エトワール・フィランテ〜星降りの夜の導かれし出逢い〜


















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第十章 渓谷にある氷の国の現状〜王子と不審な影〜
第八十話 ルッツとアカツキの決闘〜不審で不信ななかま〜
 重厚な灰色の塊が広がった事で輝きを失った零下の空からは、桜とも綿とも見紛う粒がひらひらと優雅に舞い散っている。気まぐれな風の仕業によって小康状態となった事で、既に氷に縁取られた城が氷雪に襲われることは無くなった。壁や柱に張り付いた雪が、磨かれた無傷の水晶のように輝きを放っており、色彩の豊かさは無くともそれを補って余りあるだけの清らかさに包まれている。凛として澄明な空気はおとぎ話や夢の世界に飛び込んだような錯覚を一層顕著に引き起こすものだった。
 だが、呑気に景色に見惚れている余裕はない。目下繰り広げられている戦闘によって一瞬にして現実に引き戻される。ルッツという目の前の一戦士が持つ“三闘士”という名と貫禄は伊達ではないようにアルムには映った。大きな図体の割に素早い身のこなしを披露しており、単身立ち向かうアカツキの鬼気迫る猛攻を次々と避け続けている。アカツキとて百戦錬磨の元戦士。その誇りなど疾うに捨て去っていようとも、実力は折り紙つきである。決して一撃一撃がむしゃらに突っ込んでいるのではない。しかし、客観的事実としては、数々の速攻も虚しくかわされてしまっている。互いが武器とする爪を交えることすらなく、ただ攻撃と回避が繰り返される光景を目の当たりにするのみ。横槍を入れたくともそんな状況でもなく、見守りながら佇む事しか出来ずにいるアルム達だった。それに引き換え、ループ・フリップ・ニョロトノの三人は注意深く戦闘の様子を見入っている。時間の経過と共に冷静さを取り戻したこともあって、淡々と展開されていく二人の戦いも落ち着いて分析しているようだった。
「やはりおかしいですわね」
「うん、おかしいだの」
「どう見てもおかしいんよ」
 一列に横並びになって、口を揃えて「おかしい」を連呼する。あらかじめ練習していたのではないかと疑ってしまうほどに三人の息がぴったり合っていた。冷静なのか緊張感がないのかアルムが反応に迷っていると、マイナンのライズが先に三人に歩み寄る。アルムやヴァローがその攻防に見惚れている間も、ニョロトノ達の態度に異変を感じていたのも大きな要因であった。観察を邪魔しないように背後からそっと忍び寄り、優しくニョロトノの背中を叩いた。
「あの、こんな黙って見ていてもよろしいのでしょうか? あちらのツンベアーの方はあなた達のお仲間ですよね?」
「まあ、それはそうなんやけど、何か変なんよね。ルッツの本来の動きじゃない感じがするんよ。まるで人格が変わったようで」
「人格が、ですか……」
 お前には関係ない――自らに必死に言い聞かせようとも、無意識に後退りしてしまう。何やら目の前がちかちかするのを感じている間に、体が硬直して顔を俯けてしまう。自分が一番気にしている単語が飛び出して、ライズは大袈裟に反応していた。今の戦いには何の関係もないが、ライズの心の奥底に眠るトラウマを深く抉ってくる二文字が頭の中にがんがんと響く。必死に靄の中に隠していた弱点を他意なく突かれ、それに伴って周りの状況が何も見えなく、聞こえなくなってしまう。思いがけない負の想起に対して心理の防衛機能が働いて遮断している状況である。
「ライズ、どうかしたの?」
「あ、ううん、何でもない。あのルッツと言う方が、普段と比較すると異常と言うのを聞いただけで」
 自分で勝手に自身の弱い心の扉をこじ開けただけ。些細な心境の変化くらいでアルム達に余計な心配など掛けられない。怪訝そうに様子を窺いに来たアルムに対してもライズは隠し通すことにした。一つの器に許容を超えた二つのものが強引に詰め込まれている感覚など訴えても仕方ないと、本心からではなく半ば強引に自分に諦めさせるような形だった。
「そう、本当にそれだけなら良いけど」
 アルムのつぶらな瞳を、ライズは直視することが出来ない。心の中を全て見透かすような目だった。普段はそこまで鋭いわけでもないのに、ふとした拍子に覗かせる鋭敏さには目を見張るものがある。しかし、自分からは深くまで踏み込もうともしない。距離を取って相手から来るのを待っているような節がある。ライズも逃れたい一心で思い切って懐に飛び込みたくなるが、ここで甘えていられないとぐっと堪える。葛藤のせいか胸の奥が苦しくなるが、何とか気丈に振舞って見せる。
「ところでお三方、結局あのルッツとやらの何が変なんだ?」
 アルムがライズを気に掛けている間に、ヴァローが聞き役に回る。対策を練ろうと話している傍からも、アカツキは右腕を一旦引っ込め、跳躍と同時に突きを打ち出す。ルッツは大して動きもせずにこれをあしらっている。
「良く見てくれんかの。アカツキの直接攻撃をルッツはひたすら避けて、飛び道具で攻撃しておるじゃろ?」
 ぼうっと眺めているだけでは気づかなかったため、今回は教えられた着眼点を頭の片隅に留めて見守る。アカツキが腕・足問わずに繰り出す打撃系の攻撃を、いずれもルッツが体を翻してかわしてばかりであった。その刹那の攻守交替でルッツも反撃に出るが、大きく息を吸い込んで口から冷気を纏った風を吐き出すに留まっており、直接自らの手で追撃を与えるには至らなかった。
「あれも一つの戦法だろ? あれのどこがおかしいんだ?」
「ルッツは落ち着いたやつだが、好戦的な気質を持ち合わせているんよ。だから、いつもは正面から相手の攻撃を受け止めてでも、自らの拳で攻撃を加える事を好むんよ。根っからの格闘好きでの」
「と言うことは、あえて接近戦を避けて戦っているのが普段と違う、と」
「そういう事になるの。さすがに戦闘スタイルは簡単には変えられるものじゃないからの」
 納得したようなそうでもないような。そもそもルッツの普段を知らないアルム達にとっては、興味こそあれ真偽は分かりかねる。嘘を並べていると疑うわけでもないが、一概に否定出来るかは怪しかった。例えニョロトノ達の推理が正しかったとしても、それでは目の前にいるツンベアーの説明がつかない。常から持つ得意な戦法を捨てて、顔見知りの前では特異な方に変えてきたのか。ますます謎は深まるばかりだった。
「ここでうだうだ推測してたってしょうがないだの。僕ちゃんがやってみるだの」
 アカツキに気が回っていることもあり、ループが欠伸でもするかのようにゆっくり口を開いているのは気づいていないようだった。援護射撃のつもりなのだろうか――そんな悠長な事を考えている暇もなく、口腔から瞬時に圧縮された光の塊が放出される。七色に輝く軌跡を描きながらその波打つ光の余波を周囲に撒き散らしていくそれ――“オーロラビーム”を見届けている間にも、接近を察知したアカツキは敏捷な動きでその場を離れる。アカツキよりも遅れて迫り来る攻撃を感知したルッツは、回避が難しく着弾間近になった頃に大きく仰け反ってブリッジするような体勢でやり過ごした。
 辛うじて回避は叶ったものの、一歩謝れば危険な局面だった。傍目に見ていても最善とは思えない行動を取った事で、胸の内にあるもやもやした不審感が確信の方向へと大きく揺らぎ始める。アカツキも構わず応戦を続けてはいるが、その攻めに初撃の頃のような刺々しさはない。だが、まだ完全な結論へと導くものではなく、ましてや根本的な解決にも至っていない。
「皆さん、何故何もないところで立ち止まっているのですか? あのザングースも一人芝居をしているようで、疑問を抱かざるを得ません」
 転機は突如として齎された。身内であるポリゴン――レイルの、情の篭もらない一定の声によって。アルム達は頭の中で一言一句咀嚼して整理し終えると同時に、戦いから目を逸らして視線をレイルへと一極集中させる。真剣な眼差しが四方から注がれようとも、レイルは無の極致にいるように無言で各々を一瞥するに留まった。自分の発言が重要な意味を持つ事を自覚していないようである。
「それ、どういう事なの? あそこでルッツと戦ってるのが見えないの?」
「ルッツとはどの方でしょうか。私には何も見えません」
 淡々とした物言いでレイルは一同が目にしているもの全てを根底から覆す。もはやあそこにいるのが本物か偽者かという次元の話ではない。存在すらしていないという旨である。ただ、それを裏付けるものがない。
「そんなのおかしいだろ。壊れたとかそういうわけじゃないのか?」
「いいえ、視覚にも異常は検知されません。至って正常に機能しています」
「じゃあ、僕達には見えていて、レイルだけには見えていないって事? 他には見えずに一人だけが見えるみたいな霊的な現象はありそうだけど、その逆って言うと変だよねえ」
 幽霊ならもしくは――と思いついてはみるものの、幽体離脱でもない限り説明が付かない。アルムがちらりと横目で目配せをしてみても、波紋を広げた張本人も押し黙る始末。元来無口な質である事を考慮したとしても、呼び掛けに応じないのは不自然である。物思いに耽ったり瞑想の類をするような性分でないのも承知の上。ここはレイルに頼らずにアルム達だけで推測を開始する。
「本当にレイルがおかしくなったって可能性はないだろうな」
「それはないと思う。だって、ニョロトノさん達もルッツさんが変だっては言ってるわけだし」
「だとしてもそのからくりが分からないわね。ちゃんと互いの攻防の音は聞こえるわけだし」
「それじゃあ、レイルさんならではの何かが引き起こしてるって事は考えられませんか?」
 すぐには回答が捻りだせず、唸り声だけが虚しく喉元から出るのみ。銘々に漏れる悩ましげな声に混じって聞こえてくる吹雪の音は、間違いなくルッツから発せられるものだと実感する。暫し考え込んだところで、あっ、とか細い声を上げると共にアルムがいの一番に閃いた。
「そういえば、レイルは“ニンゲン”に作られたポケモンだったはずだけど、それって関係あると思う?」
「俺達と根本的に違うのはそこだよな。感情がないってのも聞いたけど、それで幻が見えるか見えないかが変わってくるとも思えないし」
「――それよ! 偶然その言葉が出たのかもしれないけど。今ヴァローが口にした“幻”ってのは正しいと思うわ」
 なるほど合点が行くと一様に頷いてはいるが、仮に現状を幻だとして片付けたところで、それを経験した事のない彼らには余計に難問だった。補足とばかりに幻影を見せる能力を持つポケモンが存在する事をシオンが仄めかすが――
「しかし、僕達には見えて、レイルさんには見えない幻って一体なんでしょう」
 ライズの提議によってシオンが飛ばした憶測は形を成す前にあっさりと崩れてしまった。議論を交わしている間にも、体力に余裕の無くなってきたアカツキの動きが乱れ始める。まだ相手の放つ氷雪の攻撃をまともに受けたわけではないが、技の射程範囲から逃れるタイミングが徐々に遅れてきていた。遂には跳躍の際に隙が生まれ、冷気を纏う風が足先を掠める。だが、フリップ達は手助けに向かおうとはしない。アカツキの腕を信頼した上で、傍観を決め込んで謎を解く事に集中している。
「待てよ。幻なのにダメージを負うってのは変じゃないか? それに幻ってそもそも音も聞こえるもんじゃないだろ」
「となると、あれは単なる幻視や幻影じゃなく、幻聴も含まれている――つまりは幻覚ってこと。聴覚も、もし触覚さえも思いのままなら、全てを錯覚させるのも難無く出来るはずなんよ」
 これが単なる目の錯覚だけならば害は及ばない。しかし、他の感覚も複合して支配されていては話は別となる。“寒い”や“痛い”という皮膚の感覚も好きなように操れれば、例え本当に攻撃を受けていなくても、それが虚妄だと見破る術は無いに等しい。今までこそ何も起こらなかったとは言え、迂闊に手を出せば次はどう陥れられるか想像もつかない。どうすべきか決めあぐねていると、微動だにしなかったレイルがアルムの傍に居場所を転じる。
「特殊な念波を感知しました。これは生物の脳に直接影響を与える類のものです。私は正確には生物とは言えないので、これに惑わされなかったのだと思います」
 短絡的ではあるが、この推測に特に矛盾は無く、幻覚を見せられていると結論を出した。しかしながら、ギミックが分かったところで対処のしようが無かった。相手の術中に嵌っている時点で、形勢は圧倒的に不利だと言っても過言ではない。この際は一時撤退を視野に入れて動き出すが、孤軍奮闘するアカツキを置き去りには出来ない。
「アカツキ! これで分かっただの! ここは一旦退くのが最善だの!」
「はっ、ここまで来て退けるかよ。おい、これを操って楽しんでる奴。幻だか何だか知らないが、こそこそやってないで堂々と姿を現したらどうだ! このくらいでおれと倒せると思ったら大間違いだぞ」
 アカツキの怒気の篭もった咆哮は広間に響き渡り、空間全体が震えたような気さえする。体力の衰えを微塵も感じさせない彼の覇気は、対象ではないアルム達までも脅かすほどの凄まじいものだった。彼がこの行動に賭ける信念の強さを如実に表している。具現化されたアカツキの精根を正面から受け、攻撃の手を緩めて怯んでいたかに見えたルッツの姿に、大きな揺らぎが見えた。決して比喩などではなく、陽炎のようにその形が定まらなくなる。ゆらゆらと数回不自然な動きをしたところで、半ば霧状の集合体となっていた光が一瞬にして弾けて消えていく。
「あれ、どうして突然見えなくなったの?」
「この幻は“さいみんじゅつ”に依るものだったのでしょう。術者の位置が分からずとも、攻撃技を封じれば自然と消滅するはずですから」
 意図せず口から出た“ちょうはつ”が結果的には功を奏して、相手の策を打ち破るに至った。戦いは一旦終息を見せはしたが、事態は好転しても進展の兆しは見えず、途方に暮れてとぐろを巻いてしまう。途中から幻覚だと認識していても、いざ直面すると真実は受け入れがたいもの。本物のルッツはどこか、幻覚を見せていたのは誰か――疑念ばかりが重く圧し掛かり、終わりの見えない渦潮に飲み込まれていく。
「ねえ、アカツキさん。やっぱり僕達と一緒に行きませんか?」
 重苦しい空気が漂う中で、アルムが静けさを破って躍り出る。火照った体を休めるべく座り込んでいるアカツキは、相変わらず鋭い目つきで瞥見する。野生の本能を剥き出しにされても、アルムはたじろぐ事無く直視し続ける。険しい表情ではなく、あくまでも怖いのを我慢している状態で。
「さっきも言ったろ。味方になってもらおうなんて気はさらさらねえって」
「そ、それは分かってます。でも、せっかくお会い出来たんですし、一緒の方が早く王子のところに着けるかなあなんて思わなくも……ないです」
 最初に見せた勇ましさも即座にどこかにかくれんぼ。もごもごして声も尻すぼみに小さくなっていく。あまりにも説得力に欠ける言い方に、後方でじっと堪えていたヴァロー達もがっくり来てしまう。だが、それがアルムらしさが前面に出ているのも承知している。アルムよりもアカツキに視線を遣ると、意外にも刺々しさは抜けて口元は心なしか綻んでいるようにも見える。
「はっきりしないやつだな。まあ、そこにいる他国の王女も含めて、お前らがいた方が役に立つだろうからな。ある程度は敵の目星はついてるし、付いて行ってやるか」
 裏で手薬煉(てぐすね)引く者の正体を突き止めるべく、アカツキは一時的に同行する事を決心する。アルム達としても幻覚を打ち破るにはうってつけの役者であり、アカツキとしても城に詳しい者といた方が得策だと考えた。群れるのは好まずとも、引き下がれないアカツキにとっては、手っ取り早く王子の元に辿り着けるメリットを考慮すれば、共に行動する者が増えるのも厭わなかった。敵陣において頼もしい味方が増えた喜びを密かに噛み締めつつ、辺りへの警戒を怠らないようにしながら広間を突っ切るのであった。



コメット ( 2013/05/26(日) 23:20 )