エトワール・フィランテ〜星降りの夜の導かれし出逢い〜


















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第十章 渓谷にある氷の国の現状〜王子と不審な影〜
第七十九話 開戦と混乱と潜入〜すすめ、とまれ、すすめ〜
 城内で発生した衝撃音の一部は、城の外にも大きく響いていた。深々と雪が降るだけの静かな空間に轟き、堀の上を渡るように架けられた跳ね橋を軋ませ、繋ぎ止めている鎖もぎしぎしと危なっかしい音を立てる。一体の空気をまんべんなく震わせて満足したのか、数秒後には徐々におとなしくなっていく。同心円状に拡散していた余波が収まったところで、城と町を繋ぐ唯一とも言えるその道の下部にある足場で待機していた者達が、頃合いを見計らって足を揃えて動き出す。狭い通路を壁伝いにそろそろと歩いて目指す先は、正門からは遠く離れた位置に通っている水道だった。城の正面から見て右手に位置しており、普段は誰の目にもつく事無くひっそりと役割を果たしている道である。
「しかし、一体何事やら……。我々より先に行動に移った者がいるんかいの」
「だとしたら混乱している隙を突くのも良いかもしれませんわね」
 彼らとしても決して予想していた事態ではないが、城内のポケモン達が慌てふためいているこの機に乗じて乗り込む作戦に切り替えた。城に詳しいループ達によって立てられた潜入の計画も、このまま当初の予定通りに続行となる。だが、由々しき不確定要素が出現した事は、若干の不安を煽り立てるものであった。付き従う側のアルム達の方がより動揺しているようである。逐一周囲を確認しては他のポケモンに見られていないかびくびくしっぱなしだった。
「もしかして、僕達がここにいるのが気付かれたんじゃないよね?」
「それはないだろ。仮にそうだとしても、城の中であんな盛大な音を立てるなんておかしいからな」
 幸運にも地下水道にまで警備を配置する余裕はないらしく、城の地下へと繋がるアーチ状の入り口には誰もいなかった。手薄な箇所を狙うのは成功で、一行は細心の注意を払いつつ薄暗く湿っぽい通路へと足を踏み入れる。水が絶え間なく流れる音は心地よさを感じるものではなく、気持ちが急かされるような激しい濁流に近い。独特の臭いがさらに不快さを増すものではあるが、ここで贅沢を言っていられるはずもなく、なるべく深く息を吸わないようにして歩みを進める。フリップが水路でなくとも難なく通れるだけの横幅も然ることながら、先に光の欠片すらも望めないその長さも大したものらしく、城の者も地下に広がる全てを把握していないとのこと。つまるところ、フリップ達もこの先にある出口までの道程に確証はない。それ自体は大きな問題ではないのだが、なにぶん楽しい散歩と言えるような環境でないのと差し迫った事態も相まって気分も落ち込みがちになっていた。固まって歩いているはずなのに孤独に突き進んでいるような気さえしてしまう。
「何かじめじめしてるね」
 天井から滴ってきた雫の落下音がぴちょんとやけに響いた。他愛のない事を口にするのも、張り詰めた場の空気を少しでも居心地の良いものにしようと思うが故の些細な努力。ずっと無言のままでは、いくら神経を張り巡らせなければならずとも、持続できるものでもなくいずれは疲れてきて参ってしまう。そう思いつつ最後尾で全員の背中を見つめるアルムが、要らぬ気遣いだったかと心配する前に、ヴァローが真っ先に振り向いた。
「あったり前だろ。こんだけ大量の水が流れてるんだ。じめじめ、どころじゃなくて、べたべた、だな」
「べたべたと言うと、ベトベターを想像するよね」
「こういう水底に溜まったヘドロみたいな体をしてるからな」
「ヘドロってイメージだとどろどろしてるもんね」
「あのなー、一回一回表現しなくたって良いっての」
「だって、この会話が楽しいんだもん。いけない?」
「いけなくないさ。ただ、少しは緊張感を持てって言いたいな」
「えへへっ、それくらい持ってるよーだ」
 アルムは暗がりの中で笑ってはいるが、本当の自分を別の色で塗り潰して隠すための精一杯の虚勢に過ぎない。内心では誰よりも戦うのが怖く、向かう先で何が起こるのか不安で心が埋め尽くされている。気を張っていられるのは、シオンのためだと思ってなけなしの勇気を奮い立たせていたから。もしも些細な衝撃でも走ろうものなら、すぐにでも崩れてしまいそうなほどに危うい覚悟だった。決してへっぴり腰なのではない。ただ、圧し掛かる全てを負荷なく受け止められるだけの経験を積んだわけでもなく、未熟であるがゆえの怯えである。
 ふと見上げる天井は石垣によるものでありながら洞窟のように隙間なく固められ、外観以上に強固に築かれている。そのしっかりした造りを自分も見習いたいと思って、アルムは気丈に振舞おうと(ほぞ)を固める。だが、自分に向かって注がれている多くの視線を前にして、アルムは目を丸くして立ち止まった。気持ちも辺りも光のほとんど差し込まない中でぼんやりと映るいくつもの目は、冷ややかで突き刺さるようなものではない。(うら)らかな春の木漏れ日のように暖かいものに思えた。
「な、なに? やっぱり変な事言っちゃった?」
「そんなんじゃない。別に好きな事を言えば良いし、無理して何か盛り上げるようなことを言わなくても良いって思っただけさ」
「そうそう。そんなに気を張らなくても良いんだの。もうすぐ着くと思うけど、あれならここで待ってても良いよ」
 止めどなく耳に流れ込んでくる水流の音は、アルムの心をやおら圧迫していた。息を吸い込む度に体内に取り込まれていく悪臭は、体をじわじわと内側から蝕むようだった。半端に暗くて足元もはっきりと見えない空間は、既に頼りなくなりつつある心に影を落とそうとしていた。こんな物騒なところに置いて行かれては、待ち受ける恐怖を免れる代わりに何かに飲み込まれてしまいそうな気がする。背後から恐怖を具現した闇が迫る事を想像して身震いしたアルムは、弱気を捨て去って新たにした決意を身に纏う。
「ここに残るのは嫌だよ。僕はやれる事をやりたいんだもん。ここまで来て何もしないなんて、さすがに恥ずかしいからねっ」
「ほほう、良い目をしとるの。昔の王子にそっくりなんよね」
「そう、なんですか? でも、僕は王子みたいに皆に慕われていて、頼りになるような存在じゃないですし……」
 わざわざ謙遜を言えるほど気が回る状態でもない。極端に自信がない表れでもあり、当人としても隠す事ではないと無意識に感じて零れた言葉に違いない。簡単に途切れてしまいそうなほどに覚束ない声ではあるが、正面からそれを聴いているニョロトノの顔には笑みが浮かんでいた。
「そんな事は分かっておるんよ」
 やんわりした笑顔でずばり即答とあっては、むしろ気持ち良いやらへこむやらでアルムも複雑な心境だった。だが、苦笑が出てくると同時に、見え隠れしていた曇りは既に形を潜めていた。暗い湿気混じりの空気を脱して、心にも幾分か晴れやかになってくる。相変わらず周囲の環境は不快なままであるが、それを感じさせないくらいに調子が戻ってきていた。隅に追いやられていた普段の明るい心が、その均衡を破って塞ぎがちになっていた心を打ち負かしたのである。
「そうじゃなくての、いつでも自分の気持ちに素直になって動けるというところが似ておるんよ。皆を引っ張るんじゃなく、惹き付ける様な感じがの」
 褒め言葉だと捉えて良いと分かった瞬間に、アルムの笑顔は一気に花咲いた。熟し始めたヒメリの実のように頬をほんのりと赤らめ、顔を俯けてそれを悟られまいと必死になっている。そんな無防備なところを逃してなるものかと、ヴァローは悪戯っぽい笑みのまま歩み寄ってアルムの首筋を舐めた。
「ひゃっ! な、何するのさっ!」
「ちょっとは緊張が解れたかなって。後は妙ににやにやしているのが気に食わなかっただけだ」
 「もう」なんて頬を膨らませて怒ったふりをするが、本当はそんな気遣いが嬉しくもあった。気付けば自分一人で悩んでいたに過ぎず、前を見れば支えてくれる仲間がたくさんいる事が分かった。決戦を目前にして不安のあまり萎縮してしまった事を恥じるつもりもない。今度こそ躊躇もせずに立ち向かう覚悟は出来ている。
「ありがとう。もう大丈夫だから、先に進もう!」
 明朗に木霊するアルムの声は静寂を鮮やかに彩っていった。虚勢でも偽りでもない快活な出発の合図と共に、一行は再び決意を固めて地下道を歩き出す。シオンによると城の内部へと通じるルートは他の出口と違い、兵士達の騒ぎ声が水に紛れて聞こえてくるらしい。アルム達も必死に耳を澄ませてみるが、やはりごうごうと脇を流れる水流の音しか捉えられない。聴力に長けているマリルだからこそ為せる業であり、改めてシオンがいる事に大きな安心感を覚える。アルムとシオンは見合って顔を綻ばせつつ、信頼の置ける誘導に従って突き進んでいく。

 足元が悪いのは言うまでも無いことであるが、それ以上に迷子になっていないかの方が重要である。いくら耳の良いシオンを当てにしているとは言え、それはあくまでも見通しが立たなかった道筋が明瞭になっただけであり、確実とまでいかないのは言うまでもない。それでも何とか分かれ道や脇道が現れる度にシオンやフリップは意見交換を重ね、遂には光が差し込む出口らしきところが見えてくる。一旦立ち止まって音に意識を集中してみると、激しい流水の音以外に、アルム達のものではない多数の叫び声が通路内にも木霊しているのが分かった。
「さて、ここからが本番みたいですわね」
「まずは先陣を切っておいちゃん達が飛び出てみるからの」
 敵陣に飛び込む寸前まで来ている事を再確認すると、一層気合いを入れてニョロトノ達に続いて白雪の舞う世界へと進み出る。通じていた先は、それまでと異なって足元に石ではない硬さがあった。明るいところに戻って視力が戻るまではさして時間は掛からなかった。四方を城壁と同じ材料で固められた空間で、何故か外にはない緑が下には広がっている。その中に疎らにではあるが、その身を広げて自らの存在を誇示している小降りながらも(かぐわ)しい花が見受けられる。それはつい先程まで滞在していた小屋で見覚えがあったのと同一であった。
 もちろん庭の存在に疑問を抱いていたが、こうして悠長に観察出来る事自体おかしかった。そこで何者かに襲われるか、そうでなくとも侵入者として怪しまれるだろうと踏んでいた予想は裏切られる。地下水道はおろかここですらも兵士達の目が届いていないのは拍子抜けではあった。だが、ほんの片隅とは言え、城内に入り込んだ事に変わりは無い以上は、油断ならないのは間違いない。
「これは庭なのかな? でも、何でこんなところに、しかもあの花がぽつんとあるんだろう」
 しかし、城内の一角に植物が生えていることには疑問を抱かざるを得なかった。雑草に埋もれているわけではない。丹精込めて育てられている様子が窺える。小屋に合ったのと比べると数は少ないが、しっかりと根付いて寒さに負けずに生きている。小さいながらに健気なその生き様は、暗に何かを象徴しているようだった。
「王子がここに少数だけ移して育てていたんかの……。一体何の目的があってかは分からんが、やはりお気に入りだったからかいの」
「私もこの花は知ってる。だけど、昔はこんなところには無かったし、一部だけを生き残らせるようなこと、オルカはしないと思うんだけど……」
 謎の花園は一行の心に悩みの種を植え付けて花を咲かせていた。現状を忘れて感慨に耽っていると、現実に引き戻すかのように比較的近距離から怒声が飛び交うのが聞こえてきた。アルム達が作戦を実行に移す前に、単身乗り込んでいたものがいたらしい。その対処に追われてばたばたと忙しなく駆け回っており、他の侵入者に気を回していられないようである。
「お前だな! いきなり暴れて騒ぎを起こしたのは!」
「は? 何言ってんだ。おれは静かに入って来ただけで、けしかけてきたのはそっちだろ」
 口論を繰り広げる最中にも、硬い物が激しくぶつかり合う音が聞こえてくる。隠密行動が当初の目的であったアルム達にとっては、引っ掻き回して気を引いてもらうためには打ってつけとも考えられる。しかし一方では、彼らが騒ぐことにより城の者が集結してしまう恐れもある。そうなってしまえば大所帯のアルム達も動く事が容易には出来なくなってしまう。そういったもろもろを判断して相談した結果、まずは接触してみることにする。小柄なループを先頭に、最寄の階段をそろそろと上がっていく。
 広間へと通じる通路の中央で拳を交えているのは、雪に負けず劣らず美しく白い毛を持つザングースと、幾度も見ているこの国の兵士であるユキカブリであった。自然の力を集約して硬質化した腕で繰り返し薙ぎ払おうと仕掛けてくるが、白いイタチは自慢の爪で華麗に捌いていく。必死の形相で攻撃を繰り出すユキカブリに対しても、呼吸を乱す事無く対応している。完全に手玉に取って遊んでいるようだった。
「アカツキ、ここで何しとるんかいの」
「なっ、お前らこそ何でこんなところに」
 一度振り返ってニョロトノ達の姿を視認したアカツキは、思考が停止したように凍りつく。戦いの途中であると言うのに、見覚えのある集団に視線を向けていた。これを見逃すまいとしたユキカブリが腕を振りかぶる。だが、挙動が大きくて隙だらけのところへ、アカツキは横目で何の変哲もない蹴りを噛ます。腹部に見事に入った鋭い一撃は、重量のあるユキカブリの体を易々と背後の柱まで突き飛ばした。叩きつけられた衝撃で気を失ったのか、そのまま起き上がってくる事はない。
「それで、のこのことこんなところまで何の用なんだよ。お前らは王子に与する立場だろ」
「それは昔の話なのよ。私達は今王子とは決別していますわ」
 敵ではないと認識していても、アカツキの冷たい目つきは変わらない。戦いに際して気を張り続けているのもあるが、アルム達に友好的な気持ちを抱いていないのが最大の要因であった。
「別にどっちだろうと構わない。お前らを相手にする気も、味方になってもらおうという気も、さらさらないからな。おれの邪魔をするなら容赦はしないが」
 腕を伸ばしてアルム達に鈍い光を放つ爪を向ける。一種の宣戦布告とも取れる。ここでいざこざを起こすつもりもなく押し黙る一行を尻目に、アカツキは大股で広間の方へと歩みを進める。背中には哀愁も弱々しさもない。あるのは勇ましさと息の詰まるような威圧感だった。アルム達とてわざわざ呼び止める気も無く、二手に分かれるように別のルートから目的地を目指す事にする。兵士を一人倒してしまった事に気づかれない内に急いで、というのを念頭に置いて。
「ここから先へは行かせん」
 だが、直後に侵入を阻む者の姿。アカツキとアルム達、双方の行く手を遮る形で姿を現した。アカツキよりも遥かに高い身長で、優に二倍はある。白い毛並みは同じだが、一部に青白いものも混じっている。四肢の逞しさもこの場の誰にも比肩するものはなく、腕に備わっている爪がなくとも充分に迫力と風格がある。生まれつき備わっている属性の力や体格だけでも怯まされるほどであるが、加えてぎらぎらと目を光らせていて強さ以上に危険を感じさせる。
「ルッツ、あなたが出て来るなんて……」
 同じ三闘士であるフリップとループは動揺を隠しきれない様子である。袂を分かった相手とは言え、目の前のツンベアーが仲間である事に変わりはない。どうしても攻撃的な姿勢は見せられなかった。元より押し通るつもりのアカツキは自らの爪を立ててルッツを威嚇する。腰を落として半歩前方に向かって踏み込み、いつでも対応できるようにしている。対するルッツは両手を力なくだらんと垂らした状態である。しかし、決して無防備なわけではなく、むしろ隙がないと言っても良い。
「待って欲しいんだの! 別に争いに来たわけじゃないんだの!」
 ループの必死の説得も虚しく、ルッツは敵を排除する体勢を整えている。相手がその気である以上徹底抗戦は免れない。元々身震いするほどの大気が、ルッツの吐き出す白い呼気によってますます凍てついていく。立ちはだかる同志に衝撃を受けて行動に移れないフリップ達とは対照的に、アカツキは撹乱させるべく俊敏な動きで駆け回る。視界に捉える事も叶わない“でんこうせっか”の如き速度と足裁きで右へ左へと掻き回した後に、真っ向から勝負を仕掛ける。ルッツはそれを左半身を翻すだけで簡単に避けてみせた。着地と同時に苦悶の面持ちになるアカツキだったが、憂いとはまた別物だった。
「お前は邪魔をするつもりなんだな。だったら正面突破するまでだ」
 手加減したわけではないが、今のはあくまでも挨拶代わり。アカツキも戦いに向けてさらに気持ちを昂ぶらせる。先程のように片手――もとい片足で軽く捻るのではなく、全身全霊を込めて交戦する――本気の戦いに向けて。身長差を物ともしないかのように気迫を放って睨み合う。二人の間で静かに戦いの火蓋が切られたのに際して、一向は固唾を呑んで“今は”じっと佇むのだった。




コメット ( 2013/05/12(日) 23:34 )