第百三話 稲光の洞穴と影の正体〜幻惑の力と困惑の心〜
今まで低く垂れ込める雲に隠れていた陽が、僅かな隙間を切り裂いて大地にほろほろと零れてくる。王の居城のようにどっしりと構えている煉瓦の建物にも光の帯は伸びており、特に屋根部分に溜まった雫に当たっている部分は銀色に煌いていて美しいとさえ思える。しかし、今は見た目の美麗さなどに惑わされている場合ではない。一度煮え湯を飲まされて引き返さざるを得なかった経験も相まって、先刻訪れた時よりも高く大きくアルムの目には映った。父親に弱みを握られる形でライズの決心を揺らがせてしまい、結局はお荷物となってしまった事は、アルムにも堪え難い事実であった。そんな不甲斐ない自分にとって不都合な印象はすぐさま固い決心で塗り替え、負の連鎖を断ち切るべく扉の前に立つ。だが、いざこの場に来てみると、いくらライズの救出を最優先に考えて覚悟していようとも、嫌でも緊張に思考が蝕まれていく。
もう地団駄を踏むわけにはいかないと、アルムは自らを奮い立たせる。乗り込んで戦おうというわけではない、ライズともう一度話をしてどうにかするだけだ――自分に言い聞かせて少しでも体の強張りを解そうとする。身体中の空気を丸ごと入れ換えるくらいの心持ちで息を吐き出し、すぐに新しい空気で満たした。
「ちょっと待って。ライズ様はここにはいない……と思うよ」
後ろから付いてきていたモココに、せっかくの儀式めいた準備を遮られた。茶化されたわけではないだけまだましであるが、せっかく足並み揃えて臨まんという時にこれでは、さすがに高揚していた気分もがた落ちである。恨みがましい気持ちと焦りを心の中でまぜこぜにして、アルムはモココをじっと見つめる。
「えっと、じゃあどうすれば良いの? 助け出す方法もあんまりちゃんと考えてなかったのに、ここにいないんじゃ本当にどうする事も出来ないよ」
「大丈夫大丈夫。ライズ様が連れて行かれたところには心当たりがあるから……たぶん」
それが見当違いであっては徒労に終わってしまう。口振りも相まっていよいよ信用して良いものか怪しく感じてしまうが、他に頼る相手がいない現状ではモココに道案内を託すしかない。形容しがたい不安を抱きつつも、アルムはモココに付き従って岩山の間の谷となっている部分を歩いていく。屋敷から離れてそれほど経たずして、モココはふと怪物の口のように不気味に開かれた洞窟の入り口の前で足を止めた。
「そう、ここがライズ様がいるであろう試練の
洞穴。ここには静電気を放つ特殊な岩がそこらじゅうにあって、電気タイプのポケモンにとってはコンディションを最高に保っておける場所……らしいよ。ライズ様はいつも、お父上に怒られた時はここに篭る事が多かったから」
「本当にここにいるんだよね? ここだったら屋敷に入るよりは大丈夫かも。ちょっと怖いのは怖いけど、僕、行くから」
砂山に挿した木枝のように心許ない自信であるが、自分自身に決心を言い聞かせる事で平静を保ち、薄暗い洞窟へと一歩を踏み出す勇気を生む。ちっぽけなイーブイが闇の中へ消えたのを確認すると、モココは洞窟の入り口付近で立ち止まった。
「どうかライズ様を助けてください。しかし、本当にこれで良かった……のでしょうか」
「――ええ、無意識の内にした案内は上出来でしてよ。貴女はもう邪魔者ですけどね」
誰に向けたわけでもない独り言が零れた後で、発生源の掴めぬ声がモココの周辺に木霊した。屋敷の者にでも筒抜けになってはまずい――身構えるのも虚しく、モココの体が糸の切れた操り人形のように倒れるのと、彼女とは別の影が暗闇に溶け込んでいく事を、先行したアルムはこの時はまだ知る由もなかった。
入り口からの光が途絶えた辺りからだろうか。視界の端に蛇のように壁を素早く這うものがちらつき始めた。その正体は壁伝いに迸る青白い電流であり、お陰で覚束ない足元が明るく照らされ、不気味さよりもむしろ幻想的な雰囲気を洞穴全体にもたらしている。やけに体全体がぱちぱちとした奇妙な感覚が走るのは、静電気のせいだというのも分かった。ふさふさな体毛のせいもあって、帯電する量が比較的多いらしい。別段痺れるわけでもない以上、静電気を纏う事自体は悪影響を及ぼすわけでもない。むしろ程好い刺激を受けて心地良さもあるのだが、断続的に体中を走っているとなると、やや機嫌を損ねるものがある。
いつもは誰かがいるはずの後ろを振り返っても、今はその面影が瞼の裏をちらつくだけ。もしヴァローがいれば同じく静電気に悩まされる仲間となって笑い飛ばすであろうし、シオンがいればタイプの相性的に大丈夫かと声を掛けていたに違いない。もしティルがいたらふざけて抱きついて来るんだろうなあ、じゃあもしライズがいたら――いない相手に対して思いを巡らしたところで、自分が寂しくなるだけなのは明白だった。後ろは見ずに前だけ向いて歩いていこうと決意を固めたそんな折、不意に脇の壁がなくなって開けた空間へと足を踏み入れた。
「そこに……誰かいるの?」
直感的に何者かの気配を察知したアルムは、まずは恐る恐る接触を試みる。問いかけに対する返事は自らの木霊だけだった――否、数瞬後に雷光がイーブイの脇を駆け抜けていった。明らかに攻撃の意思の伴った雷撃に、アルムは思わず身を縮こまらせる。今の眩い光で空間内が一瞬照らし出され、前方の闇に紛れていた影を視界に捉えたからである。
目の前にいるのがライズならば、自分に敵意など向けるはずがない――その油断が、一瞬の防御の遅れを招いた。ユーリとの修行で自己防衛のための反射的な力の発動を習得してはいたが、気の迷いが反応すらも鈍らせる。結果として、鋭利な雷の槍の一部が、アルムの体を掠めていった。遅れた防御で直撃に至らなかったのは幸いであったが、電撃以上の衝撃がアルムを襲い、心を打ち砕いて粉々にせんとする。
「助けに来たんだ。だから、攻撃しないで。僕だよ」
一時抱いた恐怖の感情を振り払い、無垢な瞳をマイナンの方へと向ける。きっと侵入者と間違えたのだろうと淡い期待を持っていた。しかし、期待は所詮期待でしかない事を直後に思い知らされる。先へと通じる横穴の前に立ち尽くすライズの眼には、明確な
敵愾心が篭っていた。頬に溜めていた青い火花を電気へと昇華させ、両腕を突き出す事で大砲のような要領で雷の砲弾を撃ち出す。鋭利さよりも重厚さを求めた迅雷はしかし、イーブイとの間に生まれた強固な蒼き球状の盾によって侵入を阻まれる。標的を貫く事も削ぐ事も叶わなかった雷砲は、本来の軌道から逸れて横の壁を深々と
穿っていった。特訓した護りの力で防いだというのに、バリアを震わせるほどの威力には目を見張るものがある。
「本気、なの。本気で僕を攻撃しようとした? いや、でも、そんなはずは――ない」
今しがた自分の身に降り懸かったことを現実だと受け止めていない。未だに幻か何かではないかと信じている。現に攻撃は本物だと思っているが、その攻撃主が真のライズだとは思っていない。最初こそ疑っている程度であったのが、時間の経過と共に落ち着きを取り戻す事で、一種の確信へと変わっていく。そんな曲げない信念に呼応するように、オカリナが神秘的な蒼い光を放ち始めた。温かく優しい光がやがてアルムの全身を包んでいくと、それまでのがはりぼてにすら感じるほどに見える景色が一変した。
目を凝らして前方のマイナンをよく見てみると、明らかに違和感を抱かざるを得なかった。別れ際のライズは茫然自失に近かったとはいえ、感情の揺らぎが全く滲み出ていなかったわけではない。だが、今目の前にいるライズには、感情どころか自らの意志さえ感じられない。
傀儡師によって思いのままに演じさせられているただの操り人形のようである。
「やっぱり、君はライズじゃない。君は一体誰? ライズに見せかけた何か、幻?」
疑問符交じりのアルムの答えは、真であった。陽炎の如くライズの姿が揺らぎ、溶けかけの蝋人形のようにぼろぼろと崩れ、蒸発するようにして目の前から掻き消えた。代わりにその場所に立っていたのは、アルムが見覚えのある少女であった。緑色の帽子のような頭部と赤い角は、一度見れば忘れようがない。二足で立つすらりとした白と緑の体は、威圧感以上に美しさを感じさせる。――それは、こんな特異な状況でなければ、の話であるが。
「あなたは、グラスレイノにいた!」
「貴方達の仲をずたずたに引き裂いて、グラスレイノでの復讐を果たしてやろうと思ったのに。どうしてなの。どうしてそんな風に信じられるのよ」
思わぬ相手との再会に放心状態になりかけたアルムを引き戻したのは、皮肉にもキルリアから発せられた蚊の鳴くような声であった。前回グラスレイノの城で幻術を破られた時にも動揺の色を垣間見たが、今回はその比でないくらい打ちひしがれているのが容易に見て取れる。
「何でそんな事聞くの? 信じるのに理由なんて要らないよ。だって、大事な友達で、仲間だもん。それだけじゃ駄目?」
アルムはこの期に及んで笑顔を向ける。恐怖の伴った引き攣った笑みではなく、それが紛う事なき本音だと示すには充分なものである。目の前にいるのは決して恐れおののくべき強い相手でもないのに。キルリアはいつしか目を逸らせなくなり、圧倒されてたじろいでいた。計画をぶち壊しにされた以上に、あの澄んだ瞳に心の内まで見透かされていやしないかと不安感が主張を始めて。
「確かにあなたの作る幻はすごい。この痛みとか痺れ具合とか、本当だって言われたら信じちゃうもん。だけど、あなたの作り出した友達の幻はなんかその――本物っぽくなかった。最初は騙されそうになったけど、結局は僕が好きな、本物のライズじゃなかったんだ」
曖昧で拙い表現であるが、そこに偽りも誇張もない。変に格好をつける気がないからこそ、アルムの言葉には真実味が生まれる。それが、キルリアには俄かには信じられなかった。全てを拒んで否定しようと、得意の幻術による波状攻撃を仕掛けても良かったのだが、今はそれすら実行する気になれない。不思議とアルムのペースに飲まれ、攻撃する事すら忘れていた。
「友情ごっこか何かのつもり? 気に食わないわね。私の故郷で力でも付けたのかしら。せっかく先回りして、一人ずつ幻術で貶めて利用してやろうと思っていたのに」
「どうして他人を利用するとか操る相手としか見れないの? もしかして、仲間とか友達と一緒に過ごして、それが大事な相手だと思ったことがないの?」
「う、うるさいっ! そんなのあなたには関係のない事ですわよ!」
「図星なんだー。じゃあ、あの時一緒にいたメガヤンマの事も、仲間とは思ってないんだね。それってすごくかわいそう。だったらさ、僕と一度友達になってみようよ。そうすれば、本当に大事なものが傍にあるってどんな感じなのか、あなたにも分かるんじゃないかな」
先日の仕返しとばかりにアルムは強気に出た。皮肉めいた子供っぽい態度が、余計にキルリアの心を揺さぶり、亀裂が生まれた箇所を遠慮なく抉っていく。その程度ならば甘い、甘過ぎる。所詮は子供か――などと思っていても、何故か抗えない自分がいる事にキルリアははたと気づかされる。そこにある真っ直ぐな眼差しが、眩くて、近寄りがたくて、神聖なようで。
「ねえ、誰も信じられないなんて、寂しくないの?」
「――いいえ、私はこれまで誰にも頼らず、誰も信じずに生きてきましたの。貴方なんかに分かってたまるものですか」
微妙に空いた一拍の間は、明らかな動揺の証である。付け入る隙を見つけ、アルムはすかさずそこに飛び込む。顔つきに綻びが見られたのは、僅かに優位に立って余裕が出て来たから。もちろん、計略の下にではなく、純粋な思いの下に、キルリアへと挑んでいく。
「それじゃあ、これから誰かを信じられるようになろうよ。ね? だって、他人を操って悪い事をしたって、虚しいだけだと思うよ。そんな事しなくても、自然と自分に付いてきてくれる相手が、絶対にいるはずだもん」
アルムが放つ言霊の一つ一つが真っ直ぐキルリアの胸に飛び込み、優しく溶け込んでいく。その顕現とも言えるオカリナから溢れ出る淡い光が、海辺の
漣のような揺らめきを持って同心円状に広がり、とうとうキルリアの元にまで及んだ。鉄仮面でも被っているのかと思っていたキルリアの顔に憂愁の影が差していき、感化されて悲しみに染まった色を増幅させていく。
「まだまだ年端も行かないお子ちゃまが何を分かったふりをして……! この世界はね、相手を簡単に信用する奴ほど憂き目を見る事になるんだから。信用して裏切られるなら、最初から自分だけを信じていた方が報われるし、楽なのよ!」
「キルリアさん、本当の事を言ってるの? 声、震えてるよ?」
「本当よ。私はずっと、味方してくれる人なんていないと思っていた。だから、自分の力を信じ、何にも甘える事なくここまで来たの。全ては目的の為に! でも、でも、私だって羨ましいと思う事はあった――それでも、駄目よ。だって、私は願いの鈴を手に入れなければ。お父様やお母様を裏切れないもの……っ!」
今までになく弱気な姿を見せるばかりか、あまつさえ頭を抱えて涙を零し始めた。グラスレイノで対峙した時の威圧感や自信に満ちた様子とはまるで別人のようである。羊水に浸っているような温かい光に触れる内に、やがて忍び泣きが嗚咽へと変わっていく。今のキルリアだけを見れば、胸が詰まって哀しみの感情を顕わにするごく普通の少女だった。色取り取りの絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたような悲愴なる思いの奔流に、アルムも惻隠の情を催していく。
「ねえ、もっといろいろお話しようよ。キルリアさん、本当は悪い人には見えないんだ。自分に嘘を吐いているだけで、本当は誰かの心を奪って操ったりなんて酷い事が出来る人じゃないんだって、そう思うんだ」
キルリアは天井を仰いだまま微動だにしなかった。魂を抜かれたように呆けているばかりである。アルムはそんなキルリアの事が憎めず、放っておけなくなっていたのだ。新たに生まれた混じりけのない純粋なる思いやりはしかし、一度心の扉に鍵を掛け直したキルリアに届く事はなかった。
足の欠けた椅子のように心許ない状態で、キルリアはやおら立ち上がった。すっかり戦意を失ってはいるが、アルムへの友好の意思までは表れてはいない。焦点の定まらぬ虚ろな目で、自らの心を掻き乱した張本人を見据える。
「私はもう戻れない……。だから、この先も貴方達が邪魔をするというなら、立ち向かうだけです。今まで油断して、そして手加減していた分は謝りましょう。これからは本気で容赦致しませんから、覚悟なさってくださいましね」
「せっかく分かり合えるかもって思ったのになあ。じゃあ、一体何をする気なの?」
「貴方の大切だと思う方に仕込みをしようと思ってたのですが、私が何かするまでもないようでしたしね。ここにもう用はないという事ですよ。思わぬ反撃は悔しいものですが、まあ良いでしょう。ちょうど“あの方”から出陣の許可も得ましたし。では、御機嫌よう」
不吉な言葉を捨て台詞のように残し、キルリアは瞬間移動を駆使してその場から立ち所に姿を暗ました。これもまた幻覚の一種なのではないかと勘ぐるが、オカリナのお陰で他人の気配に敏感になった状態でも感じない以上は、完全にいなくなったのだと判断する事にした。
(これがあのキルリアさんの罠だったのだとしたら、この先にライズがいるかどうかは怪しいかも。でも、さっき微かに――)
全てはキルリアに仕組まれていたと判明して振り出しに戻ったどころか、むしろスタート地点から一歩退いてしまったくらいである。だが、こんなところで途方に暮れてなどいられない。ここまで来て館まで引き返すのもどうかと思い、僅かに感じた可能性を思い切って先に進む事にする。ライズへの想いを自ら再認識した事で、確かな足取りで、しかし僅かばかり虚勢があるのも隠せないまま、闇の奥に向かって踏み出していくのであった。