エトワール・フィランテ〜星降りの夜の導かれし出逢い〜


















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第十四章 水中都市アトランティスと結界使い〜精霊の秘密と新たな兆し〜
第百十一話 夢と現の境界〜未来の彼と小さな理想〜
 根こそぎ意識を持っていかれたアルムは、底なし沼のように深い暗闇の渦に飲み込まれていた。最初こそ水中を漂っているような浮遊感があったものの、次第に渦潮の中でなす術もなく弄ばれるような酔いに似た感覚と、胃袋を引っ掻き回されるような不快感に同時に襲われていく。ぐるぐると回りながら落ち続け、いつまでも止まる事もないのかと思っていたが、それも平衡感覚を完全に失った辺りでようやく終わりを告げた。
 辿り着いた先も黒一色で塗り潰されている事に変わりはない。自分が足を着けている場所さえ、どうなっているのか窺えないほどである。草むらの上にいるのか、石畳の上にいるのか、その感覚さえ分からない。何もかもが不明瞭であって、寄る辺のないこの場は、明らかに隔離された空間とも言える。己の感覚さえ狂わされるようなところに放り込まれ――もとい、導かれたアルムの目に、ただ一点の光が飛び込んでくる。
「やあ、また会えたね」
 唯一の光源であった光の繭が弾け、羽化を待ちわびていた蝶のように羽衣を広げる。ティルであって、ティルでない存在。ティルが彗星からこの星に現れて、出会ってからちょうど七夜目に、リプカタウンで夢の中に現れたのと同一の存在である。ティルが全てを照らし、闇を払わんとする輝きを放っているお陰で、アルムもこの特異な空間で初めて色を認識する事が可能になった。だが、その驚きに勝るのが、無論“こちらのティル”の登場である。
「どうして、君が? そもそも君はティルなの? 僕はアトランティスでニノアと話していたはずなのに、ここは一体?」
「質問いっぱい、だね。分からない事が多いのは分かるよ。真っ暗で不安かもしれないけど、でも、落ち着いて。ここは対話のための世界だから」
「それでね、ボクの事も知りたいんだったよね、うん。いつでも能天気なボクは、敵に利用されないための仮の人格と言えば良いかな。ううん、ちょっと違うな。あれは、自分の使命と真実を知る前のボク。今ここにいるボクは、あのボクが“みらいよち”して映し出した存在なんだよ」
 矢継ぎ早に疑問を投げ掛けたのは良いが、予想以上に大量の情報を返されて、ただでさえ落ち着けていないアルムはてんてこ舞いになってしまう。状況の整理が追いつかず、にわかには信じがたくて、ただただぽかんと口を開けて立ち尽くす。
「ちょっとややこしかった、かな。まあ、受け入れられなくても仕方ないとは思ってたけど」
「信じ……たいよ。だけど、なんか最近あれこれ起こり過ぎてて、僕も頭の中がぐちゃぐちゃで、よくわかんないよ」
 ここまでの旅路を思い起こせば、心労の絶えない道中ばかりであった事は否めない。嫌ならば全力で逃げ出す事も出来たろうが、アルム自身の意思でこうして今ここにいる。その事実に間違いはないのだが、許容量や限界というものがある。
「ごめんね。本当はこんな形で驚かせたかったわけじゃない。ただ、あまりにもアルムが大変そうだったから、こうなったんだと思う。たぶん」
「たぶんって、どういうこと?」
「今はね、アルムと心が共鳴したから、こうやって繋がっていられるんだよ。もちろん、あっちのボクは気づいちゃいないと思うけど」
 この混沌とした世界に意識を落とし込まれる前、オカリナが強い光を放って、ティルの苦しみが伝わって来た事を思い出す。未だに訳が分からない事に変わりはないが、ティルと何かが通じたのは確かに感じていた。それならば、目の前にいるのがティルだと認められる以上、不安を抱くのは間違いだと思い至る。
「それで、どうして君と対面する事になったんだっけ……。なんか、すごく心が苦しくなって、熱くなって、気分が悪くなって――もしかして夢の中なのかな、ここ」
「夢、みたいなものかな。心が繋がった、精神世界とか、そういう感じ?」
「そっか。僕とティルだけの、二人っきりの空間、かあ。――永遠にこの空間にいられれば良いのに」
 アルムは急に声色を変えて、視線を落とす。ティルが放つ光で顔に影が出来るが、それとは異なる濃い陰りが浮き彫りになる。
「どうしたの? 声、震えてるし、顔も怖いよ」
「そんな事ない……ないよ、うん」
 自分に言い聞かせるようにぶつぶつと唱える様からは、普段のアルムらしさは微塵も感じられない。心を閉ざして内に引き篭もろうとしている。自ずと暗がりへと歩むアルムに影響されてか、ティルの光も徐々に薄くなっていく。ティルは慌てて飛んでいって、これ以上深みに行かないようにとアルムをしっかりと捕まえる。
「そっちはだめだよ。アルムには、前を向いていて欲しい。今も未来も、ちゃんと見ていて欲しいな」
「嫌なんだもん。もう、怖い相手と戦ったり、逃げたりするの。僕ね、皆みたく強くもないし度胸もないから、ここでこうやってティルと話していられるんなら、それが良い」
「ここは一時だけ特別に開かれた場所だよ。アルムに落ち着いてもらうためのね。だから、お願い。自分を見失わないで。時間が掛かったって良いから、戻ってきてよ」
 やっぱり、同じ存在なんだっては信じがたい。それでも、強く抱きついて来る様子や、喋り方のような表層以外の芯の部分からは、人懐こくて天真爛漫なティルと同じ印象を受ける。だからこそ、別の意味で衝撃を受け、はっとして、乾いた笑いが出てきてしまった。
「あはは、ずっと、ティルは何も知らないでいるんだって思ってたけど、本当はそうじゃなかったんだね。もちろん素のティルがあの無邪気な姿であって、目の前にいる君が今のティルと同じ存在じゃないってのは分かったんだけどさ。ちょっと悔しいかも」
 すごく近い距離にいるはずなのに、何故か届かないような存在。知っているつもりでいて、実は何も知らなかった。これだけ不思議な力を持っていて、しかもミュウツーにまで狙われるとくれば、運命を背負っているのは、ティルなのかもしれない。
――もしそうだとして、自分に一体何が出来るのだろう。肩代わり出来ないのはおろか、その使命の重みすら分かってあげられないのかもしれない。そう思うと、何だか無力に感じて悲しくなってくる。
 俯き加減になって視線を逸らそうとすると、ティルが急に近づいてきて、力強く抱き着いてきた。あまりにも唐突過ぎて体が瞬時に硬直してしまうが、すぐにその緊張は解れていき、徐々に相手の暖かさに身を寄せられるようになる。
「アルム、だめ! 気負う必要はないんだよ。ボクはアルムと一緒にいる時間を過ごせる、それだけで、幸せなんだから。アルムが悲しいと、ボクにも伝わってくる。でも、アルム、ボクの前では悲しい顔を見せなかった。だから、その気持ちは嬉しいけど、ちょっぴり寂しかったんだ」
 夜空に彗星が輝き、そこから離れた流れ星に乗って現れ、出会いを果たした事を不意に思い出す。末っ子だった自分に弟が出来たみたいな気がして、いつからか愛おしく思っていた。旅を続ける中で、一緒に笑って、いろんなものを見て、隣にいるのが当たり前になっていた。時には辛い事もあったけど、それも全て良い思い出として残っている。今までの足跡を見つめ返しても、無駄な事なんて一つもなかった。
 だけど、その幸せを蝕み、阻もうとする者がいる。そのために立ち上がらなければと思っていても、何故か二の足を踏んでしまう。ただ楽しく旅を続けるだけの、日常を壊されたくないから。意識を失う前、自分が叫んだ事をようやく思い出して、何をしたいのか今一度考える。
「ねえ、知ってる? ジラーチっていう種族は、何でも願いを叶える事が出来るんだって。アルムはさ、願いが叶うとしたら、何を祈るのかな?」
「そんなの決まってるよ。またティル達と、皆と、楽しい旅を続けられますようにって、祈りたいな」
「うん、嬉しいな。ボクもそうだったらって思ってる。ボクには叶える力がないんだけど、そうなったら良いよね、うん」
 決して悪い事を言っているわけではないのに、ティルはべったりくっついていたアルムから離れた。さらには何か含みのある言い方をして、表情に影を落としている。しかし、アルムの気遣わしげな視線に気づいて、すぐに笑顔を取り戻した。それが取り繕ったものなのか、本心からなのか、追究するのは止めておく事にする。
「じゃあさ、ただ祈るんじゃなくて、約束にしよう! 未来のティルに言うのも変なんだけど、まだまだこの世界には僕達の知らないところがいっぱいあるんだ。だから、僕たちの足で歩いて、実際に見て回ろうよ! もっともっと、良いところを見つけていきたいね!」
「うん、うん! そうだね! 行きたいなー! 約束、約束かあ……。また“新しい約束”だね! その約束、絶対に守ってよー」
 なんて事はない口約束でも、お互いにそれを本気で叶えたいと思っている。傍から見れば単なる旅の約束だろうと、二人にとっては違う。目を背けたい現実の影に立ち向かうための、これからの行動の目的となりうる光なのだ。アルムもティルも向かい合いながら、意図せず口の端をそっと緩める。
「やっぱりそうだ。アルムはね、いつだって皆の中心にいて、何故か惹きつける。まとめる力があるとか、頼れるってのとは違うんだ。一緒にいると、何かこう、温かくなってくるみたいな。皆、アルムの事がいつしか好きになって、信じたくなっちゃうんだよ。もちろん、ボクもアルムの事だーいすき!」
 そういえば、ティルが僕の事をどう思ってるかなんて聞いたことなかったなあ――なんて思いつつ、面映くて照れ笑いを浮かべてしまう。恥ずかしげなど微塵も感じさせない、ティルのきらきらした笑顔を眩しく感じつつも、何だか釣られて、今度はアルムの方にも満面の笑みが咲き誇った。再三言われてきた自分らしくいる事の大切さを、こうしてまた別の仲間によって見つめ直させられる事になり、こそばゆくも充足感で心が満たされる。
 ようやく自分の気持ちに整理がついて、圧し掛かっていた重りが一気に取り払われ、体が軽くなっていく。一転して憑き物が落ちたような朗らかさが戻ったのと同時に、夢うつつの世界の中にあるオカリナが白い光を帯びた。
「なんか、今まで難しく考えてたのは何だったんだろうって思えてきた。またあの楽しい日々を迎えられるのか、守れるのかって怖かったけど、そうじゃないんだよね。皆と一緒に、立ち向かっていけば良いんだ。簡単な事なのに、すっかり忘れてたよ。思い出させてくれてありがとう。僕もティルの事が大好きだよ!」
 確かめ合う思い。ヴァロー達のように共闘したわけではなくても、時間を共にする中で積み重ねて培ってきたものは間違いなくそこにある。気づいているようで中々感じる事が出来なかった不透明なものが、ようやくはっきりと感じられるようになった事で、アルムに新たな成長の兆しが現れる。
「うん、ボクにも伝わってきたよ。芽生え、だね。それがまた、君の力になっていく事を祈ってる」
「芽生え? 何の事か分かんないよ?」
「ううん、いずれ分かるから、今のは忘れて、ね? だけど、こういう形のボクとじゃなくて、今度はもっと楽しいお話をしたいよねー」
「そうだね。最近あんまり話したり遊んだりとか出来てなかったから、また落ち着いたら、いっぱい一緒の時間を過ごそうね!」
「うん! って、ボクに約束してもダメなんだけどね。その笑顔が未来でもずっと、輝いていると良いな」
「それもそっか。でも、たまには君の方とも、いろいろ真面目な話が出来たらなっても思っちゃうなあ」
 はにかみのような笑いが零れたところで、アルムは不意に浮遊感を覚える。心の枷が外れたからではなく、本当に体が浮いているのだ。用が済んだ以上は、このやり取りをするだけの世界ともお別れという事らしい。手を振ってくる“未来の”ティルにさよならを告げつつ、アルムは再び意識のあるべきところへと還っていく。
 不思議な空間に名残惜しさは感じるが、迷い込んだ時のような不安感は微塵もない。単なる妄想か夢の類か、あるいは現実なのか、それを考える事自体野暮だと思う事にしている。こんなところで未来のティルと話してたなんて言ったら、あっちにいるティルはどんな顔するかな――なんて考える内に、出口の光が近づいてくる。
 現実で待っているのは、冷たくて、怖くて、正直逃げ出したくなるような事柄かもしれない。それでも、果敢に立ち向かうだけの意志の強さを、ここで確かにもらった。享受している光が明るいのみならず暖かいのも、そんな意識の変化によるものなのかもしれない。最後にあれこれ思案したところで、急激に意識がまどろんでいき、光の海の中に溶け込んでいくのだった。


コメット ( 2016/04/30(土) 22:06 )