@@@
強者は何をしても良い。それが彼女の信条である。
彼女はガブリアスという竜種である自分の肉体と精神のどちらもが、頑強で強靭だということを自覚していたし、戦うという事への才も秀でていると確信もしている。事実として、同族であった兄達よりも何もかもが優れていたし、種族の異なる弟達などは彼女の足元にも及ばなかった。そんな愚兄と愚弟達を率いて戦った、それ以外の者などは比べる気にもならなかった。
そして。そんな彼女達を率いていた人間の雄は、肉体は熟れた果実を潰すように容易く壊す事が出来ただろうが、それを補って余りある精神力と彼女達を強くする術に長けていた。だから従っていた。彼は弱者ではなかった。
強大な力を持った竜種であるガブリアスである彼女と、『エリートトレーナー』等と呼ばれ優れた才覚を有した人間は弱者を蹂躙する強者の位置に立っていた。
何時の頃から他の
人間とそのポケモン達を襲うようになったのも、別に彼女としては何も思わなかった。己達は強いのだから。弱いものから何もかも奪うのが自然であり当然なのだから、何かを思うなんて不自然極まりない。
そのはずだった。
だから。
いつものように獲物を見繕っていたところに現れた、見るからに弱そうな
人間の雄とそれと共に居る異形達を強襲した時も、圧倒的な強者である己達が哀れなほどに弱い奴らを蹂躙する未来しか見えていなかった。
結果。彼女達は弱者と侮った者達によって完全に瓦解させられた。
一撃必殺にまで練り上げた連携。弟達の生み出す視界と体力を削り取る砂嵐を纏った突撃は、初撃ですら狙った三体の内の一体にしか直撃させられず、その後は何度攻撃を仕掛けても痛打を与える事は出来なかった。
そもそも、音を超える速度で肉薄する奇襲を回避する人間が居るとは彼女らは想定していない。彼女達はトレーナーのポケモンを奪うのが目的なので、トレーナーに用はない。だから先ずトレーナーを攻撃し行動不能にしてから、主人の指示等を失って狼狽する弱者を狩ってきた。野生のポケモンと、人間と共に居るポケモンと戦い方の違いは前者は己の知覚のみを頼りにするしかないが、後者は己以外に状況把握に専念出来てそれに指示を出せる者が居ると云うのが最大の強みだと彼女は考えている。
だが、人間は脆い。ならば初手で潰してしまえばいい。最近の彼女達はそうやってこの狩りを行ってきた。
よって、その強みを潰せない状況に焦り、そちらへの攻撃を集中させたら、その人間への彼女達の攻撃を凌ぎ切る化物達が居た。ヨノワールは大したことはなかったが、バシャーモとゲンガーの動きは明らかに練り上げられていた。だがしかし、そいつらの護るトレーナーは初撃で昏倒したユキメノコの治療に集中するばかりで何かを指示する気配すら見せない。なので戦力外と判断して明らかな驚異であったバシャーモへ攻撃を集中させたりしている内に、一瞬の合間に状況が一変した。
深手を負わせた筈のユキメノコが再起して、彼女達ガブリアス三兄妹には及ばないものの高い力量を持っていた弟達が巻き起こしていた砂嵐を、氷の世界に上書きしたのだ。
予想外の事態に、彼女達は動揺した。そしてその動揺から立ち直る間もなく兄達は死にかけた弱者である筈のユキメノコの氷撃によって絶命した。
この時点で、状況は彼女にとって最悪となっていた。ユキメノコが狂った様に笑いながら乱射する極低温の光線に、のたうつ大蛇のような軌道を描いて襲いくる吹雪、序(ついで)とでも云うかの様に投げつけてくる氷の礫による猛攻。
それらを寒さで鈍る躰でどうにか避け続けた彼女だったが、挙げ句の果てには明らかな重傷の筈なのにそうとは思えぬ速さで肉薄してきて両手に氷で獣の
顎を作り出し喰らいついて来るわ、鋭く尖った氷柱を脚の様に生やして回転しながら蹴りつけて来るわと常軌を逸した動きを見せるそれに最早恐怖すら覚えた。
弱者相手に怖気づいた。その事実を認めたくなくて、彼女は死力を尽くして抗った。だが、結局死に体の氷霊一体と相打つことくらいしか――それも自身があと一撃でも喰らえば死ぬだろう状態で倒れたそこへ、止めを刺そうとしたユキメノコがその前に力尽きたという体たらくだが――出来なかった。
そして。何時の間にか姿を消していたヨノワールが出来の悪い弟達の中ではマシな方だったバンギラスを、ピクリとも動かない状態で引き摺って来るのを彼女は霞んだ視界に捉えて「ああ、砂嵐が何時まで経っても吹かないわけですわね」と納得した。
直後。意識が暗転し、落ちていく彼女へと向けて、
「ああ、よかったこの仔は生きてる。直ぐにポケモンセンターに連れて行くからね」
と、今の今まで指示の一つも出していなかった人間の声が向けられる。直後に、躰がモンスターボールへと引き摺り込まれるよく知った感覚も襲ってくる。
嗚呼。わたくし達が襲った相手のポケモン達は異常なまでに強かった。それは認めよう。ほぼ失いかけた意識で彼女はそう思う。
だが。それを率いる
人間は、決して強くない。というか底辺だろう。只々、ポケモン達の後ろでその戦いを呆けて見ているだけの弱者中の弱者だ。そうも思う。
嗚呼けれど。
――そういえば。強者であるあの人間が彼方の後方に待機するようになったのは何時の頃からだったか。
まとまらない思考と生じた苛立ちはそのままに、彼女の意識は闇へと落ちた。
@@@
腹立たしい。そう彼女は思った。
ポケモンセンターと人間に呼ばれる建物の横にある、大きく開けた広場で彼女は己を冷たい瞳で見据える炎タイプのポケモンと相対している。同族と比べても大きな彼女の恵まれた体躯に及ばないが長身で、そして痩身に見える鳥人と。
自身よりも圧倒的に強いそのバシャーモの瞳を睨み返して、鈍い痛みを宿して軋む躰を臨戦態勢にして彼女は返す。拒否の言葉を。彼女を
降した奴らの要求を拒絶する。
「何度でも言います。絶対に嫌です。
あれはわたくしの“トレーナー”たり得ない」
「そうか」
「ぅごッ」
身長は彼女と比べ遥かに低く明らかに痩躯なはずのバシャーモの蹴りが、身構えていたにも関わらず当たり前の様に腹へと下方からめり込んで、彼女の恵体が軽々と宙へと浮かぶ。
更に。
真上へ蹴り上げられた彼女を追って超える高さまで跳躍するバシャーモ。その痩身が縦に回転し、長い脚が勢いよく彼女の脳天に振り下ろされる。
「ぐぎゃ」
頭蓋を砕く様な衝撃に、濁った音が口から漏れ出すが、それを気にする間もなく彼女は地面へと叩きつけられた。
「『姉ちゃん』……」
「あら、いい気味ね」
「だが、気概と頑丈さは凄いな。俺は
あんなに蹴られ続けたくない」
「本当に面白いねぇ。あの“トレーナー”の何が気に入らないのかねぇ。とても愉快でおかしくて最高じゃあないか」
「あれって二度蹴り?」
地面へと埋まるのではないかと思う程の勢いで蹴り落とされた彼女の、その無様な醜態を眺めて好き勝手言っているのは、『愚弟』バンギラスに忌々しい氷霊ユキメノコ、巨霊ヨノワール、霊竜ドラパルト、妖霊ミミッキュ。
とどのつまり、彼女達が返り討ちにあった者達とそれに降った顔見知り共である。
何か言い返してやろうと彼女は口を開くが、
「ぉ――」
言葉を発する前に胃の腑の中身が逆流してきた。地面に倒れたまま、びちゃびちゃと嘔吐している己の現状に、視界が潤む。
何故。何故このような目にあわなければならないのか。
――それは。わたくしが、わたくし達が、そしてわたくし達を率いていたあの人間の雄が負けたから。
何故。何故負けた?
――
畢竟、相手の方が強く、わたくし達が……否。わたくしが弱かったから。
彼女の信条は、強者は己の思うがままに振る舞える、である。そんなものを振り翳させるくらいには彼女は己の強さに確固たる自信をもっているが、しかし自身を蹴散らした相手の強さを認める程度の潔さは持っている。故に、バシャーモとゲンガーのその強さと言動を認めないという事はその信条に反している。
だから。別にその二体が己の事を下に置くことは構わない。いつか必ず殺してみせるから。その二体の異形が強いのだとしても、己も決して弱者などではないのだから、唯々諾々と従うつもりも毛頭ない。
だから。別にその影霊の取り巻きの低級霊共が生意気を言ってきても受け流せる。だって己よりも弱いから。
しかし――
「ああ、『ちゃちゃ』。何度でも言うけど、やりすぎ。『りり』は病み上がりなんだからもう少し優しく説得しよう?」
蹴り上げて蹴り落とした彼女を見下ろす雌のバシャーモへそう言いながら、「『りり』大丈夫かい?」と伏した彼女へと布きれを持った手を伸ばしてくる人の雄。勝手に付けたセンスの欠片も無い名で呼んでくる、頼りなさを体現したかのようなこの
人間の下に身を置くなんてことは、彼女が納得出来る筈がない。そんな事は我慢がならない。腹立たしい。苛立たしい。
だから。
「いや、しかしな」なんて、人には何を言っているか通じぬだろうに返すバシャーモの声に人間の視線が向いた瞬間に、彼女は跳ね起きてその胴を腕に生えた自慢の羽の斬撃によってその肉体を両断した。
そう彼女が確信する程に荒々しくも鋭い一閃が奔る。
「おっと」
しかしそれを人の雄は、緊張感の欠片も無い声と共に何事もなかったかのように容易く躱した。
「――ッ?!」
驚愕と困惑が彼女の思考を占める。しかしそれも刹那にも満たない僅かな間。瞬時にもう片方の腕を振るう二撃目を――
「ケケケッ。それは悪手だわ『ゲロ蜥蜴』。その間合いで。そのタイミングで。“もう一回”は無ぇ」
放とうと構えた瞬間。人の雄の後ろで浮かんで、赤く熟れたマトマの果実に齧りつきながら大きな口をグニャリと歪めて笑うゲンガーの声が何故かはっきりと聞き取れた。
次の瞬間。間延びしていた体感時間が元に戻る。
「ぅ、ご?!」
そして凄まじい衝撃が彼女を襲った。そのまま横合いに向かって竜種である彼女の巨躯が素っ飛んでいく。
「ああ、だからそんなにいじめないでって『ちゃちゃ』。心配してくれるのは嬉しいけど
あれくらいなら僕は平気だから」
砂煙を上げながら地面を転がる彼女はそれを聞いて、ようやくバシャーモに蹴り飛ばされたのだと理解する。
酷く、己の
矜持を傷つけられた気がするが、それよりも全身に走るの痛みの方が甚大で、彼女の意識は駆け寄ってきた人間の雄の足音と「わあ、大丈夫かい? 『りり』」という声を聞きながら暗転した。
@@@
同日。再度、ポケモンセンター横の広場。
「大丈夫かよ『姉ちゃん』」
「大丈夫に見えているなら、その両眼は必要ありませんわね」
異形達を率いることへの才能もなく、頼りなさを人間の形にしたかのような『カズヤ』と呼ばれる人の雄に従うことを拒否し続けて、その腹心であるバシャーモに襤褸の様に叩きのめされた彼女が治療から戻ってくると、“エリートトレーナー”に率いられていた“彼女達”の唯一の生き残りである
義弟がそう声をかけてくる。
傷自体は治っているが全身がバラバラになりそうに痛むに決まっている。なので殺意すら込めて彼女はそう返す。
そして、早々に弱い人間へと降った愚弟の言葉に嘆息しながら、「抉り出して食べてしまおうかしら」と付け加える。
困った様に黙り込んで弱々しく唸る巨体の怪獣。それよりも更に
巨きい躯をその隣に浮かべてじっとりとした目つきでニタニタと笑っている、彼女と同じく竜種である
霊竜が、
「『ゆぅゆぅ』が手伝ってくれるってさ『
りり』?」
「ぶち殺すぞ『駄竜』」
発した軽口に牙を剥いて返す。
人間の底辺であるあの
雄が勝手に付けた呼び名なんて反吐が出る。
「うん、いいよ。シャドークローとウッドハンマーどっちで抉り出す?」
「あーうん。勘弁して……?」
気の弱い者ならばそれだけで卒倒しかねない、苛立って殺気立っている
竜種の事など素知らぬ様子で快諾する
襤褸布を被った
異形。そして自身の頭の上に乗ったそれの物騒な二択に困った様に返す
愚弟。
「おお、怖い怖い。手伝わなくていいってさ『ゆぅゆぅ』。余計なことをしたら食い千切られちまうよ」
宙を転がりながらケラケラと笑い言う
霊竜に、彼女は大きく息を吐いて返事の代わりとする。
「……。貴女達はあの
人間に降って思うところは無くって? そちらのもまあ悪くない
人間だったと思うのですけれど」
彼女達を率いていたのとは比べるとまだ若く粗削りではあった。しかし今、少し離れた所で何やら火にかけた鍋の中身をかき混ぜている底辺とは、比べる気にもならない才は有していたと思う。
「あん? ああ、
あれは大好きだったよ。才能に恵まれ、
ポケモン達に好かれる良い奴だった。そして、
あたし程度の力を過信して雑魚を蹴散らして踏みつけて優越感に浸って、全能感に満ち満ちた状態から挫折して道を踏み外した愛しき馬鹿だ。そんな愚かしくて滑稽な玩具、愛さないわけにはいかないだろう? ――でも」
「好きだった。みんな優しかった。――でも」
その手持ちだった二体は各々勝手に返してくる。こいつらが他者が話し終わるのを待つなんて殊勝な事が出来る筈が無いことは理解しているので、彼女は適当に半分位の理解で済ませる事にしている。
「壊れちまったからね」
「みんな居なくなった」
「新しい
あっちを愛でるよ」「だから構ってくれる方に居る」なんて片方はケラケラと笑いながら、もう一方は感情の読み取れない調子でそう結んだ。
「うへえ……」
それを聞いていた
愚弟が声を漏らす。
「『愚弟』。貴方はどう思っていまして?」
「え? あー。どうもこうも俺達全員ボロ負けしたわけじゃん? そんでもって
あいつら相手に生きてるだけでも儲けもんかなーって」
巨躯の怪獣の視線の先には、火にかけた鍋の中身を混ぜる人間とその傍らで何やら食器を用意する
化物に、その周囲に各々座って自由に寛ぐ悪霊共。事あるごとに、寧ろ何も無くとも『カズヤ』と呼ばれる人間とバシャーモを殺しにかかっている三体の悪霊共と、それを涼しい顔をして回避する人間と返り討ちにするその相棒という組み合わせで何をしているといえば、
夕餉の準備である。
意味がわからない。理解ができない。何故あの悪霊達は、本気で殺しにかかってボコボコに返り討ちにされた直後に調理を急かすような言動が出来るのか。何故あの人間は、殺意を向けて襲ってきた奴らに笑みを向けて相手をしつつそいつらの食事の用意が出来るのか。
「なんか、あの人間の下に居ないと殺されるらしいし、どっちを選んでもそう変わらないなら、俺は生きて飯が喰える方を選ぶよ『姉ちゃん』」
「“ポケモンバトル”の腕は
糞より無いし、なんか知らんゴースのシャドーボールの為にあいつらのシャドーボールの的にさせられるわでわけわからんけども、まあ美味いもんは喰わせてくれるしな」なんてシシシと笑い、意外と図太い神経をした義理の弟はそう付け加える。
「『よあそび』ちゃんと『紅蓮華』ちゃん。また遊ぶ」
「えー、また的にさせられそうだから会いたくねえ」
己以外の顔見知り達の見解を聞き終えて、彼女は長く息を吐く。
そこに。
「それで、あんたはどう思ってるんだい?」
じっとりとした目つきで、愉しそうに嘲る様な調子で彼女の顔を覗き込みながら今度はドラパルトが訊いてくる。
「わたくしは――」
彼女が答える前に。
「『ばん』『ゆぅゆぅ』『りり』『らら』ー。 ご飯出来たよー」
己に対してのどんな会話がされていたかなんて露知らずの
底辺が、勝手に付けたセンスの欠片も感じられない名で呼んできた。
すると。
「『ばん』、ご飯」
「へいへい。行きますかねー」
頭の上に乗せたミミッキュに、電気鼠の尾に似た木の棒でペチペチと叩かれ急かされた
義弟がのそりとそちらに向かって動き出し、
「今日の飯はどんなかねぇ」
質問してきたドラパルトさえもくるりと宙を一回転して飛んでいってしまう。
「――ただ後ろに居るだけの
雑魚なんて、喰い殺して血肉にした方がマシですわ」
誰も聞いていない言葉を独り言ちる
彼女。そのまま、視線の先で食事の盛られた食器を
異形達に渡している人間へと心からの嫌悪と軽蔑を込めて睨みつける。
「『りり』? どうしたの、早く来て食べよう」
彼女の憎悪すら籠もった視線を受けても、何もわかっていない様子で笑みを浮かべて彼女を呼ぶ人間の雄。
「食わないのか?」
「クケケッ。こいつらの糞でも喰って『クソ蜥蜴』にでもなるのか? なあ『ゲロ蜥蜴』」
「『
兄様』、とっても下品。止めて」
「早く来い。食事が始まらん。俺は早く食べ始めたい」
「『りり』、ご飯食べよ」
「まあ『姉ちゃん』、思うところはあっても飯は食おうぜ」
「しかしまぁたカレーかい。まあ美味いから文句はないけどさ」
続いて、彼女以外の異形達も皿を手に、各々勝手な事を言っている。
まあ確かに意地を張っても仕方ない。愚弟の図々しさを少しは見習うべきなのかもしれない。
そう思い直して、不承不承、自分の分を受け取りに人の雄の目の前に立つ彼女。
見上げる高さの竜種である彼女に相変わらず怯む様子も無く、「さあ、どうぞ」とカレーライスの盛られた皿が渡される。それを彼女は、ふんと鼻だけ鳴らして受け取って、全員から離れた場所にどすんと座る。
そして、食べ始めた他の者達を睨みつけながら、彼女も食べ始める。
癪だが美味い。
しかし。
「……騒がしいですわね」
こんなにも騒々しいと落ち着いて食べられない。
@@@
「おなかいっぱい」
「なー。カレーの頻度おかしいけどなんだかんだ具とか違うし美味いから贅沢は言わないわ」
「口ではなく手を動かせ」
「洗い物大変だし寒いのに手伝ってくれて『ちゃちゃ』も『ゆぅゆぅ』も『ばん』もありがとうね。『ちゃちゃ』はお湯にしてくれてるのも毎回ありがとう。ああ、『りり』もお皿持ってきてくれてありがとう。美味しかった?」
「俺がやると全部砕け散るから『ゆぅゆぅ』任せた」
「任された。じゃあ『ばん』は綺麗になったの持ってて」
「あいよ」
食後。食事を摂ったポケモンセンター周辺の野営用エリアの端に建てられた洗い場に彼女は居た。食べ終わるのが最後になった彼女に先に食べ終えた人の雄が、「食べ終えたら食器を持ってきてほしい」と言ってきたので気に入らないが食事を提供された手前仕方ないかと空になった皿を持っていくと、義弟の頭上に乗ったミミッキュが足元から触手を伸ばして泡と水を撒き散らしながら食器類を洗っているのが目に入る。
「あの屑共とは違うな。助かる」
「ぼく、偉い」
隣で、飛んでくる水飛沫でずぶ濡れになりながら寸胴鍋を洗うバシャーモがそう言うと、
「もうちょい水量を手加減してくれるともっと偉いんですがね……。つーか、その屑共、あの気持ち悪い
雌以外あんたが半殺しにしてるんで無理な話では?」
バシャーモに負けず劣らずにずぶ濡れのバンギラスが両手に洗い終えた皿を乗せながら、溜め息混じりにそう返す。
食事を終えた三体の悪霊達は、人の雄と
怨敵が食事を終えた瞬間に襲いかかり、そして叩きのめされた。今は設営されたテントの周りで瀕死で放置されている。彼女が此処に来る際に見た時にはリーダー格のゲンガーは既に目を覚まし、ケラケラと嘲笑うドラパルトを不機嫌そうにあしらいながら子分共の様子を見ていたが。
「そもそも襲って来なければいい」
「あー、うん……そうっすね」
「ああ、こっちは手が足りてるから『りり』はテントの方へ戻って大丈夫だよ。『がが』達の様子見ておいてくれると嬉しいけど……ボールに入っていたかったら遠慮しないでいいからね」
他の者達と同じくずぶ濡れで洗い物をしていた
人の雄が言ってくる。弱々しい。頼りない。覇気も無い。正直生気も感じない。そんな人間が、笑みを浮かべて言ってくる。こんな奴に従う奴らに自分は負けたのか。そんな思いと、彼女とは違い既に割り切った様子の義弟達への苛立ちが沸騰し、牙が軋む程に食いしばる。
そして彼女は無言で踵を返す。荒々しく太く強靭な尾で地面を叩きつけながら戻っていく背に、
「『姉ちゃん』……」
という愚弟の声と、
「ゆっくり休んでてね『りり』」
という人間の声がかけられる。勿論彼女は反応しない。
「――さて、じゃあ借りた寸胴鍋を返しに行こうか。その後は、ああ、乾かさないとね。皆、風邪ひいちゃう」
少しの間をおいて、人の雄がそう言ってそれに続く足音が彼女とは別方向、鍋を借りたらしいポケモンセンターへの方へと遠ざかっていく。
「『ちゃちゃ』、後で乾燥もよろしくね」
「わかった」
「お鍋、買わないの?」
「ポケモンセンターで借りられたりするから、あまり嵩張るものを増やす気は無いんだが……『ばん』に背負わせれば大丈夫か? 一気に増えたからな。勝手がわからん」
「荷物持ち確定させないでくれます? ……そもそも考えなしに“パーティ”のメンバー増やして全員連れ歩くとか何考えてるんすかこの『トレーナー』。偶に今日みたいにポケセンとかに泊まらないで、俺ら外に出しっぱで野宿するし」
「でもいっぱい。賑やか。楽しい」
「ふふ。『カズヤ』も『ゆぅゆぅ』と似たようなものだよ。ずっと私だけだったからな」
「
『ゆぅゆぅ』はまあ置いとくとして、あの悪霊連中相手にして楽しいとか俺には理解出来ませんわ」
「奇遇だな。私もだ」
「ああ、風邪と云えば
竜種って寒さに弱いんだっけ? 『りり』も『らら』も入れるようなテント、買った方が良いかなぁ?」
「要らん。勿体ない」
「いや、大体の生き物は寒いのキツいんで。ボール入れないで外で寝るならどうにかしてくれません?」
「要らん」
「ひでえ」
ずぶ濡れの一行が何やら話しているが、彼女には関係ない。
@@@
ポケモンセンター横の野営用エリアに建てられた、人の雄とバシャーモが入れば満員の小型のテントの周辺に、彼女達は各々陣取って眠りについていた。
彼女の苛立ちが垂れ流されたかの様に真っ黒な空の真夜中に、彼女は偶然目を覚ました。隣で眠る義弟はぐうぐうと寝息を立てている。それを見て軽く鼻から息を吐いて、再度眠りにつこうと目を瞑る。
「おう、『クソ鳥』。
面貸せ」
「構わんが……」
微睡みかけていた彼女の耳が、ゲンガーとバシャーモの声を捉えた。だが、別に興味は無い。
「『カズヤ』ならあたしが守っといてやるよ。なんなら添い寝しててやってもいい」
そのまま目を閉じていると、ねっとりとした声色でドラパルトが加わったのがわかった。
「止めろテントが壊れる。……お前なら『ゆき』と『よの』相手でも平気か。頼む」
「あいよ。草木も眠る丑三つ時の逢い引きをごゆっくり」
「ぶち殺すぞ気色悪い」
「寒気がする」
クツクツと嗤う霊竜に他の二体は嫌悪を顕にして返し、そして「こっちだ」と言う影霊の先導で何処かへ向かって行ったらしい。
バシャーモの足音が遠ざかっていく。それを聴覚だけで認識しながら、特に興味ないのでそのまま彼女は意識を微睡みの中に溶かして――
「『りり』。『ちゃちゃ』と『がが』は何しに行った?」
――しまおうとしたのを妨げる耳障りな高い声。目を開けなくてもわかる。電気鼠を模した襤褸布を纏った妖しい霊であるミミッキュが話しかけてきた。
隣で爆睡中の『愚弟』や影霊の弟妹分達など訊ねる相手は他にいくらでも居るだろうに、この小さな異形は何故わたくしに訊いてくるのか。そう思って、そのまま眼を開けずにやり過ごそうと彼女は考える。
しかし。
「ぼく、わかる。『りり』起きてる」
ぺしぺしと、
電気鼠の尾を模した棒きれで頭を叩かれる。その程度、彼女には羽虫が止まった程度の事であるし、ミミッキュも本気で殴りつけているわけではないので勿論全く痛くはない。
だが。
「ああ、もう。なんですって?」
そう何度も何度も小突かれれば痛みは無いが鬱陶しい。仕方がないので彼女は片眼を開けて渋々小さな妖霊の相手をする。
「『ちゃちゃ』と『がが』は何処に行った?」
「わたくしが知るわけないでしょう。そんなに気になるのなら、後を追えばよろしいのではなくて?」
そう冷たく返して、話を打ち切ろうするが、
「なるほど。じゃあ行こう『りり』」
何かに納得したらしいミミッキュがするりと彼女の頭に乗ってきて、感情の起伏が読み取れない幼い声でそう言ってくる。
「どうしてそうなりますの?!」
「独りは寂しい」
ぺしぺしと木の棒で頭を叩かれながら、嗚呼そう云えばこいつはそういう気質だったなと思い出す。以前の人間の下でも、その人間やピカチュウにタイレーツ、ドラメシヤに果てはあのドラパルトにもべったりくっついて歩いていた。
「ヨノワールとユキメノコの方が適任でしょうに」
「『よの』も『ゆき』も寝てる」
「わたくしも寝ていたのですけど?」
「『りり』は起きてた」
嗚呼、これ以上のやり取りは不毛なのだな。隣で暢気に熟睡している『愚弟』を叩き起こして身代わりにでもしてやろうかとも思った彼女だが、しかし結局自分もついて来いという話になるのだろうなと考えて諦める。
「……ああもう。わたくしはあいつらが何方に行ったか知りませんから、道案内は貴女に任せますわよ」
「おっけー。気配を追う。あっち」
溜め息を一つ吐いて、彼女は立ち上がり頭上の小さな異形が指す方向へ歩いていく。
「あら。お出かけかしら。行ってらっしゃい」
「『兄者』達ならあっちだぞ」
数歩、歩みを進めた所でクスクスクツクツ笑いながら彼女達に声がかけられる。
妖霊曰く寝ていた筈の、
氷霊と
巨霊のニヤついた声色に、
「死ね」
「あれ、起きてた」
彼女は短く殺意で返して歩みを止めずに進んでいく。相手をするのが面倒くさいので押し付けられたな、という事も理解しているが、それを追求するのも不毛で不快なやり取りになりそうなので鼻から息を長く吐いてそれ以外は無視をする。
「おや、寒い中に子守をご苦労さん」
と心に決めた直後、先の二体とは違うねっとりとした声色で
霊竜にもそんな事を言われ、
「――ッ」
彼女は思わず尾で地面を打ち付けた。大地を揺らす様な重い音が闇夜に響く。
「おや、怖い怖い。幼子に悪影響だねぇ」
「弱い上に短気だなんて嫌ねえ」
「変な奴に襲いかかって返り討ちになるんじゃないぞ」
冷気が強い宵闇にゲラゲラ下品な哄笑が響いているが今度こそ完全に無視をして、彼女は歩いていく。
@@@
「多分、この中」
「こんな廃墟の中ですか?」
真夜中に何やら何処かへ行ったバシャーモとゲンガーを追って、頭に乗ったミミッキュが言う方向へ人里から離れた方向に歩き続け終いには鬱蒼と茂る森の中を歩く羽目になった彼女は、眼前の建造物を眺めて思わずそう返した。大部分を木々に侵食された人工物の成れの果てであるそれは、そこそこに大きな建造物ではあるが、人の手を離れて久しいようで外壁は至るところが剥げ落ちていて、大部分を蔦等の植物が覆ってさえいる。天井部分も一部が崩れ落ちているこれは、
「これは……バトル会場?」
「
エリートトレーナーじゃなくて、
ホープトレーナーが出てたくらい? あと、周りにいっぱい知らないのが引っくり返ってるから多分『ちゃちゃ』と『がが』は居る」
頭の上の妖霊の言葉の通り、少し視線を巡らせればこの廃墟を根城にしていたらしい野生の異形達が大量に地面に転がっている。見た限り、死んでいる者は見当たらないが白目を剥いて口から泡を噴いて痙攣しているので大差はない。
何があったかなんて興味も無いし、それを語れる者も見当たらないのでわかるわけが無いが、どうせあの害悪の化身の様な悪霊が襲ったか返り討ちにしたかして、バシャーモに「殺すな」とでも言われて止めは刺さずに毒々を食らわせて終わらせた、辺りが妥当だろう。
幾重にも重なり合ったか細い呻き声と、大量の吐瀉物の酸い臭気に彼女は顔を顰めながら、
「毒気が霧散してるかもしれませんから気をつけなさい」
頭の上のミミッキュに忠告する。
「わかった。『りり』は大丈夫?」
「この程度の毒、わたくしには効きませんわ」
そして恐らくは、この毒が効く程度の者は死なないが死ぬよりも苦しむ、そんな調整がされているような気がする。その証左に足下を転がる雑魚共は成体から幼体まで尽くが毒に侵されているが、ただの一体も死んではいない。
この様子を鑑みるに梃子摺る事などなかったのだろう。
雑魚とは云えこの量を相手に大きな口を三日月の様に歪めて嘲笑いながら蹴散らすゲンガーの姿が、実際に見ていないにも関わらず思い描けるし、その隣で殺していないからそれで良しとするバシャーモが感情の読み取れない顔をしているのも容易に想像出来る。
「それにしても、この雑魚共、妙に多いですわね?」
廃墟の中、通路を進みながら思わずそう口にしていた。最初に比べれば大分減ってはいたが、それでも床に転がっている者は時折現れる。総てが同じ種というわけではなく、様々な種が転がって泡を噴いている。
「此処、広いし暑くも寒くもないから。多分いっぱい住んでる。雨も雪も大丈夫」
「嗚呼、なるほど。貴女は元々野生でしたものね。解説ありがとうございます」
「
シンオウじゃなくてもこういう所が無い仔は大変」
野生にいた事のない彼女には関係の無い事だし、その程度で困るような雑魚は勝手に死ねば良いとさえ思うが、そんなにも多様な野生の異形達が住み着く程に人間たちが寄り付かないこの廃墟に、あの二体は何の用なのか。という事には未だに彼女にはあまり興味はわかない。しかし、吐瀉物を踏み歩いてその臭気にあてられた文句くらいは言わないと気が済まない。
不快な感触と臭いに苛つきながら、彼女達はこの廃墟の中心へ向けて進んでいく。
@@@
そうして、彼女達は廃墟の中心部まで辿り着いた。崩れた天井から注ぐ真っ黒い雲の切れ間に見え隠れする月光に照らされて、忌々しい二体の異形が開けた空間に佇んでいる。そして、二対の視線はやってきた彼女達へと向いていた。
「遅えぞ『チビ』、『ゲロ蜥蜴』」
荒れ果てはいるが、それでも辛うじてバトルフィールドだった残滓を残した空間に
影霊の不快な声が響く。
「そもそも別に呼ばれていなくてよ。わたくしは『おチビさん』の我儘で仕方なく此処に居るのです」
「ぼく達、迷ってないから遅くない」
それに対し各々言い返し、
「というか、道中、不快な物を踏んでしまったので貴方のその長い舌で舐め取って綺麗にしていただけます?」
と更に彼女は続ける。
「ああ? いいぜお前の
細い首刈り取ってその血で念入りに洗ってやるよ」
そう言いながらゲンガーは両手から鋭利な獣爪を影で形作って、彼女の方へと宙を滑るように――
「喧嘩するのは構わんが、用が無いなら私は帰るぞ」
飛びかかろうとしている最中、その隣に立つバシャーモが感情の薄い、今起きている事象に興味もなさそうな声でそう言って踵を返して歩きだした。
「――っと。ああ待てや『クソ鳥』」
「要件も告げずに連れてきて、“「丁度いいのが来るから待ってろ」”と待たされた上に、その来た相手と喧嘩を始めれば誰だって帰る。……それで、要件は」
振り返り、冷たい瞳でゲンガーを見据えてバシャーモが言う。その視線をニタリと受け止めて悪霊は口を開く。
「ポケモンバトルだ」
「む?」
「は?」
「ん?」
思わぬ単語が思わぬ奴の口から出てきて、彼女を含めた全員が思わず疑問符を浮かべる。それを意に介さずに悪霊は続ける。
「思い返せば
一対一で手前ぇと
戦ってねえ」
「子分共が沈んだ後に残ったお前を何度も叩きのめした筈だが?」
「遊びは数えるな」
「刺す様な殺気と目に見える様な殺意だったが」
「殺そうとしてんだから、んなもん当たり前だろう」
ニタニタと笑みながら喋るゲンガーと、それに対し無感情に返すバシャーモの会話を聞いていて少し頭が痛くなる。そして、完全に彼女を除いて話がされている事に頭にくる。
「ふむ。……別にバトルをする事は構わんが、『りり』と『ゆぅゆぅ』を待ったのには何の関係が?」
怒りのままに何か言ってやろうと彼女が口を開こうとしたその前に、バシャーモがそう言って彼女とその頭上に乗っているミミッキュ、そしてゲンガーへと視線を巡らせた。
「そ、そうでしてよ! 勝手に巻き込まないでくださいまし!?」
意図せぬタイミングで会話に組み込まれたが、しかし押し黙ってやるつもりもない。彼女は太く靭やかな尾を地面に打ち付けて不機嫌さを隠さぬ咆哮染みた声で拒絶する。害悪霊の思惑が何であろうと、彼女がそれに付き合う道理は無い。
しかし、ゲンガーは強大な竜種である彼女の咆哮に煩わしそうに顔を顰める程度の反応と共に、
「
五月蝿ぇ
囀るな。手前ぇらはあれだ。審判やれ。“ポケモンバトル”には必要だろう?」
そんな事を
宣った。
「ああ、なるほど。では『りり』『ゆぅゆぅ』頼む」
バシャーモはバシャーモで何事もなかったように勝手に得心して、彼女達へと視線を向けて一方的に言った後、バトルフィールドの残骸の片側へ向かって歩き出す。
「頼まれた。頑張る。……『がが』バトルのルール、平気?」
「ああ?
相手が動かなくなったら勝ちだろ」
「大体合ってる。じゃあ『りり』審判頑張ろ」
妙にやる気になっている妖霊が頭の上から木っ端でペシペシと叩いてきて、彼女はフィールドの中央へと促される。誰も彼もが話を聞かない事を理解して、溜め息を一つ吐いて不承不承、審判の真似事をしてやることにした。
「まったく……お二方、準備はよろしくて?」
彼女とミミッキュから見てバトルフィールドだった広場で左右に距離をとって佇む、二体の異形。
白赤黄の羽毛と火炎を纏う長身痩躯の鳥人バシャーモが、
「ああ」
と、短く返してくる。
一方、ずんぐりと丸い躰を宙に浮かべて大きな口を三日月の様に歪めた影霊ゲンガーが周囲を見渡し、僅かに考えた素振りを見せて、
「……ああ、ちょっと待て。おい『チビ』、此処囲う感じで灯りを灯せ」
と返してくる。
「灯り?」
「
手前ぇも亡霊の端くれなら使えんだろ」
と、掌を上に向けて火球を浮かべるゲンガー。おどろおどろしく揺らめく紫色の炎――鬼火か。と彼女は得心する。
分厚い雲の切れ間から月光や星明かりが崩れた天井から照らしているがそれでも此処は暗い。戦うのが火炎を操るバシャーモと、影を支配する邪悪霊なのであまり関係ない気もするが、ポケモンバトルをすると言い出した後者はあくまで場を整えるつもりらしい。
「ああ、鬼火。うん、出来る」
彼女の頭の上で、むんッと軽く力むミミッキュ。次の瞬間、バトルフィールドの全周を等間隔に囲う形で青白くゆらゆらと揺らめく数多の鬼火が放たれる。
「おう、これで暗くて見えませんでしたってのはねえな。おら、とっとと始めろ」
「……あんなに出して貴女、大丈夫でして?」
「ちょっとつらい。でも動かなければ、維持は出来る。さあバトルやる」
張り切っている亡霊共の声を受けてやれやれと呆れながら軽く頷く彼女。そして、開始の合図を発そうと口を開きかけるが、
「……ああ、はいはい。どうぞ貴女が言いなさい」
頭の上の襤褸を纏った小さな異形がソワソワとしていることに気がついて、溜め息混じりでそう言ってやる。
「うん! それじゃあ、バトル――」
「――開始!!」という甲高い声が月明かりと鬼火による照明に照らされた廃墟に響いた。
直後。
バシャーモが動く。躊躇や容赦等の欠片も見せずに、地面に擦れるくらいの低姿勢でゲンガーへ向かって驀進。
瞬く間。後塵と化した両の手首から弾けた火の粉が掻き消える前に、ニタリとした笑みを浮かべて浮かぶ影霊へと肉薄する。
真正面から勢いよく迫るバシャーモを見据えて、笑みを崩さないゲンガーの背後には数百の影色の光球が既に展開を終えている。
だから、彼女はここからは距離を取って戦うであろうゲンガーと、それを凌いで距離を詰めるバシャーモという絵を描く。そして初動で既に至近にまで肉薄したバシャーモが有利だな、とも考える。直ぐに影霊は叩きのめされて終わるだろう。そう冷めた感想を抱く彼女。
しかし。
「は?」
思い描いた情景とは違う光景が目の前で繰り広げられ、
呆けた声が出た。
「キヒャハハッ!」
当然、退くものと思っていたゲンガーが強襲するバシャーモを真正面から迎え撃ったのである。それも拳で。
双方の拳が劫火を纏って打ち出される。膂力の差で押し負けたゲンガーの躰がそのままぐるんと勢い良く回転。その反動で前へ出るもう片方の手には影色の獣爪。
そのシャドークローによる斬撃を、下方から鋭く蹴り上げるバシャーモ。
「あれ何?」
「燕返し」
今度は縦方向に躰が回るゲンガー。そして、下方から現れる逆の手は固く握られていて赫灼の劫火を纏っていた。
「ギャハハハッ」
「――ッ」
耳障りな哄笑と共に叩き込まれる炎拳を、バシャーモは既の所で防御する。腕一本で受け止めて、その勢いに押されて後退。
「死ねや」
そこに、空中に展開したまま留め置かれていた影球の弾雨が降り注ぐ。
避ける時間も空間も無い
驟雨の如き掃射が迫るバシャーモだが、そんな状況でも視線が宙に浮かんで嘲笑う影霊から外れない。
次瞬。瞬く間も無い刹那の内にバシャーモの全身が劫火に包まれた。そして、その身が深く地面へと向かって沈み込んで、地面が爆ぜた。
降り注ぐ影球の群を、纏う炎で相殺し僅かに出来た隙間を駆け抜ける、という力任せの無理矢理で突破したバシャーモは、
「この程度では死ねないな」
ゲンガーの眼前へと再度肉薄し、場に吹き荒れる熱とは裏腹に冷たい声と共にニトロチャージによる勢いを乗せた炎拳でその顔面を殴りつける。
「ッガ――」
形容し難い声を漏らしながら殴り飛ばされるゲンガー。後方へと素っ飛ばされるその最中にもシャドーボールを数十撃ち放つ。だが着弾したのはバシャーモ、ではなくその前方の地面一面。
それを見て、照準が狂ったか? と彼女は思ったが、違った。
ゲンガーを追撃しようとしていたバシャーモが後ろに飛び退いたのを見て理解する。尋常でない脚力の化物ではあるが、流石に一足跳びでは無理な距離である。だから追ってくるであろうバシャーモが着地しそうな足場一面をそこに足を着くであろうタイミングで爆砕した。
先程の様にニトロチャージでの突撃をされても、態勢を整えられる程度の時間を稼ぐ遅延狙い。
「存外、器用ですのね」
「なんで『ちゃちゃ』は距離詰めなかった?」
頭の上のミミッキュの疑問は直ぐに解決した。
ゲンガーが態勢を立て直す前に、飛び退いたバシャーモが嘴を開く。直後、竜種である彼女の強靭な表皮でさえ、じ、と焦げ付く熱風が場内を吹き付けた。
「わ。きゃッ」
頭上で、柄にもなく妖霊の慌てた声と、何かが燃える臭いがする。
「はあ」
纏っていた、電気鼠を模した襤褸が燃えたらしい。溜め息を一つ吐いて彼女は片翼を自分の頭の上へ向ける。翼の爪先から、極限まで弱めた渦巻く水塊を生成。狙い通りにばしゃ、と頭上のミミッキュに当たったようで、少なくない水が滴ってくる。だがそれよりも。
「ありがと」
頭の上からミミッキュからの礼の言葉がある。だがそれよりも。
目の前の戦いが己の思っていたよりも単純なものではなかった事を今更に理解して愕然とした。
熱風を自身を中心に全方位に放った黒い波動で薙ぎ払い防いだゲンガーは、それが炙った地面を一瞥して舌打ちした。シャドーボールが抉った地面は勿論その他の地点にも広範囲に、燃え尽きた何かの残骸。それは。
――
毒菱か。
遅延狙いどころではない。ゲンガーは態勢を立て直すよりも次の攻撃に繋げる為の行動を取っていた。
着地予測地点にはシャドーボールを。それを避けて距離を詰めていればその地面には罠を。
それを看破して、いつ撒かれたのか傍から観ていた彼女は全く気が付かなかったそれを踏まない為に、バシャーモは後退しそして排除した。
「勿論これで終わりじゃねえぞ」
更に。ゲンガーがニタリと笑みを崩さずにそう言い終わるよりも早く。バシャーモの足下から影色の光球の群が地面を突き破って出現した。
地面に放ったシャドーボールが死んでいなかった。先程の様なニトロチャージも間に合わない。死角から現れたそれを見た刹那後にはバシャーモは動く。手首から劫火を迸らせ、裂帛の気合と共にその強靭な脚でもって地面を踏みつけた。
瞬間。空気が爆ぜた。
廃墟が一瞬鳴動する程の地均しによる衝撃波と、それに混じり瞬く火の粉によって、バシャーモへと殺到していた数十あった影球が消し飛んだ。
「『化物』が」
その壮絶な光景の中、月光と妖霊が維持している鬼火群に照らされたバシャーモの影の一つが歪んで嗤う。同時。影の両腕が肥大化し実体化し拳を振るい、影の両脚は獣爪と化して襲いかかる。
そして。影からとぷん、と離脱したゲンガーは己の両手に炎を纏って、再度バシャーモへと殴りかかる。
シャドーパンチにシャドークロー。そして炎のパンチ。至近で生じた先の二つを殴打と蹴撃で即座に粉砕するバシャーモ。そんな
狂飆染みた暴が吹き荒ぶ炎を操る鳥人の領域へ、
逡巡も
躊躇いも微塵も無く影霊は侵入して拳に相手と同じく火炎を宿して殴り合う。
勿論、格闘戦ならばバシャーモに明らかに分がある。ゲンガーも、ゲンガーという種にしては非常に高い技量で躱し、防ぎ、攻撃しているが圧倒的に劣勢。次の瞬間には何時ものように襤褸屑と成って沈められる。
そんな結末を、審判の真似事を強いられて観戦している彼女は見て取った。ガブリアスという、強靭な肉体を持つ竜種の中でも取り分け恵まれた体躯を持つ彼女でさえも足を止めてあの領域に留まる事はしたくない。そんな絶対の域にまで練り上げられたバシャーモの得意距離内での乱打戦。
それを、気味の悪い笑みを浮かべたままに続行するゲンガーは、正気ではないのだろう。
そう心の裡で嘲る彼女だったが、殴り合いの刹那にゲンガーの瞳が妖しく光ったのを契機に様相が変わる。
殴り合っている最中の至近での妖しい光。そんなものどう防げばいい。そう彼女は自身ならばどうするか考え、あまりの困難さにそう心の中で吐き捨てる。化物染みた動きを見せるバシャーモであろうと例外はなく、幻惑へと誘う光を直視してその猛攻が止まる。
「は?」
そして瞬時に己の顔を殴りつけて惑乱から脱し、再起して乱打を繰り出すバシャーモを見て思わず彼女口からそんな声が漏れる。
更に。
ほぼ時間的損失なく立て直したバシャーモの、しかしそれでも生じた僅かな隙。その間に、ゲンガーはただ隙をついて殴りかかるのではなく、わけのわからないものを展開し終えていた。
それは。
「――くッ」
「キヒャハハハハハハッ!」
殴り合いを続けるバシャーモとゲンガーをぐるりと取り囲む様に展開された、夥しい数のシャドーボールの群。ただ展開数が甚大であるだけならば別に問題はない。規模がおかしいだけの集中砲火である。だがそれらがバラバラに、射線も滅茶苦茶に縦横無尽に網目の様に交差する形で降り注ぐのだから意味がわからない。
自身に当たれば
効果が抜群な影球を無秩序に降らせながら、ゲンガーは笑い声を響かせ、両手に炎を宿して尚も格闘戦を続行する。
影色の光球が全方位から飛んでくるのに対処しながら更にゲンガーの乱打を相手にして、しかしバシャーモは辛くもだがそれをも捌く。流石に余裕は無いようで無表情だった顔が顰められているのが彼女にも見て取れる。
「『ちゃちゃ』凄い」
「ああ、ええ。そうですわね」
頭の上の声に、うわの空で返す彼女。目の前で繰り広げられる戦いを見ていて心臓が拍動を強める。血が沸き立つ。そして自覚する。自分はいつからこんなにも錆びついた? 何故ここまでの鈍らと化した? 目の前で
殺し合うあの二体と何が違う? 己が強いという事は間違いない。では何が。強く強く歯噛みして、彼女は思う。
決まっている。気がついている。そうも彼女は思う。
もう幾年月も、あの様な己の血肉を削り取り精神を摩耗させる程の闘争をしていない。あの強者
であった人間と愚兄や愚弟達と共に、明らかな格下相手に奇襲を仕掛ける事にばかり腐心していた。弱者を蹂躙して何もかもを奪う事は何も思わない。弱いのが悪い。そんな奴は己の糧と成れば良い。
だが。
吹けば飛ぶような、
塵芥の様な、軽く小突けばそれだけで動かなくなる愛玩動物めいた異形とそれを連れた有象無象の雑魚共だけを相手にする者を、強者であると言えるのか。
あの人間は強かった。そして己も強い。それは確固たる事実である。だがいつしか他の強者へと牙を剥く事が無くなっていた。更に、あのいけ好かない底意地の悪い霊竜に依存した若い人間と、行動を共にするようになってからはそれが加速した。あの人間も己も弱者を嫐る事に満足していた。易きに流れた。
その結果が、手持ち内で殺し合いが繰り広げられる程に統率が取れていない
ポケモントレーナーに返り討ちにあい降ることだったのは、何と笑えない笑い話だろうか。
なんて彼女が思案している間にも、炎と影を撒き散らす闘争は続いている。
全方向から次々と飛んでくる影球を躱し、消し飛ばし、その間にも眼前の影霊の放つ炎拳をいなし、捌き、弾き飛ばし、そのずんぐりとした躰へと殴打と蹴撃を叩き込むバシャーモ。だが、攻撃に専念出来ず充分な威力が出せないようでゲンガーの動きが止まらない。
それどころが、水を得た魚の様にゲンガーの攻撃が更に苛烈なものへと化していく。
バシャーモとの格闘戦を続けながら、自身をも射殺す軌道で飛ぶシャドーボールを最小限の身の躱しで避けるゲンガー。体表を擦過するようなギリギリで奔る影球を、燃え盛る拳で殴りつける。
「――ッ?!」
ぞぷ、と影球の中にゲンガーの拳が沈み込んだ直後。殴り合いの最中、バシャーモが避けたシャドーボールから影色の拳が飛び出してくる。
感情の読み取れなかったバシャーモが驚愕した。傍から観ている彼女にもわかる。突如現れたシャドーパンチを既の所で弾くバシャーモ。そこに炎を宿したゲンガーの両拳が尚も襲いくる。
影霊が殴りかかる、その途中。宙を滑る様に飛ぶずんぐりとした躰から生えた短い脚がざぷんと、至近を奔るシャドーボールを蹴りつける。
それに同期して、バシャーモの至近を飛ぶ影球が獣爪へ形を変えて弾ける様に飛んでくる。
「――くッ」
「ギャハハハッ! 余裕がねえなぁッ! 『ちゃちゃ』あぁ!!」
嗤いながらも攻撃の手は欠片も緩めないゲンガーの殴打を捌きつつ、別方向から飛んでくるシャドークローを、散らした火の粉で焼失させるバシャーモ。だが、その
最中にも縦横無尽に飛び交うシャドーボールを中継にしたシャドーパンチやシャドークロー、果てにはシャドーボールの中から数十のシャドーボールが飛び出してくるという猛攻に流石に対応しきれず食らい始める。
それでも痛打を貰う事は既の所で避けているのは流石と云うべきか。それとも、影の中に入ることが出来るゲンガーとしての力を、己の放った
影球に効力を及ばせるまでに練り上げている事に驚嘆すべきか。
「あ。凄い。シャドーボールに這入って別のシャドーボールから出てきた」
「……ゴーストダイブ、でいいのかしら」
とうとう躰の全てをシャドーボールの中に潜り込ませ攻撃を避けるなどし始めたゲンガーが、次の刹那には別のシャドーボールから姿を表しその拳をバシャーモの脇腹に叩き込む。初めての有効打。ならば攻撃の手が緩むはずがない。これまで以上の苛烈さでもって影霊ゲンガーの哄笑混じりの猛攻は続く。
狂笑と鋭い息遣い。火炎と影。殴打と蹴撃。そして闇と血潮を撒き散らして繰り広げられる戦いにあてられて、彼女を形作る要素の核である強者との闘争を
希う部分が激しく昂ぶる。
肉叢を巡る紅血が熱く熱く煮え滾っている事を自覚する。
そして。己の内で荒ぶり猛る闘争本能とは裏腹に冷めた頭で、目の前の化物染みた動きで戦う二体の異形を改めて観察してこうも思う。
「あんなに弱かったでしたっけ」
「あんなに強かったっけ」
知らず、口から溢れていた。そして、頭上で彼女同様に戦闘を観ていたミミッキュも、彼女と似たような疑問を口にした。
あのバシャーモはあんなにも攻撃を受け、相手を沈められない程に弱かったか?
あのゲンガーはあんなにも奇想天外で強力な攻撃を繰る程に強かったか?
勿論、彼女達が
二体の実力を確りと見る機会などは、返り討ちにあったあの一戦と、今回のこれくらいである。しかし、あの
雑魚を巻き込んでの悪霊達との小競り合いではバシャーモは圧倒的な力でもって叩き伏せていた。
ゲンガーも子分共よりは善戦するものの、ここまでの動きを見せることはなかった。
では何故? 考えを巡らすも答えは出ない。
「あの『化物』は愛しの『カズヤ』が居ないとあんなもんだぞ」
「『
兄様』は独りで戦った方が強いからホントはあれくらい強いのよ」
それに答える、声。ここには居ない筈の
悪霊達が、背後からそう言いながら現れた。
「あれ、『よの』と『ゆき』。何で?」
「プライドの高そうな奴の子守り姿を笑いに」
「誰も居なくなってしまったから、暇潰しにね」
殺意も敵意も悪意も害意もない、
揶揄のみの言葉が帰ってくる。
「子守りだけじゃなくて、……何を押し付けられたのかしら?」
「バトルの審判! 任された!」
「ほう。勝てないから従うなんて、真面目だな。感心する」
そう言って、ゲラゲラケラケラと嗤う二体の悪霊に、只々、暇潰しとして馬鹿にしに来たのだと彼女は理解して、背後を確認すらせずに尾で払う。
「む――ぅんッ」
「あら、ありがとう『
小兄様』。――危ないじゃない。あんたを氷漬けにするよりも、あのいけ好かない雌が『兄様』に押されてる方が面白いんだから、黙ってその審判? を続けなさいな」
軽い、それでも弱い者ならば躰が襤褸屑の様に千切れ飛ぶ程度の威力はある彼女の尾によるあしらいを、巨霊はどうにか受け止めたらしい。
その場に踏み留まった事に素直に感心しつつ、漸く彼女は後ろを向く。
「あのゲンガーに頼まれたこのお仕事、貴女方みたいな無法者が横槍を入れないならば、立って眺めているだけなので『おチビさん』だけで充分なのですの。暇潰しに――バシャーモとゲンガーが、なんですって?」
正直、審判等と言われても、予想以上に正面から戦りあっているので何かすることもない。しかし帰ろうにも、どうせミミッキュが喚く事は自明なので、ならば悪霊共との会話でもしないよりはマシだと彼女は判断した。
「『りり』、お喋りしてないで審判」
「貴女がちゃんとやれば大丈夫。なので任せますわ」
頭上からの妖霊からの声を適当にやり込めて、「任された!」と張り切る声が降ってくるのに嘆息する彼女の様子をニヤニヤと眺めてくる悪霊達。
「あははッ。ホント面倒くさそうな事を真面目にやるのね。馬鹿みたい。――それで、なんだっけ? ……ああ、あの忌々しい雌は『カズヤ』が一緒の時の方が数段強くなるわよ。あの、此方の攻撃が決まるだろう瞬間にボソボソ言うのが邪魔だから、『カズヤ』が寝ている隙に殺してやろうとした時なんかだと何時もより動きが甘かったから」
本気で暇潰しに来たらしく、彼女を馬鹿にした態度は崩さないが意外と素直に返してくるユキメノコ。
「しかし改めて観ても尾っぽだけでなく、潰しがいのある躰をしているなぁお前。強靭で頑強で。殴り殺してグズグズの挽き肉にしてやりたい。――ああ、あの『化物』は独りだと駄目みたいだなぁ。人間と一緒に行動していた奴らに結構居たなそういうの。『兄者』は逆で独りの方が強いな。俺達と一緒だと合わせてくれるから、遊びが多くなる」
しげしげと彼女の肢体を眺めながら、妹分の言に続けるヨノワール。視線も言った事も不快なこと極まりないのでジロリと見据えながら、彼女も返す。
「本調子でなくしても勝てない事と、足手まといという事を長々と解説ご苦労さま」
彼女の挑発めいた物言いに、しかし大小二体の悪霊達は、
「なんなら、何故か火傷を負っていて更に毒に侵されて躰が麻痺した上で氷漬けになった状態で眠りに落ちていて悪夢をみながら混乱状態に陥っていたりしてもあの『化物』を殺しきれる気がしないな」
「というか、
あんなものを展開されたら一緒に戦えるわけないでしょう? 馬鹿なの? あの球一つでもおかしな威力なのよ? 危ないじゃない。優しい『兄様』が、わたし達が居る状況で使える筈がないでしょう」
巨霊ヨノワールは肩を竦めてふるふると首を振ってそう言って、人の童女めいた姿の氷霊ユキメノコは口元に片手を添えて心底馬鹿にした態度でそう返してきた。
その間にも、バシャーモとゲンガーの闘争は絶え間なく続いている。そちらを観戦する為か、巨霊がずい、と彼女の隣に寄ってくる。その巨大な掌の上に、ちょこんとユキメノコが腰掛けている。
再度、影と火炎が炸裂する埒外の戦いの方へと躰を向ける彼女。
「……そこまで力の差を理解しておきながら何故、貴方達はそれでも
バシャーモを殺そうと襲うのですか?」
「返り討ちにあうのはわかりきってますでしょうに」と彼女が零したのにも、聞き逃さずに悪霊達が反応する。
「何故も何も、あれを殴り殺したいんだ。じゃあ、殺しに行くだけだろう」
「あんたは“返り討ちにあうから”殺したい奴を殺しにいくのを我慢出来るのね。偉い偉い。でも、『兄様』も『小兄様』も勿論わたしも我慢が出来ないの。じゃあ、あの『化物』を殺しに行くしかないでしょう?」
腹が減ったから我慢などせずに食べるのだと云うような稚拙な事を、さも当然の事のようにさらりと言う二体。
理解が出来ない。意味がわからない。愚かだと思うし、気持ちが悪い。彼女はそこまで考え無しに生きてはいない。
だが、しかし。
ここまで何も考えずにしたいことをするのだと宣うこの
下種共を。何が何でも我を通そうとするこの雑魚共を。少し、ほんの少しだけ羨ましいと彼女は思った。
そして思った直後に己が血迷っている事に気が付いて、嘆息する。やはり、この異常者共はいけ好かない。己の中の何かが狂う。乱される。それが不快で苛々する。
「理解出来ませんわ。ごめんあそばせ」
「あんたなんかに理解されたくもないわよ」
「だがそれを理解してくれるんだ『兄者』は。俺よりも殴り合いが強くて、『お姫様』よりも距離をとっての戦いが得意なのに。俺達に合わせて
殺しをしてくれる」
「そして、あんな感じに大笑いしながらフォローしてくれる優しい優しい自慢の『兄様』よ」
一つ目を細めて語るヨノワールと、うっとりと視線を場内へ向けて話すユキメノコの先で件の『兄』は、相変わらず狂笑を響かせながら驚異的な手数の攻撃を展開させながら火炎を纏った拳でバシャーモを殴りつけている。
「『がが』、ずっと炎のパンチ。あれも遊び?」
彼女達の会話を聞いていたらしいミミッキュが、ふ、とそんな事を言ってくる。
「ん? ああ、遊びもあるな。『兄者』は相手の得意なもので叩き潰したがる」
「なるほど。そういえば『ピカチュウ』や、ぼくの時も雷パンチと雷に10万ボルトだった」
「シャドークローもシャドークローで返されたけど、多分『がが』ぼくの事ピカチュウだと思ってた」と、彼女は知らない戦いの記憶を特に感慨無く語る頭上の妖霊の言葉に、そういえば己のドラゴンクローにもシャドークローを合わせてきたな……と屈辱的な記憶と切りつけられた痛みを思い出し、
「……あの『電気鼠』、電気タイプの攻撃は効かなかった筈ではなくて?」
「なんか死んだ」
序に、行動を共にしていた今は亡き
電気鼠の事を想起した。弱くは無かったし、何より電撃に対しては無効と言っていい程の通常の個体よりも絶大な耐性を持っていた。それを力任せの出力で突破したのか。
そこまでする意地の悪さに呆れすら覚える彼女が何か言葉を返す前に、ヨノワールが更に続ける。
「良いなぁどんな感触だったんだろうなその『ピカチュウ』を殴ったら。――ああ、あとは、あの火の粉。炎以外のものを纏った拳だと消し飛ばされるから、巻き取って軽減してるな」
異常な密度で空間を埋め尽くして四方八方から襲い来るゲンガーの攻撃。対処不能にすら思えるその猛攻を、それでも尚、劫火を纏った殴打と蹴撃、それに伴う衝撃波、更に舞い散る火の粉で絶え間なく焼き潰し大半を捌き切る
化物。
そんな踏み込めば危険極まりない領域に、ゲンガーは笑声と共に留まり続けて炎拳を叩き込む。
勿論、バシャーモの反撃が返ってくるが、戦いの序盤の様な直撃ではない。
「……ここ暫く、あの雌とやりあってるからか『兄様』、以前より強くなってない?」
「『お姫様』の言う通りかもなぁ。特に殴り合いのキレが良い」
ふむ、と氷霊を乗せていない方の手を円筒状の頭の一ツ目の下辺りを当ててヨノワールが言う。
しかし、彼女には比較すべきゲンガーの“以前”を知らないので、その指摘が正しいのかなんて判断がつかない。
「あのゲンガーが強いのも、敢えてバシャーモの得意な接近戦で戦いたがっているのもわかりましたけど……それでも距離を取って戦うべきでは?」
なので、疑問に思った事をそのまま口にする。そもそもの話ではあるが、やはりバシャーモの得意領域で戦っている時点でゲンガーに勝ち目はない。
変幻自在に技巧を凝らし、眼を見張る程の動きで奇襲と真正面からの強引な強襲を織り交ぜて全霊の力でもって攻め立てているゲンガーだが、ユキメノコが言っていたように押し勝ってはいない。
あそこまでやって漸く攻撃がバシャーモに通用し始めた。そこまでやって尚、
五分にならない。
だがそれも、至近距離でなくゲンガーの得意距離で戦えば。それでも五分とは言えないまでも、少なくとも今以上に善戦出来る。そう彼女は見立てている。
何故、そんなにも己が不得手なもので戦うのか。そもそもそれが彼女にはわからない。
彼女や死んだ兄達は、気質と種族的な強みを鑑みて物理的な攻撃を主体とする戦い方を研ぎ上げた。それを補う形で、一歩引いて視野を広く戦えて存外器用である
義弟が、人間達が特殊技と呼ぶ電撃やら冷気やらを操っての戦いを担当していた。
そんな役割分担がされたポケモンバトルしか知らない彼女なので、相手の得意距離で己の実力を十全に出せない状況で戦い続ける事が心の底から理解が出来ない。
そういった状況は不快極まる。そして彼女の隣で、巨霊の掌にちょこんと座る氷霊との先の苦々しい屈辱的な戦いはそんな不快なものであった。氷雪吹き荒ぶ相手の領域内という、最悪な状況で戦わなければならなかった。
では何故己の強さを押し付けられない状況に陥ったか。
それは、彼女が。兄弟達が。そしてそれを率いていた人間の雄が。ポケモンバトルを行わなくなっていたから。
そこまで思考して、彼女は突然に理解した。彼女達はポケモンバトルが強いから戦っても強かった。だが、こいつらは戦う事が得意だからポケモンバトルも強いのだ。
故に、戦いへの考え方がそもそもから違う。
「……ああ。あの『
化物』も『
悪霊』も、退くという概念が無いのですのね。どんな相手であろうとも、己が負ければ後が無い、そう思っている。あれらが行っているのは実質、殺し合い。競技などではなく命を奪い合っている」
「野生の
獣のように」。そう独り言つ彼女。
「ん? 『りり』、野生だとあんなのやらない。あんな殺すために殺すみたいな戦いしない。無駄」
「え。ああ、そうですか。失礼致しましたわ」
「アハハッ。知ったかぶりは良くなくてよ、『お嬢様』? あんた野にいた事なんてないでしょう。あの時も最後までお行儀良かったものね」
「食い物や
住処の為に戦って、あんなに傷だらけになっちゃあ確かに無駄だわな。……ああ、だが負ければ後が無いと云うのはあながち間違っては無いかもな。『兄者』が負ければ俺達なんて終わりだしな。あっちも、あの『化物』と『カズヤ』だけでフラフラしてたみたいだからあいつが負けたら漏れなく終わりだ。人間なんぞと一緒に居たことが無かった俺達と
人間にべったりなあの『化物』なのになぁ」
頭上のミミッキュが無感情に彼女の呟きに反応し、それを横に居るユキメノコがケラケラ煽ってきて、そしてヨノワールが「似ても似つかないのに、『兄者』が俺達に教えた戦い方とはなんとなく似てるしなぁ。面白い」と
含み笑う。
ポケモンバトルとは名ばかりの、バシャーモとゲンガーの殺し合う様を肴に
霊共が好き勝手喋っているが、最後の巨霊の言葉が彼女は気になった。
「あれらの何処が似てまして?」
「ん? 『兄者』もあの『化物』も、自分が不得手な攻撃手段でも有効打になるくらいに練り上げている。あんたはその『チビ』が燃えたのを消した水流を実戦で使うか?」
氷霊を乗せていない方の手の指を、一本立ててクルクルと回す手振りを交えて返してくるヨノワール。先程、バシャーモの放った熱風の余波でミミッキュが炎上したのを消火した渦潮の事を言っているらしい。
その時は気配も感じなかったが、一体
何時から
此奴らは背後から見ていたのか。そう思いつつも彼女は、
「使いませんわね」
断言する。そういった技を『
愚弟』に任せて、彼女は己の優れた肉体を、比類なき膂力を武器にする技を極めたのだ。練度の低い心許ないそれを使うくらいなら、命すら預ける位に研ぎ上げた方を行使する。
彼女の返答を受け、ヨノワールは「だよな」、と軽く頷く。
「何故かは知らんが、人と一緒の奴らはそういうのが多い気がする。……あとは群れて野に居る奴らもそうだが……まあ奴らはそもそも得意なのを一つ二つしか使わないのが多いか」
「みんな、生きるの大事。そこそこの威力があれば充分」
「そうだな。獲物を狩るのと自衛に使えればもうそれで充分だ。だが、
俺達は違う。弱い奴を殺したいんじゃない。殺したい奴を殺したいんだ。そうなると、『お姫様』が得意の冷たい光をぶち当てても大して効かない、なんてことがあったりする」
「でも、氷で
顎を作って噛み千切るのは効いたりするのよね」
巨霊の話を勝手に引き継いで、その掌の上に座ったユキメノコが彼女へと向けた両手を起点に小さな獣の
顎を作り出し、それを開け閉じしながらケラケラ笑う。
「貴女の冷凍ビームが効かないのなら、そちらが冷凍パンチで殴った方が良いのではなくて?」
「その方がその脆弱な肉体に生えたか細い腕の非力な氷の牙なんぞで必死に喰らいつかなくてもよろしいのに」と続ける彼女に、「あんた、話聞いてたぁ?」とユキメノコが氷の顎を解除して両手を広げ呆れたようにふるふると首を振る。氷片が煌めいて散るが、すぐに場に吹き荒れる熱気に負けて直ぐにと消える。
「意外と『お姫様』はどっちも得意だぞ。まあ代わりに殴れるならそうするがな。そして
生憎と俺も『兄者』も勿論この『お姫様』も代わりが居る状況だけで戦わないんでな」
「まぁ、大体直ぐに『兄者』が気が付いて向かっていたが」と軽く笑いながらヨノワールが言い、
「それでも間に合わない事もある。だから、自分で全部出来るようになれ。っていうのが、『
兄様』の方針」
とユキメノコが更に続ける。
「あの『化物』の戦い方も似たようなもんだ。格闘戦があいつの領域だがそれ以外でも捻じ伏せてくる、最初に『カズヤ』を殺そうとした時は熱線に貫かれたしな」
と巨霊が太い躰の胸辺りを指して、「あれも痛かった」と腹にある大口で笑う。
熱線、と云うとソーラービームかオーバーヒートだろうか。と軽く思案する彼女。
だが、それが破壊光線だったのだとしても、彼女には知る由もないのでどうでもいい。しかしそんな事に思いを巡らせなくても、彼女が今繰り広げられている戦いで見た熱風は充分な威力を湛えていたし、現在進行で撒き散らしている火の粉ですら信じられない威力を見せている。
つまりは悪霊達の言う通りに、ゲンガーもバシャーモも物理技も特殊技の何方ともを武器にしている。ヨノワールは可怪しい事のように言っていたがそれ自体はそう驚くようなことではない。彼女が戦ってきた中にもそういうのは居た。
だから、外野が増えたことなぞ気にする事なく目の前で戦い続けている二体の異形は別に珍しいものではない。
朽ち果てたポケモンバトル会場の残骸の様なバトルフィールドを、埋め尽くし未だに絶えることない数多の
影球が縦横無尽に飛び交って、その中心で影霊が笑声と共に殴りかかっている。
だが、種族として物理攻撃が不得手な傾向があるゲンガーがそれをしている事は彼女には理解が出来ない。
一つ一つが高威力のシャドーボールの群に、それを中継にした影爪の斬撃、更に影に潜れる本体までもが跳び出してくる神出鬼没のゴーストダイブという圧倒的手数による猛攻を繰り出す影霊。
それを研鑽を積み上げて練り上げて研ぎ上げて磨き上げられたのであろう殴打と蹴撃、それに伴い舞う火の粉と地面を削り取って撒き散らされる砂塵によってその大半を凌ぎ切る劫火を纏った鳥人。
先のゲンガーとは違い、バシャーモという種は彼女の知識ではゲンガー程物理技と特殊技の扱いに差は生じにくい種だった筈だが、それでも、物理的な技をあそこまで練り上げて、更に特殊技を一線級で扱えるくらいに習熟するというのは、彼女には必要性を感じた事が無い為に腑に落ちない。
「凄い顔してるわよあんた。吐きそうなくらいに理解が出来ないならさっさと諦めなさいな。……ああ、でもなんか、冷たい光を撃ってると距離を詰められたり、殴ろうとしたら距離を開けられたりするから、そこを殴りつけたり吹雪を吹かせたりすると不思議と当たるのよね」
そう言って、片手に太く鋭い
氷柱を生やし、もう片方の手の凍てつく光を宿した指先を彼女へと向けてケラケラ笑う
氷霊。更に、視線を戦う二体に戻して大きな瞳をにやりと歪めて言葉が続く。
視線を彼女も戻す。映るのは場内で影と炎が撒き散らされる殴り合いを続けるゲンガーとバシャーモ。奇想天外な奇襲を繰り返す影霊の猛攻に、しかし炎を繰る鳥人は順応し始めているのか先程よりも余裕を持って捌き始めている。更には膨大な数あった影球による包囲も、補充よりも消費が上回り続けて底が見え始めた。
「あの雌だってほら。球と拳に気を取られすぎて――」
そんな状況を見て、よく通る澄んだ声を弾ませてゲンガーの妹分が言う。
「――『兄様』には攻撃以外もある事をもう忘れてる」
ユキメノコと彼女の視線の先。撒かれた火の粉を絡め取り、火力を増して振るわれるゲンガーの炎拳。それがバシャーモが片手の甲で払われた直後。
「――ギ――ッ?!」
バチン、と紫電が
奔った。バシャーモの躰が痙攣し硬直して声にもならない音が嘴から零れ出る。
「キヒャハハハハッ! 物足りねぇだろ? もっと良いもんを馳走してやるよ」
ゲンガーの狂笑。それと共に感電して動きが止まるバシャーモの躰に、もう一方の手が添えられて先のものよりも一層激しい電撃が炸裂した。
先に
電磁波からの
10万ボルト。乱打の応酬中の意識外からの電撃は、流石の化物染みた強さを見せるバシャーモにですら直撃し苦悶の声が上がる。
それを見て、何故か彼女の心の中の重かった何かが、ふ、と消えた。相変わらず苛々するし腹は立っているが、しかし同時に開放されたとでも云えばいいような高揚感が彼女の心の中に満ちて、熱く熱く血が滾る。
――うだうだと悩むな。理解しようとなんぞするな。
「『がが』、『ちゃちゃ』の事ピカチュウだと思ってる?」
「……何を言っている? ――おお、しかし予想以上に決まったな」
「……は? ――その調子よ『
兄様』ッ!! その雌、早く殺しちゃってー!」
「これポケモンバトル。殺し合いじゃない」
「あ? 似たようなもんでしょ」
ミミッキュにヨノワール、そしてユキメノコが口々に何か言っているが彼女の耳には入らない。
――余計な事を考えるな。理解する事は必要ない。
そんな事よりも。目の前の戦いの次の展開を見逃したくない。そう、思っている自分が居る事を彼女は自覚する。
漸くにバシャーモへと有効打を入れたゲンガーだが、あの化物がこの一撃で沈むわけが勿論ない。
では、次は双方どう動くのか。己よりも強い者達がどう戦うのか。
そんな強者達を、自分はどう打倒して捻じ伏せるか。
――目の前の強者を血祭りに上げる事だけを考えろ。
当然の事実として己は強い。そして目の前で彼女の理解出来ない戦い方を練り上げた二体も観てきた通り勿論強い。苛立たしいが、あのやる気のないドラパルトも彼女と同格の竜種であるし、弱い筈のユキメノコとヨノワールも己の身を顧みずに牙を剥く正気の沙汰ではない精神性を有している。
愚弟ももっと鍛えてやれば伸びるだろうし、ミミッキュも同様である。贅肉の付いた心を削ぎ落とし、鈍らと化した爪と牙を研ぎ直す環境としては寧ろ良いとまで言えるのかも知れない。そう彼女は考えを改める。
しかし一番の問題はやはり、それらを率いている人間が尋常ではなく弱い事か。
そこだけは、揺るぎない。どうしようもない。
目の前の戦闘を凝視しながら、彼女がそこまで思考した数秒にも満たない間の後、場が動いた。
バチバチと凶悪な音を爆ぜさせて強力な電撃をバシャーモに叩き込んだゲンガーが、その放電を維持したままに夥しい量のシャドーボールを周囲に再展開する。先のような無秩序に飛ぶのではなく、包囲する形で宙に留めている。
動きを止めていて超至近でもあるので、シャドークローでも構わなさそうだが、やはり勝負所では得意技が出てくるらしい。そして、数発程度の中途半端な攻撃では仕留められない。更に衝撃で脱されかねない。故に影霊は僅かな時間的な損失を負ってでも最大火力による掃射を選んだのだろうと、そう彼女は思案する。
空間を埋め尽くしたシャドーボールが、次々と音もなく射出される。それと同時に掃射に巻き込まれないよう退くゲンガー。
電撃も放ち続けているが、殺到する影の弾雨がそれを掻き消して飲み込んでバシャーモへと降り注ぐ。
そして生じたその僅かな間を、怪力乱神が
異形の形をとったあの『
化物』が電撃を流されていた程度で逃すわけがない。
その着弾よりも早く。
白赤黄色の異形の全身が劫火に包まれる。そして間髪入れずに、後退したへゲンガーへ向けて驀進。戦いの序盤でも見た、攻防一体のニトロチャージによる強引な包囲突破と勢いそのままの突撃染みた追撃。
流石に先の時より弾雨の密度が段違いな為、完全に防げてはいない。纏う火炎を貫いて幾つかのシャドーボールがその躰に直撃する。だが、些末な事だとでも云うように揺るぎなく疾走し、降りしきる弾雨の大半を耐えきってバシャーモがゲンガーの眼前に迫る。
勢いそのままに振るわれる炎を宿した剛拳。
「キヒャッ」
「――む」
だが。その拳はニタリと笑むゲンガーの顔面を捉える直前に、至近に浮かべた
シャドーボールの中にずるりと滑り込まれてしまい空を切る。
鋭い風切り音。弾け飛ぶシャドーボール。弾雨に曝された火炎の衣の残骸である火の粉を散らしながら、突進攻撃であるニトロチャージの勢いでそのまま数歩更に進み、腰を落として姿勢を下げ地面を削りながら急制動するバシャーモ。
火炎と熱を撒き散らし疾走したバシャーモに降り注いだ夥しい量の
影球の群は、ほぼ総てが
打ち
放たれた。
しかし、一つ。射出されずに残された
ものが一つぽつんと宙に浮かんでいる。
ざりぃと擦過音を響かせて、地面を削って止まったバシャーモの視線がそれを捉える。両者の距離は、この戦いが始まった際の二体の距離とほぼ同じ。
バシャーモの脚力ならば瞬く間に詰められる程度の距離。
間もなく、ぐ、とその脚に力が込められる。黄色い羽毛の下で隆起する筋肉。足の鋭い鉤爪が地面を掴む。
その不自然極まりなくあからさまな影球でなくとも、周囲には影から影へ潜航する悪霊が跳び出してきそうな暗がりが無数にある。しかし、その周囲のどの影でもなく、ゲンガーが現れるのはその影球であると確信した動きでバシャーモが再び驀進を――
「――マジか。ちったあ迷え。疑え」
――する前に。補足されたシャドーボールからゲンガーがずるりと半身を覗かせ、そんな呆れを含んだ言葉と共に片手を振るう。
「む――ぅ」
今まさに駆け出そうとしていたバシャーモの軸足が、僅かに浮いて宙を蹴る。当然姿勢が崩れる。しかし、その程度で転倒する事は勿論ない。
だが、ゲンガーが
影から全身を現す、或いは影の中に逃げ込む前に直接叩くのには間に合わない。
だから。
バシャーモはその場で嘴を開いて
赫々と燃え盛る火炎を吐き出した。
「きひゃはッ。舐めんな」
未だシャドーボールから抜け出せていないゲンガーだが、再び影の中に戻る気もないらしい。真っ直ぐと迫る劫火を見てぐにゃりと笑い、片手を振るう。それに同期した形で発生する念動力。
それがバシャーモの火炎放射を防いで散らす、それとほぼ同時。ゲンガーの全身がずるりとシャドーボールから抜け出した。
両者の距離は変わりない。この戦いが始まった際の二体の距離とほぼ同じで、バシャーモの脚力ならば瞬く間に詰められる程度の距離。
そして。恐らくは。と云うよりは確実に。
その距離は、ゲンガーが得意とする距離。バシャーモにとっての至近距離の様に、練り上げられたゲンガーの領域。
「――ッ!」
「遅え」
バシャーモが動く。それよりも早くゲンガーの片手の短い指が蠢く。同期するように、駆け出そうとしたバシャーモの脚が再び不可視の力で僅かに浮く。
「また浮いた。サイコキネシス?」
「テレキネシス」
しかし。バシャーモはテレキネシスによる妨害を力任せに解除する。脚に纏わり付いていた念力を噴出する火炎で消し飛ばす。
そしてバシャーモはそのまま、短い両腕を広げ大きな口を三日月の様に歪めて嗤うゲンガーへ突撃。鋭い視線で射殺すが如く真っ直ぐと影霊へと向けて、跳躍する。
だが。バシャーモの脚が地面を蹴るその瞬間に。ゲンガーの短い腕の片方が勢いよく下方へと降ろされた。
「ッ?! ――ッが」
その刹那。叩き潰すように、頭上から不可視の重圧がバシャーモを襲う。
「ギャハハハハハハハハッ! そのまま潰して肉にして、『カズヤ』に煮込ませて喰ってやるよッ!」
「わたしは食べないわよ。不味そう」
「あれはサイコキネシス」
「正解」
「まあ何だかんだ美味いものを作るから意外とイケそうか……?」
悪霊達の言葉は聞く価値も無いので彼女は聞き流すが、
妖霊の言葉には返してやる。そして先程の攻防を反芻しつつ、その後も見逃さぬように凝視する。
攻撃ではない念動力で二回足をとりバシャーモの意識を下方へ向けさせて、更に移動せず殴り合っていた時のように迎え撃つ態勢で微動だにしなかったゲンガーによる、意識外の頭上からの
念動力による不可視の圧し潰し。
「ぐ、ぅう」
ただ放つだけならば不可視であろうとも火炎と鉤爪によって容易く消し飛ばされていたであろうが、しかしこれはこれ以上無いほどの一撃である。並の異形なら圧死しているだろうし、竜種の頑強な肉体をもつ彼女がもしこのような直撃を受けたとしても無事ではいられないだろう。
そんな攻撃の直撃を受けて尚、バシャーモは膝は地面につけたものの倒れない。それよりも先にその周囲の地面が影霊の手の形に沈んでいく。その中心でバシャーモは苦悶の唸りは漏れ出てくるが、徐々に圧力に抗して態勢を戻している。
「無駄な事をッ、してんじゃ、ねえッ!」
高出力の念動力を維持し続け流石に笑みを浮かべる余裕も消えたゲンガーが、それでも強気な言葉と共にもう片方の腕も振り下ろす。同期して放たれる
強力な念動力。
「ぐぅ……ッ」
重ねがけられた頭上からの超重圧にバシャーモの動きが止まる。
「ガアァアアアアアアアアッ!」
全霊の力を込めた念動力を放ち続けるゲンガーが絶叫する。
サイコキネシスで捕らえている所に
シャドーボールを撃ち込めばバシャーモよりも先に不可視の力が消し飛ぶ。そうなれば恐らくはまた
ニトロチャージが来る。しかし、これほどまでの出力で己の生まれ持った
属性外の技を二重に放っていて、更にこれ以外の技を放つ余力は流石のゲンガーにも無いらしい。
故に。この攻撃で決着をつけるつもりなのだろうと、それを観ている彼女は思う。
しかし、簡単に圧し潰して勝利出来る程甘くはない。効果は抜群の筈の念力による超重圧を受け続けている鳥人が、全身に力を込めて咆哮を上げてそれに抗う。
二種の咆哮。不可視の圧力に陥没する地面。その中心で屈する事なく徐々に上体を起こし始めているバシャーモ。それを押し戻し圧し潰そうと、放つサイコキネシスに総ての力を傾けるゲンガー。血色の眼をぎょろりと剥く影霊と、射殺すが如く
眼光炯々な鳥人の視線がぶつかり合う。
そして。
効果範囲内全てを
圧潰さんと
念動力の重圧が緩まるどころか強まるその中心で。そこで全身に超重圧に抗っていたバシャーモが前傾の姿勢まで上体を起こして静止した。上体を支える様に両腕は地面へ付けられてめり込んで、その両足も硬い地面へとめり込んでさえいるがそれでも確りとその躰を支えて揺るぎない。
嗚呼。これは。駆け出す気だ。
それを観て、彼女は理解する。理解させられる。それ以外無い。その態勢からこのバシャーモは地面が爆ぜる勢いで踏み込んで走り出すに違いない。
そして。相対するゲンガーも彼女と同様の理解に至ったらしい。歯が軋みを上げる程に食いしばった口の端をにやりとつり上げて、
「来いやッ! 来れるもんならなァッ『ちゃちゃ』ぁあア!!」
放つ
強力な念動力はそのままに、否、更に出力を上げて叫ぶ。
「ああ。逃げるなよ『がが』」
それへと静かに。そして短く返したバシャーモ。頭上から不可視の巨大な掌で圧し潰されている様な状況で、一歩。その長い脚が地面を蹴る。勢いで地面が爆ぜ、ほぼ同時に全身が火炎を鎧う。火勢は先のニトロチャージの比ではない。
自身さえも焼く熱量の猛火をその身に鎧い、バシャーモは
超重圧の効果範囲を強引に突破すべく更に一歩踏み込む。
理不尽なまでの火力の灼熱を鎧っての進撃と
精神力で実体化させた不可視の巨腕の重撃がぶつかり合う。
人が寄り付かなくなり廃墟と化したバトルフィールドに、様々な音が一瞬の中に混ぜ合わせられて響く。ゲンガーの奇声染みた絶叫。バシャーモの呼吸音に躰が軋む音。燃え盛る火炎が空気を炙る音。地面が蹴られ爆ぜる衝撃音と更に陥没する音。それを観ている彼女が、隣の悪霊達が、頭の上の妖霊が、何も言葉を発せずに息を飲む音。
バシャーモの全身を鎧う炎が、ゲンガーの攻撃に曝されて削り取られて行く。頭部を完全に露出するが、顕になった瞳が放つ視線はやはり真っ直ぐとゲンガーを捉えて逸らさない。
フレアドライブの勢いは鈍る事なく更に一歩。
そして。
火勢の半分は消し飛ばされたバシャーモがサイコキネシスの檻から脱して翔び立つ。
火勢の半分しか
殺げなかったゲンガーが顔を歪めて、しかし迎え撃つべく影球と影爪を展開。
後は、衝突するだけ。
そんな時に。
「ああ、居た。――こらッ!! 皆、心配したんだからね」
バトルフィールドの出入口から、いつの間にか現れた人間が腕を組んで何やら大きな声を出して場の全員へと言ってくる。
彼女を含め、この場の誰もが状況を理解できていない。その証左に隣の悪両達は動かないし、戦っている二体も一瞬そちらに視線が向いたがそのまま動きを変えずに戦闘を続行している。
「あ。『ちゃちゃ』右上。『がが』は左上。『りり』は正面、斜め上」
更に、その人間は意味のわからない言葉を漏らす。バシャーモが駆ける音に完全に負けていたそれが彼女に聞こえたのは、只々彼女の聴覚が優れたものだったからにすぎない。しかし、その意味がわからない。
正面、斜め上。人間が居るフィールドへの出入口の上。雲に覆われた夜空が覗く崩れた天井の辺りか。そちらへ彼女は視線をやる。
そこには。
巨躯をくねらせて宙に浮かぶドラパルトの姿。
にんまりと笑みを湛えて下界を睥睨する霊竜、その周囲には、今の今まで嫌という程に見てきた影色の球体が三つ浮いている。ゲンガーの放つものと比べ二周りは大きい。
球の一点を摘んで引っ張って
錐にした様な個性的な形のシャドーボールを見た瞬間に、寒気を感じた彼女の思考が凄まじい勢いで加速する。
何故此処に? ユキメノコが現れた時に言っていた。“「誰も居なくなってしまったから、暇潰しにね」”。大小の悪霊が動く前に、あの人間が不在に気が付いて探しに出たのか? では何故、今? ……毒をくらい、泡を吹いて痙攣していたあの雑魚共を診ていたな? では悪霊達が何も言わなかったのは。臭気が充満していたのを避けて別所から
侵入って来て追い越したか? あのドラパルトは? 短い付き合いではない。どういう奴かは知っている。向上心は無いが強大な竜種であるが故に強い。そして人や他の異形を己の力に依存させて堕落させたがる、歪んだ悪趣味な存在。
雑魚共を診る人間を放置してバシャーモとゲンガーの戦いを面白がって眺めていたら、追いついてきた人間の闖入に全員の意識が向いたから、その隙を突いて己の趣味の邪魔になる者を殺そう。そんな事を考えたに違いない。
そして。そんな事をやるかやらないかで云えば、奴はやる。
彼女が圧縮されて加速した思考で巡らせた直後。ドラパルトの笑みがぐにゃりと更に歪む。それと同時、三つのシャドーボールが射出された。
そこで、彼女の加速した思考が元に戻った。
瞬く間も無く迫る影の砲弾。照準は正確。不意打ちであるが故に直撃すれば威力は十二分。弾道は確実に
彼女達の頭部を貫いて生命を掻き消す軌跡を描く。
迎撃。間に合わない。
回避を。
「くッ――」
「わ。きゃッ」
考えると同時、どうにか躰を
捩って必殺を狙った狙撃を辛うじて避けた彼女。その頭の上に居たミミッキュが転げ落ちて声を出しているが、そちらにも当たった様子は無い。
「おや、まあ。残念残念」
あっけらかんとした霊竜の声が空から降ってくるが、そんな事を処理するよりも状況を把握する事に意識を割く。
先ずは。彼女と同じく狙撃された二体は。
確認するまでもない。彼女が生きているのだから当然そちらも少なくとも死んではいるわけがない。
ならば、その二体はどう動くか。
勿論、不遜な行いをした霊竜を叩きに動く。
では。彼女はどう動くべきか。
「――ッ!!」
「え。きゃあ?!」
転げ落ちたミミッキュをまだ空中に居る合間に、彼女は尾を振るって弾き飛ばす。
襤褸を被った妖霊は素っ頓狂な悲鳴を上げて、出入口付近でまだ腑抜けた顔で「ああ、喧嘩は止めよう?」なんて意味のわからない事を言っている人間の雄の方向へ素っ飛んでいく。
その直後。
「雑魚共が。舐めないでいただけます?」
「あら。まあ、あんたは
序でだから。ごめんあそばせ」
「ああ良いなぁ潰しがいがある感触だ。が、先ずはあっちなのですまんな」
氷霊と巨霊が氷で作られた獣の
顎と冷気を宿した拳によって襲いかかってきた。効果は抜群のその攻撃を、しかし尾と翼によって一蹴する彼女。相手からの追撃は無い。そして彼女が追撃を仕掛ける前に、捨て台詞と共に地面を滑る様に悪霊達は駆けていく。その先には。彼女の尾に弾き飛ばされたミミッキュを受け止め抱えた人間の雄。
この混沌と化した現状を理解していないわけではない。恐らくは、己に迫る危機すらも認識した上で、この場の話を聞かない奴らに意味の無い声をかけ続けている人の雄。
だから。
この
群れは纏まると云うことは無い。率いる筈のこの人間が雑魚だからだ。『ポケモントレーナー』としての才が微塵も無い。
しかし、比して才に溢れていた
あの人間は、彼女達が見当たらないからといってこのような死地にのこのこやっては来ない。
この人間はのこのこやって来て、人では相手が出来ない異形が明らかな殺意と共に迫ってきているのに逃げようともしない愚図だ。
しかし。恐らくは。どのような強者が相手でも、今の様に頼りなく覇気もない様態でしかし異形達の近くで、ただ何をするでもなくその傍らに立っている。
ただそれだけの木偶の様なトレーナーだが、あの『化物』や好戦的な悪霊達が休み無く強者へと向かっていっても変わらず側に居るだろう。そして決して易きには流れないだろう事はわかる。だって、その凡庸未満な才で『化物』たるバシャーモや、害悪極まりない邪悪霊達を引き連れている事がこの上なく困難な事だから。
だから、まあ。
強者へ挑む事から逃げたあの人間よりはマシだ。
悶々と色々な言葉と感情を散々捏ね繰り回して、彼女はそう結論づけた。
「居るのでしょう『
鎧座』ッ! ――とっとと起きろッ!! 喰い殺すぞ『愚弟』ッ」
故に、彼女は『トレーナー』たる人間『カズヤ』を悪霊達に殺されないように立ち回る。妥協に妥協を重ねて譲歩して、漸くに己の心に折り合いをつけたのだから、直後に亡き者にされては笑い話にもならない。
廃墟のバトルフィールド全体を震わせる大音声の咆哮で、彼女が呼ぶのは義理の弟であるバンギラス。勿論姿は無い。亡霊でもないのでいつの間にかこの場に居るわけはなく、空を飛べるわけでもないのでバシャーモとゲンガーを迎え撃つべく臨戦態勢となっているドラパルトの様に上空に居るわけでもない。だが――
「うぇえ?! 『
藍鱗姉ちゃん』?! 何事ッ?!」
「ああ、おはよう『ばん』。ごめんね起こしちゃったかな」
「おはよう『ばん』。全員集合。賑やか」
「あら、的が増えたわね」
「おお、良い殴り心地だぞあいつは」
『カズヤ』の腰辺りに装着されたモンスターボールから閃光。それと共に慌てた様子の『愚弟』が出現する。それに対して好き勝手言う人と異形達。
――ユキメノコ達が他に誰も居なくなったから暇潰しに来たと云うのならば、あの場で爆睡していた
巨躯の怪獣を『カズヤ』はボールに収容して連れて来ていると考えた彼女の読みは当たっていた。
「『鎧座』ッ、貴方はその人間――『カズヤ』を『ユキメノコ』から守りなさい!」
困惑する義弟の事は一切気にせず彼女はそのまま、指示を飛ばす。
更に間髪入れずに、『カズヤ』に抱えられた妖霊にも同様に指示を出す彼女。
「『ミミ……ゆぅゆぅ』! 貴女は『ヨノワール』を相手なさいッ!」
「なんで?」
「……今このタイミングなら貴女だけを見て相手をしてくれましてよ!」
「わかったッ!」
「よろしい。展開していた鬼火を使いなさい!」
小首を傾げるミミッキュへ適当な事を言う彼女だが、構ってくれるならば何でも良いようで『カズヤ』の元からぴょんと跳び出して彼女の言うとおりに照明代わりに展開していた鬼火を引き連れて迫りくるヨノワールへと向かっていく。
「わけわからんが了解ッ! 『姉ちゃん』は?! 砂嵐要る!?」
「『カズヤ』と『ゆぅゆぅ』が動けなくなるので無しですわッ。
霰を展開されたら日本晴れで阻止しなさい!」
状況は依然として飲み込めていない義弟だが、彼女の返答に再び「了解!」と返して指示を遂行すべく人の雄の傍らで咆哮を上げて臨戦態勢へ移行する。
そして。彼女は。
己の向かう方向へと視線をやる。
「あら。お疲れなのかしら?」
と、同時。そちらで三つ巴の争いを繰り広げていた内の一体であるバシャーモが、ドラパルトのゴーストダイブを空中で防御した衝撃で弾き飛ばされ彼女の側に着地する。砂煙を巻き上げながら地面を削って止まった後、
直ぐ
様に跳び上がろうと態勢を整えるそれへ彼女が声をかけると、
「ああ、ありがとう『りり』。私が『カズヤ』の方へ行くと、『らら』の流れ弾が来るのと『がが』があの二体に加わってしまうので、助かる」
一瞬、彼女の方へと視線向けてそう言ってきた。そして、言い終えるや否や
霊竜と
影霊が殺し合っている領域へと跳んでいく。
再度巻き上がる砂煙。それに混じり瞬く火花。廃墟のバトルフィールドに響く、戦闘音に彼女以外の異形達の咆哮、笑声、それと困った様な人の声。
ここはこういう奴らの吹き溜まり。圧倒的な無能が居る。身の程知らずの異常者共が居る。そして強者が幾体も居る。だが、わたくしも強者だ。弱者を喰らうよりも強者に喰らいついて食い千切って斬り刻む為にこの爪牙はある。今行かないで、いつ打倒する。
「お気になさらず」
そして、彼女は。『化物』達が殺し合うその死地を睨みつける。その先では必殺の暴力が吹き荒れている。見ていないが『愚弟』達が戦う、守らなければならない人の雄を中心に置いた戦場でも殺意と害意も何もかもが
綯い
交ぜになって撒き散らされている。それらを全身で感じてそして彼女は思う。
先ずは
此方の奴らを殺す。その後はあの低級霊共だ。全員が全員好き勝手しやがって。逆さに生えた鱗に触られ続けられる様な不快感だ。苛立たしい。腹立たしい。頭にくるし
癇に
障る。
「
皆、
皆、その四肢を、
臓物を、何もかもをわたくしの爪と牙で引き裂いて引き摺り出してばら撒いてさしあげますから」
巨躯の霊竜とそれの半分ほどしか無い影霊に火炎を纏う鳥人が交戦する、その奥の崩れた天井から曇天が覗く。ちらちらと月が顔を覗かせてはっきりしない。苛つく天気だ。
誰も彼女を見てもいない。苛つく状況だ。
だから。彼女は。
暴れ狂うことにした。
全身全霊に怒りを漲らせて彼女は飛ぶ。恵まれた体躯と天賦の才で積み上げて練り上げた技を叩き込んで蹂躙する為に。ついこの前まで襲っていた弱者達とは比べ物にならない相手達に向かって、彼女は飛ぶ。だが、視界が真っ赤に染まる程に怒り狂った彼女にはどうでもいい。何をおいても、彼女は強いのだから。だが目の前の奴らも強い。それが
腸が煮えくり返る程に苛立たしい。
衝撃波めいた大音声の咆哮を上げて、三体の異形達を相手にして暴れる彼女はこうも思う。だがしかし、同じくらいに楽しい。充足感もある。
弱者を蹂躙していた時は何も思うことはなかった。当然のことだから。しかし、この
異常者共と肉を
抉り
抉られ血潮を撒き散らす闘争を繰り広げている今は、楽しい。
明らかに今の方が、弱者を相手にしていた時よりも痛苦を感じているというのに。
不思議と気分は悪くない。
@@@
そうして知らぬ内に、彼女は敗北したらしい。意識を失った記憶すら無いが、勝った記憶もないのでそうなのだろうと考えながら、彼女は倒れ伏した自身の躰を起こす。どの部位も僅かでも動かすと吐き気を伴う激痛が走るが、それを彼女は無理矢理に無視をする。そして記憶にある事は何か少し考える。先ずドラパルトが意識もその巨躯もを叩き落されて脱落したのは覚えている。しかしその後の記憶が無い。
「まあ、そうですわよね」
現況を把握しようと周囲を見渡した彼女はある一点に視線を止めて、鼻から息を長く吐いて独り言ちる。
彼女の視線の先。そこでは、
大小の邪悪霊達が白目を剥いてひっくり返って居るのを左右に置いたバシャーモが、正座をして怒られていた。
「……意味不明ですけれども」
尋常でない『化物』が彼女を含めた他の三体を叩きのめしたのであろうことは彼女にも理解出来る。しかし、その『化物』が、ひ弱な人間の雄に説教されているのはわけがわからない。
「黙って出かけるのはね、僕ももっと酷いのをやったからどの口が言うんだってなるし、『がが』とはバトルの練習だったみたいだからこれはとっても偉いなと思うし、『らら』の横槍の後の事はあの仔が良くない事をしたし、それをきっかけに練習じゃなくなっちゃったから仕方ないかな、って思うんだけどね?」
地面に正座して姿勢を正し、視線を地面に向けたバシャーモへ腕を組んだ人の雄が困った様な顔をして続ける。
「ねえ『ちゃちゃ』。『がが』がこの建物の周りや中に居た仔達に猛毒を食らわせたのは止めてほしかったな」
「はい」
「そもそも、此処ってあの仔達の住処だよね。もしかしたら此処の持ち主にしたら迷惑だったのかも知れないけれど、だからといって君達が好き勝手していいわけじゃないよね? それもポケモンバトルをするのに邪魔だからって理由で」
「はい。ごめんなさい」
あの『化物』が消え入りそうな声で返すのを見て、彼女には意味がわからない。何故邪魔なものを片付けてはいけないのか。それは追い出される程に弱いのが悪いのではないのか。
首を傾げる彼女。そこに、
「お。『姉ちゃん』起きた?」
「『りり』おはよ」
彼女が目を覚ました事に気がついた『愚弟』がどすどすとした足音を響かせて近寄ってきてそう言ってきた。その頭の上にはビニール袋を被った何か――声からしてミミッキュか? と彼女は一瞬訝しむ。
「ああ、こいつまた化けの皮を消し飛ばされたからこんな事になってる。あ、喰う?」
そう言って、強固な筈の外皮が所々砕けて罅割れて痛々しい姿のバンギラスが上部がキュとくびれた黄色い実を差し出してくる。
「オボン? どうしてこんな物が?」
「それが最後の一個。モモンとオレンは品切れ」
「あのぶっ倒れてる馬鹿ゲンガーの毒々を食らってた奴らの介抱手伝わされてたんだよ。『カズヤ』も異様な量の毒消しとか持ってたけど、全然足りねえからその辺の木の実収穫させられてさあ」
受け取った果実を丸ごと口に入れて咀嚼しながら、「まああの『バシャーモ』が、気絶してる奴ら見てるように言われて置いて行かれた時の顔は笑えたけど。……いや、木の実集めんの面倒だったし躰は痛むしで面白くない事の方が多いか」なんてぶつくさと続ける義弟の話を聞いて、状況を少し理解する彼女。
「でも、何で『カズヤ』は気絶したのをボールに入れなかった?」
「知らね。まあこの程度で死ぬようなのは居ねえし、気にする事でも無くね」
「ごちそうさまでした。しかし無様ですわねあれら相手にそんなに傷だらけで」
「『りり』の言う通り、『よの』がいっぱい遊んでくれた。楽しかった」
「いやいや『藍鱗姉ちゃん』。マジできつかったんですけど。何なのあいつらマジ怖い。明らかに戦闘不能なのに向かってくるから怖すぎて死ぬかと思った。あと『カズヤ』も何なのアレ。逃げねえし全回避するし偶にボソボソ何か言うし」
「それで負けて『カズヤ』が死んでいたらわたくしが貴方をぶち殺していたので、回避させる状況に陥って本当に全て避けるような人間であった事に感謝なさい」
更に続く言葉に刺々しく返しつつ彼女はドラパルトやゲンガーとは離れた位置で転がる大小の悪霊の姿も確認し、あの程度相手にこの
様かと傷だらけの『愚弟』に呆れて嘆息する。まあしかし。辛うじてだが彼女の指示は完遂しているので、褒めてやらない事もない。
「まあそれでもどうにか『カズヤ』を殺されずに勝てたのは褒めてさしあげますわ。ご苦労さまでした『鎧座』『ゆぅゆぅ』」
「うーい。つか『姉ちゃん』、何か心境の変化でもあった?」
「『りり』、『カズヤ』好きになった?」
義弟は怪訝な顔で、その頭の上に乗っている
白いビニール袋を被っている小さな妖霊は感情の読み取れない声でそんな事を訊いてくる。
「誰があんな無能を。ですが、まあ、妥協しました。あれはわたくしのトレーナーですわ」
ミミッキュの言葉に顔を
顰めて、義弟の言葉には溜息混じりに彼女はそう返した。
「ほーん。『姉ちゃん』変に真面目だから心配したけど、吹っ切れたなら良かったわ」
「よくわかんない」
巨躯の怪獣は軽く笑みながら間延びした声で、
電気鼠の姿を模した化けの皮を失って半分ほどの大きさになったミミッキュは抑揚のない声で反応する。
「『愚弟』に心配される程落ちぶれちゃあいませんわよ。……でも、まあ、心遣いは感謝いたしますわ。ありがとう『鎧座』。――さあ、必ずやあの『化物』共を八つ裂きにしてやりますわよッ!」
「いやマジでどんな心境の変化があったのよ『
藍鱗姉ちゃん』?!」
「『りり』、とっても元気。良いこと」
「あの」
満身創痍の彼女達が話しているその背後から、声がかけられる。知らない声である。
「誰?」
「あ? いやさっき診たボス共の中に居ただろ――ああ、何かあった? 悪いけど木の実はもう無いぜぃ」
「……
何方?」
振り返る。そして視界に入った者はやはり知らない
異形だった。ぱっと見た感じでは外傷は無いし血の臭いもしないが、大変に衰弱した様子で立って彼女達を見ている。
「ああ、あの馬鹿幽霊が毒々食らわせてた奴らのボス。群れが幾つかに別れてるらしいからその中の一つの、だけど」
「あ、はい。はじめまして」
彼女がこの廃墟の内外で見た、汚物に塗れて痙攣していた内の一体らしい。通りで弱そうだ。その異形を眺めながら、そう彼女は思った。
「んで、どしたん? 一応、全員大体解毒出来た筈だけど、悪化したのとか出た?」
「いえ、そうではないのですが……」
その異形は言葉を濁して、彼女達ではなく未だに『化物』に説教をしている人間の雄とそれに説教されているバシャーモ、そして気を失っている大小の悪霊達の方へとちらちらと視線をやる。
「『カズヤ』にお礼?」
「あー、そういう? いや、でもさあ、あんたらを応急処置したのはあの人間とか俺とこの『チビ』なんだけどさあ、そもそもあんたらの住処に勝手に入ってきて蹂躙したのも俺らの身内なんだわ誠に遺憾な事に」
「それを防げないくらいに弱いのが――」
「ああうん『姉ちゃん』はややこしくなるから黙ってて」
彼女が口を挟もうとすると、ピシャリと義弟に遮られた。
甚だ不愉快だが、よく知りもしない雑魚の事などどうでもいいのでこれ以上踏み込む気もしない。
「だからさあ、なんというかあれなんだけど死ななかった事を良しとして、運が悪かったと思ってくれない? こっちもこれ以上あんたらの住処どうこうするつもりも無いし、もし悪霊達がこれ以上何かしようとしたらこっちでどうにかするから」
義理の弟であるバンギラスはへらへらと笑いながら、毒が抜けたばかりなのに只の独りで群れ全体を害した元凶の眼前へとやってきた
異形へと語りかける。
その異形が何か返す前に。
「勝手にボロボロになってる俺達に群れ全体でやり返すって考えてるなら、別に良いけど、あっちの『化物』達と俺の『姉ちゃん』とかマジでイカれてるから擦り潰されるの覚悟で来てな」
口調は相変わらず軽いまま、グイ、と顔を近づけそう続ける。
「いっぱいで遊んでくれる?」
「ああ、いや……止めておくよ。まあでも仲間を助けてくれた君達には礼は言っておくよ。ありがとう。あっちの人間とあの鳥? は何やら取り込み中のようだが、終わったら早く出ていってくれると助かるよ」
疲れた顔のその雑魚が、小さく合図をするのを彼女は見逃さなかった。かといって、咎める気も無い。だって、こそこそとバトルフィールドの周囲を包囲して殺気立つ雑魚共が何をしてこようとも返り討ちにしてやるから。だが、その合図は何かしらの計画の中止を伝えるものだったようで、周囲の殺気も気配もが散っていく。
「話がわかる奴で良かったわ。了解、まあそもそも長居はするつもりも――あー、ごめんもうちょいかかるかも」
色々と諦めた表情で返してきた異形に、ぐぱと笑みを返してそう言う義弟の視線の先には。彼女もそちらを見ると、意識を取り戻したらしいゲンガーが『カズヤ』と『ちゃちゃ』へと襲い掛かっていた。
「あ。この辺の木の実、いっぱい採った。ごめんね。けど、ぼくと『ばん』と『カズヤ』で植えて水撒いたからすぐいっぱい育つ」
「あー、その、一体全体、君達は何なんだ?」
同じくそれを見た群れの長らしい異形へ、ミミッキュが何か言う。そんな状況に困惑しきった声でその雑魚はそう誰へともなく問うてくる。
「本当に、何なんでしょうね」
わたくしにも教えてほしいくらいだ。ぞんざいに返しながら彼女はそう思った。
@@@
「あの後直ぐにジム戦をさせるなんてイカれてますの?」
「『カズヤ』は休んで明日にしようって言ってたから、イカれてるのはそれ無視してジムまで直行した『ちゃちゃ』だけどな。いや一日休んだら行くつもりだったなら結局イカれてるか……?」
「一日休めば全快でしょうに。治り切る前に『ちゃちゃ』に蹴られると治りが遅くなりますけども」
「『姉ちゃん』のイカれた肉体基準で言わないで? あれは食らい続けると生き物は死ぬんよ普通は。――あ。待ってごめんなさい治ります治りますッ大体治りますッ」
「怒られて機嫌が悪かったからねぇ。そしてあたしも『ちゃちゃ』も『がが』も勿論『りり』のも極力食らいたくないねえ」
「それならば、余計な事をしなければよろしいのよ」
「ごめんねえ、面白くなると思うと止まらないのさ」
「あんたも相当イカれてんのよなぁ。……そういや『ちゃちゃ』にボッコボコにされてるのに何だかんだ生きてる上に懲りないあの亡霊共もイカれてんな……ゴーストタイプはイカれてんのしか居ねえの?」
「ジム戦楽しかったッ」
陽が暮れ始めた頃に、ポケモンセンターでの治療を終えた彼女とバンギラス、ミミキュ、ドラパルトの四体。それを三体の異形達が神妙な様子で出迎える。
「お疲れ。さて、緊急事態だ」
「緊急事態よ」
「まずい事になった」
暴れ狂った夜が開け、治療もそこそこにその日の内にジム戦をさせられるという意味のわからない行程を不承不承に
熟した彼女達。その後に漸くポケモンセンターでの治療を終えた彼女達に、バシャーモ、ユキメノコ、ヨノワールが深刻な声音で言ってくる。
「あれ『カズヤ』はどこ?」
「『がが』も居ないし、とうとう殺されたかい?」
治療を終えた彼女達の入ったモンスターボールを受け取ったのは
バシャーモ達らしい。トレーナーである人間の雄『カズヤ』と二体の悪霊の兄貴分であるゲンガーの姿が見えない事に気がついた、妖霊ミミッキュと霊竜ドラパルトが前者は単純に疑問を口にし、後者はニタニタと笑いながら心配も何もしていない口調で問う。
「いや、
何方も外に居る。……見た方が話が早いので来てくれ」
バシャーモがそう言って、建物の外へと促してくる。
「何なんですの?」
「いいから黙って来れば良いのよ。……『おチビ』、あんたそんな格好だったっけ?」
「『カズヤ』が作ってくれた化けの皮アチャモスタイル」
「へえ。小憎たらしくてズタボロにしたくなるわね」
「何でだよ可愛いじゃん。――腹減ったんだけど、これすぐ終わる?」
「『お姫様』の小さい時の姿も可愛いから作らせよう。――まさにそれが問題だから手を貸せ」
「嫌よ。可愛くないもの」
「ふふふ良いねえ、あたしの可愛い仔のでも作ってもらおうかねえ」
「貴女はその可愛い仔をちょくちょく射出して爆散させてませんこと?」
「いつの間にか勝手に再出現するんだよねえあの仔達。なんなんだろうね」
「
怖。何から何までが
怖」
ガヤガヤと好き勝手喋りながら、彼女を含めて六体の異形達がポケモンセンターから外へと出る。西陽に照らされながらそのまま先頭で歩き続ける『ちゃちゃ』の後に付いて行って到着したのは、
「あれ『カズヤ』? なんだ。まーたカレー作ってるんじゃん。何が緊急事態なん? 飽きたん?」
「馬鹿なの? もっとちゃんと見なさい」
ポケモンセンターに隣接した野営許可地で、大鍋等を用意して何やら一心不乱に食材を仕込んでいる人間の雄の姿であった。その周囲で、ニタニタとした笑みを浮かべた
悪霊が浮遊している。
「『がが』、お手伝い?」
「殴られすぎておかしくなりましたの?」
「それならば随分とマシだったんだがな。『兄者』がおかしくなっただけならば俺達の食事に支障はないから」
「あん? ……『カズヤ』の野郎、何刻んでんのあれ」
目を細めて凝視していた義弟が、何かに気がついたらしい。彼女も調理を続ける『カズヤ』の姿を確りと見てみる。
何かを刃物で刻んでいる。目の周りをゴーグルで覆い、口にはマスク。腕には分厚いゴム手袋。今まで何度か見た、この様な場所で調理をする姿とはかけ離れた格好である。
「色々種類があるらしいんだが、一つはこれだ」
わけがわからず首を傾げる彼女の横で、
バンギラスの疑問に答える
バシャーモ。ずっと持っていたらしい小さな透明な袋に入った乾燥した、赤く小さな皺だらけの果実? を提示する。
「なんだい? これは。美味しいのかい?」
「ん、いや、私には美味いものではないんだが……もしかしたらお前達には美味いのかもしれない」
「ああもうまどろっこしいッ! 貸せ『バカ鳥』!」
「ん? くれる――ッ?!」
霊竜の言葉に、言い淀む『ちゃちゃ』。その手から袋を奪い取った
氷霊がその中身をドラパルトの大口に流し入れた。
「――ギャッ?!」
「更にな、『兄者』と『カズヤ』はこんな物も使う気なんだ」
口に投げ入れられた皺だらけの赤い実を軽く咀嚼したドラパルトの様子がおかしくなるが、それに間髪入れずに一ツ目の巨霊が持っていたらしい瓶入りの赤い液体を更にその口に流し込んだ。
「ピギャ――ゴパぁ?!」
びちゃびちゃと口内の物を吐き出しながら絶叫してのたうち回って苦しむドラパルト。幸い、その汚らしい飛沫が躰に付くことはなかったが、その臭いに思わず噎せこむ彼女。
「なんですのこれは?!」
「うげ、目に――ッ?! ぎゃあ
痛えええええええッ」
「『ばん』。ハイドロポンプ」
臭気というよりも刺激臭とでも言うのが正しいか。眼球も鼻腔も刺し貫く様なそれに、騒然となる。特にそれを口にしたドラパルトと、それが吐き出した飛沫が目に入ったらしい『愚弟』が我を忘れてのたうち回る。
そんな意味のわからない状況で、彼女の頭の上に乗っていたミミッキュが指示を飛ばし、反射的にバンギラスがそれを実行し、狙いも何もない状態で放たれる水流へとヨノワールがドラパルトを掴み上げてそれに当てるなんて事が行われて、跳ね返った水流がバンギラスの顔にも当たり洗い流されたらしく鎮静した。
「ああもうビシャビシャよ」
「まだ凄く痛え! 俺、眼ぇ見えてる?! 見えてる! 良かったッ! 何あれ?!」
「キャロ……何だったか、ともかく途轍もなく
辛い物とそれを使ったソースらしい。『カズヤ』と『がが』が好んでいる」
「勿論他にも、『
兄様』の好きなマトマとか云うのもあっちに沢山あるわよ」
「もしかして、それカレーに入れる?」
「だから困っている。因みに、具材はそのソースの類で漬けこまれ、米にもそれが混ぜ込まれるようだ」
「今夜俺らの食べる物が無くなるどころか、痛みを感じるえげつない物を喰わされるぞ」
「ひゃんでひょんにゃこひょひひゃっへゆんひゃい?」
「何言ってんのかわかんないわよ」
「多分“なんでそんなことになってるんだい”」
舌が回らないらしいドラパルトの質問。それに対して、
「お前達が今日のジム戦に勝利したことを『カズヤ』はそれはもう喜んでな。お前たちを労おうと張り切って夕食を作り始めた。最初は普段どおりに、『カズヤ』と『がが』用と私達用で分けて作ろうとしていたんだが……」
「食材とかを準備しているそこに『
兄様』が『カズヤ』を焚き付けはじめてね、なんかいつの間にかルンルン気分で全部辛いの作る気になっちゃたのよ」
「俺達が気がついた時にはあんな代物ばかり用意していて共同で作業に入っていた。火も出してやるし物を浮かべて手伝っているし風を操ってあの辛味の刺激を周囲に拡散しないようにもしているらしい。阻止しようとしたが『カズヤ』に躱され、『兄者』にぶん殴られる」
「あと『カズヤ』に対してこの雌がほんとに役に立たないの」
「嫌われたくない」
と、そんな説明を受け、彼女は何となく状況を理解した。恐らく他の面々も。とんでもなくしょうもないが、確かに緊急事態である。このままでは拷問と変わらない夕餉が始まることになる。
「ああもう、状況は理解しましたわ。それで? どうすればそんな地獄のような食事を回避出来るのです?」
「まだ下拵えの最中だ。
総てが真っ赤に染まる前に我々の分の食材を確保して、我々の分は自分たちで作る」
「最優先はお米よ。『兄様』が用意してるから辛いの入れられる前にぶん盗るのよ」
「ひょれは、ひゃいへんひゃへえ……ああ
辛い。ああ、うん。やるひかひゃいか。あたしはお米行くよ」
「『カズヤ』と『がが』対ぼく達?」
「『カズヤ』を傷つけるな。『がが』は殺して構わん」
「私怨が酷え。――肉とか具材は俺行くわ。『ゆうゆう』も手伝え」
「わかったッ」
「作るのは俺と『ちゃちゃ』がやる。お前らじゃ出来なさそうだからな。食材は任せたぞ。あと『カズヤ』が死んだら今日の夕食が無くなるから殺すな。だが『カズヤ』はそうそう殺せん、気にせずやれ。食材が一番脆いから気を付けろ」
「食べ終わったら殺しにかかるから参加希望者が居たら一緒にやりましょ」
「食後なら構わん相手になってやる」
「なんなのあんたらほんと」
「……今から争闘の爆心地になりますのに、食材の方を心配されるトレーナーってどうなんですの?」
「この程度『カズヤ』にはなんてこと無い。だが傷をつけたら殺す」
「ああはいはい。……次のジムでやりたいことがあるので、それを承諾してくれるなら善処いたしますわ」
「ん? 何をするのか知らんが良いぞ」
「あの……せめて内容を聞いてから承諾しませんこと?」
「お前の方がポケモンバトルに詳しいからな」
「あー、まあ、そうですわね」
「『ちゃちゃ』、『りり』、そろそろ行く」
「グズグズすんなノロマ共」
「激辛カレーを喰うはめになったらお前ら皆殺しにするぞ」
「あんな劇物入れたもん俺も喰いたくねえんで早く行きましょうや」
「ああ、そうだな。では、行くか」
「マトマじゃなくてモモンとかないかねぇ? まだ辛いんだよ……」
全員が全員彼女には何を言っているのかわけがわからない。総じて起こす行動も正気の沙汰ではない。今だって、無益で馬鹿馬鹿しくこの上なく巫山戯きっていてしょうもない、たかが今晩の食事を支障なく始める為に何故こんなにも殺気立たねばならないのか。
強大な
邪悪霊と頼りない人間の雄から食材を奪うべく暴れ回る彼女はそう考える。
だが、まあ、しかし。
そんな炎も影も氷雪さえも荒れ狂う闘争の果てに得た
夕餉は、少し辛かったがまずまず食えたものであったし、好き勝手に暴れた躰は痛むが充足感もあった。
が、以前に食べた『カズヤ』の作った
カレーの方が美味かったな。と彼女はそうも思った。
@@@
陽が眩しい。両腕を上げて躰を伸ばしながら、よく晴れた空を眺めて彼女は目を細めた。
夜勤の明けた彼女は、
ポケモンセンター裏の喫煙スペースに設置されたベンチに座った。利用者にも、同僚たちの中でも喫煙者は少なくなっているのでこのスペースが何時無くなってしまうかヒヤヒヤするが、今はまだ撤去の話は出ていない。なので仕事終わりの一服という習慣は未だ続けられるようだ。なんて考えるが、この場所がなくなろうともどうにかして喫煙スペースを見つけ出して紫煙を燻らせているだろうなぁとも思って彼女は自嘲した。
紙箱から煙草を一本抜き出して、咥えたそれにオイルライターで火を点ける。じ、と先端が赤く色づく。直後に、息を吸う。そうして紫煙を肺に入れた彼女はそのまま、ふぅと煙草の煙と呼気を吐き出した。嗚呼、生き返る。そう思う。同時に、明らかに躰に悪い物を取り込んでいるのでそれはありえない。そうも思う。まあどちらとも彼女にしたら真実であるのでどうでもいい。この一服を終えたら、嫌煙家であるが為に此処には寄り付かないしボールに入っていても嫌がるので別行動をとっている
ハピナスを呼び戻して家に帰り、キンキンに冷えたビールを飲んで寝よう。
なんて事を彼女は夜勤明けの回らぬ頭で考えて、更に紫煙を肺に送り込む。その後、指に挟んだ紙巻煙草の灰を灰皿に落とした丁度その時に、携帯電話が鳴った。
取り出した携帯電話のバキバキに罅割れた画面に表示されている名前は、登録されている中で最も年若い少女のもの。
「はいはい。どしたの?」
「あ! 『サトミさん』おはよーッ! 急にごめんね。お話しできるー?!」
夜勤明けのポケモンセンター職員である彼女――『
穂村 暁美』の呆けた頭に、突き刺さる様な元気なキンキン声で言ってくるのは『
西園寺 彩華』。十代前半の、このシンオウ地方のポケモンジムを八つ総て制覇した女の子。寿命の長さや扱いの難しさ等から家族に迎えても一、二体が一般的である中で六体の強大な異形達を統率して連れ歩き、競技としては一般的ではあるものの遊びの範疇を超えない者が大半の中で、それで生計を立てている様な一握りの上澄みな者達にも遜色ない腕前の『ポケモンバトルの天才少女』。
更に、ポケモンバトルで食べていこうと、ジムバッジを手に入れようと考えるような少数派の中でも更に少ない、地方を旅してジムを巡っていた少数派でもある少女が今どの辺りに居るのかは彼女は知らないが、彼女と少女の共通の知り合いである青年『
工藤 一哉』と共に口を酸っぱくして野宿はするな、ポケモンセンターやちゃんとした宿泊施設を使いなさいと言い含めたりもしたので、今の時間ならば何処かの宿泊施設の部屋にでも居るのだろう、と彼女は回らぬ頭で思考する。
「丁度、仕事明けだから大丈夫よー」
「よかったッ。あ、お疲れさま!」
煙草を吹かしながら、「ありがとー」と気怠げに彼女は返す。何の話だろうか。なんてことは思わない。この少女が、彼女へと話す話題はとても限定的だからだ。ほぼ総てが、
「『カズヤくん』がねッバッジ八つ目ゲットしたんだって!!」
件の、共通の知り合い『工藤 一哉』に関する事柄である。
「あら。……早くない? 七つ目を手に入れたってあんたから聞いてからほんと間が空いてないけども」
「そう? 私もそんなもんだったけど」
「はあ、そういうもんなのかしら」
彼女は紫煙を吐き出しながらそう返す。だが、そんなに順調にいくものでもないのだろう事は、仕事柄色々なポケモントレーナーを見ているのだから理解している。
一方は天賦の才能に恵まれて強大な異形達に好かれ、故に統率の取れたチームを率いる少女。
もう一方は明らかに才能が無く、凶悪な異形達に
叛逆され生命を狙われ続けるのを、相棒である異形が叩きのめす事で辛うじてでもチームと呼べるかも怪しい不安定なものを率いる青年。
年齢も性別も、何もかも似ても似つかない。類似点と云えば、ポケモンバトルが強いことと、在り方が
何方もポケモントレーナーと呼ばれる人間の外れ値極まりないこと。
何もかもが違うが、その少ない類似点それ故か、この『天才少女』はその青年『カズヤ』を気に入っていて、ライバルなのだと言って
憚らない。年齢が一回りは違うし、青年の連れているポケモン達はイカれているが本人は何だかんだで真っ当なので問題は起きないだろう、と彼女は考えている。尤も、自身の才能の無さに悩みすぎて自死しようとした事はあるが。しかしこれには折り合いをつけたようなので大丈夫だろう。
「でねでねッ。最後の、八つ目。ミオのジムでの『トウガン』さんとのバトルの動画貰ったから、ちょっと『暁美さん』観てみて」
そう言われた直後、動画ファイルが送信されてくる。この場に居ない人物達のものを鑑賞するのは気になるが、以前にもこういった事があった時に彼女が言うと、撮られた本人に許可は取っているとの事なのでこの少女と青年に関してはその辺りは気にしなくていいらしい。
彼女は罅だらけの画面を煙草を持った手の小指でタップして、再生する。
彼女も一体だがポケモンを家族として迎えているポケモントレーナーである。職業柄、様々なポケモンとよく接する。自然、色々なポケモントレーナーともよく接している。だが、ポケモンバトルと云う競技は彼女も彼女の相棒もあまり興味がない。なのでテレビで中継していたり、偶に草バトルをしているのを眺めるくらいで、知識は無いに等しい。
そんな彼女が、青年『カズヤ』とそのポケモン達のジムリーダーとのバトル、それもこの地方のジム制覇を賭けてのようなものを観ても「ああ凄く動いてる」位の感想しか浮かばない。
それ以外に、強いて何か言うならば。
「なんか、前のよりも普通のポケモンバトルしてる……?」
上手く言えないが、ともかくそんな感想が彼女には浮かんだ。そして大分失礼な事を言っているなあとも思う。知識は無いが、彼女など比べ物にならない強さのポケモン達とトレーナー達によるポケモンバトルである。それを観て、ポケモンバトルをしているな、と云う感想はいくら夜勤明けの回らぬ頭でも稚拙すぎる。煙草の煙を溜息と共に吐きながら彼女は自嘲する。
しかし。
「わかるッ? 『カズヤくん』、ちゃんとバトル中にポケモンを交代してるのッ!!」
どうも彼女の感想は的外れなものでもなかったらしい。それはそれでどうかと思うが、テンション高く話す少女の言葉は否定ではなく肯定的なものが返ってくる。
「あー、ごめんね私ポケモンバトルに詳しくないから間違ってたら悪いんだけど、それって、結構初歩的なことじゃない?」
まるでそれが凄いことなのだと云う感じで少女は騒いでいるが、ルール等にすら疎い彼女にですらわかる位にはそれはポケモンバトルという競技では当たり前に行われるものであるはずである。
「うん。多分ッ。出来ない人『カズヤくん』以外で見たことないし! あ。相手のポケモンが倒れたタイミングで別の仔にするのはやってたけども」
「おう……あーうん、成長したのね」
そう云えば何度か件の『工藤 一哉』達がポケモンバトルをしている動画はこの少女経由で何度か観たが、試合内容は圧倒的だったが確かに一度出したポケモンが相手のポケモンを倒すまで出ずっぱりで戦っていた。バトルが苦手だと自称していたが、そこまで出来ないのだとは思っていなかった。そして、それでも強いのだから
質が悪い。そう彼女は思う。
だが、しかし、只、戦うポケモン達の後ろで立っているのではなく、初歩的なことでも出来るようになったのならば、それはまあ素晴らしいことだろう。そうも考えて、どうにか称賛の言葉を絞り出す彼女。
それに対し電話口の先の少女の返した言葉は、
「や、『カズヤくん』の成長っていうか、これ多分『りり』ちゃん――あ、ガブリアスね。が全部指示出してるっぽいんだよね。自分が出てる時は尻尾を地面で叩いて、ボールに居る時は揺らして合図してるっぽい」
というこれまた彼女の常識とは乖離したものであった。
「マジかよ」
「マジマジ。大マジ」
思わず口からそんな言葉が出た。彼女は大きく深呼吸して紫煙吐き出しながら罅割れた画面に再生されている動画へまた視線を戻す。自分のポケモンに指示されるポケモントレーナーなんて彼女は聞いたことがない。しかし少女の話が事実であろうとなかろうと、罅割れた画面の中に映る青年とそのポケモン達は、彼女の目には“凄く動いている”ポケモンバトルを繰り広げている。
ポケモンバトル競技者の上澄みが集まるポケモンジムの、その長であるジムリーダーとその強力なポケモン達を相手にである。ジムバッジを授けるに値するかの評価の場でもある故にジムリーダーが本気かは彼女には知る由もないが、もし彼女と相棒が挑んだら何も出来ないであろうことはわかる位に洗練されている。しかし素人目には青年達の動きがその動きに劣るものでは決して無い。
ユキメノコが。ヨノワールが。ミミッキュが。バンギラスが。ドラパルトが。そしてガブリアスが。入れ代わり立ち代わり、バトルフィールドでジムリーダーのポケモンを相手に暴れ回る。凶暴で凶悪な笑声と咆哮を響かせて戦う異形達の後ろには、彼女には只々立っているだけにしか思えない青年『工藤 一哉』が居る。目の前のポケモン達の動きを凝視しているのが、時折ズームになってアップになるためにわかる。そして時折、マイクに拾えない声で何かを言っている。
大声で己のポケモンへと指示を飛ばすジムリーダーとは全く違う。しかし、強い。素人目にもそれはわかる。それは否定しようがない。
「はあ。あんたのライバル、ほんっとに変わってるわね」
「そう? どんなでも、私達に勝ったんだからライバルだし、次やったらあたし達が勝つけれど。でも『カズヤくん』達が強くなってるのはとっても嬉しい」
トレーナーである青年の様子とは正反対なポケモン達の、狂暴としか言いようのない戦いぶりを観て尚そう笑って云う少女を彼女には理解できない。だが、この少女が嬉しそうに楽しそうにこう言っているのだから、それでいいのだろう。
だって、彼女には関係の無いことだから。
才に満ち満ちて溢れんばかりの少女とそのポケモン達の快進撃を見守るのは面白い。
逆さに降って固く固く絞っても何も出ない位に才の無い青年とその相棒のバシャーモ、それに叩きのめされる邪悪な奴らの様子も傍から眺めているのは面白い。
だがそれだけだ。積極的に関わろうとは思わない。連絡があれば応対するし、見かければ話しかけもするがだからといって深入りするつもりもない。
少女は幼く、青年も彼女より年下で頼りないのでつい老婆心がわく事もあるが、それは知り合ってしまった者達が不幸になるのを見るのが不快だからというだけ。
「割れ鍋に綴じ蓋、は違うか事案になるわ。まあ何にせよ、良いライバル関係なのならよかったわ。それで、ライバルの方気にしすぎてないで、出る大会の準備の方は大丈夫なんでしょうね」
「われなべ? 準備は
大丈夫ッ! 切り札もちゃんと使えそうだし順調ッ!!」
ふんすと自信満々に返ってくる。そんな少女と、更にバッジを八つ揃えたと云うなら青年も同じポケモンバトルの大会に出場が決定している。
それは、シンオウポケモンリーグと呼ばれるこの地方のポケモンバトル狂いの上澄み達が延々と戦っているポケモンバトル競技者のメッカ、その上位リーグの今期戦績上位一位から五位までとの勝ち抜き戦に挑むためのトーナメント戦である。今期シンオウのジムバッジを八つ総て集めた者達と、それ以外にも開催されていた予選突破者達によるたった一人の挑戦者を選出するこの大会は、上位リーグ戦績一位――チャンピオンを決定する試合と同じ位に或いはそれ以上の人気を誇る。と云うか此方を指して“ポケモンリーグ”と呼ぶ者も居るくらいである。
あまりポケモンバトルに興味のない彼女でも、チャンピオンと戦績二位から五位の通称『四天王』の名前や顔は別の地方の者達も含めて何となくは覚えている。それらに挑戦し、殿堂入りを果たす事を夢見た
挑戦者が現れるこの大会は年に一度の風物詩として報道にも熱が入るので自然彼女の目にも入ってくる。
「ならよかった」
そんな大会に、知り合いが二人も出場する。あまり無いことだろうし、凄いとも思う。面白そうなので観戦するだろうが、だがそれだけだ。大会が開催されて勝った負けた、その結果に至ったのは何が原因か。そんな事は当人が一番わかっているだろうし、そもそも試合結果に何かを思い、言うほど彼女は興味もない。
「ああ、そういえば『カズヤくん』の、あの終わってるゲンガー達、意外と面倒見いいところもあるのね」
だから彼女は特に拘ることもなく、話を変える。そういえばまだこれは話したことがなかったなと思い出して。
「え? なにそれ何かあったの?」
「なーんか前にあんたより更にちっちゃな
兄妹が来てね、その子達アチャモとゴースをパートナーにしてて、
最終進化形態を連れてる彼に話聞きたいってのがあったのよ」
その時は夜も遅かったが、どうも変な時間に昼寝をしてしまったそうで全く寝る気配がなかった、と云うのはその後合流した兄妹の父親の談である。
「へー。『ちゃちゃ』ちゃんはともかく、『がが』は危なそうだけど」
「ねー。あたしもそう思って近づかないように言っといたんだけど、まあ近づかないようにしてたら面白がって近寄ってくるような奴じゃないあの悪霊」
面倒くさいので総て青年に任せてしまおうと思っていた彼女だったが、流石に心配になったので兄妹とその父親への説明や注意事項を仲立ちしてやった。という事を思い出しながら彼女は話を続ける。
「わかる。バトルの録画観た感じでも性格めっちゃ悪いよね」
「他のゴーストタイプ達も似たりよったりだし、よく生きているわねほんと彼……てのは置いておいて、まあそれでその兄妹がねフレアドライブとシャドーボールを見せてほしいってのよ」
「へえ。でも、『ちゃちゃ』ちゃんのも『がが』のもどっちも極まってて、あんまり参考にならなくない?」
「まあ、教えて欲しいじゃなくて、どんなもんか見てみたいって感じだったんだけどね。で、まあ見せた後には出来るようになりたいってなっちゃったけども」
在り方や性格等は置いておけば青年の手持ち達は明らかに強者である。そんな異形が放つ技にポケモンを迎えたばかりの子供が心奪われないわけがない。
「まあわかる。私も居たら同じこと言ってる。それで? 『がが』が意外と親身になってその『ゴース』にシャドーボール教えたの?」
「んー、親身ではなかったな。てかゲンガーだけじゃなくて彼の手持ちのゴーストタイプ全員で
幼気な妹ちゃんとゴース囲んでゲラゲラ笑いながら教えてたのよねぇ」
只でさえ深夜であるのに、そんな暗がりで亡霊共が幼子に纏わりつく悍ましい光景にゾッとした彼女と同じくギョッとした顔をした兄妹の父親が慌てたが、何か行動を移す前に青年が「面白がっているだけなので大丈夫ですよ」と制してきた。留まってよくよく観察してみると、確かに害意は感じられない様子ではあった。ゲンガーやヨノワール、ドラパルトの耳障りな笑声やユキメノコの小馬鹿にした笑い声が響く中で、おどおどと困惑したゴースと幼女へと近づいて目の前でシャドーボールを生成するミミッキュと、賑やかで恐ろしい悪霊達によるおどろおどろしい状態でのシャドーボール講習が開催されていた。
もう一方の自傷をも
顧みないフレアドライブは未だ早いと云うことで、ニトロチャージをバシャーモに教わっていた兄とアチャモの方とは正反対の騒々しさである。
「なにそれ
怖い」
「実際に見るともっと怖いわよ。肝が冷えたわ。あ、因みにお手本や練習のシャドーボールの的はバンギラスでね。悲痛な悲鳴みたいな咆哮を上げながら悪の波動とかで必死に相殺してた」
逃げたり反撃しようとするとゲンガーにぶん殴られたりもしていて大変に不憫だったな、と彼女は思い返す。
「なんだろ、
同種族だから優しくしてる? ……いや、『よの』とか『ゆき』にも優しいんだっけ。タイプにゴーストタイプがあると?」
「捕獲して連れてきた時の傷の感じからして、ミミッキュは瀕死まで追い込んでるわよあいつ。ていうか、あれで生きていたミミッキュの生命力が凄いから瀕死で済んだ、が正しいか」
「えー。わからなすぎる……」
「ポケモンの、それもあんなのの思考なんて考えるだけ無駄よ無駄。無駄無駄。どうせ理解出来ない」
「まあ、そっか。それで? その
兄妹の『ゴース』ちゃんと『アチャモ』ちゃんはシャドーボールとニトロチャージ使えるようになったの?」
「アチャモの方は結構様になってたわよ。ゴースの方はエネルギー球は作れるようになってたけどそれを撃ち出すまでにはならなかったわねぇ」
極論炎を纏って突撃するだけの技と、得体のしれないエネルギー球を生成して撃ち放つ技とでは難度に差はあるのだろうなぁと彼女は漠然と理解しているので、バシャーモとゴーストタイプ達に指導力に差があったわけではないのだろう。
「へえ。『ちゃちゃ』ちゃんは確りと教えてくれそうだけど、ゴーストタイプ達も思ったよりもちゃんとやったんだ。後は自主練とかトレーナースクールとかかな」
「そこまでは知らない。けども何か休日はちょいちょい
職場に来るようになってね。今も『
円和』が技の練習の相手してるわよ」
仕事明けで、体力の続く限り動き回る幼子共を相手にして笑顔でそれらを上回るスタミナをみせる相棒は、素直に凄いと思う。バトル等はほぼほぼやったことも無いのに、火を噴く雛鳥と少年、ガス状の幽霊と女の子の二組を軽くあしらっている。
「ハピナスにしても元気だよね『
円和』ちゃん」
バトルすれば強そうなのに。なんて言う天才少女に、「嫌ーよ。あいつもあたしも興味ないんだから引き摺り込まないでくれる。さもないとあんたにはポケモンセンターで働けるような資格勉強させるわよ」と彼女は返す。そもそも、無尽蔵のスタミナと初心者をあしらう程度の動きは出来るが、あの
ハピナスは攻撃に使える技を特に鍛えていないので考えるまでもなく弱いのである。そして共通認識としてわざわざ鍛えるつもりも毛頭ない。必要ないからだ。
不埒な利用者とその
異形が現れたとして、それに対応するのは警備員である。彼女達ではない。なのでそちらは電話先の天才少女や、件の青年の様に強くなってくれるならば職員として安心なので是非そうして欲しい。しかし彼女と相棒の仕事は傷ついた、或いは病に侵されたポケモンの治療であるのだからそちらの腕を練り上げる。
「いやぁぁ勉強いやぁああ……ごめんなさぁい。っと、勉強嫌だし、なんかお話聞いてたら
私達も技の練習しないとな。と思ったのでそろそろ終わりにするね! ありがとー『サトミ』さんッ! またね!!」
「はーい。周りの人とか建物とか気をつけなさいよー」
彼女の言葉に「はぁい!」と少女は元気に返してきて、そして通話が切れる。
それに彼女は元気だな、と感想を抱いて思い出したように煙草を吸う。短くなっていたそれが一気にフィルター間際まで灰と化す。それを灰皿に落とし肺に溜めた紫煙をふぅと吐き出して、やはり更にもう一本吸おうと咥えた所で、
「あれ? 『先輩』? ……ああ、だからか」
「あん? いやあんた勤務入ったばっかでしょうに。もうサボり?」
職場の後輩がサボりに来た。数少ない愛煙家なので、
喫煙所でよく会うし、よく話す。
「失礼な。ちゃんと皆にめっちゃ謝りながら来たタバコ休憩ですッ。先輩のハピナスちゃんみたいに仕事終えて更に子供の相手して走り回るタフさは無いので適宜休憩が必要なのです!」
彼女の隣に座って早口にそう言い切って、煙草に火を点ける後輩。
「だとしたら
煙草が原因だから止めなさいな。……ん? ああ、『
円和』まだあの子達の相手してた?」
「ああ、はい。ほんとタフですよねー」
「そうねー。体力ならまだ負けないけど、あいつ優しいからねーあたしと違って」
煙草を吹かしながら彼女はそう返す。それを聞いた後輩は、ケラケラと笑いながら更に返してくる。
「先輩も優しいですよ。――だってサボってる後輩を許してくれてますからねッ」
「優しい優しいあたしが、あんたの眼球で煙草の火を消す前にとっとと戻りな」
なので彼女は笑顔で煙草を眼前に突きつけながら言ってやる。
「ほーら、優しいから無言で目を焼いてはこない……ニコチンちゃんの充填完了したので戻りまーす!」
にへらと笑いながら、後輩はそう言い残して風のように戻っていった。
はあ、と紫煙混じりの溜息を吐いて天を仰ぐ彼女。仕事は出来る奴で、悪い奴じゃあないし人当たりも良いので別に嫌われているわけでもないんだけどなぁなんて思う。しかし致命的に軽い。優秀なのにどうも言動に説得力というものが伴わない。
そんな、説得力の無い後輩に優しいと言われた彼女は天を仰いだまままた紫煙を肺に入れて、吐き出す。
吐き出された煙は勢いよく天へと昇っていく。
雲も無い青く済んでよく晴れた空に。
それを見て夜勤明けである彼女は、晴れすぎていて少し苛つくな。そう思った。
fin.