第百十話 水中都市の案内〜精霊の問いかけと追及〜
都市全体を覆っていたドーム状のバリアは、一見すると強固なエネルギーの壁のようであったが、その実はアルム達が纏っているのと同じ泡の膜であった。泡の中にいながら巨大な泡をすり抜け、そのまま海底の地に足を付ける感覚は、今までになく奇妙なものである。水の中にいるはずなのに、水圧や息苦しさを全く感じない。その癖冷たさや流体に触れている感覚は享受している辺り、どうやらこのバリアの中は特殊な空間となっているようであった。
都市の広さはステノポロスやグラスレイノには劣るものの、その代わりに高層ビルのように高く聳える建物の集合体となっている。これをポケモンだけの手で作ったのだとしたら、一体どうやったのだろう――アルムも子供ながらに思わず首を傾げて考えてしまうくらい、この都市はまさに“都市”という表現がふさわしい造りとなっているのだ。一度迷子になったら、再会出来るまでにどれくらい掛かるだろうと考えるだけでも、苦笑が出て来るくらい呆れるような広さを誇っている。
「アトランティスはね、ニノアの自慢なんだ!」
「へえ、そうなんだ。まさか精霊の方から顔を出してくれるとは思わなかったからびっくりだけど」
「来てくれたお客さんにこの町の良いとこをいーっぱい紹介したいじゃん! だから、こうやっていつもニノアが出迎えるようにしてるの」
すんなりと都市の中に招き入れられたアルム達は、マナフィのニノアに付いて行く形で地形を把握するためにもぶらついていた。少し首をもたげれば、優雅に泳ぐトサキントやアズマオウ、仲良しこよしでぴったり寄り添って回遊するマンタインやテッポウオなど、まさに水ポケモンにとっての楽園のようであった。ティルも羽を目いっぱい広げ、回遊するポケモン達の真似をして飛び回っており、不思議で神秘的なこの空間を気に入った様子である。
目的地は特に告げられる事はなかったが、めぼしい宿泊施設や食料品を扱う店などの大まかな位置を移動がてら教えてもらっていた。都市の規模こそ大きいものの、円状の広場となっている中央部から延びている大通りは三本のみで、主要な店などは大体目に付きやすいところに集中しているとの事である。
さすがに精霊と言われる存在だけあって、都市のポケモンたちからも特別な視線を向けられているのかと思えば、どうもそうではないらしい。気さくに接している辺りは、普通のポケモンと何ら変わらない。ニノア自身も話好きなのか、時々立ち止まっていろんな住民と言葉を交わす事が多かった。
「そういえば、ニノア心配したよー。いつの間にか君達の姿がなくなって、しばらく戻ってこなかったんだもの」
動きっぱなしも疲れるだろうと一時足を止めたところで、ニノアがふと思い出したかのようにサニーゴ達に声をかける。先のやり取りからも親交が深かった事は窺えるが、相変わらずチョンチーのクロエは終始丁寧な振る舞いを崩さない。表情が判別しにくい代わりに、大きく一礼して応じる。
「ご心配をお掛けしました。外に出ている最中に、突然何者かに操られてしまいまして。自分では催眠を解けなかったところを、この方達に救っていただいたのです」
「まあ、無事に戻ってきてくれたから良かったんだけどもね。でも、改めてアトランティスの仲間がお世話になったね。ニノアからもお礼を言うよ!」
ぺこり、という効果音がふさわしいくらい、ニノアは軽く愛嬌たっぷりに頭を下げた。成り行きで助けた事にはなるが、感謝をされてはアルム達とて嫌な気はしない。思わず揃ってはにかんで見せる。
「ところでさ、君達はここに何用なの? こんなところにわざわざ来るって、何かないとありえないはずだよ」
精霊ならではの勘の鋭さだろうか、閑話休題とばかりに、今度はアルム達の事に直球で触れてきた。ここでアルム達は、ティルの事を含め、これまでの経緯を目の前の遭遇したばかりの相手に告げるべきか逡巡した。信頼が置けない相手ではないが、それに足るとも言えない。あまり答えに悩むとニノアに感付かれて怪しまれるのもわかっているが、いかんせん胸中は同じでもテレパシーでやり取り出来るわけではないため、誰もが言葉を返せずにいた。
どうしたものかと決めあぐねていたところで、アルムは突然背後から頭をぽんぽんと叩かれた。その優しい感覚に妙に安心感と懐かしさを覚えて振り返ってみると、そこに立っていたのは橙色の毛と首の黄色い浮き袋が目印のイタチポケモン――ブイゼルであった。アルムだと認識した上で親しく接してくるとなれば、思い当たるブイゼルは一人しかいない。
「もしかして、ブレット!?」
「もしかしなくてもそうだよ。こんな馴れ馴れしく頭を撫でる無礼なやつなんて、他にいないでしょ」
「クリアも辛辣な事言うなあ。こうしてまた会えたんだから良いじゃんかよ。って事で、久しぶり――でもないか。よっ!」
相変わらずの軽い調子で気さくに声を掛けて来たのは、ついぞこの前酒造の町――ヴィノータウンで別れたはずのブイゼルのブレットに、グレイシアのクリアだったのだ。彼らを知る者たちは一様に驚いたそぶりを見せるが、当の本人やニノアは何を驚く事があるんだと表情で語るくらい平然としている。
「どうしてここにいるの? てっきり故郷に向かったものだと……」
「あれ、言ってなかったっけか? オレ達の故郷はアトランティスなんだぜ?」
「聞いてないよ! 言ってくれれば良かったのに」
これまでに聞いた事があろうと別段何かあったわけではなかろうが、今こうして再会した時点では話が別である。嬉しくも複雑な気分が渦巻く一同を代表して、アルムが突っ込みを入れる。まあまあ気にすんな、と宥めようと頭をくしゃくしゃと撫でるが、そんな子供騙しのような事で気を逸らそうとしたところで、納得が行くはずもない。アルムは冷めたような上目遣いでじっと見つめる。その視線に堪えられなくなったブレットがクリアとニノアに目配せすると、後者が助け舟を出してくれた。
「この二人にもちょっとした事情があるって事なんだよ。後で聞いてみると良いさ。でも、まさかお知り合いだったとはね。じゃ、ニノアは一足先にお家に戻ってるから、案内よろしくー」
「はいよ。じゃ、また後で」
町での先導役をブレット達に半ば強引に託すと、ニノアはくるりと身を翻し、都市の中央部にある一番高い塔へと泳いで去っていった。自由気ままで突飛な行動にアルム達が呆気に取られていると、ブレットが一行の方に向き直って大通りへと手招きしている。ともかく付いて来いという意味らしく、合点が行かないままその後ろを歩く事にする。
チョンチーのクロエ達ともここで別れる事にし、元の旅仲間にクリアとブレットが加わった形で散策を再開する。まだアトランティスの事や精霊であるニノアの事は何も分からずじまいだが、来た当初よりも不思議と落ち着いてきているのは、ひとえにクリアとブレットの存在が大きいのであろう。それが顕著に現れているのが、やけにブレットと距離を縮めて歩いているアルムであった。一度戦いを通して知り合い、後に和解してほんの一時の旅を共にして、より親密さも深まった。そんな相手とこうして四度目の出会いを果たし、自然と心を寄せているところがあるのであろう。
「しっかし、お前らも随分と長い事旅を続けてんのな。感心しちゃうくらいすごいとは思うんだけど、何のために旅をしてるんだ?」
だが、何気ないブレットの問いかけに、一同は解れつつあった表情を曇らせた。改めて聞かれると、すぐには答えが浮かんでこなかった。木の実を売っている屋台の前で立ち止まって、アルム達は思わず顔を見合わせる。店員のオクタンに客だと勘違いされて声を掛けられるが、せっかくだからとブレットが人数分買う太っ腹なところを見せる。それぞれに好みの味の木の実を口にしながら、これまでの軌跡に思いを馳せる。
「何でだっけ……元々は故郷を出て旅をしてみたいって事になって、レイルやシオン、クリアやブレットにも会えたんだよね」
「精霊って名乗るフリートに会ってごたごたに巻き込まれたり、その後ライズと会ったりもしたんだよな」
「その後、私も交流が会った王国を元に戻すために、皆と協力して敵を追い払ったのよね」
「そして、サンクチュアリであいつに対面して……」
「気が付いたらライズのお家のある町にいたんだよね!」
これまでの旅路の記憶は、各々の心の中に仲間との出会いと共にしっかりと刻まれている。しかし、肝心の目的というのが欠落していたのだ。少し前までなら何となくで旅をしているという事でも良かったかもしれない。だが、今はそう悠長な事を言っていられない状況に立たされている事を、ブレットの何気ない質問で再認識させられた。ティルを除く全員が一瞬にして面持ちが険しくなり、合間に流れる無言の時間が事の深刻さを浮き彫りにしていく。雰囲気が気まずくなった事を察したブレットがニノアの元へと急ごうと歩みを進めるが、動きはするものの道中の空気は相変わらず暗いものであった。
「僕たち、あんな怖い奴から狙われる事になっちゃったんだよね。今までみたく巻き込まれるんじゃなくて、誰か特定の相手から攻撃を受ける形で……」
「そんなに難しく考える必要なんてないんじゃねえか? お前らは仲良く旅を続けていれば、楽しいんだろ。それだけじゃダメなのか?」
駄目などではない。むしろアルム達もそう気楽であれたらと願っている。だが無情にも、アルム達を取り巻く状況は、既に狂い始めている。緊迫した事態に追い込まれては、今までどおりにのんきな旅行感覚の旅は続けられないのである。ニノアが待っている高台に向かうための階段が、精神的な困難の具現化のように重なって見えて、二重の意味で疲れ始めていた。
アトランティスに来た時とは打って変わって、足取りも重く、言葉も交わされない傍から見ても重苦しい状態で、一行は目的地である“ニノアの家”に何とか辿り着いた。アルム達の身長よりも何倍も高い、屋根と扉のない柱だけの門――鳥居に、厳かな家屋のような神社と、高層の建物の群れと貸している都市の中では一際浮いている。雰囲気だけで言えば、かつて訪れた事もある月影の孤島を髣髴とさせた。隔離された高台だけあって、割と広い敷地を誇っているようである。その中にぽつんと浮かぶ影が、こちらに向かって手を振っているのも見えた。
「やあやあ。改めて、ようこそいらっしゃーい――って、なんだなんだ、皆して暗い顔しちゃってさ。こっちまでしけちゃうよー」
こちらの都合などお構いなしに、ニノアは明るく出迎えてくる。どうしても笑顔で応じる気になれない一行を差し置いて、一番陽気な返事をしたのは、やはり他でもないジラーチのティルである。最近の道中の重圧を撥ね退けているその能天気さが羨ましいと思う反面、サンクチュアリでの力の発現などまだまだ謎多き存在だと思って怪訝な視線を向けざるを得ない。――そういえば、あのミュウツーはティルの事を“星の断罪者”だとかその力が必要だとか言ってたっけ――ぼんやりと、アルムはそんな事を思い出してしまう。
「そんで、思い詰めた表情をしてる理由は何かな? さっきは話してくれなかった、何か事情があるんでしょう。例えば、そこにいるジラーチくんの事とか」
ニノアはまたしても勘の鋭さを見せ付ける。明朗な表情や口ぶりの裏に妙な威圧感を察し、アルムは悪寒を感じて思わずたじろいでしまう。ティルは話題に挙げられて嬉しいのか自分の事を指差し、喜色満面の笑みを浮かべている。
「力のある精霊だからって、あんまり土足で踏み入ろうとするのは良くないと思いますよ。しつこく迫れば話すというわけでもないでしょうし」
機微に鋭いのは何もニノアだけではない。怖気づいたアルムを庇うようにして、ライズがすかさず身を乗り出した。
「ふうん、精霊に歯向かってでも、仲良しの子を守ろうとするんだ。殊勝な心がけだよね」
「――おれもこいつらの事情には詳しくはないが、やけに変な言い回しをするじゃねえか。一体どういう魂胆だよ」
「精霊様、何かおかしいぜ? そりゃこいつらはちょっと変わった旅をしてきたのかもしれないけどさ、別に躍起になって聞き出すような事でもないと思うんだけどな」
あからさまに突っかかって詰め寄るような態度を見せる水の精霊に、アカツキとブレットも堪らず噛み付いた。立て続けに食ってかかられ、面白くなさそうに溜め息を吐いた――その次の瞬間、さっきまで穏やかだったニノアが、突如としてくすくすと笑い出し、表情や雰囲気が豹変した。
「あははっ、君達は何にも知らないんだ。そこにいるジラーチくんのせいで、皆が危険な目に遭ってるってのにさ」
「何で! ボク、何にもしてないよ!」
「何もしてなくたって、君はほら、ニノアと同じ精霊って存在なんだ。狙われて当然。それも、ニノア達以上に特別だから余計に、ね」
最初はただ責められた事への皮肉だろうと高を括っていたが、冷静になるとその言葉が重くのしかかってきた。もしかしたらと考える事はあっても、本人に自覚がない以上は聞いても仕方がないと、いつからか言い聞かせていた気がする。だが、精霊であるニノアに直接言い渡されては、朧げな予想も確信へと変わる。張本人のティルは何も知らず、ただただニノアの言葉に当惑しているだけの辺り、精霊であるとは思っていないのであろう。ティルがそこで下手な嘘や演技でごまかそうとする相手ではない事は、アルムとて百も承知である。
「ティルが精霊って、本当なの? そりゃ、ただならぬ存在だってのは薄々感じていたけど……」
「うん、本当だよ。それも、とびっきりの力と使命を持った精霊でね。星に破滅をもたらすような、恐れられる存在なんだ」
「違うもん! ボク、何も知らない!」
「知らない、じゃ済まされないんだよ。現に君達はミュウツーに狙われて、最悪の状況にまで追い込まれていた。フルスターリを通して、リーゲルから情報を受け取ったよ。それもこれも全部、そこのジラーチ――ティルって名前を付けられてたっけ。君が引き寄せてるのは揺るがない事実なんだよね。ここの皆が危険に晒されてるのは、全部君のせいってわけ」
戸惑いながらも必死に否定したい気持ちを、ニノアはさらに高圧的に否定して反論の種を潰してくる。純粋無垢でいつも笑顔を振り撒いているティルの表情から、その代名詞たる笑みが消えた。泣きそうな顔で頭を抱えて、それでもぐっと堪えて認めまいとする姿は、健気さよりも悲痛さが伝わってくる。それを誰よりも敏感に汲み取っていたのは、他でもないアルムであった。
元凶が自分にあると突然鋭い刃を突き付けられ、どうしたら良いか分からず不安でぐしゃぐしゃになっているティルの想いが、まるで自分の事のように共鳴して響いてくる。次々と悲愴に満ちた感情の波紋が流れてきて、一時の平穏に静けさを保っていたアルムの心に大きな漣が立つ。そんな二人の心の同調に呼応するように、首から提げているオカリナが強い光を放った。
「もう止めてよ! ティルが何したって言うのさ! 僕はティルのせいだなんて思ってない。僕たちは――ううん、少なくとも僕は、戦いなんて望んでない! ただ、楽しく旅が出来たらなって、そう思ってただけなのに……」
普段はおとなしいアルムには珍しく、裂帛の叫びを上げる。悲しみに侵され始めた彼の心を守りたいと願う者たちも、周囲に集まって精霊に敵意の篭った眼差しを向けだす。だが、追撃の手は緩まない。
「でも、そう甘い事も言ってられない事態になってるんでしょ。だから、こうやって思い知らせる必要があると思ってるわけ。分かる? 君達はもう、のん気に旅をしているわけにはいかなくなった。最悪命を狙われかねないような状況になったんだよ!」
あの平和で楽しい時間が戻ってきたら――まだ年端もいかない子供ながらに、そう願わずにはいられなかった。だが、現実はあまりにも無情で、受け入れるにはまだ幼い彼らに、容赦なく爪を立てて襲ってくる。
今まで目を背けようとしても、避けられない事は心のどこかで悟っていた。それでも、故郷を離れた頃のような、無益な争いのない冒険に軌道を修正したいという思いから、別の道がないか模索しようとしていた。しかし、その幻想も、ニノアに改めて突き付けられた事実という名の鈍器で、あっさりと叩き壊されてしまう。焦燥感と絶望から来る心拍数の上昇で体が火照り、頭が酷くぼーっとして周りの声が徐々に遠いものに聞こえてくる。
「どう、して……ティルと一緒にいたいと思うのが駄目なの? ティルと一緒にいたいけど、戦うのも嫌だ。それは、同時に願っちゃ駄目なの?」
「君達自身が共にいる事を望んでしまって、旅の中で目を付けられてしまった以上、運命はもう、変えられない」
「そんなあ……。戦いを望んでるんじゃないのに……僕は、あんな光景を、見たいわけじゃ――」
アルムの不意に脳裏を過ぎるのは、かつてリプカタウンでティルに見せられた、未来に起こるという町が荒野と化した凄惨たる光景。あの未来像がいよいよ現実味を帯びてきたという事になる。そんな不吉な予知など認めたくもないし、例え本当だとしても覆したい。皆が傷つくだけの無益な戦いは避けたい――ひしひしと伝わってくるティルの思いを代弁した上で、アルム自身の悲愴な思いを曝け出そうとした。だが、全ての言の葉を出し切る前に、アルムの意識は、ぷっつりと途絶えて闇の中へ落ちていった。