森の旗と君の傍〜もりのはた おやのはた 6 years after〜
夏の陽射しはこれでもかと言うほど眩しく暑い。照り付ける太陽、それは海辺では気持ち良いと表現するに相応しいが、建物だらけの都会となると別の話。ガラスを貫通して降り注ぐ光は、直接浴びずとも空間そのものを暖め――否、熱していく。じりじりと焼かれるような熱線で、たちどころに部屋は灼熱地獄と化してしまう。夏の猛威とはまさしく、暑さに集約されると言っても過言ではない。
「だがしかし、文明の利器にかかれば夏の暑さも何のその、であった」
現代の学校には教室にもエアコンが設置されている。夏場は冷たい風を、冬場は暖かい風を電気代と等価交換で齎してくれる、誰もが知っている優れもの。お陰で猛暑だろうと冷房が効いていて、快適空間をいとも簡単に作り出してくれる。窓際に佇む少年も、文字通り涼しい顔で快楽を享受していた。
「お前、誰に向かって実況してるんだ。夏の暑さにでもやられたのか?」
「失敬な。この涼しい空間で頭をやられるはずがあるものか」
「じゃなければ、現実逃避か? もう夏休みだけど」
学生が望む大型連休の一つ、それが夏休み。こんもりと宿題を課されて涙目になる反面、一ヶ月以上の休みを貰える至福と苦痛の矛盾を孕んだ一時。学校という束縛から解放され、一人の子供に戻れる休暇でもある。とは言え、秋に控える文化祭と体育祭に向けて、夏休み中も登校して準備をするという日もあるにはある。意欲的な生徒は少なからずいて、終業式を終えた途端に、クラス毎の準備に向けて意気揚々と動く姿も外には見られる。
「夏休み、だからかなあ」
「なんだよ、黄昏ちゃって。奏人は夏休みが嫌いなのか?」
「うーん、別にそうじゃないんだけど、ちょっと」
クラスメイトに問われながら、奏人はポケットからスマホを取り出す。おもむろに開いたのはカレンダーのアプリ。いつもなら部活の合宿や遠征、練習などで埋まっているカレンダーに、ぽっかりと穴が空いている。
「ちょっと、どうしたんだよ」
「ずっと忘れていた用事を思い出しただけ」
「あっそ。で、どうせこの後真っ直ぐ帰るだけだろ? ポテトくらい奢るから、近くのハンバーガーショップ付き合えよ」
「付き合えって言うなら、もうちょっと奢る気にはならんのか」
「高校生の小遣い舐めんな」
「そこ、威張るところじゃないだろ」
くだらないいつものやり取りに、揃って大声で笑う。学校は午前中で終わってしまい、絶賛暇を持て余している。時間的にも腹の虫が鳴り始める頃。悠長にしていると、すぐに飲食店には長蛇の列が出来てしまう。奏人は配られていた進路希望の用紙をくしゃくしゃにして、乱暴に鞄に押し込む。そうだ、何と言っても夏休み。思いきり謳歌しようではないか――そう何かから逃げるように学校を後にした奏人の足取りは、休みを喜ぶにしてはいささか重かった。
「今年の夏くらいは婆ちゃん達に顔見せに行くからな」
夏休みに入る前、父親が唐突に切り出した。ここ数年、奏人は盆や正月を迎えても、祖父母の住む実家に帰る事はなかった。部活が忙しいだの勉強が大変だのと理由を付けては、両親と暮らす家に残っていたのだ。いつもならそれで承知する両親も、今年ばかりは手強かった。夏休みの予定を把握されているのもあって、空いている日にがっちりと予定を組まれてしまった。
祖父母の事を疎ましく思った事はない。故に会いたくないという事は決してなかった。その思いに相違はないはずなのに、小学校の頃はあれだけ楽しみにしていた祖父母の田舎の家が、いつの間にか遠退いてしまった。物理的に遠いのは言うまでもないが、それ以上に精神的な何かが離れていた。特に中学に上がってからは、露骨に距離を置いてしまっていた。
「思ったより何も変わってないんだな」
見覚えのある風景を眺めていると、郷愁の思いのようなものは芽生えてくる。車に揺られながら、奏人はふと懐かしい場所に思いを馳せる。探検ごっこと称して巡り巡った森。ポケモンと一緒に泥だらけになって走り回った畦道。ずぶ濡れになりながら魚や虫を捕まえた川。自然は何一つ変わらずそこにあって、小さい頃の思い出が想起させられる。フィルムに残る映像をそのまま再生するかのごとく、記憶は今も色褪せず鮮やかに残っていた。
冷房が効いて心地良い車内とは対照的に、外は茹だるような暑さが続いている。豊かな自然という名の代名詞を得る田舎なだけあって、田んぼと集落以外は特に目立ったものもない。変わり映えのしない景色は視界を流れ、何もせずとも目的地に運ばれていく。ここまで来た以上、無駄な足掻きをするつもりは奏人にもない。だが、心はそれに反していた。家の方に近づくにつれて、無性に逃げ出したい衝動に駆られる自分がいるのを、どこかで自覚せずにはいられなかった。
久しぶりに足を踏み入れた実家は、前に来た時よりも狭い気がした。前回奏人が来たのが中学に上がる頃で、そこからもちろん身長は伸びている。記憶にある家屋が大きいのでも、今の家が小さいのでもなく、純粋にそれを見る少年自身が成長していただけであった。
広さの感覚こそ変われど、内装は記憶にあるそのままだった。玄関入ってすぐにある電話も、台所と繋がった小さな居間も、外が一望できる縁側も、全て昔のまま。年季の入った調度品も、埃一つなく掃除されている辺りに、祖父母のこまめさが窺えた。
「奏人、よく来たねえ」
長らく顔を見せに来なかったというのに、祖父母は揃って温かく迎え入れてくれた。どちらも前に見た時より腰が曲がっていたが、相変わらず元気でやっているようだった。まだ畑仕事もばりばりこなしていて、今日は新鮮な野菜でご馳走を作ってくれるとの事。長時間の運転で疲れた父親は、早速居間で寝転がって休息モードに入っていた。母親は冷蔵庫を確認の後、買い出しにと車を出して最寄りのスーパーマーケットへと向かった。
両親は到着早々実家に溶け込んだというのに、奏人は一人浮いているような感覚を抱いた。父のように運転が出来るわけでもなければ、母のように料理が出来るわけでもない。ここに来たのも遊びに来るようなもので、何かを求められてはいない。だが、妙な手持無沙汰感が、空虚な心を揺さぶる。
「奏人、する事がないんだったら、昔みたいに外で遊んで来たらどうだい?」
「ああ、うん」
祖父母からの提案に、生返事しか出来なかった。昔と同じように見てくれる祖父母を悪いとは思わない。昔と同じ拠り所になるという意味では、むしろそれが心地よい時だってある。一方で、自分は成長したのだという事を忘れられているような気がして、反抗心のようなものが湧いてきてしまう。祖父母の好意ゆえに悪気がないのが心苦しく、妙に空虚感が押し寄せて逃げたい衝動に駆られていた。
ポケットからスマホを引っ張り出し、何となく弄りながら階段を上る。かつて自分の部屋として使っていた場所は、今は空き部屋となっている。今住んでいる家に持って行けなかった分は、そのまま残してくれているらしい。出て行った時の記憶のままに、部屋は過去の姿を留めている。
部屋の中には熱気が篭っていて、窓を開けて換気をする。決して心地良いとは言えない、生暖かい風が外から流れてくるが、密閉状態の部屋よりはましだった。特に何をしたいと思うでもなく、中央に寝転がって足を伸ばしてみれば、壁にぶつかった。昔はあんなに広いと感じていたのに、などと感慨にふけっていると、スマホの画面をタップする指が止まった。
「あいつ、元気にしてるかな」
村を、森を、一緒に駆け回った面影が脳裏を過る。同い年で同じ背格好、気も合う親友。時間が合えばすぐに会って、とかく共に遊んで楽しい時間を過ごした。学校の休暇だけなんて言わず、それこそ学校の帰りなんかもずっと一緒。このままずっと仲良しでいるものだと、あの頃は信じていた。転機が訪れるまでは。
奏人は父親の転勤の関係で引っ越す事になった。それはちょうど中学に上がろうかという頃。連絡先も交換して、またいつでも会えると思っていた。関係はずっと変わらないものだと思っていた。物理的に離れても、関係は変わらないままでいられる。それは単なる幻想だと思い知るまでに、大して時間は要しなかった。
気が付けば、連絡の頻度が減っていた。学校での出来事を電話で逐一話す程だったのが、メールでの短文に変わった。それはいつしか季節の変わり目くらいに思い出したように連絡する程度になり、誕生日のお祝いメッセージすら送り合わなくなった。
そりが合わなくなったとか、嫌になったとかではない。勉学や部活動において小学生時代以上に忙しくなり、互いに煩雑さにかまけた結果に過ぎない。だが、きっかけが何であれ、徐々に溝が生まれていったのは確かだった。お互いに望んだ事ではなくとも、時の流れというものは残酷で。下手に間が空くと、どの機会に連絡をすれば良いのかも図りかねて、同じような距離感でなどいられるはずもなくなっていた。
それでも、心の片隅にだけは見慣れた姿がいて、ずっと引っかかっていた。お盆の度に実家への帰省を遠ざけようとしたのも、今さら合わせる顔がないと思っていたためだった。どう接して良いのかわからない。昔は仲良しだったという過去の輝かしい記憶が、今を蝕む呪詛のように成り果てていた。
難しい顔をして、奏人は一人唸り声を上げる。その鬱屈した様子に反応して、床に置いたボールからルカリオが飛び出してきた。しゅたっと着地を決め、主人の体を揺する。ルカリオというポケモンは、波動による感情の読み取りに長けている。読心術ではなくとも、それに近いところはある。主人の心の乱れに、いち早く気付いて何とかせねばと動いたらしい。
「何だよ、俺は別に困ってなんかない」
波動を操れるルカリオに嘘は通じない。その真っ直ぐな眼差しは、言葉が通じずとも何を言いたいか想像はつく。一度逸らしかけて、その途中で自問する。このまま逃避するのは簡単だが、ここで逃げ出しては一生引きずったままではないかと。そういう悩みに至った時にこそ、親友と経験した不思議な出来事を思い出す。
あの出来事を経て、さらに仲良くなった。親と遊ぶ時間が取れなくても、それ以上に楽しい時間を過ごせる親友がいる。そう思えただけで当時の自分がどれだけ救われた事か、考えなかった事はない。なればこそ、こんなところで燻っているなど、昔の自分に笑われそうな気さえした。
「わかった。思い出の場所に行ってみよう。そうしたらきっと、空白の時間を埋める何かが見つかるかもしれないからな」
善は急げと、がばっと起き上がる。ナマケロからヤルキモノに進化したような変わりようだった。ルカリオは奏人の呼びかけに、元気な鳴き声を以って応じる。
ここからいつも遊んだ森まで、そう遠くはない。何せあの時だって、子供二人で荷物込みで移動出来たくらいだ。部活で鍛練を重ねて成長した体なら、むしろ準備運動くらいにしかならないだろうと思う。
スマホをひとまずポケットに突っ込んで、階段を速足で降りていく。台所にいた祖父母だけに外出の旨を伝えて、手荷物はなしでサンダルを履く。がらがらと引き戸を開けて踏み出した一歩は、履物を変えたという要因を抜きにしても、どこか軽い気がした。
脇に流れる川のせせらぎが耳をくすぐる。流れは緩やかではあるが、確実に移ろう水は自身の境遇のようで。一人と一匹が歩む道程は昔と同じとはいかなかった。一歩の幅は昔より大きくなったのに。距離も近いはずなのに。何故か想像していたよりも遠く感じた。すぐそこが遥か彼方のようで。しばらく訪れない内に、かつての景色が遠退いていた事をつくづく思い知らされる。見慣れた世界が別世界に取り込まれてしまったようで、不安感を禁じえなかった。
冷房の効いた快適空間ではない。アスファルトから照り返す灼熱が全身を包み、否が応にも汗ばんでくる。背中にべっとりとへばりつくTシャツには不快感さえ覚える。それがどこか、一方では心地良さを感じさせた。懐かしさとも言えるそれは、疲労の蓄積する体であっても、不思議と力を湧かせる源泉となっていた。
無心で歩く内に、いつの間にか太陽をやり過ごせる森の入り口まで辿り着いていた。奏人はルカリオを見遣る。こちらを向いて笑っていた。奏人も負けじと白い歯を見せて笑顔で返す。通じる言葉を交わさなくても、波動を介さなくてもわかる。同時に前に向き直って、一人と一匹は涼しげな森へと足を踏み入れた。
鬱蒼と茂った植物も、遠くから聞こえてくる鳥ポケモンの囀りも、森は昔とちっとも変わらなかった。一方で、冒険する少年は体が大きくなったのもあって、昔以上に枝葉のアーチによく引っかかる。服に引っ掛かるだけならましだが、あいにく自然は久方ぶりの来客には優しくない。夏で半袖短パンという格好がここでは裏目に出て、肌が剥き出しになっている腕や足に切り傷が生まれていく。ルカリオが心配して鳴き声を上げるが、奏人は大丈夫と笑って返すだけだった。冒険はいつだってこうだったと、思いを馳せるように。その一歩一歩が、傷の痛みも気にならないくらいに軽やかだった。
獣道を抜けて開けた先に、森のシンボルである巨木が視界に飛び込んできた。年輪を刻んだ樹木は、どっしりと森の真ん中に根を下ろしている。方々に長く分かれる枝を伸ばすその存在感は圧倒的なもので、アローラ地方のナッシーが神木化するとこうなるのかと変な想像さえ浮かぶ。何と言っても澄んだ空気に包まれていて、神秘的な力が宿っていたと言われても納得できるくらいである。
「懐かしいなあ。ここでいつも遊び回ってたっけ」
ぐるりと木の周りを歩きながら、ぺたぺたと巨木に触れる。変わらない村の景色。祖父母の様子。森の静けさ。そのままの形で変わらず残るものを目の当たりにしていると、奏人の胸の内で燻るものがあった。何故かぼうっとして、足取りが重くなる。
「懐かしいのはどっちだっての」
虫の鳴き声に混じって、新たな来訪者の声が耳を擽る。前後不注意になっていたのもあって、驚きのあまり苔むした石でうっかり足を滑らせた。地べたにかっこ悪く転んだところに、すっと手が差し伸べられる。目に映る少年は、小麦色に焼けた肌に並んだ白い歯がよく映える、快活そうな印象だった。髪は以前より短くなっているが、その面影に、奏人は覚えがある。
「よっ。久しぶりだな、奏人。お前、変わったか?」
「元気そうで何よりだ、当真。お前は変わらないな」
六年前まで住んでいた頃は、いつだって一緒に駆け回った友人。声変わりですっかり低くなった声も、よく聴けば名残はある。引っ張り起こされた時の力強さで、肉体的な成長も感じられた。少年らしさが抜け始め、逞しさを身に着け始めているといった感じだった。
服に付着した苔を払い落とし、互いに向かい合う。たったそれだけの事なのに、頭の上に重りでも乗せられたかのように、奏人の方は中々顔を上げられなかった。
「最近どうよ、調子は」
「どう、って言われてもな」
最近、という言葉の重みが違った。六年という空白の期間は、大人への階段を上りつつある少年にはとてつもなく長い。昔はどんな事でも話し合って笑いの種に出来たのが、何をどう話して良いのかさえわからなくなっていた。聞かれているならば答えなければという焦燥と、今さらどの口が軽々しく話が出来るのだという恐怖とが、奏人の胸中でせめぎ合う。久しぶりという概念が口と喉を締め付けて、さらに気まずい沈黙を生み出していた。
「どうしたんだよ。そんなに押し黙っちゃってさ」
「いや、何て言うか……ごめん」
「何で奏人が謝るんだよ」
「随分長い事、連絡取ってなかったからさ。俺、お前に合わせる顔がないなって思って」
「連絡取らなかったって意味なら、おれだってそうだろ。そんなの謝る事じゃないっての」
「けど、それじゃ俺の気が収まらないって言うか」
自然と奏人の顔は俯きがちになって、当真の姿は完全に入らなくなる。余計な事を言ってしまった、と一拍の静けさに自己嫌悪を抱いた頃。時間的には沈黙からさほど間を置かずして、ごちん、という鈍い音が響いた。当真の拳が、奏人の脳天を捉えた音だった。
「いったいな……何すんだよ!」
「お前、いつからそんなうじうじする奴になったんだよ! おれ、お前とまた会えるの楽しみにしてたんだぜ? 別に何も感動の再会を期待してたわけじゃない。ただ、元気な顔を見れればそれで良かった。お前はおれに会いたくなかったのか?」
「会いたくなかった、とは違う。会いたかったけど、会うのが怖かったと言うか」
「そういうもんかねえ」
「そういうもんなんだよ」
当真はそれ以上怒らなかった。当真なりに奏人の気持ちを汲み取ろうとして、聞こうとしている。しかし、昔のようにずかずかと踏み込むだけの勇気は、当真の方も持ち合わせてはいなかった。
森のざわつきが一層大きく聞こえる。巨木から広がる枝葉が激しくがさがさと揺れて、無音を作り出さない役を買っていた。喧騒ともまた違う、居心地の悪くない自然の雰囲気。その下で佇む二人は、その空気に身を委ねるのみ。交わす言葉は、止めどなく聞こえる草の合唱のように紡がれる事はなかった。
『やだなー。せっかく二人揃った姿を見れたのに、なんか浮かない顔でさ』
第三者の声。年月が経過していても、その透き通った子供のような声は忘れようがない。かつて二人が“ときわたり”を経験する機会を与えた張本人。存在自体は幻のはずだが、この地域では森の守り神として有名でもある。あの日家に帰って事情を話したら、二人して驚いた事を今でも鮮明に覚えている。懐かしさが込み上げてきて、思わず見つめ合い、強張っていた表情が解けていく。
「久しぶり、だな。セレビィ。今日は何の用で?」
『何の用って、君達が来たから様子を見に来たに決まってるじゃーん。それなのに、何だかしょぼくれちゃってさ』
「い、いや、何か悪い」
『そんなわけだから、昔の事を思い出してもらうために、今日もまた時間を逆行してもらう事にしたのでしたー!』
「えっ、ちょっ、急に!?」
有無を言わさない提案、もとい、強要。二人が動揺した素振りを見せるよりも早く、光が一帯を包んでいく。以前大樹の洞を通った時に比べれば強引極まりないが、光が止んだ頃には転移が終わっていて、心の準備が出来てない以外には特段問題はなかった。何せ本当に何も変わっていないようにしか映らず、変化らしい変化が見当たらなかったからである。
「時間を逆行するって言ったって、今度はいつの時間にやって来たんだ?」
眼前に広がる森は昔から変わらない。大樹も周囲の景色も、“思い出の旗”にも、特に変化は見られない。本当に時を超えたのか怪しくなって、奏人と当真はひたすら周囲をきょろきょろと見回す。“ときわたり”の力を行使したセレビィはと言えば、返答する事なく無邪気に笑っているのみであった。
「おい、答えてくれよ! ここ、いつなんだ?」
『焦らない焦らない。すぐにわかると思うよ。ほら、来た!』
セレビィの指差す方向から、小さな人影が二つ近づいてくる。下手に干渉してはいけないと、二人は慌てて大樹の裏側に隠れた。幹が太い事も幸いしてか、二人が隠れても充分に余りある。固唾を飲んで待つ内に、人影が見えた方から徐々に声がはっきりと聞こえてくるようになる。
「よし、ここならいつも通り誰もいないな。広々とした場所で遊ぶならやっぱここだな」
同じくらいの背丈の、小学生くらいの少年が二人。夏の太陽に負けないくらいの眩しい笑顔を振り撒きながら、大樹の元まで走ってきた。互いに確認するまでもない。そこにいる二人が自分自身だというのが、奏人と当真も呆けたように立ち尽くすという反応が他ならぬ答えとなっていた。
「夏休みももうそろそろ終わりか。毎日遊んでいられるのも残り少ないわけだ」
「だよなー。また学校に通う日々の再来。ずっと夏休みなら、いつまでも遊んでられるのにな」
「確かにな」
傍らでそれぞれの相棒たるリオルとガーディがボール遊びに興じる中、奏人は当真が蹴り上げたボールを受け止め損ねる。幸い木にぶつかって跳ね返り、奏人の足元に転がっていく。拾い上げる面持ちはどこか浮かない様子で、不審に思った当真が歩み寄ってきた。
「なんだよ、ボケっとしてさ。奏人は夏休みが終わるのが嫌なのか?」
「うーん、別に夏休みが終わる事自体が嫌なわけじゃないんだけど、ちょっと」
「ちょっと、どうしたんだよ」
その先を告げようとして、奏人は途中で口を噤んだ。逸らした視線の先で、その視線を追いかけるように動いた当真の目と目が合う。珍しく口を尖らせた様子の当真に、奏人は思わず吹き出した。
「なに笑ってんだよ! お前が言うの止めて逃げようとするからだろ!」
「ごめんごめん。真っ直ぐに向き合ってくれて嬉しいさ。ぼくが嫌なのは、夏休みが終わる事じゃなくて、いつかこうやって遊べる日も終わりが来ちゃうかもしれない事でさ。ふと考えた時に、何となく怖くなったって話で」
神妙な面持ちで話す内に、奏人の強張った表情は徐々に解けていった。同時に思いを曝け出した事で、別の意味で気恥ずかしそうにしだす。だからと言って、当真から目を背けるのも何か違うと、改めて視線を交わしてみれば、当真の方は笑ってみせた。それは嘲笑などではなく、笑い飛ばしてくれるという、清々しいものに相違なかった。
「そんなの、簡単な話じゃね? おれ達、これから何があってもずっと友達でいれば良いだけじゃんか!」
「何があっても、か。出来たら良いんだけど、ぼくもそう思う」
「大丈夫だって! おれ達がその気になれば、何だって出来るさ」
「大きく出たな。でも、当真がそう言うなら、ぼくもそんな気がする」
「だろ? だから、今日も明日も、この先もずっと、楽しく遊ぼう!」
「そうだな!」
少年二人は拳をぶつけ合い、誓いを立てる。その足元ではリオルとガーディが主人たちの真似をして、意味を知ってか知らずか前足と片手をぶつけ合った。互いに要らぬ迷いも吹っ切れたところで、次の遊びポイントへと移動を開始する。その二人と二匹の姿が少しずつ透けて消えていくのを見て、背の伸びた少年達の方は時わたりから戻ってきたのだと実感した。
輝かしい日々。くすぐったくなるようなやり取り。それは昔に置いてきてしまった何かであり、今取り戻さないと永遠に失われてしまいそうな気がする何か。手を伸ばすのが怖くて、昔のように確かめ合うのが怖くて、いつからか避けるようになっていた。本当はずっと昔に、固く誓っていたはずなのに。それすら忘れてしまっていた事実は、過去の自分の眩しさを見せつけられるよりも、遥かに羞恥心を揺さぶる事だった。
かつての自分の姿を見た後で、成長した二人は互いに顔を見合わせる。あの頃と変わらない笑顔を見せる当真に、奏人は困惑する。しかし、大事な思い出を目の当たりにした事で、何かが吹っ切れた。憑き物が落ちたように、奏人も釣られて微笑んだ。
「悪い。俺、大切な事を忘れちまってたみたいだ。お前は昔と変わらず、俺の事を見ていてくれたのにさ。変わる事は怖いけど、それが当たり前の事なんだって、どこかで諦めてた。大人になるって、変化を受け入れるようになる事だって思ってたからさ」
「おれ達が友達でい続けるという事実、変わる必要はないだろ? お前が軽い約束のつもりだったなら、無理強いはしないけどさ」
「ああ、そうだな。本当は俺自身も繋がっていたいと思ってたのに、新しい環境になって何か変わらなきゃって身構えていたのはあるのかもしれない。変わらなくても良い事だってあるのは、ずっと前から知ってたはずなのにな」
「そういえば奏人、変わったと言えば、“俺”って言うようになったんだな。昔のお前からすると似合わねえのなんのって。ちょっと口調も変わったか?」
「うっさいな。思春期真っ只中だぞ。変わってるのくらい受け入れろよ」
「いーや、しばらくはからかってネタにしてやりたいくらいだね!」
悪戯っぽく笑う当真に、奏人はすかさず握り拳でツッコミを入れる。地元に戻って来てから――否、違う学校に通い始めた頃から心のどこかで感じていたようなずれが、この短時間で自然と元に戻ったよう。一度ずれた噛み合わせの悪さが、すっきり強制されたような感覚に近かった。有り体に言えば、ようやく昔の調子が戻ってきた。
「昔と同じ付き合い方」というものには、良い面も悪い面もある。成長とも取れる変化を受け入れてもらえず、どこか昔と同じ自分としてしか見られない。それは一方的に、しかも思い込みに近いものではあるが、奏人が祖父母のたった一言で感じていた複雑な感情だった。
だが、当真の対応はどこか違った。ありのままの自分が帰れる場所として、安心感を抱く「懐かしさ」を内包していたのだ。昔と変わらず付き合ってくれる事で、今の自分も受け入れてもらえるのだと、心の底から思える。当真という存在は、六年と言う月日を経てもなお、奏人がいつでも子供の頃の良さを思い出せる目印――さながら“旗”のようなものに違いなかった。
「当真、ありがとな。俺と会うのを楽しみにしてたって言葉、お前としては自然と口から出たんだろうけど、掛けてもらえてすごく嬉しかった。あっちの学校も友達も好きじゃないわけじゃないんだけど、当真とはやっぱ何か違うんだ」
「おっ、愛の告白か? いいぜ、いくらでも聞いてやるよ」
「違うってーの! その、なんだ。一緒にバカやって遊び回った幼馴染って奴は、やっぱちょっと特別ってわけだな」
「そっか。じゃあ、これからもそんな間柄のままで、仲良くやっていけたら良いよな。もちろん六年分の埋め合わせもぼちぼちしながらな」
当真が突き出した拳に、奏人も同じように拳をぶつける。今しがた見た自分達の誓いの再現。顔も少しずつ大人っぽくなって、体格も少年から青年への過程にありながら、輝く笑顔には昔の――無邪気であどけない面影が残っていた。
一度繋がりが切れる体験をした事で、意図せぬ限りは二度と起こらないだろうとは思う。昔ならいざ知らず、今ならば連絡を取る手段にも溢れている。今度は互いに意識し合うようにと願いを込めつつ、拳を離す。
一件落着といったところで、ふと視線を移した先に、見覚えのある粗雑な旗が目に入った。以前同じように二人で時わたりをした際に、互いの父親が秘密基地の――延いては相手との繋がりを保つ印として作ったものだと知った事を思い出す。
「そういえばさ。旗はさ、目印なんだよ」
「国旗だとか、チェッカーフラッグだとか、それぞれに意味はあるよな」
「ああ。けど、それっておれ達も心のどこかに持ってるようなものだと思うんだ。これからきっと、今以上に距離と時間が離れる事があるかもしれない。けどさ、こうやって戻るべき目印があれば、おれ達はいつだって同じ旗の下に集える。おれ達の父さんが、秘密基地の目印として立てたこの旗みたいにな」
棒切れに着いたぼろぼろの旗は、親世代から年月を経てもなお目印を示すものとして機能している。自分達の知らないところで、お互いの父親も同じ苦悩を抱えたりしていたかもしれない。その度毎に今の自分達のように顔を合わせて話し合っては、乗り越えたりしていたのかもしれない。それこそ目の前の旗を目印に、再会するなどして。問いただしていない以上は想像の範疇を越えないが、少なくともそういう繋がりのままでいれたら幸せだろうと二人は思った。
「じゃあさ、今度はここに俺達だけの旗を立てよう。そんでさ、お互いが関与する悩みなんかがあったら、この旗の下に集うんだ。そうじゃなくても、単に遊ぶためでもな」
「それいいな! ここがおれ達の秘密基地であり、帰ってくる第二の家みたいなもんだな」
歩幅が違えども。歩む道が違えども。帰るべき旗があれば、いつだって昔のようにいられる。少しずつ関係は変わりながらも、根底にあるものさえ揺るがなければ、永遠にだって繋がっていられる。過去の自分を見て、今の自分を見つめ直して、ようやく自分達なりの答えに辿り着けた。
一度はかつての親の姿を見て、大人の事情と隠していた愛情を知った。
今度はかつての自分達の姿を見て、変わって良いものと変わらなくて良いものを知った。
良い関係は昔のままに。成長は良い変化として。それぞれ受け入れて、明日を歩んでいこうと誓う。
「それはそれとして。定期的にとは言わねえけど、今度はちゃんと連絡寄こせよ? さすがにまた六年も音沙汰なしは勘弁だぞ」
「当真もな? まあ、ここを離れた俺が先に連絡を絶ったのは悪いとは思ってる。今度からはこっちにも帰省するようにするよ」
「おう。文字や声でやり取りも悪かないが、たまには顔を突き合わせて話したいからな。頼んだぜ!」
新たな旗の下の誓い。一度は解けかけた関係も、振り返ってみればより強い結びつきとなった。帰省の期間も大して長くなければ、またいつもの町に戻れば簡単に戻ってこられるほどこの村は近くもない。でも、不思議と以前ほどの距離の遠さは感じないだろうと、奏人は素直にそう思えた。故郷とはこういうものなのだろうと、改めて強く感じる。
帰省の時間は短いが、これからの時間はまだまだ長い。まずは六年分の埋め合わせをしようと、少年達は歩みを進めながら言葉を交わしていく。焦らなくても良いと思いつつも、離れていた分の距離と縮めたい思いの方が勝っていた。
奏人と当真が仲良く昔のように語らう後ろ姿を見て、時を超えて人の繋がりを強固にする森の精霊――セレビィは、至極満足そうな様子で森の奥へと消えていくのであった。