Predication-21 館の怪しい影
謎の強襲を受けて意識を失ってから、時間の感覚は疎か全ての感覚が失われていた。それがようやく自分の支配下に戻ってきた頃には、鈍痛がじわじわと頭全体に広がっており、痛みを感じつつようやく目の方に神経を集中出来た。
うっすらと目を開けると、床が左側に、天井が右側にそれぞれ見えた。体が倒れた状態である事を認識した上で起き上がり、続いて辺りを見回した。相変わらず放置されて小汚くなっている空間がぼんやりながら視界に入り、未だに屋敷の中にいる事は把握した。
嗅覚を活かそうと自分で意識して呼吸をすると、相変わらず埃まで吸い込んでしまい、息苦しくなるのも同じだった。だが、先程までいたはずの部屋とは家具の配置が異なっており、ほとんど何も無くてがらんとしていた。カーテンも締め切られており、明かりはまたしても様々な隙間から零れる心許ない光しか無かった。
「いつの間にか移動してると言う事は、やはり先程見えたのは何者かの影だったという事かな」
殴られたらしき後頭部を摩りつつ、至って落ち着いた様子で再度辺りを見回した。他に生存反応を有するものは見当たらず、自分を襲ったらしい犯人に繋がる物も無かった。現時点では背後から攻撃を加えてかた犯人に目星が付くはずもなく、遣り切れなくなって仰向けに寝転がった。一様に薄暗さが広がる中で孤独感に襲われ、すぐに耐え切れなくなって起き上がってしまった。その際に身震いして体を縮こませるが、意識を集中して恐怖の具現を押さえ込んだ。
「僕は一体何に脅えてるのやら。本当に怖いのはこれではないはずなのに」
小声で自らに言い聞かせ、小刻みに震えていた体を完全に制した。予想外の体の反応に一時は動揺を見せてはいたものの、持ち前の落ち着きを取り戻してからは素早いもので、パニック状態に陥る事なく、体の自由も利くようになってきた。だるさの残る体を持ち上げて立ち上がると、出口を探すべくうろつき始めようとした。
だが、その刹那、背中に刺さるような、何か鋭利な物を感じた。それは決して物理的なものではなく、かと言って気のせいでは纏められない程に感覚に訴えていた。何も見えていないのに、脱出させまいとする意志がひしひしと伝わってきた。ルエノは伸ばしかけていた足を止めて引っ込め、揃えた状態で背中に背負っていたリュックを下ろした。なるべく音を立てないように本を取り出し、大事そうに抱えた。
準備を整えたところで、いつに無く耳を立てて警戒し始めた。風が窓を叩く音を感じつつも、成る丈部屋の内部だけに集中し、些細な音でも聞き逃さないように気を張っていた。――そして、緊迫するだけの状況は、空気を切るような音によって突如として終わりを告げた。
攻撃的な気を察知して、ルエノは横に向かって全力で跳んだ。足が着地する寸前のところで、その足先に予期せぬ鎌鼬のような傷が付けられた。僅かな痛みなど緊張感で吹き飛び、すぐさま何かが通り過ぎた方向に振り返った。一瞬だけ黄緑色が見えたが、それもまた瞬間的に視界から掻き消えてしまった。
「――っ! “ティテリアー・ヴェント”!」
苦し紛れに“詠唱の無い”中途半端な呪文を唱えた。しかし、期待した通りに発動する事はなく、ルエノは壁際まで弾き飛ばされた。今の突進でそこまでダメージは受けてはおらず、素早く起き上がって周囲を見渡した。影が動いているのが微かに見える程度で、その姿を完全に捉える事は出来なかった。
「焦っては駄目だ。もっと落ち着いて、相手を認識しないと――」
見えない敵への意識を薄め、自分の世界に入り込んで集中力を高めていた。うっかり攻撃されないように最小限の注意を払いつつ、抱えていた本を広げ、内に秘める魔法の力を手の先に溜め始めた。
「【冬の北風を司りしボレアースよ。生命(いのち)の営みを阻害する厳寒の力を以ってして、全てを払いのける一陣の疾風を巻き起こさん――“エカルター・ラファール”】!」
詠唱を唱えきるや否や、勢いよく両手を前に突き出した。圧縮していた力が解き放たれる合図と共に、隙間風が侵入してくるくらいだった静かな空間に、突如として強烈な風が吹き始めた。ルエノの体より手前から暴風圏内となっており、埃を巻き上げながら向かい側の壁の方に冷気の篭った突風が吹き付ける。
素早い身の熟しで動き回っていた相手も、予期せぬ風に逆らう事は不可能だった。突風に煽られ、ちらつく程度でしか認識出来なかった影は、壁にその身を叩き付けられた。その際にようやくあらわとなった正体は、大きな鎌となっている両手と背中から生えた大きな羽根が特徴的で、蟷螂(かまきり)のような風貌をしたポケモン――ストライクだった。
「侵入者、排除する」
片言で呟きながら立ち上がると、ストライクは両の足を曲げて力を溜め、一気に爆発させて推進力とした。動作こそ見えていたものの、その敏捷さは変わらず健在で、壁にぶつかった際のダメージは無いようだった。ルエノもすんでのところで身を翻してかわすが、本の重みもあってそれが精一杯だった。二撃目を喰らわぬように急いで振り返りつつ、目を見開いて急襲に備えた。
「【冬の北風を司りしボレアースよ。生命(いのち)の営みを阻害する厳寒の力を以ってして、全てを払いのける一陣の疾風を巻き起こさん――】」
「【“フェアレトル”】」
呪文の途中で遮るような言葉が聞こえてきたが、一瞬の間にも特に変化は起こらなかった。何よりここまで来て止めるのはリスクが高いと判断し、ルエノは構わず最後の一節を言い切った。
「【“エカルター・ラファール”】!」
足元の魔法陣の発生と同時に、どこからともなく生まれた風が室内に吹き荒ぶ。しかし、ルエノの思惑通りには行かず、風が相手に向かって吹き付けるはずが、何故か自分の背後から風が吹いてきており、体が徐々に相手の方に吸い寄せられていた。
「こ、これは一体どうなって」
予想外の事態に驚いている隙もなく、ストライクがすかさず向かい風の中を突っ切って肉薄してきた。跳躍しながらの接近だったため、ルエノは咄嗟に体勢を低くして、鋭い鎌の一振りを避けた。そのまま互いに風に流されていき、位置がやり取りの前と入れ替わったところで風が止んだ。
ストライクが不敵な笑みを浮かべて佇んでいるのを他所に、ルエノはひたすら現況について考え込んでいた。呪文も間違いなく言い切った上で、魔法陣も現れており、魔法は確かに発動していた。問題はそこからであり、ストライクが短い呪文を唱えた後に、自分の“前”から吹くはずの風が“後ろ”から吹いた事が最も着目するところであった。未知数の力にルエノもごくりと唾を飲み込んだ。
「勝手にこの建物に入ったから怒ってるんですか? もしそうなら謝ります。なので、どうか話を聞いて下さい」
まだ相手の能力に関して確信が持てない以上、下手に攻撃を仕掛けない方が得策と考え、ルエノは話による解決に持ち込もうとした。それに対する回答は、右腕の鎌の一振りから生み出された空気の刃――“しんくうは”だった。わざとすれすれで当たらない攻撃を飛ばし、まざまざと見せつけた。
「聞く耳持たずですか。何だか淡々とした動作が不気味ですが」
防戦一方に追いやられた局面を打破すべく、ルエノも遂に交戦の構えを取った。低い姿勢で別のページを開き、軽く目を通した際に何かに気づいたように顔を近付けた。
(これなら正体が分かるかも――)
自信を持った上で本を閉じ、未だ動きを見せない敵を見据えた。準備運動がてら両方の鎌を軽く振っており、余裕の態度を見せていた。しかし、その振る舞いの割には、表情は一切の変化が窺えなかった。無と言っても過言ではない程である。
「その表情は仮面ですか、それとも素顔ですか」
問いに答える気はさらさら無いようだった。腹を据えて構えると、本を抱えた状態でありったけの力を込めて後方に跳んだ。ストライクがその光景を見ても微動だにしない中で、距離を取ったルエノは一気に息を吸い込んだ。
「【地上の風を司るヴァーユよ。空界を統べる力を駆使して――】」
新たな呪文を繰り出そうとするが、ストライクがそれを見過ごすはずは無かった。今度は二本の鎌を振り下ろし、鋭い斬撃を飛ばしてきた。気づいた時には回避不可能なところまで迫っており、本を庇うような体位で強く弾き飛ばされた。それでも苦悶の声を上げる事なく、ルエノが詠唱の続きを紡ぎ出していくのに対し、ストライクも別の対応に移った。
「【“フェアレトル”】」
「【荒れ狂う旋風を鎮めたまえ――“シャグラン・カルマ”】!」
ルエノは最初から攻撃を受ける事を想定した上で呪文を唱え切ろうとしており、いわば捨て身の作戦だった。体力の消耗を代償にして功を奏したらしく、魔法陣も現れて発動の兆しが見られた。そして次の瞬間には、部屋の中央を起点にして環状に風が広がっていった。風力は先の突風程ではないが、互いに壁の方まで押し遣られた。
「やっぱり。あなたの魔法は“反転魔法”なのですね」
先程の突風を吹かせる魔法――“エカルター・ラファール”と、風を鎮める魔法――“シャグラン・カルマ”によって、ルエノの予想は確信へと変わった。ここに来てようやく相手の持つ力について把握出来た事で、些か心に余裕が生まれていた。しかし、根本的な解決にはなっておらず、劣勢な事に変わりは無かった。
「だとしたら、僕には太刀打ち出来ませんね。かくなる上は」
悟られぬように僅かに視線を動かすと、上手い具合に後方に出口となる扉が見えた。正面から戦っても勝てないと判断したルエノは、背を向けてなりふり構わず走り出した。いくら動きが素早かろうと、距離があっては逃亡を阻止する事は不可能で、結果としてルエノはまんまと部屋からの脱出に成功した。
(しかし、これからどうしよう。このまま逃げ切るのは不可能だろうし)
廊下に飛び出したルエノは、急いで魔法の本をリュックにしまって背負い込むと、四足で駆け出して加速を図った。背後では扉を吹き飛ばす音が聞こえ、舞っている埃の中にストライクの姿を目視出来た。冷や汗を流しつつ、通路脇に置かれた棚が目に留まった。
「しめた……。【冬の北風を司りしボレアースよ。生命(いのち)の営みを阻害する厳寒の力を以ってして、全てを払いのける一陣の疾風を巻き起こさん――“エカルター・ラファール”】」
今度は妨害される事なく魔法を作動させた。ルエノの言う“反転魔法”をストライクが使用する前に、風の勢いで棚が滑走していった。比較的大きな障害物の対応に余儀なくされている間に、ルエノは一目散に走り出した。
道なりに進んでいくと、先は通路が途切れて扉を隔てた一部屋となっており、止むなく中に飛び込んだ。内部はさっきまで戦っていた部屋と同等の広さでありながら、詰め込まれた家具の多さにより窮屈に感じる程だった。机やソファーが置かれている上に全体的に薄暗い事もあって、隠れるには適していた。
「逃げられないのなら、ここは」
ソファーの中央部分が破けていてちょうど良い隙間が出来ており、ルエノはリュックをなるべく小さくしながら体を押し込んだ。潜り込む前よりは些か膨らんでいるが、それでも上手く溶け込んでいた。滑り込めた事に安堵したのも束の間の事で、後を追ってきたストライクが乱暴に扉を破って入って来た。
目で確認出来ない状態でルエノが息を殺してじっと耐え忍ぶ中で、ストライクの足音だけが不気味に部屋中に響いていた。徐々に近づいてくるのが嫌でも分かり、気づかずに通り過ぎて欲しいと必死に願っていた。
「侵入者、どこに行った」
顔を頻りに動かしながら捜索しているが、影も形も見当たらず、ストライクはただ歩き回るだけとなっていた。巡回する度に傍を通っていく足音に肝を冷やしていたが、完全に気づかれている様子も無い事から、激しく鼓動していたルエノの心臓も落ち着きを取り戻していった。一定の間隔で回ってきていたその気配も遠退いていき、ストライクは諦めの姿勢を見せていた。
「なんてな」
危機は去ったと安心した瞬間、ソファーを切り裂いてルエノの目前に鋭利な鎌が振り下ろされた。攻撃こそ当たっていないものの、動揺は隠せずに床に倒れ込んでいた。
「そんな、演技、だったのですか」
本が手の内に無い今は完全に丸腰であり、絶体絶命の危機に立たされていた。いつもは頼もしい魔法でも今回はまるで歯が立たず、むしろこの近距離では無意味に等しかった。ストライクから目を離さないように後退りをするしか無かったが、そうしたところですぐに壁にぶつかる事は目に見えており、観念したように動きを止めた。
「あなたは一体何者ですか。どうしてこんな事を」
「キサマには関係ない。さあ、おとなしくくたばるがいい」
仰々しく鎌を振り上げ、自らの強さを誇示して見せた。ルエノはただその様子を呆然と見つめ、騒ぐ事なく執行を待っていた。最大まで腕が伸びたところで、ストライクは間をたっぷり空けて歩み寄り、切っ先をルエノに向けて振りにかかった。
しかし、鎌がルエノを捉える直前に、不意に轟音と共に壁が崩壊し、爆発の如き威力で破片がストライクへと襲い掛かった。一つ一つが大きかったため、ストライクは次々と流れくる破片の餌食となり、そのまま部屋の奥まで吹き飛ばされた。
「けほっ、けほっ。ふー。やっと狭いところから出られたわ」
巻き上げられた埃と土煙の中から姿を現したのは、隠し部屋に閉じ込められていたピッピ、ポリマだった――。