エトワール・フィランテ〜星降りの夜の導かれし出逢い〜


















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第四章 芸術の都市と夫婦の悩み〜神秘的な力と不器用な愛と〜
第二十三話 人生の伴侶とは〜今までの想いを伝える為に〜
 まだ時間帯が午前中なせいか、ひんやりと冷たくて固い木の板で出来た広い廊下。その中央を、アルムは静かに歩いていた。別に忍び足にまでする必要は無いのだが、極力パントの目の前に行くまでは見つかりたくないというのがあってか、そろそろとした足取りは変わらない。それに加え、足の裏から伝わってくる冷たさが、より一層緊張感を持たせているようであった。
 そんなゆっくりとした歩みを止めたのは、一つの扉の前だった。今までに二回訪れた、パントのアトリエへの入り口。それはまるで、侵入を拒むかのように堂々とそびえ立っているようにアルムの目には映った。
「ティルの事を知るためだから……うん」
 一回、また一回と深呼吸をして心を落ち着けようとしながら、アルムは自分に言い聞かせた。パントは別に悪いポケモンでもなければ、ただの怖いポケモンでもないとは思っているのだが、どうしても二度見た際に受けた冷たくて怖い印象が拭えずにいた。
 五回ほど深呼吸を繰り返したところで、ようやく決心が付いたのか、扉の端に足を掛けてそっと器用に引いた。中には椅子に座り込む一人のドーブル――パントの姿があり、自分の尻尾とは別の筆と絵の具皿を両手に持ってキャンバスと向かい合っている。
「あの、し、失礼します」
 部屋に入った以上は声を掛けなくてはまずいと思い、アルムは小声で入室を告げた。すっかり畏怖している事もあって、体も声も些か震えていた。
「何だ? ん、お前は……」
 声に反応して椅子ごと体を回転させて視線を下に向け、パントはようやくアルムの姿を見つけた。驚きのあまりか、目を大きく見開いており、アルムはさらに萎縮してしまう。普段でも小さいはずの体が、それ以上に小さく見えてしまう程であった。
「何故ここにいる……。わしは忙しいと言ったはずだ」
「それは、あの……ごめんなさい。ここに泊めて頂いたお礼を言おうかと思って……。ありがとうございます」
 アルムのこの感謝の言葉に嘘は無かった。ここに来た本来の目的とは少々違うが、それでも伝えたかった一つではあった。まだ叱られた訳ではないものの、体をわなわなと震わせながら、頭を深々と下げた状態で固まっている。この後何が待ち構えているかを考えると、頭を上げるのが怖いという思いからである。

「――まあ、構わんよ」
 時が固着して動いていないのではないか。そんな錯覚まで覚えながら俯いているアルムの耳にふと聞こえてきた優しい声。それを確認する為に恐る恐る顔を上げると、至って落ち着いた表情のパントが目に入った。決して笑みを浮かべているのでもなく、既にキャンバスの方に視線を向けているが、それでもアルムにはその後ろ姿が優しく映った。
「別に邪魔しに来た訳でもなさそうだからな。お前達が来てから、あいつも何だか嬉しそうにも見える……。それと、わしは別に誰にでも怒鳴り散らすのではないぞ」
 またもや意外な答えが返ってきた。昨夜のペインに引き続き、心を見透かされたようなパントの発言に、アルムはばつが悪そうに苦笑を浮かべた。それと同時に、今まで恐れから固まっていた心がすっと楽になっていくのを感じ、パントの元に歩み寄っていく。
「突然で失礼ですけど、絵が上手く描けないって本当ですか? 実は僕たち、お願いしたい事があって来たんですけど……」
「ここに来た理由はもう知ってる。だが、お前が言った通り、今は描けないのだよ。最近はめっきり、な」
 そこで初めてパントが見せた暗い表情は、パレット上の青でも黒でも引き出せないような哀愁を漂わせていた。心を許したのか、その理由は定かではないが、少なくとも先程まで強張っていたアルムの心に安堵をもたらした。だからと言って、問題が解決した訳ではないのも事実。しかし、現状ではまだ何も良い案が思い浮かぶはずもなく、何を言ったら良いのか迷い、暫し気まずい沈黙が続いた。
「あのっ、絵を描くのって楽しいですか?」
 やや苦し紛れにその空気を破ったのは、アルムの方だった。もちろん、即席で考えたとは言え、絵を描いた事の無いアルムにとって聞きたくない事では無かった。
「楽しい、か……。最近は生業としてしか描いていなかったから、久しくその感覚は忘れていたな。懐かしい言葉のような気がするよ、本当に」
 パントは空中で軌道を描いていた筆を持つ手を止め、感慨に耽ったように、壁以外は何も無い虚空へとぼんやりと視線を遣った。ますます声を掛けづらくなったが、アルムは何とか勇気を振り絞って口を開いた。
「じゃあ、昔は楽しく描いてたんですか? もう一つのアトリエにある、噴水の前に立つドーブルを描いた時みたいに」
 口を衝いて出て来た言葉に、アルム自身が目を丸くした。しかし、思うがままに飛び出したものを引っ込める事は不可能な事で、ずけずけと余計な事を口走ってしまったと後悔しつつ、ここを訪れた時のように縮こまっていた。
「お前さんは鋭いな。そうだ、あの頃は純粋に絵を描く事を楽しんでいたんだよ」
 アルムの全身に滞りなく走っていた緊張が、穏やかな声色で一瞬にして解けた。それと同時に顔を上げると、今度ははっきりとパントの表情が窺えた。昨日見たペインと酷似した柔和な色を浮かべており、改めてアルムの心にあったパントの像を根本から覆した。目の前にいる老人の穏やかな顔つきに、アルムは安心しきっていた。
「あ、あの、もっと話をお聞きしたいので、その絵のあるもう一つのアトリエに来てくれませんか? 今までちゃんと紹介出来なかった友達を紹介したいです。もしお邪魔じゃなければですが……」
「ああ、そろそろ休憩しようと思ってたから別に構わんぞ」
 突然アルムが持ち掛けた提案に、パントは嫌な顔もする事なく承諾した。それにほっとしたアルムは、パントの後ろに付いてその場を後にして、もう一つのアトリエの方へと入っていった。


 相変わらず部屋の中ではティルとシャトンが床に紙を置いて絵を描き続けており、レイルとガードは部屋の隅でその様子をただ眺めているといった具合であった。
「あっ、アルム! それに、ドーブルのおじいちゃんも一緒だ〜」
 二人が入って来たのに最初に気づいたのはティルだった。片手には筆を、もう一方の手にはややふやけている紙を握ったまま、背中の羽衣でふわふわと飛んで近寄ってきた。
「ねーねー、これ見て! ボクが描いたんだよ〜!」
 体の所々に絵の具による斑点を付けているティルは、満面の笑みを浮かべながら、どこか誇らしげにその紙をアルム達に差し出した。パントがちゃんと受け取ったのを確認すると、すぐにシャトンのところに蜻蛉返りして、再び和気あいあいと絵を描き始めた。一方で、パントがしゃがみ込んでアルムに目の高さを合わせ、ティルから手渡された絵を眺めた。そこには、少なくとも何かを模写しているようには見えない程に、複数の色を用いてぐちゃぐちゃに塗られているだけであった。
「あはは……これは何と言うか――」
「なるほど、こういう事なのだな……」
 苦笑いをしているアルムの言葉を遮るのは、他でもないパントだった。何か呆けたような表情で絵を手に持ったまま、地に這ってお絵描きに夢中になっているティルとシャトンに近づいていく。
「お前達、絵を描くのは――楽しいか?」
 屈んだ状態のパントの口から、穏やかな声が零れた。アルムやガートが口を噤んで事の成り行きを見守る中で、ティルとシャトンは手を休めて体をパントの方に捻らせた。
「うんっ。すごく楽しいよ!」
「私も楽しいでしっ!」
 視線を斜め上のパントに向け、二人は真っすぐな思いをそのまま口にした。返答を聞いたパントは、得心したように「そうか」と一言だけ呟くと、口元を僅かに綻ばせながら、ゆっくりと立ち上がった。
「パントさん、一体……」
「いや、な。あやつらの描く絵が――」
 次の言葉をパントが紡ぎ出そうとした時、突如として壁を隔てて何かが割れる音が聞こえてきた。慌ててアルムとパントは部屋を出て、音のした方に駆け出す。
 音が聞こえたのは、ヴァローが向かった部屋――つまりは、ペインのいる部屋だった。辿り着いた二人の目の前には、床に座り込むペインの姿があり、その視線の先には割れた瓶の欠片と赤と青の二色の絵の具がぶちまけられている。その傍らには、ヴァローがただ立ち尽くしていた。
「な、何だ、これは……」
「あっ、あなた」
 驚いた表情で呟いた一言でパントの存在に気づき、ペインは恐る恐る顔を上げた。何かしらの咎めがある事を覚悟しているようで、ペインは動揺しつつも、至って落ち着き払っていた。
「……ペイン、後でわしの部屋に来なさい」
 視線を絵の具から一瞬だけペインの方に移すと、パントはそのままそそくさと扉の方へと歩いていく。取っ手に手を掛けて開けると、聞き耳を立てていたのか、ティルとシャトンが倒れるように部屋の中になだれ込んできた。
「ティルにシャトン。どうしたの?」
「ケンカは、ケンカはダメだよっ!」
「そうでし! ケンカはダメなんでしっ」
 先のパントの発言を聞いていたからか、はたまた今の状況を見て理解したからか、いつもは明るい顔に悲しそうな色を浮かべながら、二人は必死に叫んだ。それは、子供心に感じたところがあるからだった。
「大丈夫だ。誰もケンカなんかしてないからな」
 自分の両脇にいる二人の頭に、パントはそっと手を添えて優しく撫でる。その顔は――今までに無く暖かく、優しいものとなっていた。目立たない程度に顔に刻まれている皺(しわ)も、怖さを増すものではなく、優しさを強調させるものとなっている。
 一方で、自分には見せてくれずに、ティルとシャトンには微笑みを見せた事に、アルムは心の片隅で焼き餅を焼いた。しかし、その心もほんの一時の儚いもので、一瞬パントから目を逸らして絵の具の方に目を遣った時、パントのアトリエの光景を思い出し、何かを悟ったようにはっとする。
「パントさん、ペインさんは――」
「分かっておる。ペイン、必ず後で部屋に来なさい」
「……はい。分かりました」
 アルムが何かを言いかけたところで、パントは再びペインの方に背を向けて部屋を出ていってしまった。アルム達はその歩みを止めるべきか悩んだ挙げ句、結局はその後ろ姿を呆然と見つめるだけであった。
 その後、全員で協力して床を掃除し終えると、ペインはアルム達に第二のアトリエで待っているように言った。ペインがパントの呼び付け通りにアトリエに行くのは分かっていたが、下手に干渉してもいけないと分かっていたので、おとなしく待つ事にする――
「僕たちも、そっと付いていこうか」
 ――はずもなく、ペインには気づかれないように、扉の隙間から覗く事にした。



 場所は変わって、パントのアトリエ。両手を後ろに回した状態で、パントは窓から外を眺めており、その背後ではペインがやや俯き加減で立っている。
「あの、あなた――」
 いつも叱られていても、やはり慣れるものではないのだろうか、ペインは怖ず怖ずと頭を上げた。先に謝罪の言葉を口に出そうとした途端に、パントが不意にペインの両手を握った。
「こんなに手が荒れるまで、筆の手入れをしてくれてたんだな……」
 老化によるものではない、やや荒れているペインの手を自分の手の平に重ねながら、パントは手と顔を交互に見つめた。
「あなた、どうしたのですか?」
「……わしは気づかなかったのだ。筆の事も、絵の具の事も。全部店で売っている物を買い揃えているものだとばかり思っていたが、まさかお前が調合して微妙な色合いの物を作ってくれていたのだな……」
 続いて、パントはその視線を絵の具の瓶が置かれた棚の方へと遣った。その瓶に入った様々な色の絵の具を一つ一つ確認するかのように見た後で、再び真っ直ぐペインを見据える。
「わしは、生活の為に絵を描く事に夢中になっていて、大事な事を忘れていた。一つは――絵を描くという事を、心の底から楽しむ事だ」
 パントは一旦ペインの手を離し、近くの机の上に乗っている一枚の紙を掴んで広げた。そこには、つい先刻強引に渡された、ティルとシャトンの落書きのような絵が描かれていた。
「例え上手く対象を模写なんて出来なくても、楽しいという感情が紙一杯に篭められている。この絵を見てると、素直にそう感じるのだ。子供らしいと言うのもあるが、何よりも絵に夢中になっている時のあの子達の笑顔は、本当に輝いていたように見えた。あやつらのおかげで、忘れていた“楽しい”という感覚を思い出せたような気がするよ」
 純粋に絵描きを“児戯”として没頭していたティルとシャトンの様子を思い返したパントは、二人の描いた“作品”に付いていた折り目を丁寧に伸ばし、部屋の片隅に置いた。ペインもようやく夫の豹変を理解し始め、敢えて口を挟まずにパントを見つめて頷いた。

「そしてもう一つ忘れていた、もっと大切な事、それは――お前という存在の大切さだ」
「えっ、私、ですか……?」
 最初の変化は想定内だったが、後者はまるで話が違った。いつもとは全く違う空気を放つパントの口から飛び出た言葉に、ペインは戸惑って驚きの声を上げた。
「いつだってお前が支えてくれていたのに、いつの間にかその事を当たり前だと思っていた。わしは本当に間抜けだ。今まで全てを自分一人でやって来たと勘違いしていた……」
 思いを全て聞いて受け止めよう――そう思って黙っているペインの右手をパントはそっと握った。扉の隙間から密かに覗いてるアルム達も含め、何をするのかと待ち構えていると、パントはペインと目を合わせ、大きく深呼吸をして口を開いた。
「ペイン、ここまで付いてきてくれて、ありがとう。お前がいなければ、ここまで続ける事が出来なかっただろうし、絵を描く事自体を日常の一部にする事も出来なかっただろう。あの時お前と会って、絵のモデルになってもらえて、本当に良かった」
 感謝の想いを込め、一つ一つ零れるパントの言葉。それは、決して筋書きを用意されていたものではなく、即席で自然と紡ぎ出されていった、まさしく想いの結晶であった。そんなパントの心からの言葉を聞いて、しばらく呆然として動かなかったペインは、ふと目から一粒の雫を零していた。
「あれ、どうしたんでしょう、涙なんて……。その言葉を何十年ぶりかに聞いたからでしょうか。それとも、あの日の素敵な思い出を、ちゃんと覚えて下さってるからでしょうか」
 その一粒を機に、次から次へと大粒の熱い涙が溢れ出していった。今まで溜め込んでいた想いが、塞き止める事なく、その涙に乗って流れていく。
 自分で好んでパントの手伝いをしていたものの、それが果たしてパントに喜ばれているのか、迷惑ではないのか――ペインはペインで悩んでいた。そして、パントの突然の告白によって、今までの全ての行為が報われたような気がして、心の底からほっとしていた。それに伴って、運命の出逢いの思い出も、大事にしてくれていると知って、より一層パントへの想いを増幅させていた。

「そして、今度は見せたい物があるのだ」
 まだ感謝の――“ありがとう”の想いを暖かさを残した手を繋いだまま、パントは部屋の片隅に立てかけられている一つのキャンバスの前に誘う。そのキャンバスには一枚の布が掛けられており、何が描いてあるかはまだ分からない。
「本当はもっと早く見せたかったのだが、これが完成するまでは他の絵を描かないと決めたら、余計に迷ってしまってな。その上、中々構想を上手く練れずに、ある意味スランプの原因になっていたかもしれない……。だが、描いた事には全く後悔していないよ」
 苦笑を浮かべながら、パントは思い切って布を引っ張った。今までずっと覆われていたベールを脱ぎ捨てて顕わになったキャンバスには、大きな噴水と二人のドーブルが描かれていた。
「この絵って、もしかして……」
「うむ。わしとお前が初めて出逢って、モデルになってもらって描いた絵だ。これは新しい形だがな」
 パントに言われてよく見てみると、第二のアトリエに置かれていた絵とは違い、パントとペインの二人になっている上、やや老け顔になっていた。さらに、昔は施されていなかった噴水の装飾や、町の建物の塗装による色の変化など、年月の経過を物語るような細部まで工夫が凝らされていた。
「この絵をお前に贈って、もう一つ言いたい事があったんだ」
 改めてペインの方に向き直ったパントが、再度真剣な表情をして視線を合わせた。涙が止まっていたペインは、顔を伝っていた涙を拭いながら目で合図を送った。
「……今まで迷惑をかけてきたが、これからもわしに付いてきてくれないか? そして、二度塗りになってしまうかもしれないが、もう一度お前の未来を描かせてくれないか? 今度こそ綺麗な作品に仕上げてみせるから……」
 思いの丈を言い切ると、パントは口を一文字に閉ざして返答を待つ。全く予想していなかった行動に、一瞬ペインは度肝を抜かれて驚いたような面持ちになるが、すぐに微笑んでみせる。
「ふふっ、あなたが洒落た事を言う時は、いつも真っ直ぐな思いを伝えてくれてましたね。もちろん、あなたと一緒になった時から、あなたの夢は二人の夢になってましたから。こちらこそ、お願いします。私はいつでもあなた色に染まる覚悟は出来てますから……」
 どんな答えが返ってくるのかと緊張しているパントの手を優しく握って、ペインはそっと涙を流しながら返した。
「そうか……。今度は塗る色を間違えないようにするからな……」
 ゆっくりとその顔を緩ませていき、パントはこの上ない笑顔を見せた。小さな年季の入って深い光を宿すその瞳からは、ペインと同じく心までも潤すような泪(なみだ)が流れ落ちていくのだった――




コメット ( 2012/07/23(月) 20:20 )