第百二十六話 敗走と喪失〜アルムの決意とライズの誘惑〜
遺跡の入り口から階層が下がり、壁一面に鋼鉄の板が張り巡らされて青白い光が遮られるようになる。突如として夜の帳が落ちたかの如く、暗澹たる空間が広がっていた。息苦しいくらいの冷え切った空気が流れており、仮にも水中にいるのだと実感させられる。建物内で通気口もなく、風が通り抜ける事もない通路には、空ろなる沈黙による支配が続いていた。
だが、凍り付くような闇に取り込まれているわけではない。細い道を抜けた辺りからは、両脇にずらりと並ぶ灯篭から仄かな明かりが零れていて、蛍光に照らされたかのように朧げで温かい照明に包まれていた。上階とは様相の異なる道を、白と青の何かが高速で滑空していく。
その影は両手で二体のポケモンを抱えており、負荷の掛からないぎりぎりの速度で飛び回っていた。最初は長く続く一本道を真っ直ぐ飛ぶのみであったが、小脇に部屋を見つけるや否や、緩やかに減速して吸い込まれるようにして入室していく。そこは何にもないただの小部屋で、優雅に着陸を決めたラティオスは、そっと二人を地面へと下した。
「どうしよう……ヴァローが、ヴァローがっ!」
黙って抱えられていたイーブイも、地に降り立つと同時に蒼ざめた顔を露わにする。未だ現実を受け止めきれないが、それでも状況の打破に動きたいと必死であり、共に降り立ったマイナンへと訴えかける。その顔には、堪えきれない焦燥の色が一気に溢れ出していた。
「アルムくん、落ち着いて。気持ちは分かるけど、焦っちゃだめだ」
「落ち着いてなんかいられないよっ! 目の前でヴァローを奪われちゃった……それがどんなに怖かったか、ライズには分からないでしょ!」
「うん。アルムくんほどヴァローとは長い付き合いじゃないもん。それを分かるなんて、軽々しくは言えない。だけど、今戻ったところで、きっとヴァローの二の舞になる。アルムくんまで向こうの手の内に堕ちたらって想像する恐怖は、僕にも分かる。いや、分かるというか、推して量れるってだけだけどね」
「でもっ、例え分かったとしても、このままじゃヴァローがあいつに捕まったままなのはダメだからっ!」
「うん。だから、今は少しでも落ち着いて、奪還するための英気を養うんだ。アルムくんは酷く動揺してるからね。このままじゃ助けたい相手も助けられないよ」
視線の泳ぐアルムに対して、ライズはしっかりと見据えて目を合わせ、優しく諭すように語り掛ける。決して柔和な面持ちとは言い難いが、さりげなく体に触れて撫でてくるライズの温もりを感じる事が出来て、アルムもようやく昂っている心を静める事が叶った。荒くなっていた呼吸を整え、やっと口を衝いて出る言葉も噴火が収まる。
「少年、少しは頭も冷えたか?」
二人の様子を見守っていたラティオスが、静かに翼を広げて近づいてきた。助けてもらったお礼もままならぬ状態であったが、冷静さを取り戻した事でアルムもいつも通りの思考に至り、驚きつつも小さく頭を下げる。
「あの、ありがとうございますっ。危ないところを助けてもらって。ライズも、ありがとう」
「アルムくんを助けるのは当然さ。僕もまさか、この遺跡にいたラティオスに助太刀してもらえるとは、夢にも思わなかったけどね」
「その口ぶりだと、ライズの知り合いってわけでもないの?」
一気に怪しさが増した気がして、アルムは思わず怪訝そうな視線を投げかける。ラティオスは不快感を抱くこともなければ、特に意に介する様子もなく、ただ微笑を湛えてみせた。それで信用に足るとは到底行かないはずなのだが、アルムは不思議とその微笑に覚えがある気がして、すぐに疑いの目を取り下げる。
「そうだ、悪かったね。そういえば、自己紹介がまだだった。私はユーノ。わけあって、遺跡を探索している者さ」
「ユーノ、ラティオス――あっ、もしかして、ラティアスのユーリさんと関係あります?」
「ご名答。あいつと私は兄妹みたいなものなのだよ」
サンクチュアリを訪れた折に、遺跡巡りをしている兄がいると仄めかしていたのを、アルムははっきりと思い出した。瓜二つな姿をしてはいるが、色違いとはまた別なようで、目つきや模様などの細部が異なる。まさに兄妹という言葉がしっくり来て、ここに来てアルムとライズも合点がいく。
「そうだったんですね! 僕はアルムって言いますっ。サンクチュアリではユーリさんにお世話になりました」
「はは、そう畏まらなくても構わないんだけどね。あいつが世話をするどころか、迷惑をかけてないと良いんだが」
一層気が抜けて座り込むアルムに、ラティオスのユーノは苦笑を浮かべて語る。その様子が妙に滑稽に映り、アルムとライズは揃って強張っていた顔を綻ばせる。緊張の糸が解けたのは何よりである一方で、この状況ではそう悠長に構えていられない。緩んでいた気を引き締め直し、ユーノは神妙な面持ちへと戻る。
「ここで話に花を咲かせるのは悪くないのだが、今はその時間が惜しい。さて、今君達が置かれている状況がどうなっているか、理解は及ぶかな?」
「えっと、あの強いミュウツー――ベーゼが現れて、友達のヴァローが捕まっちゃった。僕にはそれくらいしか分からないです」
「うん。それは確かに正しいが、あくまで奴が本来の目的を果たす過程で行ったに過ぎない」
「本来の目的? そういえば、レイルが言ってたっけ。力を手に入れる、とかなんとか」
アトランティスを発つ前に交わされた、この遺跡を目的地とする決定打となる会話を思い出した。アルムとライズは互いに顔を見合わせて、確認の意を込めて頷き合う。とは言え、アルム達自身は探索を始めたばかりで、真実に行き着いていないのは事実。続きを促すように、二人は改めてユーノへと視線を戻す。
「そう、この遺跡には力が眠っているのさ。私はそれを調査するために、ここへやって来た。無論、元より遺跡探索が好きなのもあるがね」
「力が眠っている、ですか。あれだけ強いベーゼが、さらに力を……」
ベーゼ自身の強大な力に関しては、二度の対峙を果たしたアルムも身に染みて分かっている。だからこそ、さらなる力を得ようという発想に戦慄を覚え、未知の脅威に身震いさえしてしまう。おくびに出さぬように堪えようとするが、既にヴァローを失って放心状態に近い。アルムの顔に憂いの色が広がっていくのは必然であった。
「そう。そうなれば、奴はさらに手に負えなくなる可能性が高い。だから、今のうちに未然に防ぐべきだと思って、私は遺跡探索を切り上げて、裏で動こうと決めたんだ。どうかな、良かったら君たちも協力してはもらえないだろうか」
「それは、ええと……」
「すいません、少しだけ時間をもらえませんか?」
「すまない。私も急かすつもりはないんだ。血気に逸るわけではないから、落ち着いて考えてもらえるだろうか」
アルムが躊躇する様子を見て、ライズがすかさず間に入った。この場では既に身の安全も確保されている。ちゃんとユーノの許可も得た上で、ライズはアルムを引っ張って一旦距離を置く。
ベーゼの目論見を阻止したいと口にしたのは、決して虚言のつもりではない。だが、それは仲間が五体満足で十全に揃っていればの話。最も親しかった友が欠けたアルムには、事態の呑み込みが追い付かなかった。把握自体は出来ていても、その先に進む一歩が致命的に不足しているのだ。
ユーノのペースで話を進めれば、アルムは自らの意志で一歩を踏み出す機会を失う。そう判断したライズは正しく、ヴァローがいなくなった分余計に慮ろうとしている節があった。俯きがちになっているアルムの傍に歩み寄り、耳元に優しく――甘い囁きを投げかける。
「そうだ。アルムくん、僕と一緒にここから逃げようよ」
「――ライズ、今何て言ったの?」
聞こえなかったわけではない。気のせいか間違いだと思いたくて、自身が切り出す前の最後通告として、アルムはまだ仕草だけ辛うじて可愛げに首を傾げて見せる。その強張った表情には、朗らかな色を欠片も残さずして。
「だから、一緒に逃げようって。今なら全てのしがらみから解き放たれて、逃げ出せるかもしれないよ」
「しがらみ? 何言ってるの? いじわるは止めてよ。冗談は止めてよ。そんな――」
「冗談じゃない、って言ったらどうする?」
いつにも増してライズの声が甘ったるく聞こえた。不愉快さを感じさせない絶妙な声色でありながら、弱った心にするするとすり抜けてくる。いつも光で満たされている心に、不意に影が落ちる。今アルムの心を占めているのは、抗う気持ちではなく、“抗いたい”気持ちでしかない。
「冗談じゃ、ない、なんて、そんな……それでも僕は、逃げ出しちゃいけないんだ!」
「したくないじゃなくて、しちゃいけないって言った。アルムくん、要らない義務感を感じてない? それは、本当に君自身が望むこと?」
淀みのない思いではないが故に、ライズにあっさりと見透かされる。元々嘘を吐くのが得意ではないのが仇となったと言うべきか、それとも功を奏したと言うべきか。いずれにせよ、甘言に便乗したいと思う気持ちがないと言ったら、それは須らく嘘になる。
「違う。そうだよ、僕はライズがそう言ってくれるなら、今すぐにでも逃げ出したいって思っちゃう。僕は決して、強くなんかない。むしろ弱いやつなんだから」
そよ風が吹けば飛ばされてしまいそうな程に、アルムは声も心もか細くなっていた。ベーゼに手酷くやられ、大事な友人を奪われ、その上で試すような質問を畳みかけられている。弱り目に祟り目とはまさにこの事。立て続けに仲間関連で心に負荷をかけられ、悲鳴を上げ始めたのだ。
「じゃあ、もう無理しなくても良いんだよ。ここまでよく頑張ったね」
共に歩む仲間はいても、支えてくれる誰かがいても、頑張りを褒めてくれる相手は今までいなかった。兄であるルーンの元を旅立ってから久しく感じる事のなかった、慰労の心地よさ。ライズはアルムの事を熟知しているのか、赤子をあやすように優しく頭を撫でてくる。それがなおの事心のガードを崩しに来て、今なら全てを受け止めてもらえるような気がして、身も心も預けてしまいたくなる。投げ出してしまいたくなる。出してはいけないと我慢すればするほど、目頭が熱くなって零れだしてしまう。
「さあ、アルムくん。僕に身を任せて、このまま――」
「――だけど、それじゃダメなんだ!」
際限なく溢れ出しそうになるのをぎりぎりのところで堪え、アルムは立ち上がる。義務感に押し上げられた渋々の起立ではなく、己が意思に従った自力によるもので。恐怖から来る震えは未だ止まらずとも、その四肢に力を入れれば力強く立つ事くらいは出来た。例え虚勢と言われようとも、本心から目を背けたくなくて。
「逃げ出したい気持ちに嘘は吐けないけど、それじゃ嫌なんだ! 僕はヴァローを助けたいし、ティルを放ってはおけない。これも僕の本心だから、目を背けたくないんだ!」
「この先に辛い事が待っていたとしても?」
「うん。だって、今の僕には、支えてくれるかけがえのない仲間がいるから。だから、ちっぽけな僕だって立ち上がれるんだ。もちろん、ライズだってその一人なんだからね」
ここまで長く旅を続けてきて得たものは、確かにあった。小さい小さいアルムの中に、深く根強く刻まれていた。自身が強いから自信があるのではない。ひとえに仲間の存在があって、十全に信じられるからこそ、少年は前を向けるのだ。培ってきた絆も関係も伊達ではない。
村雨が止んで薄い雲も姿を消せば、自ずと晴れ間も覗いてくる。一時は大きく揺らいだものの、その瞳の輝きは本物である事は認められる――否、否が応でも認めざるを得ない。屈託のないアルムの芯をようやく垣間見て、ライズも安堵して破顔を見せる。
「うん。それでこそアルムくんだ。安心した。そういう君だからこそ、僕は付いていこうって思えるんだ」
「もしかして、ライズは僕の事を試したの? 酷いよっ!」
「あはは、ごめんごめん。荒療治だったかもしれないけど、これで立ち直れたら良いなって思って。あと、アルムくんの口から直接、本音と覚悟を聴きたかったんだ。まあ、立ち直れなかったらなかったで、僕にとっては良かったのもあるんだけど」
「ライズ、今何て言ったの?」
今度は本当に届かなくて、先刻とは異なる調子でアルムは尋ねる。だが、「なんでもないよ」とおどけて笑ってみせたっきり、ライズは二度とは秘密を明かしてはくれなかった。それがもどかしくて、くすぐったくて。緊迫した状況下ではあっても、いつも通りの表情を映し出してくれるライズがいてくれて良かったと、アルムは心の底からそう思った。そして、またヴァローとも同じ時間を共有出来たらと、願わずにはいられなかった。
何気ないやり取りを交わせるくらいに回復した頃合いを見計らって、ユーノが目配せをしてきた。一連の流れを黙って見られていたのだと思うと、二人揃って顔から湯気が出そうになる。だが、当のユーノは気にしていないという風に、優しい笑みを覗かせていた。
「決意の儀は済んだかな。私としても君達のような少年を、このような過酷な事で急かすのは心苦しいのだが――」
「いいえ、ユーノさん。僕はもう、大丈夫ですから」
「――そうか、心強いな。ならば、反撃開始と行こう」
険しい茨の道だとは重々承知している。それでもなお、逃げの道からは目を背け、少年達は苦難を自ら選択する。全ては友を取り戻すために。誰かに命じられたからではなく、自分の意思で動く。ここから反撃の狼煙を上げんと、イーブイとマイナンとラティオスは、確固たる目的の下に始動するのであった。