第百一話 帰ってきた家の姿〜揺らぐ心と固める想い〜
グロームタウンは比較的辺鄙な地にある事もあってか、他の町からも存在があまり認知されていない。特に商業面で潤っていない事もあって、他地域との交流が極端に少ないのである。ただ、町という体を持つ以上は、何も特徴がないわけではない。サンクチュアリが進化の光、ヴィノータウンがぶどう酒で有名なように、グロームタウンは町に降り注ぐ雷の力を売りにしていた。雷雲を呼び寄せる特殊な気候にあるらしく、町にはいつからか電気タイプのポケモンが集うようになった。
荒涼とした地域に生まれたマイナンのライズも、決して裕福な育ちではなかった。だからこそ、小さい頃から微弱ながらも体に秘めていた雷の力を自分の意のままに操られた時などは、その度に両親に褒めてもらっていた。力が芽生えた当初は特に重宝がられる事もなかったが、両親によって力を引き出されていく内に、徐々に頭角を現し始めた。ライズ自身は自らが持つ雷の力には大した興味はなかった。ただ、大好きな親に認められる、それだけで幸せだった。同時に自分の存在価値を認められていたようで、他人に褒めてもらえる事が自分がそこに存在し、必要とされるための一種のステータスだとライズはいつからか感じるようになっていた。僕は雷の力を制御できる事で、お父様やお母様に大事にしてもらえる――ライズはその時から、親の望む姿でいる事こそが正しいのだと認識するようになったのだった。
◇
特に交わす言葉もなく歩く内に、ライズはいつしか過去に思いを馳せ、ぐるぐると様々な感情を巡らせていた。記憶の迷宮を彷徨っていたライズを現実に引き戻したのは、ちょうどこの町を訪れてから十回目の、今までで最も大きな雷鳴が轟いた時であった。雷自体に馴染みのないアルムが怯えて体を寄せたところで、ライズは我に返った。あの頃は幸せであったのだろうか。今に限らず何度熟考しても、その答えは導き出せなかった。今回も例外ではない。自分の中には未練が残っていて、それに
縋り付きたいという思いが僅かにでも存在しているのかもしれない。
「着いたよ。ここが町のポケモン達が住む区画だ」
ライズが指し示した先には、閑散とした町並みが広がっている。今まで訪れた町のように整然と家々が建ち並んでいるわけではなく、細長く湾曲した町の姿がそこにはある。遥か遠く切り立った岩山まで住居の流れは続いており、その行き止まりには三方を岩山に囲まれる形で、一際目立つ煉瓦の立派な建物が立っている。緑の少ないこの町の中でも、町の最奥部はそれが顕著に現れており、岩山がそびえている事も相まってか、町全体の印象は茶や灰色として捉えられうる。ちょっと前までいた澄んだ空気に慣れていたせいか、四方から浴びせかけられているじとっとした空気と“視線”に当てられて、普段以上に居心地が悪く感じる。
「気にしないで。たぶんあれは全部僕に向けられてるものだから」
鉛のように重い雰囲気。ねっとりと纏わりつく湿気。蒼いキャンバスに墨汁をぶちまけたような淀んだ曇天。これらが重なって呑まれると、負の三重奏とでも言わんばかりに明るく保っていた心さえも強引に掻き乱してくる。事前にサンクチュアリで受け取っていた“聖水”なるもので喉を潤していてもこれなのだから、何の用意もなければ毒気に当てられていたであろう。そこで平静を維持していられるのは、聖水の効果に限らず、ひとえに二人でいる事が大きい。アルムも見知らぬ土地で気味の悪い視線に囲まれては心細く、ライズは覚えのある冷たい視線の集中砲火に一人で単身乗り込んで突っ切るだけの自信はない。二人三脚で歩けばこそ、決して雰囲気が良いとは言えぬ町の中を、歩みを途切れさせる事なく進んで行けるのである。
――そうだ、脇にいるこの子が今は道標なんだ。迷っていては思いを吹っ切れない。関係を断ち切れない。踏み止まるな。過去を振り返らず、
未来を見て進め――。自分に散々言い聞かせたところで、ライズの顔にはしばらく封じられていた笑みが蘇ってくる。
ふと気が付けば、寄り添う従者も同じ微笑みを湛えていた。見えない重圧に押し潰されそうになっていたとは思えない輝きを放っている。ライズにはそれが不思議でならなかったが、あえて聞くような事はしなかった。ただこうしているだけで心地良かった。そして、このまま先に待つ者と和解が今の表情のまま叶うならば何と嬉しい事かと思っていた。
二人が歩みを止めたのは、遠くからでもはっきりと捉える事が出来た煉瓦の建物だった。中央には教会の塔のようなものが建っており、その突端には尖った槍に似た細長い物体――天から降り注ぐ雷を呼び込む避雷針がある。やけに手の込んだ造りの本屋に対して、玄関は片開きの一枚扉という至って素朴な形に収まっている。脇にいるアルムが逐一驚きの声を上げるのにくすぐったく感じつつ、ライズは恐る恐る木の扉を押し開けた。
外観から想像出来るよりは手狭な広間に飛び込んだ。特筆するだけの豪華な調度品や設計があるわけでもないが、町中に漂っている嫌な空気がより濃度を増した気がした。加えてやけにぴりぴりと張り詰めている。入り口近くに申し訳程度に飾られている青々とした観葉植物も、元気を失くして本来の良さを失っているようである。
「よくもおめおめと戻ってきたな。一家の恥晒しが」
橙色の体色と先が稲妻の形を模したような尻尾が特徴的なライチュウが、前方に伸びる階段の頂上付近に堂々と立っていた。先に遭遇したミュウツーと比べるとそれ程でもないが、遠くから放たれる威圧感は相当のものである。さすがに傍らに心強い相手がいるとは言え、アルムも身震いを禁じえなかった。
「あ、はい……申し訳ありません、お父様。今日はその、伝えるべき事があって戻ってきました」
姿を視界に捉えると同時に、ライズは肩をびくりと震わせた。そのまま棒立ちになって体ががたがたと震え始めたのを、アルムは隣で不安げに見つめる。しかし、まだアルムという存在が傍にいるお陰か、ライズも膝を屈するまでは至らない。
「どうした。今更になって許しを請いに来たのか?」
「いえ、違います。僕は過去の自分と決別するために来たのです」
凛とした眼差し――というにはあまりにお粗末で頼りないものであったが、ライズはありったけの勇気と共に背反の意志を示した。階下にいる事で見下されているような錯覚にも陥るが、それに負けぬように心を強く保とうとする。我が子が従わない事が余程気に食わないのか、父親たるライチュウは歯を食い縛って露骨に不満げな態度を見せる。
「私に逆らう事が何を意味するか、あれほど叩き込んだはずだが――」
どすの利いた声で宣告を口にする否や、ライチュウは体に帯電していた力を解き放ち、ライズの元へと迷う事無く走らせる。だが、うねるような鋭い迅雷は、小さき者二人の周りを取り囲む蒼く堅い壁に阻まれた。恐らく何の兆候もなく放たれていたら防ぐのが間に合わなかっただろうが、帯電が見えた時点で攻撃が来ると直感し、すんでのところで護りの盾を展開する事が出来たのである。ライチュウを見据えるアルムの瞳は、友人の父親に向けるべき優しいものではない。威嚇と言えるような鋭さには欠けるが、その代わりに子供ながらに軽蔑の想いがしっかり篭っている。
「ねえ、そんなにお父様ってのは偉いの? ライズにとっては大切な場所に久しぶりに帰ってきたのに、それを迎える側は『おかえり』ってたった一言もないの? どうして皆してライズに冷たくするの……?」
アルムは珍しく心の底から義憤めいた感情が湧いていた。アルムがイメージしている親とは誰も等しく懐が大きい物で、子供の帰りを待ち侘びて喜ぶものだと思っていたばかりに、ライズが暖かな歓迎を受けると期待していたのが裏切られたという理由が大きかった。そして、故郷という本来なら心休まる場所に戻ってきたライズを、レイズに続いて冷たくあしらおうとした事が、故郷に思い入れのあるアルムにとっては許しがたい事柄だったのである。
「外でまた“お友達”とやらでも作ってきたのか? 人形でしかないお前が、そんな大層なものをねえ」
「何か悪いのですか? そうやってお父様は、僕が雷帝の力以外に興味を向けさせないようにしてきた。それが堪えられなくなったんです」
「昔と違って、随分と楯突くようになったのだな。そこのイーブイの影響か。余計な事をしてくれたものだ。……ならば、そのイーブイもろともお前に制裁を加えるとしたらどうする?」
厳格なる父の鋭利な眼差しが突き刺さった途端に、ライズの覚悟は、幻想は、脆くも打ち砕かれた。貶めによって拒めぬ服従をさらに強いられ、ライズの瞳の光が鈍く濁ったものへと変貌していく。友の存在で必死に形を保っていた心も、完全に親の勢いに飲み込まれていた。アルムが間に入ってライズを正気に戻そうとするが、どう見ても付け入る隙など与えてもらえそうになかった。第一にライズに声をかけても、いつものようには反応が芳しくない。
「――僕が間違っておりました。彼は“お友達”などではなく、ただの“付き添い”です。今すぐに追い返しますので」
友達であり、仲間である――ここまで旅を続けて互いにそう認め合ったはずなのに、こうもあっさりと平穏な関係を崩された。アルムもいよいよ動揺を隠し切れず、瞳の奥から熱いものが込み上げて視界がぼやけ始める。大っぴらに泣き出さないのは、これがライズの本音ではないと信頼しきっているからであった。
だが、ライズに寄り添おうとしたところで、ライズに手で軽く払われた。今まで晴れ間の中にあって明瞭に見えていたはずのライズの心が、一瞬にして霞に覆われて届かなくなっていく。普段から感受性の強いアルムには、相手の心が透視でもしているかのように見える事もあった。故に著しい拒絶の印が表れた事はすなわち、ライズからの思いが完全に断たれた事を意味する。
「ねえ、ライズは今ので僕の事が嫌いになっちゃったの? さっきまであんなに楽しく笑い合ってたよね。ずっとああしていれたら良いなって思ったから、僕もライズと一緒に戦おうって決めたの。だから、離れ離れにしないでよ!」
「何を泣いているの? さあ、早く帰って。僕の用はここにある。もう君には用はないんだ。だから、雨が酷くなる前に、皆のところへ戻って。そして――」
二人の間を引き裂くように、雷の槍が地に突き刺さり、耳を
劈くような鋭い雷鳴が轟いた。上の空で虚ろなライズの表情からは、もう何の感情も読み取れなかった。これ以上の抵抗は無意味だと涙ながらに悟ったアルムは、ライズに背を向けてすごすごと屋敷を後にした。来た時は荘厳な佇まいに感嘆の声を上げたこの屋敷も、今となっては自分とライズの間を裂くように憎らしくそびえる巨大な壁にしか見えない。出来る事なら屋敷ごと壊してライズを救い出したいものであるが、生憎それだけの力を持ち合わせてはいなかった。
アルムにとってこの屋敷にいる意味はもはやない。大事な相方を失ってとぼとぼと歩いていると、機を計ったかのように空が泣き出した。それも小雨などという生易しい類ではない。辺り一面が白い雨の幕に閉ざされ、茶色一色だった世界を白と銀に塗り潰していく。糸のように細い雨粒の一つ一つが
礫のように痛いほど体を叩きつけ、あれだけ不快だった湿り気を飲み込んで空気を冷やしていく。ものの数秒で自慢のふさふさの体毛もびしょ濡れになってしまい、一気に体温も奪われていく。だが、そんな事など今のアルムにとってはほんの些細なこと。どんなに体が濡れていこうとも、一向に構わず無心で歩き続ける。雨をぼんやりと眺めている内に、他界に誘われているような、変な夢心地に陥っていた。
「こんな中を歩いてたら、風邪を引いちゃうよ。良かったら家においで」
耳鳴りのように頭の奥で響いていた雨音に混じって、地面以外に雨が落ちて弾ける音と、水溜りを踏み締める音、そして随分長らく聞いていなかったような優しい他人の声が確かに聞こえた。
篠突く雨の中を俯けていた顔を上げると、頭部と首周りに白い綿毛、先に玉の付いた黒い縞模様の尻尾に
円らな瞳を持つポケモンが、大きな葉っぱの雨傘を持って目の前に立っていた。
「あの、あなたは?」
「私は、ライズ様の事を見守っていた者……とだけ言っておこうかな。どうやらライズ様がお戻りになられたようで。まあそれは後で話すとして、とりあえず中に入ってよ」
柔和な笑みを浮かべているモココは、体の芯まで冷え切っていたアルムを近くの家まで導いた。おまけに少しでも体が温まるようにと、木の実を煮込んだ熱いスープでもてなしてくれる。感謝の意を伝えてそれを飲み干すと、空っぽだったお腹と心が温かく満たされていくのを感じる。落ち着くまでひとしきり黙って見つめていたモココに、アルムはおずおずと声をかけてみる。
「一つ聞きたいんですけど、ライズって特別な存在なんですか? 幼馴染のプラスルのレイズから“雷帝の力”と言われていたり、父親らしい相手からもいろいろ言われていたりしたのを聞いたんですけど、僕は何のことかさっぱり分からなくて。なんか、皆してライズの事を嫌ってるみたいで、僕、それが許せなくて……」
「普通のポケモンからすれば特別だった……と思うよ。“雷帝の力”というのは、ライコウに匹敵するような雷の力の事を言うんだよ。この町に限った事なんだけど、そういう特別な力を持った電気タイプのポケモンが一世代に一人生まれるって伝承が昔からあるんだ」
類まれなる雷の力を授かって生まれた者――それがライズなのだとすれば、レイズがそれに嫉妬しているらしき事も頷けた。今までそんな話を直接本人の口から聞かなかっただけに、最初はどうして打ち明けてくれなかったのだろうと思っていた。しかし、雷帝の力について説明したところで自分の力をひけらかしているように思われるとしたら心外であるし、わざわざ煙たがられるリスクを冒してまで伝えなければいけない事柄ではない。モココの話を聴き続ける内に、アルムの中でも腑に落ちる結論に至った。
モココはライズが抱えていた不安や辛さにも共感していたらしく、それについても切々と語ってくれた。ライズに雷帝の力が備わっていると分かってからは両親の目が厳しくなり、少しでも雷を上手く扱えないと幾度となく叱られていた。家にいるのが嫌だとモココに吐露した事も頻繁にあったらしい。
「でも、どうしてそれでこんな事に? 何もライズの過去について知らなくて」
「逃げ出したところで、どうせ意味がないのだと分かっていたみたいなの。最初の内はね。だから、自分を無理矢理抑え込んだ。一度会ったのなら分かるかもしれないけど、いつも一緒に遊んでいたレイズは、普段から勝気で何も恐れないような性格だった。引っ込み思案だったライズ様は、彼の仮面を借りてでも褒められるようになりたいとの一心から、いつしか破壊衝動に目覚めた模擬人格のレイズを抑えきれなくなったの。そして力を望む親の思いのままに、猛威を振るい始めた……気がする」
いわば自分を封じて別の自分を生み出して演じていた。それがいつしかレイズという別の人格として、ライズの心の中に根付いていたという事になる。神妙な面持ちで聞いていたアルムは、ようやくライズの謎が解けて複雑な表情を覗かせる。初対面でありながらも気を許し、歓迎してくれた上で知りたかったライズの過去を教えてくれる――そんなモココの言葉に嘘はないと信じている。だからこそ、既に知っていた人格だけでも教えてくれなかったのだろうかと悔恨ばかりが募る。口を噤んでぼうっとしているアルムの心境を慮ってか、モココは心なしか表情の穏やかな色を強くしてアルムと向かい合った。
「それにね。君に過去を教えなかったのは、今の自分と向き合って欲しいと思ったから……なんじゃないかな。私はそう思うよ。それだけ君の事を大切に思っていたはずだよ」
「そう、なんですかね。でも、もう屋敷からは追い出されちゃったし、ライズの助けにもなれないし、僕はどうしようも……。僕がそうしたいって思っていても、ライズを助けて良いのかも分からなくなっちゃったんです。それに、助けて欲しいと思ってるのかどうかも……」
「いいえ、良いも悪いもない。きっと君の助けを求めてると思う。だって、本当に助けに来て欲しくなくないなら、君の身を案じるような事は言わない。それに、仲間のところに戻るように促したのは、仲間を連れて助けに来て欲しいって意味にも捉えられるよ。違うかな?」
ライズに冷たくあしらわれて頭の中が混乱していたせいか、アルムは大切な事を忘れていた。確かにライズは自らの感情に封をして追い払おうとしたアルムとの別れ際に、蚊の鳴くような声で謝罪の旨を述べていた。

――ごめんね、僕はこの家では、親に認めてもらえないと存在出来ないような奴だから。今はここにいるしか――それがライズが涙ながらに精一杯伝えた言の葉だった。
「だったら、君がやるべき事――いや、やりたい事はもう分かっているはずだよね?」
「――うん。僕は、まだ知らないライズの事をもっともっと知りたい。そのためにも、ライズを父親の束縛から助けるんだ。ライズが僕を頼ってそれを望んでくれたなら、絶対に」
動揺のせいで自分自身の本来の良さを見失いかけていたが、もう信じると決めたら迷わない。自分の心に嘘を吐いて仮面を被り、さらに殻に閉じこもってまでアルムを逃がそうとしたライズを、今度こそ本当の意味で救い出したい。一緒に覚悟を決めた以上は、それを成し遂げるまで傍にいて欲しい。純粋な願いはやがて、心の中で大きな原動力となっていく。
嫌というほど地に打ち付けていた雨は、いつの間にかぱったりと止んでいた。大地一帯に立ち込めていた湿り気が遠退き、代わりに風によって運ばれる涼しさと静寂が取り巻いていた。先刻までは父親の介入くらいで心が揺れ動かされてしまった自分を恥ずかしくさえ思っていたが、自然とアルムの気分も晴れやかになっていく。
「君がライズ様にとっての“希望”なんだね。ちょっぴり、ほんのちょっぴりだけど、やっぱり悔しいなあ」
勇ましさよりもまだあどけなさが残るその背中に、モココは羨望の思いを篭めた柔らかい眼差しを向ける。天から微かに降り注ぐ光も、アルムが首から提げているオカリナが放つ光も、アルムの瞳に宿った明るく力強い光も、全て希望の象徴だった。全てを一身に受ける小さなイーブイは不条理な運命に縛られた友を助けるべく、確固たる想いとライズへの純粋な信頼を胸に、勇気を持って大きな一歩を踏み出したのであった。