第八十二話 王子との対面と衝突〜本音と本性と本気と〜
不可視の手で全身を堅く締め付けられるような寒さが支配している。鉛を融解したような
鈍色の雲には、薄くなった箇所を起点に僅かに裂け目が広がって、衰えていた光がおぼろげながらも地上へと舞い降りていく。笛のような音を奏でて悲しげに響いていた北風は、天候の回復に従って演奏者を失っており、残るは下の階からの虚しい騒ぎ声が木霊するのみであった。
長い階段の先には玉座の間があった。広間の中央には王の腰掛ける椅子があった。豪華な椅子の上にはどっしりと構えて座る者がいた。水色の体をしたラッコのような姿をした者は椅子からやおら立ち上がった。手前に段差がある分高い位置にいるその者は、腰に携えている貝殻の武器を手にとって今まさに目の前までやってきた者達を見下ろす。
「遂にここまで辿り着いてしまったようだね。まあ、それも想定内ではあるのだが」
最上階まで侵入を許しても一切取り乱す様子を見せる事無く、オルカは泰然として立っている。風に煽られてはためいているマントが風格を更に示威しており、簡単には近寄りがたい。だが、ここまで来て歩みを止める理由などない。まじろぎもせず
挙ってオルカだけを見据える。
「おい、お前。おれを城を襲った犯人に仕立て上げて、何のつもりだ」
「一体どういう事かな。私の知った事ではない。それに、仕立て上げるも何も、君がここにいるのは事実だ」
「しらばっくれるんじゃねえよ。まあ、ご丁寧に挨拶して説明する義理もねえってか」
オルカとアカツキに話し合う気は毛頭ないらしい。殊にアカツキに関して言えば、標的を目の前にして
一弾指の間に飛び掛らんとする猛獣の如く研ぎ澄まされている。ただ、胸の内に煮え滾るような怒りと共に凄まじい執念こそあれ、己が欲望に任せて突撃するほど愚かではない。極力自我を抑えて相手の出方を窺っているようである。
「熱くなるのは構わんが、一旦待った。少しだけ話をさせてもらえんかの」
神経を張り巡らせて火花を散らしている二人を尻目に、ニョロトノがそろそろと歩いて間に割って入った。片や邪魔をされて気分を害したのか顔を顰めているが、それでもおとなしく伸ばしていた腕を引っ込める。もう一方は雷に打たれたように呆然と立ち尽くしている。ニョロトノが集団の一番後列にいた事もあって、今の今まで眼中には無かったらしい。
「リグ、さん……。どうして、ここに?」
オルカは時間を掛けて途切れ途切れに揺れるような細い声を搾り出した。まだ名前を聞いていなかったアルム達には初耳だが、リグというのはニョロトノの事のようである。心の定まらぬオルカに向き直ったニョロトノは、口元に当惑したような微笑を湛えている。
「久しいの、オルカ。昔はあんなに小さかったミジュマルが、今やこんなになって……。とまあ、思い出に浸っている場合じゃないの。昔のよしみと言ってはなんだが、とりあえずこの者達の言い分だけでも聞いてはくれんか」
元は王子の教育係兼世話係だったという深い間柄を考慮すれば、オルカの激しい動揺も頷ける。かつての記憶が嫌でも呼び起こされ、今の自分の姿と見比べられている事に胸の苦しさを覚え、返答を捻り出すのにさえ躓いているようである。複雑な表情を浮かべており、アカツキと向かい合った時の戦意はすっかり削がれているように見える。
「分かった。せっかくここまでリグさんが連れて来たんだ。一応話は聞こう。ただし、内容次第で処遇も変わってくるとだけ伝えておこう」
オルカが堅物ではない事は救いでもあった。重要になってくるのは、誰が何を話すかと言うことである。アカツキにもぶちまけたい事はあるだろうが、アルム達の話し合いの目的とは異なる。彼に関してはむしろ一戦交える方が性に合っているが、ひとまずはここまで導いてくれた立役者である彼の意見を尊重しようとする。相談も兼ねてアルムが歩み寄ろうとした時、アカツキはアルムに向けていた顔を捻ってオルカを指し示した。お前たちがやれ――そういう意味らしい。彼としては説得よりも大事なことがあるからであった。好意をありがたく受け取った上で、今度はアルム達の中で代表を決める。
勇んでここまで付いては来たものの、王子を前にすると覚悟も薄れて萎縮してしまう。生半可な気持ちで挑むくらいなら、一番弁舌において頼れそうなシオンかヴァローに託そうとアルムは決心する。だが、彼の思惑とは裏腹に、ヴァローは無言で目配せをしてきた。凛とした瞳で真っ直ぐにアルムだけを見つめ、一度シオンに視線を送った後で、またアルムを直視する。そこに浮ついた調子も投げ遣りな様子も感じられない。あるのは信頼の二文字。お前なら出来る――目でそう強く訴えかけると、おとなしく傍に控えていたティル・レイル・ライズを率いて後退する。
「それで、代表者は君らか。言いたい事は何かな?」
オルカはマントを振り払いながら気丈に振舞ってはいるが、強引に威厳を誇示しようとしているのは明白だった。オルカの不審な行動はそれだけに留まらず、シオンの方には目もくれなかった。わざと視界に入れないようにしているのかは推し量る事は出来ない。アルムがシオンを気遣って進言すべく開きかけた口を噤む。何故シオンの事を真っ直ぐ見ようとしないのか。知らないふりをするのか。そんな事を聞きたいという衝動にも駆られる。しかし、シオンの神妙かつ穏やかな顔つきを横目で見ると、早とちりしかけた心に歯止めが掛かる。
強張っていた表情を無理矢理に解し、息を吸って、静かに吐き出す。大きく深呼吸して逸る気持ちと高鳴る鼓動を抑えたところで、アルムはなけなしの勇気と共に思いを紡ぎだす。
「僕、あんまりオルカさんの事は知らないけど、いろいろ話は聞きました。そこで僕が感じたのは、オルカさんはちょっとずるいなあって……」
いざ対面すると緊張もひとしおで、覚悟を決めていてももごもごと言葉を濁してしまう。だが、今のでオルカが気を悪くする事なく傾聴し続けているのだと分かると、気を引き締めてもう一度心を整理する事が出来た。シオンも優しく手を置いて落ち着くように宥めている。託された思いも胸の中にしまい込み、アルムは顔を上げてオルカと正面から向かい合う。
「あのですね、オルカさんはずるいです! 国のみんなの事を考えてないし、せっかく頼れる素敵な仲間がいるのに頼ろうともしない。何だか全部自分で何とかしようとしていて、自分勝手に見えます。どうして自分を気に掛けてくれる存在に気づかないんですか? どうして何度も手を差し伸べてくれているのに払い除けようとするんですか? 僕だってまだ知り合ったばかりで全然知らない事も多いけど、でもこれだけは分かる。ルッツさんもフリップさんもループさんもあなたの事を心配している。それにちゃんと気づいてますか?」
アルムとオルカの決定的な相違点はそこにあった。今まで旅を重ねる中で信頼を築いていつでも心を開ける仲間がいるアルムと、周りから大事な者達を遠ざけてでも我を通そうとしたオルカ。アルムも決して恣意的な判断の下にしゃしゃり出たのではない。かつてシオンと立場を同じくして語ったように、今回は一個人として潔しとしない彼の行動に物申したかったのだ。アルムなりに感じていた思いの丈が
堰を切ったように一気に溢れ出す。
「ずるい、だと? 君のような年端も行かない子供に何が分かると言うのだ。国民の期待と彼らに対する責任を一心に背負った事があるか? 国の繁栄と国民の生活の存続、どちらを取るかを天秤に掛けたことがあるか? 肩に掛かる重圧などその立場になった者しか分からないんだ! 身の程を弁えろ」
上手く平静を装う事は出来ず、オルカの動揺は誰の目から見ても明らかだった。自らの心の中まで見透かされたようで怖いのか、オルカの体は若干震えていた。城下町での事を含めても、対面するのはまだほんの二回目。そんな素性も知らない者にいきなり的を射た事を突きつけられて、戸惑いは頂点に達している。目の前で声を震わせているか弱きイーブイが取るに足りない存在だと自分に思い込ませようとしても、先の言葉が胸に突き刺さって到底無視する事など出来なかった。
「あなたと同じ境遇の私なら分かるわよ。分かるんだけど、あなたの行動には同意しかねる。単なる空回りなのかもしれないけど、それは間違ってると思うわ。いつだって城のポケモン達は支えになってくれたのに、あなた自身が拒んでいたんでしょう。あなたが私も以前はそうだったから気持ちも分かるわ。でも、私はアルムと言う初めての友達が出来て、改めて周りの存在に目を向けることが出来た。そうしたら、私を追い込もうとしている者なんていない事に気づけたし、慕ってくれる者の気持ちを素直に受け止める事が出来た。あなたも今なら間に合う、もう一度寄り添ってくれる仲間の大切さを思い出しましょう?」
アルムへのささやかな反撃も、結局はこなすべき当然の職務を盾にしただけで、元々は単なる言い逃れでしかなかった。そこへさらに追い討ちをかけるようにシオンが責め立てる。今まで良心の呵責となっていた分が心の崩壊を招き、逃げ場を失ったオルカは遂にその場に崩れる。
「君の事は見ないようにしていたのに……シオンまで僕を見捨てるような事を言うのか……うるさいうるさい! 何が分かると言うんだ。どんな気持ちで泣く泣く見捨てたと思う。小屋一杯に咲いた花、大好きだったのに、放置しなければならないなんて……! 僕だって国民は皆大事さ! そして大好きさ! でも、全てを守ろうなんて、ちっぽけな僕なんかじゃ出来っこないんだよ!」
記憶の断片が欠けていた部分にぴったりと収まり、乱雑していた事実が綺麗に纏まった。城に潜入した時に見かけた花、あれは元は小屋に咲いていたものだったのだ。オルカが一部だけをあそこに移したのは、今しがた本人が吐露した事にも繋がっている。あの植物はそのまま国民や城の者に置き換えられ、オルカも本当は全てを自らの手で愛情を篭めて育てて、どれも見捨てずに被害や損害も出したくなかった。しかし、それが叶わなくなった以上、大事なものだけを救って非情に徹する決断を下したのである。怒声を上げながら瞳から零している大粒の雫が全てを物語っていた。
「だから、もっと周りに頼ってみようって言ってるの。それにあの花は、あなたに頼りきりにならなくても、ちゃんと自立して生きていたわよ――ここの国民のようにね。……ねえ、何があったの? 昔はあんなに優しくて周りの事を第一に考えていたのに、今は焦ってて何も見えてないように見えるわ」
「君には関係ない。放って置いてくれ」
「いいえ、オルカの事が心配だからほっとけないの。あなたの事だから、もちろん国の事が嫌になって暴挙に出たわけじゃないんでしょう? 何でも自分一人で抱え込もうとするのはいけないわ。……ねえ、王子と王女としてじゃなくて、あなたの事を心配する一人のポケモンとして、落ち着いて話してみてくれない?」
シオンの口から出るのは、もう批判の意思のない暖かくて優しい言葉。アルムと仲良くなった時と同じように、身分を考えずに接しようとする。オルカはその心を照らす光に対して必死に抵抗を試みようとするが、その抗う意志はオルカ自身の本心に反していた。本当はいつだって誰かに
縋って助けて欲しいと叫びたかったものの、彼自身の自尊心によって阻まれていた。それがアルムからの精一杯の戒めと、シオンの包容力によって凍った心が溶かされて、やっとオルカは自分自身の本当の思いを受け入れる事が出来たようだった。
「……ああ。ありがとう。何か、心が軽くなったような気がするよ。でも、まずは今まで見向きもしなかった事と数々の無礼を詫びよう。本当に申し訳なかった。そして、この国の事情について話させてくれ。実は――」
「――あーあ、困りますわね。王子がそういう事では。本当にこんな子供に毒気を抜かれてしまうなんて情けない」
打ち解ける事が出来て安堵が訪れたのも束の間。突如として広場全体に響く棘のある声には幾許か快楽が窺える。影が伸びるは先程まで王子が身を沈めていた玉座の手すりの上。両手に備えた薔薇の花は毒々しさと鋭い
茨を誇張している。綺麗な薔薇には棘がある――その諺を見事に体現している植物ポケモンは、視線でも降伏せよとの威圧的な意思を飛ばしている。剣呑な雰囲気はさながら丹精篭めて砥がれた刃物のよう。誰もが息を呑んでその影を追った。
「お前、リプカタウンで見た奴だな!」
「お前のそれは真の姿じゃないだろう。洞穴でおれの前に現したあっちが本物だろ。とっとと正体を現せ、卑怯者が」
「まあまあ、血の気の多い方たちばかりですこと。ばらしたんだからしょうがないし、そろそろこの幻影にも飽きたから、見せてあげても良くてよ」
ロゼリアは体中から大量の霧を噴き出して全身を覆い始めた。魔術師が衣装替えでも行うような演出に、見惚れながらも目を離さないように努める。数秒の後に霧が晴れて顕わになったのは、アカツキが目撃したキルリアという種族であった。その姿はいばらポケモンの原型を留めておらずとも、纏う刺々しい雰囲気は全く変化なく健在である。むしろその少女のような姿さえも偽りなのではないか疑わしいほどである。
「まあ、王子も理性を失いかけているようですし、そこの二人で戦っててもらいましょうか」
キルリアは両腕をそれぞれアカツキとオルカに向けて突き出して、宙に円を描くような動作に入る。目標を捕捉して腕の先から眩い光を放つと、反応する間もなく二人の姿が跡形も無く消えてしまった。これも幻覚か目晦ましの一種かと疑って掛かるが、耐性があるレイルに聞いても彼らは存在ごと掻き消えたようであった。その早業はまさに“瞬間移動”の為すところにある。かつて体験した事のある技でありながらも唖然としていると、いつの間にか真横にいたはずのレイルさえも蒸発していた。
「私が単なる幻術使いだと思ったら大間違いでしたわね」
最も得意とする戦いに持ち込むために、キルリアは早々に幻覚を打ち破りかねない存在の抹消に掛かった。残りのメンバーでは幻覚を見破る手段を持たない。下の階でわざと偽のルッツと衝突させたのも、幻覚に対処できる物を見定めるための計画的なものだった。アルム達もそれを理解して戦慄すると同時に、目を尖らせて体を震わせる。
「これで頭数も良いくらいになったわね。私の力を間近で感じられる絶好の機会よ、とくとご覧あれ」
高らかに笑うキルリアの声が、未だ寒さを残す空気に突き刺さっていった――。