第百十八話 これからの進路と秘密の抜け道〜レイルの示す新たな目的地〜
蒼色と空色が層を成して広がる中に、ガラスの粉を撒き散らしたようにきらきらと輝きが生まれる。黒を湛えて群青に近くなっていた海に、徐々に温もりと鮮やかさが取り戻されて行く。虚ろな光が静かに染み入る夜が終わりを告げ、上りゆく明るい太陽に照らされる朝が訪れつつあるのだ。直接光を浴びる大地ほどではないが、もちろん海中都市であるアトランティスにもその影響は及ぼされる。
風も吹かなければ空気の流れも感じない。代わりにあるのは、体を優しく包み込む水である。一日もいればその感覚にも慣れるかと思ったが、やはり目覚めの時は多少なりとも戸惑ってしまうのは無理もなかった。妙な浮遊感に苛まれて気持ち悪さを感じた一部の者は、弾かれるようにして飛び起きる事となる。
昨夜こっそりと抜け出した三人組も、ぐっすりと眠っていて気づかなかった残りの面子も、大体同じ時間に目が覚めた。唯一体調を崩していたアルムだったが、寝起きの顔を見る分には良好そのものである。呑気に欠伸をするイーブイの元へ、マリルが起きしなに近づいていく。
「アルム、おはよう。ちょっと見させてね」
見た感じでは大丈夫そうでも、また痩せ我慢をしていないとも限らない。一応確認のためにと、シオンはアルムのおでこに手を当てる。優しく手が触れた途端に、アルムは無性にどきどきするのを禁じ得なかったが、何とかおくびにも出さないように耐える。
「うん、これなら大丈夫そうね。良かった」
「えー、本当に? 僕も保険として見てみよう。水タイプの手の感覚は、少し違うかもしれないからね」
昨日は酷かった熱の下がり具合を診るためだったのだが、シオンが感じた限りでは充分回復しているように見受けられた。安心して離れたシオンと入れ替わるようにして、今度は満面喜色の笑みを浮かべるマイナンのライズがアルムのところへ近づいた。そして有無を言わさず、かつもっともらしい理由を添えながら、自分のおでこをアルムのおでこにくっつける。
「ライズ、な、何をっ」
「うん。確かに下がってるね。安心安心」
ライズの大胆かつ強引な接近に、アルムは戸惑いを隠せない。当のライズはと言えば、微塵も悪びれる様子もなければ、自分の行為を恥じている素振りも見せない。シオンの確認の後では不要なはずだが、それはそれ。ライズはあくまで、自分でアルムの無事を知っておきたかったのだ。と言ってごまかしはするものの、本意は別のところにあるのだが。
「あー! アルムと頭突きするのー? ボクもやるー!」
「違うよ! ごっつんこしない!」
陽気な星の君が、アルムの三番手の相手として名乗りを上げた。楽しそうな遊びをしているとでも勘違いしたのか、ティルが続いて負けじと謎の張り合いを見せる。これ以上てんやわんやになられても収拾がつかないと、アルムが必死に押し留めたところで、朝の喧騒はようやく落ち着きを見せた。不服そうに頬を膨らませるティルを横目に、アルムは改めてシオンへと笑顔を向ける。
「そうだ。昨日は眠くて、いろいろあって言えずじまいだったんだけどね。シオン、昨日はありがとね」
アルムとシオンの二人と、もう一人しか知らない、夜の間の秘密のやり取り。アルムはどちらかと言えば立会人の方だったのだが、いずれにしろレイルを気遣っての行動だった事に変わりはない。眠気に負けて伝えられなかった感謝の旨を、ここではっきりと伝えたかったのだ。
「ううん、私はお礼を言われるほどの事はしてないわ。私がそうしたかったからしたまでだし、何よりアルムのためだもの」
優しい微笑み返しをするシオンではあるが、アルムの言葉をそのまま受け取りはしなかった。むしろ熨斗紙を付けて返すくらいの徹底ぶりで、アルムは胸の鼓動が早くなり、顔が火照るくらいのものであった。直視出来ずに慌てて視線を泳がせてみれば、家屋の外の方に見覚えのある青い“かいゆうポケモン”の姿が目に留まった。じっとこちらを凝視している辺り、どうも首を突っ込む隙を窺っていたらしい。
「朝から元気そうで、ニノアとしても羨ましいなって思うー。ねね、ニノアもそこに混ぜてくれなーい?」
「いやー!」
「ちぇっ、冷たいの。釣れないの」
ティルに即行で突っぱねられてしまい、ニノアはわざとらしくさめざめと泣き真似をする。しかし、見え透いた演技など誰にも通用しない。心配してくれる者が一人もいないと分かった途端に、今度は拗ねたように唸り声を上げる。
「君たち、仮にもこの都市の精霊への配慮ってものが決定的に欠如してると思うんだけどなー!」
「配慮したいと思えるような風格が圧倒的に欠けているからではないかと」
擁護するつもりのない手厳しい声が、ニノアの背後からさらに追撃を浴びせる。氷の槍でも刺すような鋭さの持ち主は言わずもがな、隣の宅から姿を現したグレイシアのクリアであった。その後ろでは苦笑を貼り付けながらブレットが待機している。
「揃いも揃って、ニノアをいじめるんだー! 何だい何だい、弱い者いじめは反対だー!」
「とか言いつつ、ニノア様も満更でもない癖にな」
「――リーゲル様と違って、ここの精霊様は随分と変わってらっしゃるのですわね」
扉の裏から様子を窺いつつ、キルリアのティリスがこっそりと顔を覗かせる。未だ毅然として全員の前に姿を現すだけの勇気はなかったが、それでもニノアに対して皆の後をなぞるように皮肉を口に出来る辺りには、幾許か進展を見せている。
「まあ、ニノアが嫌われているらしい事実は知らなかった事にしよう。不問にしよう。で、本題に入ると、ニノアは君たちのこれからの進路が気がかりだったのだよ」
「進路、か。昨日は結局ばたばたしてて、それを考える余裕もなかったもんね」
「誰が無理して体調悪くしたせいだと思ってるんだよっ」
平然とするアルムのおでこを、ヴァローが前足ですかさず軽く撥ねた。やや力の強い突っ込みが予想外の方向から飛んできて、アルムも思わず仰け反る。
「いったいなあ、もう。それはごめんってば。もう我慢して心配かけるような事はしないから」
「おう。それさえわかりゃ良いんだ。だけど、これからの進路って言ったってなあ。次どこに行けば良いかなんて、今度こそ俺達には分からないもんな」
このアトランティスを訪れる事となったのも、グロームタウンで解放したサニーゴ達を送り届ける目的があっての事で、その先まで考えての行動ではなかった。故に次にどう動くかの構想は、アルム達の頭の中には浮かんでいなかったのだ。視線を交差させはするものの、一様に唸り声を上げて首を傾げるばかりで、答えらしいものは誰も持ち合わせていない。
そこへ、助け舟を出すかの如く、アルムとシオン以外には見慣れない影が首を突っ込む。昨夜その姿を変えたばかりのポリゴン2――レイルである。
「主、その事に関して、私から告げておかなければならない事実があります」
「ん? お前、レイルなのか!? その姿、いつの間に変わってたんだ?」
「それは些末な問題です。今はそれよりも大事な事が」
昨晩行動を共にしていないヴァローが驚くのも無理はないが、レイルは話が横道に逸れるのを避けようと、飄々とした様子で受け流した。他の面子は食いつかずとも、大きな変化に興味を示してまじまじと見つめてくるが、熱烈な視線などお構いなしで続ける。
「主、あのミュウツーには力を手に入れるという目的があります。正確には強力な兵とも言いましょうか。実はこの都市の近くに、その目的を叶え得る海底遺跡が存在しているのです」
「海底遺跡だって? オレにとってはこの辺は勝手知ったる場所だ。しょっちゅう都市の外を泳ぎ回ったりもしたが、そんなの見た事ねえぞ?」
「それは当然です。見つからないようにカモフラージュされた上、この都市のように防壁を張り巡らせているのですからね」
故郷周辺の事情には明るいブレットが噛みつくが、レイルは自身の持つ知識による証拠を突きつけて即座に応じる。このアトランティスやかつて訪れた芸術の町――ラデューシティに関しては防壁の件が、サンクチュアリに関しては迷彩についてが、それぞれ思い出せる限りでは該当する町であり、アルム達にも合点が行く。
「だけど、そうやって巧妙に隠されているんだとしたら、あいつらだってそう簡単には見つけられないんじゃないの?」
「そうだったら良かったんだけどねー。残念ながら、元々その存在を知らないポケモン達には手掛かりなしには見つけにくいってだけで、一度分かってしまえば偽装しようと無駄なんだよねー」
大きく吐き出された嘆息は、ニノアの嘘偽りない証言を裏付けするような、思いが強く篭ったものであった。ミュウツー達も感知していないならばやりようはあるのだが、その種を知っていては対策の打ちようも限られてくる。一行の間に既に重苦しい空気が漂い始める中、その流れをぶった切るようにレイルが淡々と言葉を続ける。
「重要なのは、彼らの動きを我々が阻止するために動くか否かではないでしょうか。現状対抗しうるだけの“力”と彼らに関する情報を持っているのは、私達を含めてそう多くはないはずですから」
レイルの進化による解放は、感情の芽生えが齎されただけに留まらなかった。今までポリゴンの姿では知りえなかった記憶の鍵が、徐々に解け始めているのだ。その最たるものが、最初に挙げた海中遺跡の事であり、他の面子には初耳の“力”に関する情報であった。
「俺達があいつらに対抗しうる、だって? 冗談きついぞ。衝突する機会が多くて、不本意ながら情報を多く持ってるのは認めるさ。でも、サンクチュアリで対峙した時、手も足も出なかったじゃないか」
「そうだよね。あの時は為す術もなかったって感じだったもんね」
各々痛い敗北を喫した苦い記憶を呼び起こし、ヴァローとライズが曇天のような暗い色を滲ませる。あれからほとんど時も経っておらず、色褪せる事なく鮮明に残っている思い出の限りでは、少なくとも胸を張って対抗出来ると言えるほどの戦果を挙げたとは到底言い難かった。だが、レイルはそれでも頑なに譲ろうとはしない。
「あの時とは既に状況が変わりつつあるのです。いえ、正確には、変わりつつあるのは皆さんの方でしょうか」
「僕達が変わりつつあるって言われても――あっ」
アルムの脳裏に浮かんだのは、自身の事は脇に置いた上で、グロームタウンでのヴァローとライズの力の覚醒であった。単なる成長の一言で片づけるには違和感のある、目覚ましい顕現。同じ事を考えていたらしいシオンと目が合い、そのまま移った視線は対象たる二人に自然と釘付けになる。
「アルムくん、そんなにまじまじと見つめてどうしたの?」
「いや、もしかしたら二人がこの前見せてくれた力の事を言ってるんじゃないかなって思って。レイル、違うかな?」
「主、さすがです。合っていますとも。そしてその正体が何なのか、記録の完全な今の私なら分かります。あれは星の精霊たるジラーチが司る、“十二の力”そのものです」
故郷の長老たるヨルノズクのシュエットに古い本を見せてもらった時、ティルと出会って七夜目に起きた“もう一人のティル”と邂逅を果たした時、そのどちらでも聞いた覚えのある単語――十二の力ではあるが、その答えには未だ辿り着けずじまいだった。それが唐突に、仲間であるレイルから告げられた事で、一同――特に最初から行動を共にしていた者達の間では衝撃が走る。
「そういえば、ヴァローの特訓をしてくれたライラとかいうテールナーも、天秤だとか単語を口にしていたな。それも十二の力の一つってわけか」
「そうなりますね。元々は“ニンゲン”の住む世界で観測されていた星座の名を冠した力らしいです。あなたが天秤の力と呼称されたのならば、そちらのマイナンのあなたはさしずめ射手座というところでしょうか。主から断片的に話を伺ったに過ぎませんが、どうやら雷の矢を撃ち出していたようですし」
アカツキが思い出したように頷く中でも、レイルは淡々と解説を加えていく。アルム達にとっては目から鱗の真実だけに、呆気に取られるばかりである。しかし、その力を間近で目にしたアルムと使用者であるライズ自身は、互いに顔を見合わせて頬を緩める。
「確かにライズが使ったすごい力は、矢の形をしてたもんね! 雷の矢かあ、かっこよかったなあ」
「う、うん。アルムくんに声を大にして褒められると嬉しいな」
素直な感想を述べるアルムに、ライズも珍しく頬を赤く染める。二人だけの仲睦まじげなやり取りに、脇に控えるヴァローやシオンは嫉妬に似た何かを覚えなくもなかったが、それは何とか抑えるに至った。相手の心が手に取るように分かり、一方で見透かされているような気がして、二人は一瞬だけ視線を交わしては苦笑を交える。
「僕は見てなかったんだけど、ヴァローもいつの間にか力を手に入れてたんでしょ? すごいなあ。今度僕にも見せてね!」
「お、おうっ。まあ、楽しみにしておけよな」
不意打ちとばかりに笑顔を向けられ、防ぐ術も余裕もなかったヴァローは、たじたじになりつつもにかっと笑って見せる。アルムはアルムで、自身の存在価値を自分で認める事が叶い、他人の変化を称賛するだけの余裕が生まれていたのだ。だが、アルムにヴァローの機微を全て解する事など叶うはずもなく、ヴァロー自身とて自らの事であるはずの心境の変化に、胸のざわつきばかりを覚える始末。しかし、そのざわつきを表出出来るでもなく、ヴァローは一人内に抱える事にする。
二人がそんなやり取りを交わす中で、その他の面子は些か腑に落ちない点があった。否、もっと言えば、レイルの告げる真実は有益な情報を齎すと同時に、大きな疑問が否が応でも湧き上がってくるのだ。それを真っ先に顕わにしたのは、何かと勘の鋭いアカツキであった。和んだ空気で少しずつ謎が氷解していく中で、ここであえて水を差す。
「一つ疑問が浮かんだんだが、どうしてそいつが敵さんを含め、おれ達も知りえなかった事情に詳しい――いや、詳しくなったんだ? 姿が変わった事と言い、唐突にそんな情報を喋り出した事と言い、何か一枚噛んでるんじゃないだろうな。例えば、失っていた何かを取り戻して寝返る、みたいな」
猜疑心を持って当たるのも無理はない。何せ元々敵方にいたティリスを味方に引き入れたばかり。敵がアルムの甘さに付け入ろうとする事が万が一にもありえるのだ。警戒を怠らないアカツキが、一段と目を光らせる。
「私にはそれを証明する術はありません。見た目にも変貌を遂げていては、怪しまれて然るべき事でしょうから。身の潔白は、己の行動によって証明するのみです」
凛とした眼差しを向けるレイルに対し、以前とは雰囲気が全く異なっているような印象をアルムは受ける。アカツキの訝し気な視線をしっかり慮っている上で、それに対する自身の回答を自分なりに導き出しているのだ。これは立派な成長に他ならなかった。
「しかし、宣言だけはさせていただきたい。これまで私は主に付き従ってきた。ただそれだけです。でも、これからは違う。私は主のために尽力していきたい所存です。感情の尊さを教えてくれた主のために」
「そっか。そこまで忠誠と覚悟を示されて、疑いの眼差しを向けるわけにもいかないな。妙に勘繰るような真似をして済まなかった」
「いえ、あなたの炯眼はごもっともです。私もあなたの立場でしたら、怪しんでいた事でしょうし」
今まで見てきたアルム達の真似事か、レイルは軽く笑みを作ってみせる。未だにぎこちなさは残るが、精一杯の感情の表現に、アカツキも思わず目を細める。皮肉めいた言葉を交わす事が出来るのも、一皮剥けた証拠とも言える。一時は静まり返っていた空気も、元の暖かさが戻り始めた頃。この機を待っていたニノアが、しょぼくれていた状態から復活を果たし、輪の中央まで泳いで手を広げ、その存在を再度誇示する。
「遺跡に行く覚悟が出来たわけだね。それなら、ニノアも少なからず協力しよう」
「協力? 冷やかしの間違いじゃなくて?」
「協力ったら協力なの! もう、そうやって皆してニノアの事いじめるんだー!」
ニノアはこの期に及んでめそめそと泣いたふりをして気を引こうとするが、既に一度看破されている白々しい嘘泣きにアルム達が引っかかるはずもなかった。クリアの棘のある物言いにまたもや憤慨したような素振りを見せるが、それも些細なご愛嬌の内。
「で、ニノアさま。本当にオレ達に協力してくれんだろーな?」
「もちろんそのつもりだとも。このアトランティスにはね、遺跡へと通じる抜け道があるのだよ。そこを通っていけば、最短で遺跡に辿り着けるって寸法さ。どう、これでも美味しくない話って言える?」
「さっすが精霊様! 頼りになるよな!」
鮮やかな掌返しと共に持ち上げるブレットに、ニノアは機嫌を良くして満更でもない顔をする。手を腰に当たる位置に持っていき、少しふんぞり返ったような姿勢を取る。あまりにも滑稽な見せつけように、アルム達も堪え切れず破顔一笑する。今度はそれを嘲笑だと憤らず、ニノアも一緒になって笑顔を振り撒く。だが、そんな柔らかい表情は、一瞬で解けて消えていく。後に残るのは、やや愁いを帯びた真摯な眼差しであった。
「くれぐれも気を付けて。今までも危ない橋を渡ってきた君たちだけれども、その先はさらなる危険が待ち受けているはず。だから、このニノアは水の精霊として、君たちに助力は惜しまないつもりだよ。それだけは覚えておいて欲しいな」
「おうっ! いつだって頼りにしてるぜ、精霊様!」
「本当に調子が良いね、ブレットは。だけど、うん、僕もその気持ちに偽りはないかも。たぶん。きっと」
「クリアは相変わらず冷たいなー。ま、それも信頼の裏返しって奴なのかもだけど。さあ、星の力を授かりし冒険者たち! 君たちの先は決して暗闇などではない。臆することなく進むのだー!」
星の力に、光に導かれて集いし冒険者達は、意気揚々と次の目的地への一歩を踏み出す。ここまで来た時よりさらに、後ろに三つの影が増えている。まるで以前から行動を共にしていたかのような付き従いようであるが、アルム達も今は深く言及するのを止めにして、その歩幅を同じくして進む。
目指すは海底遺跡。ニノアの案内に従い、遺跡へと通じる洞穴を突き進んでいく。暗がりの果てに待つのは希望の光か、絶望の闇か。未だ彼らは知る由もないのであった――。