第二十一話 ドーブル夫妻の日常〜画家と支える妻〜
アルム達が案内された部屋は、大小様々な絵画で埋め尽くされている広い部屋だった。ヤードの屋敷で見たのとは違い、額には収められておらず、紙のままで雑に壁に貼られている。その描き方も、色彩豊かに美しく描かれているものから、ぐしゃぐしゃに描き殴ったようなものまで様々である。
中央には大きな長方形の木製のテーブルがあり、一見待合室のようにもリビングにも見える。しかし、ちょっと足元の方に目を遣ると、筆やキャンバスなどが乱雑しており、仕事場のようでもあった。
「ここは、あの人の第二のアトリエなんです。とは言え、ここにはあの人もあんまり立ち寄らないから、しばらくは気づかれないでしょう」
アルム達がキョロキョロしているのを見て、歩きやすいようにせっせと足元に散らばっている道具を整理しながら、ドーブルは改めて部屋の説明をした。
「あの、本当に上がってもよろしいんですか?」
さっきまでの苛立ちはどこへやら、恐縮した様子のアルムは小声で尋ねた。今、最初に出て来た方のドーブルに見つかったらどうしよう――と若干怯えているようにも見える。
「ええ、大丈夫ですよ。私が後で説明しておきます。せっかくいらっしゃって下さったお客様なんですから……」
「そうですか。ありがとうございます」
ドーブルの親切な申し出に、あの無愛想なガートも含めて全員が頭を下げた。これで一安心と言ったところで、皆がその場に座り込むなり、絵を見るなりと、あくまで限られた空間で自由に行動する。そんな中、ヴァローには聞きたい事があり、ドーブルの方に近づいていった。
「あのドーブル――いえ、パントさんは何かあったのですか?」
「ええ。最近はめっきり絵が描けなくなったとか言っては、落ち込んでるんです。何かが欠けているのか、何かを忘れているのか、全くわからないと……。だから、わざわざ訪ねて下さったのに申し訳ありませんが、皆さんのご要望には応えられないかもしれませんね」
深く溜め息を吐いて部屋の外の方に視線を遣りながら、ドーブルはどこか悲しげな表情を見せた。しかし、アルム達が心配するように見ているのに気づくと、それを押し殺すように元の落ち着いた表情に戻した。
「それでは皆さん、しばらくゆっくりしていて下さい」
一礼だけすると、そのままドーブルはすたすたと部屋を後にしてしまった。残されたアルム達は、パントに見つからないと言われた聖域を迂闊に出る訳にもいかないため、とりあえず部屋の中をうろうろする事にする。
「ね〜、外に出ちゃだめ?」
「だーめっ。最初に会った方のドーブルさんに見つかったら大変でしょ?」
「むーっ。つまんないの〜」
自由に動き回るのが好きなティルは、閉じ込められるというのが嫌なのか、膨れっ面をしている。それでも、アルムの言い付けはちゃんと守っており、扉の前を往来するだけに留まっていた。
「お部屋の中でも遊べる事は遊べるでし! 一緒に遊ぶでし〜!」
ご機嫌ななめなティルの目の前に、シャトンがにこにこと笑顔を浮かべて顔を出した。その足元で、床に落ちている筆を転がしている。
「うん! 遊ぼ遊ぼー!」
シャトンの言いたい事がわかったのか、ティルは筆を掴んで、辺りにくしゃくしゃになって落ちている手頃な紙を拾った。そうなれば、やる事はただ一つ。ひたすら自分達が描きたいままに、紙に絵を描き始めた。
「ねー。アルムも一緒にやろうよー」
「いや、僕は遠慮しておくよ。二人で楽しくやっててね」
ティルは遊び道具が見つかった事もあり、生き生きとした表情を見せている。楽しそうに振る舞っているのを見て微笑みながら、アルムはヴァローと絵の鑑賞を始めた。
「何か、どれも暗くて寂しい作品ばかりだね」
「確かにな。今のパントさんの辛い感情が滲み出てるみたいだ。まあ、俺は批評家でも何でもないから、本当のところはわからないけどな」
壁に貼られている絵はほとんどが、寒色や暗色をメインに使ったものばかりで、暗い印象を与える物が多かった。それも、例えば机や椅子と言った具体的な物を描いたものではなく、じっくり見ても画材が判別出来ないような抽象的な感じに描かれている。
「あ……でも、あれだけすごく暖かい感じがするよ」
全体を見渡す中で、アルムがある一枚の絵を見つけて指し示した。そこに描かれていたのは、背景には噴水が見える、一人のドーブルの直立している絵だった。その絵の中のドーブルは、とても幸せそうに明るい笑みを湛えており、溢れた笑顔が色となって描かれているかのように、体の周りは橙色に包まれている。噴水や青空の青色とのコントラストも美しく、ところどころに情緒漂うものである。
「あれはパントさん――じゃないよな。だとしたら、奥さんの方か?」
「モデルはわからないけど、少なくとも、描いたパントさんの方も楽しかったはずだよね」
この場においては異質な一枚の絵を見て、二人は年端に似合わずしみじみと思いを巡らせた。相変わらず他には暗い絵ばかりしか目に入らないが、その画風の全く異なる一枚があるだけで、その暗い雰囲気全てを和らげてくれているように映った。
そうしてそれぞれが思い思いに部屋で時間を過ごす中、今まで閉まっていたはずの扉が、突如として開いて平穏な空気を突き破った。
「お前達は確か、さっきの……」
扉を開けた主――ドーブルのパントが唖然とした様子で口を開いた。一番恐れていた事態に、ティルとシャトンを除いた四人の表情が強張る。
「何故家に入ってる……? ペイン! おい、ペイン!」
アルム達に対して何か怒るのかと思いきや、部屋の外に向かってパントは怒号混じりに叫び出した。それに反応して遠くの方から駆けてきたのは、先程アルム達を迎え入れてくれたドーブルであった。出会った時は注意して見ていなかったのでわからなかったが、改めて見比べてみると、筆状の尻尾の色が違っている。パントは緑色、奥さんのドーブル――ペインは橙色というように。
「あなた、何でしょうか?」
「何でしょうか、じゃない。何故こいつらが家にいるんだ?」
「ああ……それは、私が彼らに入ってもらったからですよ。大事なお客さんですし」
顔だけをペインの方に向け、目をやや吊り上げた様子のパントに対し、ペインは慎ましやかな感じで接した。だが、それで威圧的な態度が和らぐはずも無かった。
「わしは忙しいんだ! 勝手に入れるんじゃない! いいな。追い出すか、そうでなければ、お前一人で面倒を見ろ」
「はい、わかりました。申し訳ありません」
遂には体もペインの方に向け、パントは捻り出すのが困難なはずの大声で息巻いた。それを受けて、ペインが反省したように俯いて返事をすると、憤慨した様子のまま、パントは姿を消してしまった。
「あ、あの、ごめんなさい。僕たちのせいで……」
気まずい空気になったところで最初に切り出したのは、耳を元気なく垂らして、顔を俯かせているアルムだった。ペインが怒られた元の原因はと言えば、自分達なのだと思っているからである。
「いえいえ、気にしないで下さいな。あの人はいつも、ああやってぴりぴりしてるんです。怒られるのにも、もう慣れましたから」
客人に余計な心配をかけまいと、ペインは微笑んで見せた。顔に刻まれた皺が伸びていたが、不自然で無い表情が逆にその苦労を物語っており、アルム達も目を逸らして気まずそうにしてしまう。その思いを知ってか知らずか、深々とお辞儀をすると、彼女もアルム達の目の前から姿を消していった。
「何か、まずい事になったな……」
その場が再度、しばらく静粛な空気に包まれていた時、その空気を破ったのは、ヴァローだった。それを聞いて不安そうに頷きながら、アルムも口を開いた。
「……うん。それでさ、ヴァロー。ペインさんに迷惑をかけないように、何かお手伝いするってのはどうかな?」
「それはいいかもな。ただし、パントさんには気づかれないようにしないとな」
「決まりだね。それじゃ、ティル。おとなしくしててね」
「は〜い。わかったー」
伸び伸びとした声でティルが返事をしたのを確認すると、二人は扉をそっと開けて部屋を出た。幅の広い廊下の真ん中に立ち止まって辺りを見回し、とりあえず左側に行ってみる事にする。ペインは離れていく前に扉を閉めていったため、どこにいるのかわからないからである。
最初に目に入った部屋の中を覗き込むと、そこにはパントの姿があった。慌てて首を引っ込めながら改めてそっと覗き直すと、そこはまさしくアトリエであった。壁際にある木製の棚には幾つも絵の具の入った瓶が並べられており、絵かきである事が一目瞭然とまで言える程。部屋の隅には、キャンバスを支える道具である
画架がたくさん立て掛けられており、床にはくしゃくしゃになったスケッチブックの紙が、さっきいた部屋よりも散らばっている。
「ここじゃないみたいだな。まずは引き返そうか」
「見つかると怖いから、静かにね」
会話がパントに聞こえないようにひそひそ声で話しながら、二人はそろそろと後退していった。一定の距離をとり、パントにばれていないとわかったところで振り返り、続いてさっきの部屋から右に向かった。
他人の家でちょっとした探検気分でいる二人は、まだ見つかってはいないものの、忍び足で一つの部屋に入っていった。少しずつ物音が聞こえる方に進んでいくと、最初に見えたのは、床に座り込んでいるペインの後ろ姿。その周りには、先がボサボサになった筆が落ちている。
「あら、どうかしましたか?」
アルム達が近づいているのに気づいても、ペインは何ら驚く事もなく振り向いた。その手には筆が握られており、毛先の一部がボサボサで、別の部分は綺麗になっている。手作業で念入りに筆の修復をしている事が推測出来た。
「あの、何かお手伝いする事は無いかと思いまして……」
「そんな、お客様なんですから、お気遣いは結構ですよ。お気持ちだけありがたく受け取っておきます。私はちょっと買い出しに行ってくるので、どうぞゆっくりしていて下さい。と言っても、あの人のせいで、あまりゆっくりは出来ないかもしれませんが……」
顔を二人の方に向けて手元を見ないままで修復を終えると、近くに置いてあるバスケットを抱えて、ペインはまたもや忙(せわ)しなく姿を消してしまう。その後で静かに扉が閉まった音がしたので、町に向かったのは間違いなかった。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして、ペインさんが戻ってきたのは、夕方近くの事だった。バスケットの上には布が掛けられていて、何を買ってきたのかはわからなかった。その間に僕たちは何をしていたかと言うと、実は何もしていなかった。ティルとシャトンが傍らで絵を描くのに夢中になっている間も、ひたすら考え事をしていたんだ。
時々、窓から外に溢れている芸術作品に向けて目を遣ったり、もう一度絵の鑑賞をしていたりもしたけど、それ以外はぼんやりしているだけ。家に上げてもらっておいて、勝手に帰るなんて出来なかったから。
そうして、パントさんは一体どうしたんだろう――なんて悩んでる時に、ペインさんが帰ってきたんだ。すごく疲れてたみたいだけど、それとはまた別に、嬉しそうにも見えた。
その後は、ペインさんが「日も傾いてきたから、今夜は泊まっていきなさい」って言ってくれたんだ。夕食もご馳走になって、今は寝床の中。寝る前に一日を振り返るのが好きだから、いろいろと思い返してたってわけ。
目を閉じる前に横を見ると、みんな静かに眠っていた。ティルは筆を気に入ったみたいで、ぎゅっと握り締めながら、シャトンと仲良く寄り添っている。今日も本当にいろいろあったから、疲れたのかもしれない。僕も眠いから、そろそろ寝ようかな――なんて思ってたら、部屋の外から物音が聞こえてきた。微かに光も漏れてきて、すごい気になるから、とりあえず藁の布団から出て見に行ってみる事にする。光のせいではなく、また別の理由で暖かい感じのする扉の向こうへと――。