂っている最中、朝のニュースの特集で色違いのポケモンの紹介があったからといって、唐突に「色違いのイーブイが欲しい。
執事どうにかしろ」というのは頭がおかしいのではないかと真剣に考える。
イーブイ――異形の獣の一種であるが、見た目の愛らしさと人への馴れ易さから人気の高いポケモンである。形態の変化である進化の幅が広く、現在八種の進化形態が確認されている。ペットとしても、ポケモンバトルへの使用にも人気が高い反面、絶対数の少ないポケモンの中でも特に個体数が少なく希少価値の高い一種でもある。
そして、色違い。そう呼ばれる通常個体とは体色の異なる特殊個体。茶色の毛並みを持つイーブイの色違いは灰銀色、だっただろうか。いまいち曖昧な記憶を手繰る。
確かに、外見のみを見れば愛らしく美しい少女に同じく愛くるしい円らな瞳の愛玩動物、という組み合わせはどちらも最大限に魅せるだろう。
しかし一旦口を開けば有無を言わさぬ物言いと、彼を何とも思っていないような態度の少女である。車椅子に腰掛け、手に持った扇子を突きつけながら「よし。どうにかしろ『執事』」という一言はどのような精神力から発せられるのだろうか。
そもそも平時から“何かを壊すか殺す以外は何も出来ない”などと
曰う彼を使用人として雇っている時点でおかしいのだ。しかし事実として雇い入れていて、お構いなしに接してくる。
そう考えると、その出会いもおかしかったか。と思い至り、更に、どうにかしろと言われ、どうにかしようとしている自分もおかしいか。というそのような考えも浮かび、自嘲する。
「なら来なければいいじゃん。何か嫌な臭いするし此処」
彼がバイクを降りると、スンスンと鼻を鳴らして辺りを嗅ぎながら言う少年。「なんだこの臭い。ヘドロ?」などと呟く。グラエナの嗅覚を備えているため、ニオイには五月蝿い。
言い終えた後で、抱えた一リットルのペットボトルに五分の一程残っていたトマトジュースを飲み干す少年。
「ンな事言っても色違いのイーブイなんざ闇ルートでも滅多に出ないから、此処以外にゃ無えんだよ。リストも此処以外全滅だし。それにこの時間だと羽の生えた女の子が見れるらしいから冷やかしてくる」
「ふぅん。まぁ、死ぬなよ?」
バイクから降り、手に持った
紅白の球からウィンディを呼び出した少年が言ってくる。夜闇の中、ボールからの閃光に照らされた顔は驚くほどに真剣なもの。
一瞥した彼は何も答えず紙煙草に火を灯し、肩越しにゆらゆらと手を振って歩き出す。刹那、乗り手の居なくなったバイクが黒い闇に溶けるように霧散する。
それと同時、腰元から閃光。クスクスと忍び笑うような鳴き声を発する霧が彼を包んだ。そして空気に混ざり合うように霧の色が薄くなる。
「……おい、
執事!」
一瞬沈黙した少年は、彼に何かを投げつける。中々の重量と大きさのそれを見もせずに背中に手を回し捕る彼。
ずしりと重い手の中のそれを確認すると、
「あン? トマトジュース? 手前ぇ『ノラ』! だから一本にしとけって言っただろうが! 無駄に重えッ」
「飽きた! でも
執事が帰ってくる頃に飲みたくなるから絶対返せよ!」
「あー、りょーかい。んじゃ良い子で待ってろ」
真っ直ぐと指を指して一方的な宣言を放つ少年にそう返す。犬歯を剥き出して笑う少年を見て口元が綻ぶ。
歩を進めながら思う。殺す、という最悪手が最後ではなく最初に浮かぶ奴と一緒にいてよくああいった性格になったものだ、と。
紫煙を燻らせながら進む。
粘つくような夜闇の中、ダークスーツを着た彼の姿が溶けていく。
≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠≠
――さあ、『暴食の夜霧』がお相手しよう。