第九十話 滝を抜けた先の隠れ里〜神殿と精霊と巫女と〜
朝日の昇る頃に次の町への歩みを進めるのは初めてであった。普段よりも早めの旅立ちにも係わらず、不思議と睡魔に襲われることはなかった。轟々と豪快な音を立てて流れる、ヴィノータウンの滝の裏にあるコルアの洞窟が一番の近道だった。自然のシャワーを浴びて水の奏でる心地よい旋律を耳にしながら通る内に、いつしか眠気など吹き飛んでいたらしい。洞窟自体も比較的短いもので、気がつけば反対側へと出ていた。
山を越えた先で一行の目の前に広がっているのは、山に囲まれた壮観な風景を誇るヴィノータウンとは異なる肥沃な平地であった。朝方のせいか吹き抜ける風も肌寒いが、大地が徐々に天からの熱を帯び始めた事もあって、時間帯の割には暖かく感じる気候である。山間にあって閑散としていた先刻の滞在地とは違い、太く背の高い立派な幹が密集する地帯が点在する事もあってか、耳を澄ませば遠くからは鳥ポケモン達の鳴き声も微かに聞こえてくる。
見渡す限りでは緑の大地が視界に飛び込んでくるばかりで、近道を通ってきたにしては目的地への指標すらも見当たらない。先はまだまだ長いのではないかと不安に駆られるアルムを尻目に、新たな同伴者――ザングースのアカツキは黙々と先頭を歩き続けていた。最初は洞窟を抜けた先にある、一際その広大さが目立つ三つ目の森を迂回して進んでいるのだと思っていた。だが、変わり映えしない景色を繰り返し目の当たりにして、ヴァローやシオンが真っ先に周回しているだけだと気づいた。アカツキには聞こえないよう、そして不審に思われぬよう素早く集まって小声でその情報を共有したが、ここで下手をして連れて行ってもらえないとなっては元も子もないとの結論に至った。頼りになる案内役が彼であるだけに、迂闊に余計な質問をして機嫌を損ねることも憚られ、猜疑心を振り払って付き従っていった。
出発前に腹ごしらえをしていたために空腹感に苛まれる事がないのは幸いだが、まだ歩き続けるとなれば出発から徐々に減少している元気がどこまで維持できるかは疑問であった。しかし、暫し無言の移動続きを案じている内に、予想よりも早く求めていた答えへと辿り着く事となる。時間を掛けて森の周りを三周したところで、アカツキは正面に位置する目印のような二本の大木の間を通るように促してきた。
緊張しながら横一列に揃って通過したところで、突如として眩い光に体全体を包まれる。視界を塞がれて不安になるよりも先に、太陽の光に似た暖かさを感じて不思議と心が落ち着いていられた。時間の経過と共に光が和らいで行くと、一時的に失われた色彩が全員の目に取り戻されていく。
「ここが、サンクチュアリですか」
「ああ、そうだ。おれも足を踏み入れるのは初めてになるが、ここで間違いはない」
優しい色合いの新緑の絨毯が敷き詰められている中には、大小さまざまな岩山が配置されており、景観を損なわぬようにとの配慮からか、住居らしきものは藁製のこじんまりとした家であった。作物を育てるスペースもあるがさして広く確保しているわけではなく、自然をそのまま残して必要以上に手を加えられていない状態であった。自然に溶け込んだ生活風景だからこそ、丘の上にそびえる石造りの神殿のような建物には一層目を惹かれる。故郷とは似て非なる地形の美しさにアルムは感銘を受け、しっかりと目に焼き付けておく。
「随分と平和で静かなところね。それも神聖な静けさって言うのが正しいのかしら」
「そうだな。俺が想像していたのとはちょっと違うけど。それにしても、あのいかにもな建物は怪しい事この上ないな」
丘の頂上にある古風な柱で囲まれた建造物を横目に、サンクチュアリの散策をいざ開始する。森の中を突っ切ったはずであるのに、そのシンボルたる樹木が忽然と消えた異空間である事には説明が付かないが、悩んでいても仕方ないと割り切って受け入れる事にする。木の間を潜る前は、特別な地域だけあって立ち入るために一種の儀式が必要なのだろうと意見を交わしていたが、まさにその通りだった。だが、いつも仰げば目に映る蒼穹はここにも等しくあり、アルム達が勝手知ったる土地とかけ離れた空間というわけでもなさそうだった。
この未知の空間全体を包む静寂は、緊張の糸が張り詰める不気味さを演出するものではなく、神秘的でどこか心地良い雰囲気を醸し出すのに一役買っている。どこまで進んでも一向に住民の姿が見当たらないが、かつて似たような境遇に出くわした時に味わったような胸騒ぎは不思議と感じなかった。居心地の良い佇まいという表現がしっくり来る。
「あははっ! いっぱいお客さんが来たようね!」
唐突に森閑とした風情を破るものが訪れた。周辺にはポケモンの姿が見当たらないにも係わらず、嬉々とした声だけがアルム達の耳に届いた。襲撃に備えて神経を張り巡らすが、相手の正体が捉えられないとなれば全員が方々を向いて待ち構えるくらいの対応しか出来なかった。目で駄目なら聴覚で探知しようと耳を澄ませると、空を切る音が少しずつ自分達に向かって近づいてくるのが分かった。
「おっと、可愛い子見っけ!」
「わっ、な、何っ!?」
翼が生えたかの如くふわりとアルムの体が浮き上がり、宙ぶらりんの状態で丘に向かって運ばれていった。不可思議な光景に一時は見とれてしまったが、茫然自失の状態から一気に覚め、一行はティルを筆頭に慌ててその後を追いかけ始める。見る見るうちに遠ざかっていく、絶叫を上げている小柄のイーブイを見失わないように。
◇
体の下に腕のようなものが潜り込まされているのは感覚的に分かった。瞬間的に全力をかけて振り解こうとすれば脱出も可能であったが、風を切って飛ぶ速度が意外にも速く、ここから無事に着地する自信はなかった。結局は喚いたりするでもなくされるがままに連れて行かれ、丘陵を登っていく内に終着点もはっきりする。高台にある神殿のような建物まで辿り着いても宙吊り状態が続いてうんざりしたところで、アルムも安全を確認して足をばたつかせる。
「だ、誰なの。もう放してよー!」
「ああ、ごめんごめん。珍しいお客さんだから、ついついはしゃいじゃったね」
ここで浮遊状態から解放されて久方ぶりに地面に降り立った。手放されたと同時にアルムの目の前で光の屈折が起こり、透明でしかなかった何者かの全身の真っ白な羽毛が顕わになった。ガラスのように美しい白以外には二枚の翼を主として赤を基調とした体色で、お腹の青い三角の印が特徴的な容姿である。くすくすと無邪気に微笑む様子を見る限りでは、敵意が感じられずアルムの警戒心も薄れていく。
「あなたは誰? もしかして精霊なんですか?」
「精霊の存在を知ってるって事は、君は只者じゃないわね。でも残念だけど、わたしは精霊じゃないのよねー。強いて言うなら巫女なのよ。名前はユーリって言うの」
ユーリと名乗るラティアスは、地面すれすれで滞空してアルムと顔を突き合わせる。何かされるのではないかと怯えて目を閉じているアルムを余所に、ユーリは両手でその垂れた耳ごと頭をくしゃくしゃと撫でた。乱暴ながらも撫でられるのが好きなアルムには効果
覿面で、表情にも綻びが見られて頬を僅かに赤らめている。
「別に取って食べやしないわよ! ほら、お仲間がもうすぐ追いつくから、木の実でも食べてゆっくりしててちょうだいよ」
周囲の樹木に生っている木の実を一っ飛びでもいで来て、体を強張らせているアルムの前に差し出した。手をつけて良いものか迷ってしばらく思案に暮れるが、目の前で採ってきた事から細工が為されていないのは明白であり、何より悪意の感じられないユーリの応対を断るわけにも行かなかった。完全には解けぬ緊張故に恐る恐るではあるが、熟して食べ頃になった桃色の木の実――モモンの実を一齧りする。
「どう、美味しい? この辺は空気も水も澄んでいる上に、土にも豊富な栄養が蓄えられていて育成には適しているから、とびっきり美味しい木の実が出来るの。少しは落ち着いた?」
ユーリはあえてアルムと同じ目線になる事で、威圧感を感じさせず緊張を解きほぐそうとしていた。純真な目で見つめ合えば自然と打ち解けていくものであるが、ユーリはそれを心得た上で難なく実践して見せる。ここまで丁重にもてなされると、意地を張っているのも虚しくなってくるもので、アルムも相手に心を開き始める。
「うん、ありがとう」
「そう、それは良かった。ところで、あなたの名前はなんて言うの?」
「僕、アルムって言います」
「へえ、じゃあアルちゃんって呼ぶわね! さあ、自己紹介も終わったところで彼らも着いたみたい」
ユーリは大勢の足音の接近を敏感に感じ取っていた。翼を広げてアルムから離れると同時に、機を計ったかのようにヴァロー達が丘を駆け上がってきた。アルムの脇に控えている見慣れぬポケモンを視界に捉えると、攫った犯人だと判断して目つきを鋭くさせる。こうして再会して早々その喜びに浸る間もなくアルムは戸惑わされることになる。
「待った待った! そういきり立たないでよ。わたしは怪しいもんじゃないってば!」
「そういう奴に限って一番怪しいんだけどな」
「ちょっと待って。彼女は――ユーリさんはこの神殿の主のような存在だよ」
きっかけさえあれば攻撃しかねないヴァローの前に出て制止したのは、説得の言葉を発しあぐねているアルムではなく、背後でおとなしくしていたマイナンのライズであった。自分よりも先に動いた事以上に、一緒にいなかったにもかかわらず名前を知っていた事がアルムにとっては驚きであった。
「あら、ライちゃん。お久しぶり。この子達と一緒にいるとは思わなかったわね」
ユーリの方も顔馴染みらしい口振りだった。ライズの過去を知らないとは言え、唐突な展開に思考が追いついていかない。アルムとヴァロー達の困惑顔を交互に見て、ライズは苦笑を滲ませながらユーリとの中間まで歩いていった。
「実は僕の抱えている力の問題を解決してもらおうと訪れた事があるんだ。ただし、あの時は宛ても無く彷徨っている内に偶然辿り着けたから、今回案内は出来なかったんだけど」
「そういう事。あと、アルちゃんのお仲間の皆、ごめんねー。手っ取り早くここまで案内するにはこれが良いかなって。それとこの子を一度抱っこしてみたかったの」
「絶対そっちの方が目的だろ」
「まーまー。堅い事言わないの。当初の目的は達成したわけだしね。これでも一応君達の事を待ってたんだから」
「待ってたって、だったら何で真っ直ぐ来れないような仕組みになってるんだよ」
「あー、この結界ね。本当はこれを自由に操れたら良いんだけどさ、あいにくこれはわたしの力でどうこう出来る代物じゃないのよね。役割もあくまで外界との通路を隠して遮断しているだけ。これにもいろいろ理由があってね――」
詳しい事情を口に出しかけたところではあるが、一行の歩き疲れを考慮してか話を一時中断して、広々として休める集会場のような場へと案内した。そこから端的に語られたユーリの話を総括すると、そもそもユーリも神殿の守護者の代理でしかないらしい。ここには感情を司るとされるエムリットというポケモンがいるとの事であり、守護者とは巫女に近い存在でいわばエムリットと最も近い関係にあって、神託を授かる等の架け橋になるらしい。そして本来はラルトス族の者から選ばれ、フルスターリの力の恩恵を受けて結界を張るのであるが、園力に最も長けた者が行方不明になった事で、ユーリが急遽その役割に任ぜられたとの事である。
「その辺の歴史とか仕組みとかの話は、遺跡巡りをしているバカ兄貴の方が詳しいんだけどさ、生憎今はいないのが残念なのよね。わたしはそもそも持てはやされたり崇められたりするのは苦手なんだけど。まあ、サンクチュアリの皆のためなら仕方ないってね」
「あっ、そういえば、ここにユーリさんとエムリットさんの他にもポケモンはいるんですか? すっごく静かで誰かがいる気配がなかったんですけど」
「あら、このサンクチュアリが瞑想と思索の神殿だって事を知らないの? 日々静けさに身を委ねて瞑想に耽っては、サイコパワーを高める修行に勤しんでいるのよ。もっとも、あなた達には関連がない事かもしれないけど、“進化の光”を統べるのはわたしとエムリットで、ここのポケモン達はそれを補ってくれているの。精霊の事を知っているなら恐らく知っているだろうけど、足りなくなった力を補うために、ね。さて、そんな事はどうでもいいとして――」
「待ってください! あの、ここより一つ前の町でも“進化の光”というのを聞いたんですけど、それって確かフルスターリがたくさんある時に有名だったものなんですよね。散らばっちゃった今もその光は使えるんですか?」
不意に登場した“進化の光”――それはヴィノータウンのツボツボに聞いた話でも耳にした言葉である。嘗ては進化の光によって栄華を極めていたサンクチュアリとフルスターリも、分散された事で力を失ったとの事であった。軽く流すような内容の事ではないのだが、華麗に話を進めようとするのを見過ごすわけにも行かず、アルムも迷惑を承知で慌てて口を挟む。
「随分と詳しいところまで知っているのねー。さすがこのサンクチュアリに辿り着くだけあるか。アルちゃんの言った事は間違ってないよ。フルスターリはまだ僅かに残っているから、わたし達のサイコパワーで底上げ出来るってわけ。もちろん昔みたいにそう易々と大量のポケモンに施す事は不可能なんだけど。今のところ脅威はないから安心してちょうだい。今のところは、ね」
場の空気が水を打ったように静まり返る――ただ一人ユーリを除いて。知る人のみぞ知る情報を持ち出されても、笑顔を絶やさずに感心したように頷くだけである。ただし、最後の部分だけ視線を逸らしてお茶を濁したのはやけに怪しかった。口が過ぎたその過ちを隠蔽するかの如く、ユーリは破顔一笑して即座に話題のすり替えにかかった。
「ところで、あなた達面白い子を連れているわね。そのジラーチちゃん、何者か分かってる?」
「ユーリさんは知ってるんですか?」
「もう、堅苦しいなぁ! ユーリで良いってば。まあそんな事はさておき。ははーん、今まで知らずに旅を続けてきたのね」
「焦らさないで教えてくださいよ!」
膨れっ面で急かすアルムに観念したように見せかけて、実はその返答が来るのを待ち構えていた。意地が悪いのか単に子供っぽいのか、どちらにせよユーリはしばらく会心の笑みを湛えて満足げにしていた。もちろん悪戯っぽい振る舞いの引き際は心得ているようで、それでももったいぶるようにしてではあるが肝心の答えに移った。
「はいはい、必死なアルちゃんに免じて教えましょう。その子はね、“星の精霊”なのよ――」