第百二十五話 記憶の欠片は輝かしく〜絡めとる傀儡の糸〜
色も光も途絶えた漆黒の中。いくら足掻こうとも、闇の欠片すら振り払えない一面の闇の中。自身の姿すらまともに見えない空間に一つ、ぼんやりとした燈火が見える。熱烈な赤でも、静穏たる青でもなく、温もりを宿す橙であった。静かに揺らめく炎の中に、黒毛交じりの見覚えのある姿が映る。
アルムは駆けだした。燈火を、温みを、光を求めて。走れども走れども、追いつく気配はない。それどころか、走れば走るほどに遠ざかっているようであった。手の届かぬところに行ってしまうと力を振り絞っても、思いは空回りするばかり。遂には体が限界を迎えて、地面とも分からぬ場所に転んでしまう。
「ヴァロー、待って!」
口を衝いて出た言の葉に、朧げだった記憶が揺さぶられる。同じ事をついさっき言って、それから真っ暗な中に放り出されて――直前の出来事が強引に引っ張りだされて、アルムはようやく夢と認識した空間から、現実へと引き戻されて行く。
“真に”目を覚ましたアルムの体は、確かに光のある場にあった。知らず伸ばされていた足の先には、無機的な壁が映るのみ。地面と接する頬と左半身から伝わってくるのは、求めていた温もりとは程遠い、芯まで伝わる硬質な冷たさであった。横たえられていた体を起こしてみると、全身に鋭い痛みが走る。立てない程ではないが、少なくとも落下前と同じくらい無事と言える状況ではない。
「そうだ、ヴァローはっ」
自身の体よりも、友の安否を懸念する。間違いなく一緒に落ちてきた以上、途中ではぐれる事はないはずと、未知の空間をきょろきょろと見渡す。さして視線を動かす必要もなく、目当ての相手は見つかった。
橙色の友は壁にもたれ掛かる形でぐったりと横たわっていて、先程までのアルムと同様に気を失っているようであった。目立った外傷もなくほっと胸を撫で下ろしていると、その微かな吐息の音で気が付いたのか、ヴァローもゆっくりと目を覚ます。
「お、おはよう、ヴァロー」
「おう、アルムか」
おずおずと切り出すアルムを見て、ヴァローも心底安心したような表情を見せる。一時は癇癪に似た何かを顕わにしたヴァローであったが、この状況にあってはさすがに落ち着きを取り戻しているようであった。開口一番に何を言われるのかと怯えていたアルムも、それが杞憂なのだと分かるとふっと頬を綻ばせる。
揃って無事なのは喜ばしい事である反面、合点が行かないのも確かである。首をもたげると、自分達がどれだけの距離を降下してきたのか、およそではあるが見当がつく。天井の中央部分だけぽっかりと、まるで煙突のようにずっと奥まで空間が続いている。光が漏れていない以上、“落とし穴”は閉ざされたとみて良さそうである。
ヴァローも起き上がるのに支障はないらしく、二人とも体を起こして座った状態で向き合う。しかし、一度は交わったはずの視線を、ヴァローにまたしても逸らされてしまう。先刻自分が犯した事が脳裏に焼き付いていて、居た堪れない気持ちになって。アルムも最初は拒まれているのかと、踏み出しかけた足を押し留める。しかし、アルムは自分の気持ちに嘘を吐くつもりはない。友を信じ、なけなしの勇気を出して、喉の奥から言葉を編み上げる。
「ヴァロー。ねえ、ヴァローったら」
正面に立って呼びかけられても、ヴァローは頑として口を開こうとしない。元よりこの落とし穴の先の空間に逃げ場などない。こうなったらアルムとしても根比べに持ち込むつもりであった。憂いの色が残る瞳に、決心を強く込める。
「ねえ、聞いてったら。僕はね、ヴァローの事が好きだよ。好きで、大切で、今は心配なんだ。だから、良かったら僕にもヴァローの悩み、分けて欲しいなって」
「はぁ……ほんっとーにお前って、誰にでもそういう事言うのな。なあ、アルム。お前にとって、俺って何なんだ?」
呆れたように零れる吐息と共に、僅かにではあるが感情を乗せた色が戻る。その証として、今度は言葉では応じてみせる。なおも視線を合わせようとはしない状態は続くものの、振り絞った勇気が全て無に帰す事だけは避けられた。それだけでも満足なアルムは、挽回とばかりに声の調子を上げる。
「友達、だと思う」
「思うって何だよ。曖昧だな」
「だって」
「だって、何だ?」
アルムは口を真一文字に結び、視線を徐々に下げる。一抹の不安を喉元で抑え込み、晴れやかな自分を最後まで演じ切ろうと試みる。恐る恐る開いた口からは、思いを体現したようなか細い声が零れる。
「きっと、ヴァローの望む答えじゃないかもしれない。だから、ぼかしておいた方が、怒られないかなって」
アルムが心の底から懸念していたのは、叱責を喰らう事であった。無視を決め込まれている間もびくびくしていて、機嫌を損ねないようにと必死に模索していたのだ。ようやく言葉を交わせて本音を吐露したところで、アルムは耳を垂らしておとなしくなる。一連の挙動にすっかり毒気を抜かれたヴァローは、図らずも強張らせていた面持ちを緩やかなものに変え、思わず吹き出してみせる。
「さっき怒鳴ったのは悪かったよ。少し反省してる」
前足でぽんぽんと軽く頭を叩かれ、アルムは下がりかけていた頭を上げた。現金ではあるが、塞ぎこみかけていたアルムも調子が戻って、いつもの解れた表情を覗かせる。健気に笑ってみせる友人を前にして、ヴァローは胸にちくりと痛むような妙な違和感を覚える。
「じゃあ、ヴァローが何を思っていたのか、僕に話してくれる?」
「ああ。恥ずかしい話だがな、いいか?」
「いいよ。ヴァローが恥ずかしがるような話なんて、めったに聞けないしね」
「お前なーっ!」
温もりの失せた殺風景な空間に、鮮やかな色の伴う弾けた声が飛び交う。揶揄うような言い回しに不服なヴァローは、乱雑にアルムの頭を掻き撫でて、自身の鬱憤を解消する。そこに先刻まで渦巻いていた淀んだ気持ちはなかった。毛並みを乱されて納得がいかないアルムだが、一度は逸れた軌道に乗せようと、凝視と言う名の無言の圧力で訴えかける。
「わ、分かったっての。俺さ、ずっとお前を守れるのは自分だけなんだって、そう思ってた」
「うん。ヴァローはいつでも僕の事を気遣って、守ってくれようとしたよね」
「ああ、そのつもりだった。だけど、俺はきっと、それ以上の違う何かを求めていた。俺が望んでそうしているはずが、知らずアルムに求めていたんだ。逆にな」
「求めていた? 何を?」
ヴァローは歯噛みする。己の思いでありながら、本心まで繋がらず、未だ着地点を定められずにはぐれたまま。言わずとも通じるとまでは思っていないが、自ら口にするのが憚られて、一種の恐れを抱いてしまう。だが、それでもアルムから視線を逸らす事は、もはや叶わなくなっていた。目の前にいるイーブイが、さっきから純粋無垢な視線を片時も離さなかったから。
「俺にそれを言わせるのか?」
「ヴァローが言いたくないなら、言わなくても良い。でも、僕はヴァローの口から聞きたいんだ。だって、本人の口からじゃないと、ちゃんと伝えてくれないと、きっと何も分からないから」
アルムはひたすらに真っ直ぐで、純粋であった。その眼差しに射抜かれると、心の内まで見透かされているような気分にさえなる。途方もない本心の迷走に、ヴァローは我ながら嫌気が差しつつも、今度こそ向き合おうと決意する。自身で気付かぬふりをしていた思いに、真摯な気持ちを重ねるように。
「アルム、覚えてるか? 俺達が初めて言葉を交わして、仲良くなっていった日の事を」
「うん。忘れるわけないよ。僕にとって、ヴァローとの大事な思い出の一番目だからね。そうそう、あの頃のヴァローは、今よりもやんちゃ坊主だったっけ.
大将肌っても言うのかな?」
「それを言うなら、お前は今以上に引っ込み思案なお坊ちゃん気質だったろ。そう、あの頃から考えると、お前は本当に変わったって思う。俺が見えるところで変わらなかったお前が、少しずつ良い方に変わり始めた。だけど、きっと俺はあの頃から――」
それは大して遠くはない過去の話。二人が共有する記憶に思いを馳せ、解けていた糸を紡いでいく。こそばゆい気もするが、お互いのルーツを探る意味でも、そしてヴァローの思いを紐解く意味でも、きっと実りあるものだとアルムも感じていた。――だが、そんな明朗な語らいが展開されるはずの温かい時間も、不本意ながら長くは続かなかった。
「麗しき友情とやら、か。その場凌ぎの戯言で繕われた、形骸化した関係に相違ないな」
低く威圧感のある声が、黒を基調とした空間に不気味に木霊する。殺気に満ちた気配を感じるが先か、反射的に体が動くが先か。いずれにせよ、新たな存在をしかと認知し終えた時には、既にアルムの体はふわりと宙に浮いていた。いくら足をばたつかせようとも、ただ空を切るばかりで抗いようがなかった。
視線だけ動かして声の主を捉えた時、アルムとヴァローは背筋に氷水をかけられたように身震いする。否応なしに全身の毛が逆立ち、脳が本能的に警鐘を鳴らしてくる。薄紫の人型の体に、自身の体長よりも長い尻尾。忘れるはずもない、強大な力を持った化け物。その名をベーゼというミュウツーが、自分達と同じ空間の空気を吸っている事実に、二人はさらに呼吸が荒くなる。
「貴様の方は邪魔だな」
ベーゼの軽い手の一振りで、アルムの体が淡く発光する。それはエスパータイプの力を行使した証に他ならず、念動力で軽々と持ち上げられた小さな体が、造作もなく壁に叩きつけられた。鋼鉄のような材質にぶつかる鈍い音が響き、衝撃で息が止まる。無情にもその手を緩める素振りは全くない。一度では終わらず、今度は反対側の壁にもその体を衝突させる。
「あぐっ……」
小さな悲鳴を喉から絞り出し、アルムの体はずるずると壁に沿って降下する。辛うじて気絶は避けるものの、視界がちかちかと明滅を繰り返して、意識が消滅する一歩手前で堪えるのが精一杯であった。地面にべしゃりと落ちた体に、今は動かす力が残されていない。
「てめえっ、アルムに何しやがるっ!」
呆気に取られている場合ではないと、一寸遅れてヴァローが怒りの炎を燃やす。己の覚悟を宿し、具現化するかのように全身に炎の鎧を纏い、宿敵へと猪突猛進の勢いで突っ込んでいった。しかし、怒りに任せた単調な突撃など、少し浮遊するだけで軽くあしわられてしまう。急ブレーキをかけて再度体当たりを試みるも、その隙にあまつさえベーゼの念力の効力下に置かれ、軽く手玉に取られてしまった。
「ほう。お前、中々に面白い。心がちぐはぐになっているな」
「うるせえっ! お前には関係ないだろ!」
闇雲な突貫が不発に終わったことで“かえんぐるま”を解除し、ヴァローは急ぎ考えを巡らせる。炎を撒き散らして半ば捨てばちの抵抗を試みるが、念動力で尽く防がれてしまった。今度は手で握り潰されるような縛る力に、そのままあえなく身動きを封じられる。
「隠さずとも良い。怯えずとも良い。さあ、己の中に潜む闇に身を任せ、全て曝け出すが良い」
否も応もなく耳に届く囁きは、心の芯に響く甘い誘惑。抗う意思すら容易に飲み込まれ、内から滲み出す別の意思に侵食され、徐々に上書きされていく。光の一切を見出せない薄紫色の瞳に魅入られ、必死に睨みを利かせていたヴァローの瞳から輝きが損なわれた。最後にして唯一の抵抗を終えたヴァローの体は、操り人形の如く全身がだらりと下がる。
「うう、ん……ヴァロー! しっかりして、ヴァローっ!」
朧げだった意識を明瞭にさせ、何とか現状の把握には支障を来さなくなる。だが、ようやく起きたアルムの悲痛な叫びも、もう友に届く事はなかった。ヴァローの輪郭がぼやけて見え、足を伸ばそうとしても叶わない。
「ヴァローに何したんだっ! ヴァローを返して!」
「返して、とはまた愚見を口にする。返すも何も、こやつは自らこちら側に踏み入れたに過ぎぬ。心に大きな闇が渦巻いていれば、その渦にいとも容易く飲み込まれるように。そう、抗う力など微塵もない、虫けら同然であった」
「こちら側って、まさか」
アルムの嫌な予感は見事に的中する。その虚ろな瞳の奥に、いつものヴァローが宿す光も、勇敢な姿も、捉えることは出来なかった。ヴァローもアルムの言動に一切の反応を示す事はなく、虚空を見つめているばかり。恐怖の象徴たるベーゼと対面して、頼りになる仲間を奪われ、アルムは窮地に立たされる。
奮い立たせる勇気も残っていない。励ましてくれる仲間も隣にいない。蒼ざめた顔でわなわと体を震わせ、呆然と見上げる先に映るのは、冷血な視線を投げかけてくるミュウツー。希望が潰えて、心も折れかけているアルムに向け、下した腕から念動力を解き放とうとする――その時だった。
絶体絶命の局面に、轟音を伴った青い稲妻が、両者を割くように迸った。密室だった部屋の空間に横穴が空いており、その向こう側から攻撃主が姿を現す。小さな体に不釣り合いなくらいの大きな耳を持つウサギのようなポケモン――マイナンは、ライズに間違いなかった。駆け付けてくれたことに安堵するが、その後ろからさらにもう一つ影が迫っている事に気付いて、固唾を呑む。
ライズに付き従うようにして現れたその姿には、アルムも既視感を覚える。体が常に宙を浮いていて、二枚の大きな翼を持っている。白を基調とした体毛には他に青色の部分もあり、胸のところには赤い三角形の印が刻まれている。容姿はサンクチュアリで遭遇した巫女――ラティアスのユーリに酷似しているが、その目つきは鋭く、別個体としての差異は多い。
「お前、アルムくん達にまた危害を加えたな。許さないぞ」
険しい表情をするライズが伸ばした手の先から、目も眩む閃光が弾ける。煌めきの奔流が収まると同時に、収束された一条の光が、ベーゼに目がけて伸びていく。前回の接触で力量を計っているベーゼの方は、念動力を篭めた右手を差し出す事で、軽く防御の構えを取る。その慢心しきった強敵に、成長を遂げたライズの雷撃が炸裂した。雷鳴が轟き、枝分かれした稲妻が方々に広がる。
「ちっ、小兎と思って侮らぬ方が良いか」
焦げたような臭いが立ち込め、ベーゼは僅かに焼けた手を引っ込める。舌打ちにも確かに苛立ちを滲ませており、軽視していた事実も認めている。それでいてなお、沈着冷静な様子は揺るがないでいた。もう片方の手の中で渦巻く力を操り、球状に収束したものを撃ち出す。
瞬間、高速で迫る蒼色の珠が、藍の衝撃波に巻き込まれる。うっすらと竜のような形を取った渦は、“はどうだん”を噛み砕いて消滅させるに至る。相殺しかけるが、あまつさえその残滓をベーゼの下に飛ばすくらいで、その威力を証明している。口から“りゅうのはどう”を放ったのは、沈黙を貫いていたラティオスであった。
「貴様、そちらに与すると言うのか」
「遺跡を壊そうとする連中と子供に危害を加える者は放っておけないものでね。それと、大前提として、お前のような奴が気に食わない」
一層目つきを鋭くするラティオスは、咆哮と共に竜を模ったエネルギー波を続けざまに放った。風を孕んで突き進む“りゅうのはどう”に対し、ベーゼは初めて片方ではなく両の手を前に出す。掌中に溜めたサイコパワーで壁を作成、直後に衝撃波が衝突する。強力なエネルギー同士のぶつかり合いで眩い発光が続く中、数秒の後に波動の嵐は止み、ベーゼが攻撃を凌ぎきった。
「この隙に逃げた、か」
バリアーも消失して視界が晴れた先では、アルム達が忽然と姿を消していた。ベーゼは物臭そうに漂う煙を払い、部屋にぽっかりと空いた穴へと目配せをする。
「まあいい。この遺跡からそう簡単に脱出は出来ぬ。それに、今は良い駒を得た事だしな」
脱出口は容易に推測出来たものの、追跡するような素振りはない。代わりに視線を落とす先にいるのは、神社の狛犬のように微動だにしないガーディのヴァロー。その体を念力で持ち上げて浮かすと、そのまま不敵な笑みを浮かべつつ、ベーゼも手狭な空間を後にするのであった。