Predication-3 水が途絶えた理由(わけ)
体に頻りに打ち付ける大量の砂粒に堪えながら、ルエノは北へと向かっていた。先がボサボサの筆でキャンパスに書きなぐった絵のように、空中も含めて四方八方が黄土に覆われている。吹き荒れる風は先程よりは弱いものの、それでも視界が悪い事には変わりなかった。
時々砂が入る目を必死に擦りながら歩いていると、地面に細い一筋の削られたような跡が見えた。頻繁に起きる砂嵐で絶え間無く地面が均(なら)されていく中でも、川の浸食によって削られた地形は変化せずに残っているのである。
その跡を辿って長い間進んでいくと、途中から激しかった嵐も徐々に止んでいった。町に来る前に魔法で相殺したように、舞っていた砂も元の陸地に落ち着いた。しかし後ろを振り向くと、まだ視界いっぱいに砂が飛び交っている。まるで、何物にも汚されない聖域に入ったようである。
「良かったぁ。もう砂嵐はご勘弁だから、ね――」
安堵の溜め息を吐いたのも束の間、思わずルエノは言葉の終わりを濁す。それは、その先に見える光景に驚嘆したからである。
水も緑もない不毛の地と呼ばれる砂漠において、今ルエノの視界に入っているのは、その無かったはずの緑。生い茂っているとまではいかないが、それでも辺りを広く覆い尽くすように深緑の草や樹木が生えている。
しかし、ルエノが驚いたのはそこではなかった。その緑が囲む溜池のようなもの。これがサンザードのポケモン達に潤いを与えている水“だった”とわかったからである。透明で澄み切った、飲めるような水など、そこには既に無い。どろどろとした粘性のある紫色の物体が水面に浮かんでおり、決して安全に飲めるようなものには見えない。それが川へと繋がる部分を塞いでいるようであった。
「これは、酷い。飲めるとか飲めないとか言う以前の問題だ……」
湖畔をてくてくと歩きながら、そのただならぬ様子にルエノは唖然とする。明らかにこの辺に存在する物体ではないはず。そう考えると、ますます原因がわからなかった。だからと言って、この中に安易に入る訳にも行かず、対処に困り始めたその時だった。
「何か、また侵入者か。お前も、我々の住家を脅かしに来たのか?」
背後の紫色の物体が浮かぶ水面から、不意に声が聞こえたルエノは、構えながら恐る恐る振り向いた。水面に浮かぶ物体は徐々に膨張していき、その上部に小さな目が、中部には大きく開かれた口が見えてくる。その正体は、“ヘドロポケモン”と呼ばれるベトベトンである。
「住家を脅かすなんて、とんでもないです。ただ僕は、ここはみんなのオアシスであって、あなただけの物ではない。もちろんあなたにも使う権利はあるけど、独占するのではなく、あなたが譲ってみんなで共有するべきだと言いに来たんです」
それは歯に衣(きぬ)着せぬ物言いにやや近かった。ルエノは臆する事なく、事態を解決する為の考えを全て伝えた。ポアロと話す時とは違う、あの落ち着いた雰囲気で。相手の考えを真っ向から否定するのではなく、相手も納得いくように説得しようとする。
「ふっ……。そうは言っておきながら、どうせ追い出すのだろう?」
ベトベトンはもはやルエノの言葉には聞く耳持たずと言った感じだった。大きく息を吸い込んで口を一旦閉じて、体の中に何かを溜めるような体勢になった。その時点で相手の次の行動がわかったルエノは、両手を前に出して呪文を唱え始めた。
「【西風を司りしゼピュロスよ。その春の訪れを告げる豊穣の力を以ってして、立ちはだかるものを打ち消し賜え――“ティテリアー・ヴェント”】」
ベトベトンの口から、その体と同じ紫色の粘液――“ヘドロこうげき”がルエノに目掛けて吐き出された。対するルエノは、目前に迫る攻撃に動揺する事なく、そっと目を閉じる。
その刹那、足元に魔法陣が現れ、地に生える植物を優しく撫でる、暖かい春風がその場を吹き抜けた。それは穏やかさの中に力強さが感じられ、ルエノに迫っていたヘドロを洗い流すかのように吹き飛ばしていった。その奇妙な光景に、ベトベトンは呆気にとられているようである。
「お前、何をした? 電気タイプであるお前が、風で我の技を吹き飛ばしただと……! 第一、技ではないそれは何だ?」
「あなたに説明する必要はありません。ちょっと変わった力、とだけは言えますけど。それより、譲歩する気になってくれましたか?」
「だ、誰がこれしきでっ! 技を一個防がれたくらいでオアシスを渡してたまるか!」
あくまでも丁寧なルエノの呼びかけを振り切り、ベトベトンは水面から陸地に上がってきた。纏っているヘドロが草原にへばりつき、植物達が急速に萎れて枯れていってしまった。
「どうやらおとなしく退いてはもらえないようですね。それでは――」
ベトベトンの反応を見て、ルエノは残念そうな表情を見せた。四足歩行で走ってその場から離れると、今はすっかり汚れてしまった水面にぎりぎりまで右手を近づける。
「【浄化の光を司りしラファエルよ。聖なる光で悪しき物を取り払い、平穏を齎(もたら)さん――“プルガシオン・ルーチェ”】」
今回は本を読む事なく呪文を空で、囁くように唱えた。輝く魔法陣が現れると同時に、その右手の先から白く小さい光球が放たれた。それが水面に付いた瞬間、光球は水に溶けるように消えていき、水の波紋とともに緩やかに広がっていく。その“光の波紋”は、少しずつながらも、水面に広がる毒性の強いヘドロを打ち消していった。
「貴様、今度は何をした!」
呼び方が「お前」から「貴様」に変わり、ベトベトンは怒りと戸惑いの表情を見せた。目の前で自分の居心地の良い空間が少しずつ奪われているのだから、怒りは当然のものであった。その事に同情の意を示しつつ、それでもルエノは確固たる決意を持って視線を移した。
「交渉しても応じてもらえないのならば、少々強引な手段に出るまでです。こんな事しておいて申し訳ありませんが、改めてお願いします。町の皆さんと共有して下さいませんか?」
「はっ。言葉ではへりくだってるつもりだろうが、行動の方は結局実力行使じゃないか。ここまでされて、おとなしく従うと思うか?」
もう一度交渉を持ち掛けるルエノを、ベトベトンは怒りの篭った小さい目で睨みつけると、体には似合わず素早い動きで接近してきた。身構えるルエノの目前まで迫ると、猛毒のヘドロの手を勢い良く振り下ろす。
それに対して、ルエノは軽い身のこなしで後退してかわした。すかさず追撃を仕掛けようとするベトベトンは、再び口を閉じて構える。だが、一度目にさえ通用しなかったものが、同じ手で二度目に通用するはずもなく、“ヘドロこうげき”は風の魔法で弾かれてしまった。
それでもベトベトンは攻撃の手を緩めようとはしないが、いずれも空を切るばかり。ルエノも決して素早い動きではないが、全てをかわしていた。しかし、隙が出来ても、一向にルエノは攻撃を加えようとはしない。まるで相手が攻撃を止めるのを待っているかのようである。
「貴様、我を舐めているのか? 攻撃を仕掛けてこないなど」
「いえ、そういう訳じゃ……」
ルエノの態度にますます苛立ちを募らせるベトベトンは、さらに力強く地面を叩きつけた。その際に飛び散るヘドロが周りの植物にかかり、生気をなくしていく様子を見たルエノは、申し訳なさそうな面持ちになる。
「もう、止めませんか。このまま続けても無意味ですし、何よりオアシスがめちゃくちゃになってしまいます」
「……その態度が舐めてると言ってんだ! これでも無意味と言えるか?」
不気味な笑みを浮かべながら、ベトベトンはすっと左手を上げた。何が来るのかと身構えるルエノだが、何もする様子はない。そうして安心した時だった。
背後から水分を含んで柔らかくなったものが放つ独特の音が聞こえて振り返ると、三匹のヘドロのようなポケモンが近づいてきていた。ベトベトンよりは一回り小さい、ベトベターという種族である。
「挟み撃ち、という訳ですか」
ルエノは冷静に状況を判断しながらも、焦りは隠せなかった。絶え間なく振り向いて後ろを確認しながらも、ベトベトンの方は向いたままでいる。
「これなら避けられないからな。元はと言えば、貴様が勝手に住家を荒らし始めたのが悪いんだ。覚悟するんだな」
先程は見せなかった余裕の表情で言い放ちながら、ベトベトンはじりじりと詰め寄ってきた。確実に倒す為に、直接手を下すつもりなのであろう。
しかし、その歩みは途中で止められる事となった。脇から突如奔(はし)ってきて直撃した、一筋の黄色い稲妻によって。それが飛んできた方には、桃色の小さい頬袋から微弱な放電をしながら威嚇しているポアロの姿があった。
「お、お兄ちゃんから離れろっ!」
小さい体で必死に勇気を振り絞って叫ぶポアロだが、その足は恐怖のせいか小刻みに震えている。
「ぽ、ポアロくん!? どうしてここに!?」
「絶対にここに来るってわかってたから、お兄ちゃんのお手伝いをしたくて……」
ポアロの助けは嬉しいものの、ルエノは先程よりも激しく動揺していた。何とかポアロに危害が及ばないようにしなければ――そう決心して再び視線を戻すと、電撃を受けたベトベトンが怒りと笑いとが入り混じった顔色を見せていた。
「よくもやってくれたな……このガキがっ! 貴様から先に片付けてくれる!」
ポアロの一撃を喰らっても、ベトベトンにはさほどダメージが無い様子だった。即座に攻撃体勢に入り、今までの中でも一番短い溜めで“ヘドロこうげき”を放ったのだった。自分に攻撃を加えたポアロに向かって――。