第四十五話 運命の七夜目〜星の君に起こる異変〜
白く燦々と輝いていた太陽が、緋色と橙色の衣を纏った夕陽と呼ばれる物に移り変わっていってから後は、天空の変化は著しかった。すぐさま青く澄んだ空全体に真っ黒の布が掛けられ、先まで大地を照らして暖めていた光の一切を遮断してしまう。
そして、陽光の代わりとばかりに、入れ替わりで月と星が静かに潜めていたその姿を現し、光を放って照らし始めた。その中でも特に目立つのは、ティルが来た日以来忽然と姿を消していたはずの彗星だった。核となる先っぽの部分は大空に浮かぶどの星よりも輝いており、そこから真っ直ぐに伸びる青っぽい尾と緩やかな弧を描くようにして伸びる白っぽい尾により、暗いはずの夜に一層強い明かりをもたらしている。
「うわぁ、またあの彗星を見れるなんて。すごく綺麗だなぁ」
幻想的な夜空を眺めて感慨に浸っているのは、夜風に自慢のふわふわな茶色の毛を靡かせているイーブイのアルムである。遥か上空で最も輝きを放っている天体が今まで空から消えていた事に疑念など抱く様子もなく、純真な気持ちで佇んでいた。
「アルム、ここにいたのね」
アルムの背後からゆっくりと近づいてくる一つの小さな影があった。彗星の光度のおかげでその姿ははっきりと見え、アルムは振り返りながら表情を綻ばせた。
「あれっ? シオン、どうしたの?」
「それはこっちの台詞よ。フリートに誘われて一緒に森に行ったのに、突然いなくなっちゃって。森に戻りたくないの?」
優しく微笑みかけているマリル――シオンの方に自ら歩み寄り、アルムは小さく首を横に振った。強い否定を示すものではなく、どっちつかずな感じの動かし方である。
「ううん、戻るには戻るけどね、ちょっと外に出たくなったんだ。すごく胸騒ぎがして。そしたら、この空が見えて、もっと広い場所で見たいと思ったの」
「そう、確かに綺麗な星空だものね」
アルムに寄り添うようにして、シオンも眩い光を放つ星々の方に視線を遣った。感嘆の声を漏らしつつ、全体的に観察してもう一度アルムの方に視線を戻すと、彗星の浮かぶ空を食い入るように見つめているのを捉えた。一方で、シオンに至近距離で見られているのに気づくと、アルムは恥ずかしそうにはにかんで見せる。
「あ、あのね、今までは消えていた彗星がまた現れて、まるでティルが僕たちの村にやって来た時みたいなんだ。それで、やっぱり今から何か起こるのかなぁって思って」
その瞳には空に浮かぶ美しい星と一緒に愁いの色が映っており、僅かに揺らいでいる。アルムは態度に出ないように必死に隠そうとしているものの、瞳だけではなく声色にも心情が表れているのがシオンにも容易にわかった。
「やっぱり少し不安なのね? ティルがやって来てから七夜目の今夜に何か起こるって言ってたから」
「え、ううん。別に不安なんかじゃないよっ」
アルムはごまかすようにして目を逸らそうとするが、シオンにそっと頭を撫でられて動きを中断する。それで心が落ち着いたのか、その場にそっと座り込む。泳がせていた目をシオンの方に戻すと、静かに首を横に振っているのが見えた。
「別に強がらなくたって、アルムは正直にいてくれれば良いのよ。それに、フリートもいてくれるんだから、ティルの事はきっと大丈夫」
「うんっ。シオン、ありがとう。そして、ごめん。少し嘘をついてた。不安な気持ちが全く無い訳じゃ無かったから。みんながいてくれるって事を思い出した今なら、もう不安な気持ちはないけどね」
シオンに暖かい言葉を掛けられ、アルムは垂らしていた耳を元気よく持ち上げる。しかし、未だに全てを拭いきれない様子であり、誰かが心の蛇口を捻ったかのように不安な想いが口を衝いて出る。
「――でも、ティルはともかく、レイルはどこに行っちゃったんだろう。僕があまり接しなかったから、僕の事を嫌いになったのかなぁ」
「私にもわからない。でも、主であるあなたから離れるはずなんて無いから、またひょこっと帰ってくるわよ。そんなに心配する必要は無いと思うわ。だって、あなたはレイルと良い関係を保ってると思うもの」
「えっ、本当に?」
シオンに優しく語りかけられると、アルムは幾分か心が穏やかになったのを実感した。第三者から見たその意見は、アルムにとって気休めなんかではなく、心を安らげてくれる光が一筋差し込んだような感じがしたからである。
「ええ、本当よ。私達の中の誰よりもレイルの事を思いやってるのは、あなただと思うもの。さあ、今はとりあえずそのあなたが帰る番よ。ティル達も待ってるから」
誰かが待っててくれている――そう思うだけで、暗い感情で一杯だったアルムの表情には、いつの間にか柔らかい笑みが零れていた。互いに見つめ合って双方が明るい笑顔を見せながら、アルムはシオンに引っ張られるようにして歩き出した。ヴァロー達が待っている、例の場所へと。
◇
月明かりと彗星の光輝に照らされて歩き続けて二人が到着した先は、フリートの住み処でもある町外れの森だった。背丈の高い樹木たちによって彗星の眩い光はほとんど遮断されているものの、その代わりに枝や葉の隙間から一筋ずつ差し込んでおり、昼間に訪れた時よりも神秘的な雰囲気を醸し出している。
「あっ、アルムが帰ってきたー! どこに行ってたの?」
真っ先に飛び付いたのは、これから何か起こると予言された張本人――ジラーチのティルだった。アルムの不在が寂しかったのか、両手で強く抱き締めている。
「俺だって心配したんだぞ。一緒にここまで来たと思ったら、忽然と姿を消してるんだもんな」
「あ、うん、ごめんなさい。ちょっと気分転換をしたくなって」
呆れたように溜め息を吐きながらも、ヴァローは自身のベージュ色の尻尾を立て、帰りを待ち侘びていたような素振りを見せる。過度に心配していた事を悟られたくないらしく、微笑だけ浮かべてすぐにそっぽを向いた。
「おかえり。これで時間と役者は揃ったようだね――なんて、こんな事を一回言ってみたかったんだー」
町で闘志を剥き出しにしていた時とはまるで違う陽気な声色で姿を現したのは、炎の精霊であるビクティニのフリートだった。彼なりにおちゃらけたようで、その顔に笑みを湛えて右手でピースを作り、アルム達の輪の中に加わる。
「時間は夜になったから良いとしても、役者が揃ったってどういう事だ?」
「まあまあ、焦らないの。もうすぐそれはわかると思うからね」
フリートの振る舞いを気にする様子もなく、ヴァローは核心に迫るべく早速本題へと移した。しかし、一方のフリートはさほど切迫しているでもなく、軽く受け流した。
「ねえ、あんまり焦らさないでよっ。僕たちだってすごく気になってるんだから」
刻々と時が流れるにつれ、差し迫ってくる緊張感に押し潰されそうになっていた。今度はもやもやを解消したい気持ちでいっぱいのアルムがフリートに詰め寄ってみる。
「焦らすも何も、ぼくが何かする訳じゃないからねー。ここはおとなしくしてるのが一番だよ」
真正面からアルムに真剣な目で見つめられても、フリートは一向に答えを明かそうとはしない。だが、口調こそ淡々としているものの、フリートの面持ちは決してふざけているものではないという事にアルムは気づいた。
「そう、わかった。じゃあ、おとなしくしてるね」
それ以上は何も言わずにおとなしく引き下がるアルムを見て、ヴァロー達も成り行きに身を任せる事を決め込んだ。それからは、別段何をするでもなく、だからと言ってフリートと絡もうとしなくなる訳でもなく、思い思いに過ごし始める。
アルムはティルやフリートと会話を交わし、傍らではヴァローが座り込んでひたすら黙っていた。片やシオンは木の実を集めているかと思えば、それをアルム達のところに持っていったりと、いつもと変わらないような時間を送っていた。
それでも、各々が心の内に異なった想いを抱き、運命の時が訪れるのを待ち望んだ。正の想いであれ、負の想いであれ、それらは全てこれから起こるであろう出来事に向けて抱いたものであった。そして、その運命の時は、唐突に訪れる。
「さあみんな、覚悟して。もうすぐ“来る”よ。まずはあれが強い光を発するから」
まず予兆を感じたように第一声を発したのは、他でもないフリートだった。神経を研ぎ澄ましたように耳を大きく立てながら、首をもたげて夜空を見上げる。その動きに釣られてアルム達も一斉に上空に注意を向けるのとほぼ同時に、夜空にて光彩を放っている彗星が輝きを増した。まるで何かに反応するかのように。そして、これから何かが起こる前触れのように。
「やっぱり、あの彗星が何か関係してるの?」
「そりゃあそうだよ。ティルくんが来たのもあの彗星なんだからね。さて、次はその光がたぶん伸びてくると思うよ」
フリートの予言通りに変化を遂げた夜空の星を凝視しながら、アルムは素朴な疑問を投げ掛けた。フリートはアルムの方に振り向くでもなく、右手で彗星を指差す。その示す先では、激しく放っていた光明が瞬く間に収束していった。
一同が固唾を呑んで見守る中で、元の輝度まで戻った彗星の先っぽでは、光が球の形を作り始め、ある程度の大きさになったところで留まった。続いて、そこからは一筋の太い光線が真っ直ぐに地上に向かって放たれた。ものすごい速度で降り注いでくるそれは、的確にティルを捉えて包み込む形となる。あまりの眩しさに目を閉じざるを得なくなり、その間にも完全にティルの姿が光線によって隠されてしまう。
「ティル! 大丈夫っ!?」
アルムは何とか薄目を開けて安否を確認しようとするが、光の中の様子はまるで窺う事が出来なかった。思い切って声を掛けて返事が返ってくるのを待つものの、良い結果は望めなかった。滝のように降り注いでいるとは言え、所詮は光であるにも係わらず、空気を震わせて轟々と音を発していたからである。
「声を掛けたところで、中にいるティルくんには聞こえないよ。今はとりあえず待つんだ」
隣にいるフリートに言われ、ティルの無事を祈りつつ、アルムは不安げな表情で光が止むのをおとなしく待つ事にする。
そして、彗星から光線がティルに向かって狙い撃たれてから寸刻が経った時、不意に光の照射が止まった。同時に、ようやくそこで見えなかったティルの姿があらわになる。光を浴びる前と同じく、羽衣で宙に浮いている状態で。
「ティル、大丈夫だった?」
アルムが恐る恐る近づきながら話し掛けてみるものの、ティルからの応答は無かった。今度は遮るものも存在せず、間違いなく届いてるはずなのにである。
「たぶん睡眠状態にあるんだよ。ほら、あれを見てごらん」
心配そうにティルを見つめていると、フリートが後ろから近づいてきてティルの顔の辺りを指し示した。まだ離れた位置にいる為に目を凝らして観察してみると、確かにティルは目を閉じていた。
「あれ、ティルの体がぼんやりと光に包まれているような……。それに、お腹の部分が何か違う」
接近するにつれ、アルムはさらなる異変を感じとっていた。一つ一つ言葉を紡ぎ出すその表情にも、緊張の糸が張り詰められているのは一目瞭然であった。嫌な予感がして、でも知らないといけないような気がして、負の想いを払拭するように歩みを進めていく。
「ティルのお腹の“目”が、開いてる?」
特異点を再確認すると、明らかにさっきまでのティルとは違っていた。ジラーチであるティルが本来顔に持つ二つの
円らな瞳とは別に、お腹にある光の宿っていない不気味な目が開眼していたのである。それに呼応してか否か、ティルの体を淡い光の膜が包んでいる。
「ど、どうしたら良いんだろう。ねえ、フリートはわかる?」
「さあ、ぼくは何とも言えない。後は君が自分でどうにかするしかないよ。大丈夫、ぼくがちゃんと見守ってるから」
不安を取り除くかのように、フリートは両手でそっとアルムの背中を押す。暖かい手が触れたのを感じると、アルムは緊張していたのが緩んで幾分か落ち着けた。深呼吸をして決意を固めると、ゆったりとした歩調でティルの側に向かう。一歩ずつ近づいていく中で、ティルの方からは光と共に異様な力を発していた。普段は陽気に振る舞っている様子からは想像出来ない程に、神秘的で近寄り難いものにさえ感じられる。
「ねぇティル、僕がわかる?」
前足を伸ばせば届くまでの距離まで接近したところで、もう一度アルムは呼び掛ける。例え眠っているとわかっていても、声が届くものと信じて。
「ボクは――」
今まで固く閉ざされていたティルの口元がふと緩んだ。まだ顔の方の目は開いていないものの、少なくともアルムの声に反応しているようだった。次の言葉が来ないのを焦れったく思ってると、ティルは空中に浮いていた状態から地面すれすれまで降下してくる。
「――ボクは、“エステレラ・グランツ”の一員。守護を定めに来たんだ」
口を開いたまでは良かったが、そこからは抑揚がまるで感じられなかった。いつもは楽しそうであどけない仕種を見せるティルの変貌ぶりに、アルムは思わず絶句してしまう。
「星を巡る運命は交錯し始めた。これからはもっと動乱が起こる。それで――うーっ」
途中まで言ったところで、ティルは突然両手で頭を抱えて呻きだした。未だに意識が戻っているのかは把握出来ないが、少なくとも最後の呻き声だけは普段のティルの声音に近いのをアルムは感じ取った。
「ティル――そこに“いる”の!? 僕の声、聞こえる?」
「ううっ、アルム。ボクは――」
ティルが異常を来たし始めた事は目に見えて明らかだった。苦しそうに頭を左右に振っているのを受けて、アルムは必死に訴えかけるように声を張り上げる。すると、先程までは無かった、名前を呼ぶという反応をティルは示した。
「どうしたの、大丈夫?」
「あの、ボクは、ボクは――」
正気に戻ったかと思えば、目はまだ開いておらず、完全に覚醒している訳ではないようである。それでも、言葉が通じている事にアルムは一安心し、抱き留められる位置まで近づいていた。何とか宥めようとアルムは足を伸ばした。
「ティル、落ち着いて。僕はここにいるから――」
「あうっ、ごめんなさいっ!」
落ち着き始めてほっとしたのも束の間だった。ティルが体に纏っていた淡い光が急遽眩いものへと変わり、今度はティル自体が発光体となって輝きを放ち始める。光は一瞬にして辺りに広がり、その場にいる全員を飲み込んだ。そうして、アルムの視界は、目も眩む程の光によって真っ白に塗り潰されていくのだった――。