第百二十七話 螺旋階段の先に待つもの〜三度の覚悟と対峙〜
直に深海にいるよりはずっとましとは言え、それでも遺跡の空間に及ぼす影響はゼロとはいかないようであった。特に階層が下がるとその傾向は顕著になり、毛皮を持つ種族ですら肌寒さを覚えるくらいである。通路に配備された照明のお陰もあってか、視界から得られる冷たい印象は極力抑えられているのが救いとも言える。脇にある照明は灯篭だけではなく、あくまでもそれは上階へと直接繋がる大きな通路にのみ並べられたものであった。それ以外の道には地面に光る苔のようなものが点在して、淡く照らしているのだ。
この階層に辿り着いた時は焦燥していた上に、脱兎のごとく滑り降りてきたために景色を把握する余裕などなかった。だが、心が落ち着いている今ならば、歩いている内に毛色が異なっている事を感受する事も出来る。実際、アルムはライズとユーノに並んで歩きながらも、あちこちに視線を忙しなく飛ばしていた。
「少し寒くて暗いけど、これはこれで綺麗だなあ」
透明な水に墨汁を滲ませたような色が延々と広がる世界。足元に点々と広がるぼんやりとした明かりはさながら、夜空に浮かぶ星のようにも見え、星の川を歩いているような錯覚さえ抱く。アトランティスで見た目にも鮮やかで澄んだ青の世界にも感動を覚えたが、黒と白が織りなす光による美しさにも、アルムは思わず目を奪われずにいられなかった。一見すると緊張感がないようにも見えるが、少なくとも平穏と彼らしさを取り戻している行動に、隣を歩くライズも心なしか嬉しそうにする。
「確かに美しくはある。遺跡の探索をするだけならば、見応えのある光景だろうな」
暢気な事を言っていても、ユーノはそれを咎めるつもりもない。歩調だけでなく、心の波長も二人の少年に合わせようと努めているのだ。時折警戒したように周囲への目配せを忘れないが、どうやら追手が迫っている様子もないようで、今はただ寄り添って飛び続けている。
「僕たち、元々分かれて遺跡の探索をしていたんです。みんな、心配していないと良いんですけど……ちょっと不安だよね、ライズ」
「それなら大丈夫だ。恐らく探索を続けるつもりなら、自ずと君の仲間もこの階層に辿り着く事となるだろう。それに、ベーゼの手から仲間を救いたいのなら余計に、ね」
「つまり、ベーゼ達もいずれはここにやってくると? アルムくんを探して他の皆も降りてくる可能性は、わかるんだけども」
「ああ。“我々”の目的地は、この道の奥のさらに奥にあるらしい」
「らしいって言い方をするという事は、ユーノさんも正確な位置は把握してないんですか?」
「ああ。場所が場所だけに、そう簡単に位置を記してはくれないようでね」
アルム達よりも先にこの遺跡の存在を嗅ぎつけていたユーノは、独自に調査をして回っていた。部屋に配置された謎の基盤を操って遺跡の地図を見たり、構造の把握などをしたりしていたのだという。ユーノの目的も当初は単なる好奇心から来る探索に過ぎなかったのだが、ある情報を閲覧した上でベーゼ達と対峙した事で、行動の指針が変わったと語った。
「私は見たのだ。この遺跡の最深部に眠っている、とあるポケモンの存在に関する資料を。それを見て、私も精霊を祀る一神殿の守り手として、この由々しき事態を見過ごすわけにはいかないと思ったのだ」
「ユーノさんがそう思うほどの何かが、この遺跡に……。その正体は何か、分かったんですか?」
「いや、それが詳しくまでは分からなかった。ただ、伝説級のとんでもない力を持つポケモンがいて、遥か昔に封印の眠りに就いたらしい。それが目覚めてしまっては、大変な事になる」
固唾を飲んで話を聞き入っていたアルムとライズだったが、不穏な様子にさすがに立ち止まってしまう。顔を見合わせて冷や汗をかいているのを確認し合い、思わずユーノの方を振り返る。不意な歩みの停止にもユーノは対応し、それに侮蔑の視線を送る事もなく見据える。
「怖気づいたのなら、私と共に来なくとも、そのまま引き返しても構わない。元々私は単独で行動するつもりだった。勇気ある撤退も必要ではあるし、君達を責めも止めもしない」
「その眠ってるっていうポケモンの事は、怖くないって言ったら嘘になる。だけど、それでも僕は、逃げないって決めたんです。僕にもやれる事があるなら、それを頑張ろうって思ったんです。大事な皆との明日を守れるなら」
不明瞭な情報とは言え、少なくとも強大な力が待ち受けている事には違いない。その事実を改めて突きつけられた事で、アルムは不安に押し潰されそうになる。だが、それはユーノが言う怖気づくとは別の感情で、覚悟を新たにするために少しばかり整理の時間が必要に過ぎなかった。ここぞとばかりに、子供らしく愛らしい瞳を凛々しい目つきに変え、気丈に振舞って撥ね退けて見せる。
「そうか。それなら良い。行動を共にする仲間は多いに越した事はないからな。そっちのマイナンの君も、異論はないのかな?」
「僕は最初から、アルムくんに従うだけ。やる事は元から変わらないよ。昔と違って、力を行使する事に憶病ではなくなったし、障害となるものは僕が雷で撃ち抜くとも」
「ぶれないのだな、君は。真っ直ぐだとも言えるか。羨ましい真っ直ぐさだ」
まだ少年ながらもひたむきな姿勢を見せる二人に、ユーノも心なしか満足げな笑みを零す。先程は逼迫していた状況故に、挙って一旦逃げるのは仕方なかった。だが、この先に進むか否かは、無理強いするものではない。本人達の意思に委ねようと、少し突き放し気味に問いを投げかけてみたのだが、それは余計なお世話だったと気づかされた。
「では、改めて先に進もう。ここからが恐らく、最下層の入り口となるはずだからね。気を引き締めて」
プラネタリウムのように輝かしく幻想的な世界にも、お別れを告げる時が訪れた。途中会話を挟みながら足を進めている間に、大きな通路から逸れて横道に入り、細い一本道を通っていた。アルム達が立ち止まったのはその通路の最奥の手前辺りで、すぐ眼前には行き止まりとなっている。
アルムとライズは不自然に思って立ち尽くすが、ユーノは壁に向かい合って何やら細工をし始めた。ごそごそと怪しい動きを続けているのに訝しんでいると、不意に岩が擦れ合うような鈍い音が響き、壁の手前の床に下層へと続く螺旋階段が現れた。ユーノの先導に続くようにして、アルムとライズも恐る恐る段差を降りていく。俄然緊張の糸が張り詰める。
階段の両端は手摺の代わりに完全なる壁となっていて、踏み外したりしようとも落ちる事はないようになっている。階段の外の造りがどうなっているかは窺い知る事は出来ないが、少なくとも上階と同じように床が光を放っていて、足元が覚束ないという事態は避けられた。ぐるぐると回りながら降りていく感覚は慣れたものではなく、アルムは途中で酔いに似た気持ち悪さを感じる程であった。
「何だか同じところをぐるぐる回ってるみたいで、前に進んでる気がしないよう」
「アルムくん、大丈夫? 気持ち悪くなったら休憩した方が良いと思うよ」
「ううん、大丈夫。心配してくれてありがと。ここで立ち止まるくらいなら、せめて降りてからゆっくりしたいかなあ」
アルムは苦笑交じりに歩みを進める。現状螺旋階段の設計に戸惑ってはいるが、それで足を止める理由にはならない。ライズは心配そうに付いてはくるが、アルムが進むという以上は邪魔をするつもりはなかった。三人は黙々と外の見えない段差を降り続けていく。
そこからさらに十周ほど回って、目も感覚もようやく回転に慣れ始めた頃。螺旋階段が終わりを告げ、段差を降りきった先に平坦な道が続いているのが目に入った。上階までの大きな通路とは違う、横幅もユーノがようやく通れるくらいの細さで、秘密の抜け道のような様相を呈している。
夜の病棟の廊下のような、静けさに支配された不気味な通路。地面の脇に僅かばかりに用意されている燐光のようなものも、非常口へと誘う印のような印象を抱かせる。奥からは特に物音などは聞こえず、他の来訪者がいない事は三人にも何となく察しがついた。
「ここが最下層である事は間違いないようだ。この先に間違いなく、探している何かが存在するのだ」
「この感じ――ううん、何でもないです。この雰囲気はちょっと怖いけど、でも、頑張って進みます」
「無理は禁物だからな? 待ち受けているのが危険なものかもしれない。万全の状態で挑めないのなら、不利を生むだけになる」
「大丈夫です。ヴァローが僕を待ってる……って言うと自意識過剰かもしれないけど、速く助けたいって思えば、足を踏み出すのは怖くないです」
入り口を前にして異様な感じを察知し、アルムは思わず二の足を踏みかけた。ユーノの優しさに思わずヴァローの面影を重ねかけるが、今は助けるべき相手なのだと志を強くする。嫌な雰囲気も己の恐怖心が生み出す幻覚なのだと必死に払拭し、アルムは勇んでいの一番に通路に踏み入れる。瞬間、世界が変わったかのように空気が一変する。
足元から這い上がる寒気は、纏わりついて凍り付くような錯覚さえ感じる。足が杭でも撃たれたかのように動かず、風も吹いていないというのに、風圧に似た何かを前方から受けた気がして目を閉じてしまう。
「なに、これ。プレッシャーって言うの」
「僕も感じる。まさかこれ、この向こう側から発せられてるのかな」
「自分の目で確かめてみるしかないだろう。大丈夫か」
ユーノは両手をそれぞれ二人の背中に向けて、その先から桃色の波紋を飛ばす。それは攻撃の意思を持った波動のように鋭利なものではなく、二人の体に溶け込んでいくと同時に、温もりを与える柔らかなものであった。白湯を飲んだ時のように体の芯から温かくなるのを感じ、不思議と竦んでいた足の緊張が解けて力が湧いてくる。謎の威圧感による金縛りから解放された。
「ユーノさん、ありがとうございますっ。えっと、これって」
「“いやしのはどう”という奴さ。気休めくらいにしかならないかもしれないが、少しは疲れも癒えるかと思ってね。さあ、このまま進む覚悟はいいかい?」
『はい!』
アルムとライズは揃って明朗な返事をする。張り詰めた空気の重圧をしっかりとその小さい体で受け止めつつ、確実に足を前へと進めていく。
地面は確実にこれまでの階層よりも冷たく、足裏から伝わってくる感覚は氷に近い。風こそ吹く事はないものの、先程身に受けていた威圧感とは別個の、冷気のようなものを感じる。それが再び足を止める要因にはならないが、否が応でも冷や汗が滲みだす。
通路自体は何の変哲もなく、特に細工や罠といった類も見当たらない。殿を務めるユーノがサイコパワーを周囲に飛ばし、念入りな警戒は怠らないようにしつつ、そろそろと通路の先の光へと向かう。振り返る事もせず、まだ見ぬ光の先が出口だと信じて、三人は一気に薄暗い道を抜ける。
狭い道を出て辿り着いたのは、左右の壁も天井も一気に遠くなる、広々とした空間であった。これまでの階層のどの部屋よりも確実に広い。地面や壁にはびっしりと光る苔が付着していて、暗いところに慣れた目には新鮮な眩い光で空間全体を照らしている。その明るさはさながら室内照明のようである。
だが、そんな明かり以上に、三人の目を釘付けにするものが中央に据えられていた。その全長は天井まで届きそうな程で、普段ならガラスのように光が屈折しない氷塊が、今は外からの光を遮断した状態で置かれているのだ。上から下に向けて白い煙のようなものがうっすら降りてきて、アルム達の足元をゆらゆらと流れていく。中の様子を窺い知る事は叶わないが、少なくとも冷気の正体はこの氷塊だとわかる。
「まさか、これがこの遺跡に眠っているものの正体なの?」
「だけど、さすがにこの氷が実体ってわけじゃないと思うんだけど」
「私も同感だ。これだけの分厚く大きな氷の中に、一体何が――」
各々衝撃を受けながら感嘆の声を漏らす中で、ユーノが真っ先に接近していた気配を察知する。咄嗟に振り向いて体内の力を収束させ、咆哮と共に竜の力を宿す衝撃波を撃ち出す。それは後方から迫っていた何かとぶつかり合い、爆ぜて濃煙を巻き起こす。爆音の後に遅れて気づいたアルムとライズも顧みる。それが晴れた頃にアルム達の目に飛び込んできたのは、濃い紫色の体と赤く怪しい目をした寸胴のポケモン――アルムが何度も対峙した経験のある、ゲンガーであった。