エトワール・フィランテ〜星降りの夜の導かれし出逢い〜


















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第十一章 町に寄れば、酒に酔えば、地図に因れば〜酔いどれ一行のヴィノータウン珍道中〜
第八十六話 酒造の町、ヴィノータウンへ〜感じる人気、感じない人気〜
 白銀に彩られて凛と澄み切った身を切るような寒さに包まれた世界、グラスレイノ――そこはフタチマルのオルカが王のリョートの代理として統治して、一時は混乱状態にあった国だった。それも危険を顧みないアルム達の協力もあって事なきを得て、不安要素を残しつつも何とか潜り抜けた。労多く実りも多い、そんな時を過ごして思い入れが強くなった国や新たな友ともお別れをして、アルム達はアカツキの案内の下でサンクチュアリへと向かっていた。
 訪れた時の物とは対極の位置にある洞穴を通り抜け、寒さの和らぐ大地へと降り立ったのは、グラスレイノを後にしてから間もなくの事であった。背を向けた土地では見る事の出来なかった新緑の海が眼前に広がっており、平原を駆け抜ける風も鋭さを伴わない穏やかなものとなっている。うっすら広がる雲の上から満遍なく降り注ぐ陽光は、夏の炎天下のような烈しさも冬における靄のような希薄さもなく、淡く柔らかくて心地良い事この上ない。
「グラスレイノはあんなに雪が降ってて寒かったのに、こっちは草も生えてて暖かいね。何か不思議だと思わない?」
「山間という立地条件のせいで、どうやらあの国だけ気候が特殊なようですね」
「そいつの言うとおりだ。こっちの土地の方が普通で、グラスレイノの方が異質なんだよ。あの国のポケモンが外に出ることは滅多にないから、国民は雪に囲まれているのが一般的だと思っているみたいだがな」
 アルムの素朴な疑問にレイルの分析、加えてアカツキの補足が口を突いて出る。呆気に取られて立ち止まっていた一行にとって、突然の寒暖の変化は実際に体感していても不可解で困惑するほどで、気候の違いを色濃く表す景色を見てもなお驚きを隠しきれないようであった。体を撫でていく温かみを帯びた風は、仄かに甘い香りを彼らの元に運んできた。匂いには人一倍敏感なヴァローが早くに気づき、周囲に漂っている謎の香りを大きく吸い込む。
「何か甘酸っぱい匂いが流れてきてるな。木の実の類なんだろうけど、こんなに一つの匂いを強烈に感じるのは初めてだ」
「この香りの真相は、あそこに見える畑のような一帯に行ってみれば分かるぞ」

 洞窟から離れて坂を下った先には、絨毯のように広がる芝生とは異なる風景が広がっていた。雑草とは背丈の違う植物が一面に繁っており、整然と並んでいるそれらは草と言うよりは背の低い木と言った方が正しい。その一つ一つには濃紫の丸い果実が房状に生っており、その艶やかな光沢を放つ実が視認できる位置まで来れば、アルム達にも鼻腔を刺激する芳醇な香りが感じられた。
「うーん、これって何の植物なんだろう。森で暮らしてたライズなら何か分からない?」
「えっ、僕? そうだね……確かに森に生えている食べられる木の実はいくつも見た事があるけど、これはちょっと初めて見るね。ズリの実でもブリーの実でもないみたいだけど少なくともどこにでも生えているような木の実ではない事は確かだ」
 森に住んで大抵の植物には詳しくなったと自負していたライズでさえも、目の前に広がる畑が一体何の木なのか皆目検討が付かなかった。せいぜい似た形の名前の木の実が浮かぶばかりで、この木の実から発せられる香りとは別物である以上は、所詮は類似するものでしかない。まじまじと見つめたところで見覚えがない物の正体など分かりっこなかった。
「これはな、おれ達の知ってる木の実のどれでもない。強いて言えばさっきのブリーの実が近いが、味も形もまるで違う。それはお前達も感じたとおりだ。名前は確か“ブドウ”だったか“グレープ”だったか、そんな変わった感じだったはずだ」
 答えに辿り着くのは無理だと思っていたのか、それともいつまでも謎の木の実を眺めて長考しているのがじれったいと感じていたのか。ともかくアカツキがその真相を皆に告げた時には、夢うつつのようにぽかんとしているばかりであった。アカツキに信頼が置けないわけではないが、未知の木の実である以上は情報が少なくて信憑性に欠けるのも事実だった。名前の最後に一貫して“実”が付くのが常識であり特徴であると思っていたが、それを覆す果実とあってはどう受け止めて良いのか決めあぐねていた。
「何故この実がこの“土地”にあるのです? 私には不可解でなりません」
 このポリゴン――レイルだけは、現実を受け入れた上で、その事実を否定したいようであった。アカツキを除くアルム達全員が戸惑っている中で、レイルだけはその木の実の正体に対して疑問を抱いているのではない。齟齬が生まれているのはその点であった事にアルム達も気づく。だが、追究したところで重要な事柄に繋がるとは思えず、アルムは今は何事もなく流すことにした。
「でも、ここだけこんな変わった木の実があるって事は、この辺の名産品とか、気候にちょうど合った珍しい物なんだったりして。私もグラスレイノの周りの事情は詳しくないんだけどね」
「あながち間違っちゃいないな。正確にはこの実を加工する事で名産品として売り出しているのがこの先にある町なんだよ」
 あらかた畑の観察を終えたところで、その目的地へと向かう道すがら、アカツキから次の町の情報を聞き出していた。知る人ぞ知る隠し通路のようなサンクチュアリへの近道があるだけでなく、他では味わえない特産物を生産している事から最近グラスレイノとの交流も盛んになっていて、アカツキも何度か訪問していて町のポケモンとは面識があるらしい。
 畑からは外れた一本隣の道を歩いていても、敷き詰められたように並ぶ果実達の放つ甘い香りからは逃れる事は出来なかった。瑞々しい紫の果物から目を逸らしていても、その香りで否が応でも食欲がそそられる。だが、その柔らかで豊かで優しい香りに混じって、鼻を強く刺激する匂いが流れてきていることをいち早く察知したのもヴァローであった。
「どうかしたの? また鼻をひくつかせちゃって」
「それがさ、あの木の実に似てるんだけど、またそれとは微妙に違う匂いがするんだよ」
「それってなーに? さっき言ってた“ズル”の実っていうのなの?」
「正しくは“ズリ”の実な。それとも違う。あの“ブドウ”って実と同じはずなんだけど、嗅いでると頭が少しくらくらしてくるって言うか。アカツキなら何か知ってるんだろ?」
 違和感を抱きながら先に進む内に、アルム達にもヴァローの言っていた事が少しずつ分かってきた。一面に広がる畑からの芳香とは別に、微かに甘さの他に気分を高揚させるような匂いが紛れている。例えるならばそれは食べ頃よりもさらに熟れてしまった果実のようであり、この類いの匂いには何となく覚えがあった。ヴァローが何かを発酵させたような香りではないかと言及すると、アカツキはその問いかけに素直に応じた。
「ああ、ご名答だ。おれ達がこれから向かう町――ヴィノータウンは、酒造の町としてその名を馳せているところだ。それでも決して大きな町ではないから、認知度はさほど高くないんだがな」

 洞窟を抜けて二つ目の丘を乗り越えたところで、アカツキの言う町はアルム達の前に姿を現した。町と言う割にその規模は小さく、自ずとブルーメビレッジでのシャトンの案内が思い出される。しかし、こちらは正真正銘の町であるらしいが、集落と言われた方が実感が湧く。点々と建っている家も決して数が多いとは言えず、目に映る限りでも木製の立派な建物はその中でもまばらにしかない。残りは草で覆われた家がほとんどで、アカツキが言うには小さな洞窟の中で暮らしている住民も多いらしい。見晴らしの良いところから一通り外観を見て足を踏み入れたところで、アルム達には嫌な予感がしていた。それは以前訪れた町でも感じた事のある、活気がないと言う表現では済まされないような寂寥感に因るものであった。
「随分と静かね。グラスレイノは単に家に篭もっているポケモンが多かったからだけど、これはそれとは別ってところかしら」
「強いて言うならリプカタウンを訪れた時の静けさに似てるな。それも、町のポケモンが俺達を避けていた時じゃなく、二度目にフリートと戻ってきた時のような」
「じゃあ、この町のポケモンも姿を消しちゃったって事なの?」
 町単位で相次いで繰り返される住民の謎の失踪。そしてグラスレイノの動乱の最中でキルリアが告げた戦力確保の真実。これらを結び合わせる先にあるのは、誘拐という一つの事件であった。それもキルリアに強力な“さいみんじゅつ”が備わっている事を考慮すれば、抵抗も虚しく牛耳られてしまう事も想像に難くない。黄昏のような静けさに満ちた町に訪れた今、事件の再来がいよいよ現実味を帯びてきていた。
「アカツキさん、ここって元から無人だったとか、揃ってどこかに引っ越したとか、そんな事情はないですよね?」
「むしろそうであってくれと願いたいものだが、さすがにそれはねえよ。まあ、別にここに滞在する用事でもないし、さっさと通り抜けるだけで良いんだけどな」
「そんなあっさりと……放って置いて良いのか?」
「お前達の目的はここの謎を解明する事じゃないだろ。だったら迷わず先に進むべきだ」
 アカツキの言う事は理に適っていて尤もである。一方で、アルム達――主にヴァローにとっては解決できるか否かはともかく、簡単には見過ごせない事態ではあった。正義感から来る使命めいた意見ではなく、単純に好奇心をくすぐられるのもあった。弦を震わせるような声のアルムとは正反対に、ヴァローはあくまで積極的な姿勢である。予期せず生まれた見解の相違は、水面下で徐々に不和となって浸透していく。
「ちょっと待って。あっちの方から誰かの声が聞こえるわよ」
 一同の間に広がり始めた不穏の波も、シオンの指摘によって一時中断を余儀なくされる。喉まで出かけた言葉も抑えて口を噤んで耳を澄ませてみると、張り詰めた静けさの中には、確かに声らしきものが見え隠れしていた。その出所は一番手前に見える入り口の小さい洞窟のようで、一行は接近を悟られぬように極力忍び足で移動していく。どうやら飛び交っている多様な声質からして、中にいるのは複数らしく、この事態を招いた首謀者の可能性も拭いきれずに緊張の面持ちのまま前進する。
「どういう事かね。そんな事など、こちとら知らんぞい」
「でもさ、この町にいるのってあんた一人なんだろ? オレ達もここに飛ばされてきたばかりで事情は良く知らないけど、オレ達が知りたい情報を持ってる奴がここにいるはずなんだよ」
 恐る恐る覗き込んだ先に見えてきたのは、洞窟の奥で対面している三つの影だった。蒼い輝きを纏った体毛を持つ四足立ちのポケモンが一人と、全身が水を弾きやすい橙色の体毛で覆われた二足立ちのポケモンが一人で、この組み合わせにはライズとアカツキを除く全員が見覚えがあった。正体が分かったところでアルム達の怯えは瞬間的に解けていき、振り返るその二人に向ける表情も自然と綻んでいた。
「あっ、もしかしてクリアとブレット?」
「おっ、アルムにシオン王女、それとその他ご一行じゃねえか! こんなところで会うなんて奇遇だな!」
「ブレット、これはさすがに奇遇じゃないと思うけど」
 ほんの一日程度の付き合いとは言え、クリアとブレットにとっては印象深い面々には違いなかった。ブレットが真っ先に駆け寄ってきた。奇遇という言の葉の真偽の程にかかわらず、そこにはブレットなりの嬉しさが内包されている。思いがけない再会のせいか、アルムの心は風に浮かぶ羽毛のように舞っていた。クリアはお得意のポーカーフェイスで感情を表出こそさせていないが、視界に捉えるなり一瞬だけ目を丸くした辺り、まんざらでもないようであった。
「次から次へと、今日は客が多い日だ。こんな辺鄙な町に何の用かの」
 蜂の羽音に似た嘆息混じりの声が一行の間を通り抜けた。遠くから見えた影が三つあった事を思い出して視線を横に向けると、そこには赤く丸い甲羅が目に入った。その穴からは黄色の細長い頭と手足が飛び出しており、背丈はぴんと頭を伸ばしてもヴァローと同じくらいであるそのポケモン――ツボツボに、アカツキが他の者を押し退けるようにしてずいと歩み寄る。
「ツボツボの爺さんか。まず聞きたい事があるのはこっちだ。この町に一体何があったのか教えてくれ」
「若いモンはこっちの話も聞かずに矢継ぎ早に質問攻めか。まあ構わんぞい。それがここ最近の事なのだがな、一部を除いてほとんどの者が移住したのだよ。この町で酒を造り続ける事に飽きたんだと」
「はあ? そんな非現実的な事があるかよ。そもそもそれで売り出して町を有名にしたのはお前ら自身だろうが」
「知名度を上げるために思いついたのがそれだったのだ。皆を悪く言うでないぞい。ともかく、酒造りは残ったワシらに任せて、皆はここから出て行ったのだよ。元より我ら一族だけの土地で仲間の数も少ないから、大した問題ではないがね」
 ツボツボ自身が狼狽もせず淡々と語っているのを見る限りでは、特に嘘を吐いている様子も無く疑う余地はなかった。この町自体が狭くて住居が少ない事実と照らし合わせても筋が通っており、最初は信じられなかった話にも合点がいく。そして事件に巻き込まれたのではないと分かると、浮き足立っていたアルムはいつしかほっと胸を撫で下ろしていた。立て続けに戦いに身を投じて心身ともに疲れ果てたのか、もう面倒事に首を突っ込むのは良しとしないらしい。
「それで、お主等二組揃ってこの町に用があるのかは知らぬが、ゆっくりして行くが良いぞい。せっかくだからちょいと観光とでもいかがかな」
 一息吐いてのんびりしたいと思っていたアルムにとっては、再会の喜びも一入(ひとしお)なところに舞い込んだ願ってもない申し出だった。ここまで引率してきたアカツキも、行動の指針を促すように視線を送ってきており、断る理由もないという答えで満場一致であった。この薄暗い洞窟内での談笑は如何ほどかとのツボツボの提案もあって、アルム達は連れられるがままに町の探訪を始めるのであった。

コメット ( 2013/10/02(水) 00:58 )