エトワール・フィランテ〜星降りの夜の導かれし出逢い〜


















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第十章 渓谷にある氷の国の現状〜王子と不審な影〜
第七十三話 ルッツの行動と氷の牢獄〜過去と複雑な思いと〜
 生命力を着実に削る凍てつく風が通路全体に吹き荒び、幽閉された者達の怨念が篭ったような、悍ましい高音の旋律が鳴り響く。普段は鈍色しか見せる事のない格子も、白く輝く極細な結晶――六つの花を纏って異彩を放ち、一種のオブジェのような外見へと変貌していた。“ふぶき”は壁に埋まっている石材にも影響を及ぼしており、全体を美しい白銀に彩って、静寂に包まれた空間に不穏な様相を呈していた。その牢獄の一室にて、透明な氷に真っ白な雪が纏わり付いた氷像が三つ並んでおり、それぞれがポケモンの姿を象っていた。彫刻並みに細部まで凝らされたその見た目とは裏腹に、言いようの無いおどろおどろしさを孕んでいた。その白い遮蔽物を除けば、中に閉じ込められていると推測される生き物の鼓動まで伝わってきそうなほどである。
「ルッツさん、これは一体」
 白い吐息を漏らしつつ寒さに声を震わせたのは、体の所々に雪が積もって茶毛に白化粧を施しているイーブイ――アルムだった。開いた口が塞がらないようで、目前に立っている芸術とも呼べる仕上がりの――自分と同じ背格好、体毛に至るまで忠実に再現された――氷塊に度肝を抜かれていた。その秘めたる心のうちには、一種の感動と戸惑いが渦巻いて激しい争いを続けていた。
「もちろん、あなた方に似せた氷の像ですよ」
「んなこたぁ見れば分かる。どういう魂胆があってこんな事をしたか言えよ」
 ザングースは猜疑心を拭いきれず、即座に辛辣な言葉が口を衝いて出た。鉄柵越しに炯眼でルッツを射抜いており、一寸の隙があれば飛び付かんばかりの威圧感を放っていた。剥き出しにされた殺気を間近に受けていても、ルッツは何食わぬ顔で一同を見下ろしている。
「それは、あなた方にここから逃げて頂くためですよ」
 アルム達は一瞬にして言葉を失った。今ルッツが平然と言ってのけた事は、国の主権を握る者に仕えるものにはあるまじき行為であり、それをつい先刻シオンが呼んだ“国王直属の戦士――三闘士”ならば殊更そのはずだった。その身分を自覚していてなおアルム達の脱獄を先導しようとしている事には、アカツキならずとも違和感を抱かざるを得なかった。落ち着かせるつもりが逆に警戒心を強くしてしまったのを察したのか、ルッツは場に似つかわしくない柔和な表情を見せた。
「信じられないのも無理はないですよね。ですが、この機を逃してはあなた方がリスクなく逃げられる保証がないのも事実ではありませんか?」
「お前、本気で何を企んでるんだ?」
 今まで強気な姿勢で応じていたアカツキを以ってして、その吊り目がちで眼光鋭い表情に曇りを覗かせるほどだった。ルッツは依然として穏やかな面持ちを崩さないまま牢の鍵を取り出し、シオン達が苦心していた脱出口をいとも容易く開け放った。あまりにも躊躇のない行動に、アルム達のほうが逆にためらわずにはいられなかった。後ろ手を組んでいるルッツは無防備な体勢でこそいるが、そのがっちりした風貌も相まって、一見すると門番のような構えをしているにも見え、ルッツに対する疑心も影響してか、開放されたはずの出口が狭くなっているようにアルム達の目には映っていた。
「さて、一体何でしょうね。さあ、あまりぐずぐずしてると、巡回の兵がやって来ますよ。逃げないと言うなら、今のところはそれでも構いませんけど」
「ルッツさんは僕達の味方なんですか? それとも僕達に何かを求めてるんですか?」
「あえて明言は避けましょう。どう解釈していただいても結構です。あなた方が逃げて下されば、ね」
「アルム、このくらいにして、急いでここから出ましょう」
 不毛な問答に痺れを切らしたシオンが率先して逃げるように促した。耳を澄ませば、遠くからいくつかの足音が響いてくるのが聞こえた。不可解な行動は理解しかねるが、この状況下で四の五の言っていられない事はアルムたちも承知しているため、罠である可能性も視野に入れつつ、出来る限り速足でその場を後にしたのだった。







 城の者に気づかれぬようになるべく足音を立てずに細く長い廊下を走り抜けた突き当たりには、分厚い氷で創られた両開きの扉が現れた。灯篭を模した氷の彫刻や入念に仕上げられたアーチは圧巻のものであり、この場が牢獄である事実を一瞬にして忘却の彼方へとやってしまうほどの壮麗さを醸し出していた。ここに見学に来たのならのんびりと見惚れている時間もあろうが、生憎アルム達に情趣を解している余裕などなく、半ば蹴破る勢いで扉を押して外へと飛び出した。吹雪が吹き荒れているせいか外に見張りのポケモンは見当たらず、今のところは誰にも気取られずに脱走が成功したようだった。念には念を入れて隈なく周囲にあちこち視線を巡らすが、物陰にも潜んでいる者はいなかった。
「追っ手も来ないみたいだし、ひとまずは安心だね」
 アルムが先だって表情を崩して見せた。この国の謎は一層深まったが、結果的に牢屋から開放されるに至り、今度は安堵から来る温かい息を漏らしていた。それと対照的なのがザングースのアカツキで、喜びと言った類の色を一切窺わせる事無くアルム達のほうに冷たい視線を投げ掛けていた。何が気に入らないのか定かではなかったが、その険悪な雰囲気をいち早く察知したのもアルムであり、顔に浮かべていた明るい色を塗り潰してアカツキの元へと歩み寄っていった。
「そんなに怖い顔して、どうかしたんですか?」
「お前には関係ない。とっとと仲間のところにでも帰りな」
 ここから脱出さえしてしまえば、もはやアルム達との縁も切れる。所詮は同じ檻に閉じ込められた者同士だと割り切っているアカツキは、名残惜しさなど欠けらも見せる素振りはなく、それ以上言葉を交わさずに背を向けて町の方へと走り去っていった。その後ろ姿が視界から消えるまで見つめた後で、風がひたすら飄々と吹いている音だけが二人の間を流れていた。
「最後まで素っ気なかったわね。別にこれ以上一緒にいる意味がないってのは分からなくはないけど」
「そうかな? 皆で一緒に行動した方が心強いし、良いと思うんだけどなあ」
「私達みたいにまとまって行動してきた者には分からない何かがあるのよ、きっと。さあ、こんなところでぐずぐずしてたら、また捕まっちゃうわね」
 今はまだ嗅ぎ付けられていないが、いずれは姿を消した事がばれるのは火を見るより明らかだった。ここは一旦逃げ延びるのが先決と言う結論に落ち着き、二人は一息吐く前に、長いようで短かった監禁の体験をさせられた建物の元から離れていった。閉めたはずの扉の陰からルッツが静かに見守っていた事にアルム達が感づく事はなかった。
 捕まってから脱出するまでの流れを全てひっくるめて早一時間ちょっと経過したところで、アルム達はようやく高い建物の立ち並ぶ地点まで到達した。しかし、そこはニョロトノの家があった場所とは違い、見覚えのない町並みに遭遇していた。屋根の角度が急で建物の横幅が狭い分を縦に長くし、階層が多く窓が階段状になって並んでいるような造りになっているのが印象的である。もちろん周囲にヴァロー達の姿は見受けられず、この国の地理にも詳しくないアルムは途方に暮れていた。
「シオン、どうしよう。ヴァローやティルがどこにいるのかどころか、僕達の現在地すら分からないよ」
「大丈夫、私に任せて。ある程度ならグラスレイノの地形を把握してるから。とは言っても、領土全てを網羅してるわけじゃないけどね」
 宛てもなく捜すことも覚悟していたアルムとしては願ってもないことだった。しかし、同時にそれは彼の心に純粋な疑問を生じさせた。ふと興味が湧いて生まれたものなど軽く押さえ込んでしまえば良いのだろうが、こればかりはシオンが関係することもあって一筋縄では揉み消せず、心の中を大きく占めるほどにどんどん肥大していった。ついには我慢しきれずに溢れ出した。
「さっき聞いたのと似た事を聞き直すのもなんだけど、シオンってそんなに頻繁にここに来てるの? ぱっと見てここがどこなのか分かるって、相当知ってるんだよね」
「うん、牢の中でも話したと思うけど、この国のポケモンとは以前から交流があったの。特にオルカ達王族とは“深い縁”があって、定期的に食事会を開いて持て成し合ったり、オルカと遊んだりもしてたのよ。オルカも昔はミジュマルで体も小さかったわ」
 吹雪を凌げる場所を探して歩いているシオンの顔は、アルム達の前では見せたことのないような輝きで満ちていた。前から横から絶えず方向を変えながら吹いてくる雪を伴った風をものともしておらず、むしろこの地の風土や雰囲気を自らの肌でじっくりと体感しているようだった。感慨深げにしているシオンを黙って見ていると、どこか自分の知らない遠くへ行ってしまいそうな気がして、アルムは無我夢中で自分の近くに引きとめようとしていた。尻尾を忙しなく左右に振っているところにその焦燥感が滲み出ており、第一の試みは話しかけて自分の方に注意を向けることだった。
「ねぇねぇ、シオンはあの王子と仲良しだったんだよね。でも、あっちの方はシオンのことを覚えていないような感じだったよ。もし記憶を無くしてるんだとしたら、もう僕達にはどうしようもないんじゃないかな」
「いえ、私との記憶だけを忘れるなんて、そんな都合の良い事があるとは思えないから、何とか説得できると思ってたんだけど……。もしかしたら、単に私の事を忘れているだけなのかもね」
 苦笑を浮かべてごまかしてはいるが、シオンの表情が曇っていくのがアルムにもはっきりと分かった。自分のちょっとした嫉妬心に起因する事を省みて後悔したアルムは、落ち込むよりも先に励まそうとあれこれ思索していた。
「そんな事無いと思うよ! あ、いや、僕だったらシオンと過ごした時間を絶対に忘れないかなぁって。ごめん、何のフォローにもなってないよね」
「ううん、そんな事ない。アルムがそう思ってくれてるのは嬉しいわ。でも、私の事を全く覚えていないとなると、結局説得も出来ずに手詰まりになってしまいそうね」
 ふとした拍子に素直な思いが零れたのを、シオンは優しく受け止めた。しかし、互いの顔に笑顔が見られたのも、現実に引き戻されるまでのほんの一瞬だった。ルッツの誘導のおかげで何とか脱出できた事実から言っても、今の時点で手の打ちようがないのはシオンの言うとおりだった。頼りにしていたシオンが諦めているなら尚更であり、羅針盤を失った航海士のように漂流状態となってしまった。少しでも善い風を吹かせて前へ進もうと、アルムはいつも以上に空気を読み取ろうとしていた。
「あのさ、歩きながらでいいんだけど、シオンとオルカの事をもっと教えてくれないかな」
 話題が尽きるのを避けようとして思い立った解決策は、本人にとってはあまり好ましくないものであった。それでも踏み切ったのは、手持ち無沙汰でうずうずしているよりも、何か動いて気を紛らしていたかったからであった。シオンもそれには賛同して、二人は寄り添って――正確には道を知っているシオンにアルムが一方的に近づいているのだが――同じ道を真っ直ぐ見据え始めた。
「シオンはいつからオルカと仲良しなの?」
「うーん、この国に来た時は確か七年前だったから、たぶんその時からね。最初に出会ったのもオルカだったし、王子と王女という身分を忘れて接する事が出来た初めての相手だったわ。もちろん、アルムみたいに“友達”ってはっきりした関係じゃなかったし、そう言ってくれたわけでもなかったけどね」
 シオンが王女だと知らされる前の出来事――ステノポロスの路地でのシオンの告白が脳裏を過ぎった。“友達”と言ってくれて嬉しかった、と言ったあの時の事を。むずがゆさを覚えるのとは別に、オルカに先を越されていたような気と、自分もシオンにとっての“初めて”である事の喜びと、複雑な気持ちが心の中でぐるぐると掻き回されていた。気分が悪くなるような乱雑感ではないが、喉まで来たものを上手く飲み込めないような、そんな感覚だった。そればかりに心を支配され、他のことは一切考えられずにいた。
「ふーん、そうなんだ」
 アルムは軽く流して見せるが、これもまた単なる虚勢。歩みを止めずに先へと進む間には、大して激しく動いたわけでもないのに、自分の心臓の鼓動が嫌と言うほど大きく耳に響くようになっていた。何かがおかしい事は薄々感じていても、それを特定するのはアルムにはまだ難しい課題だった。目を見て悟られぬように斜め上に視線を逃がしつつ、妙な気だるさと付き合いながら言葉を搾り出した。
「それじゃあ、一体どういう関係だったの? 何か友達以上の特別な存在とか?」
「そうね、特別って言えば特別かもしれない。オルカはいつも優しく接してくれたし、彼と一緒にいると笑顔でいられたの。会いに行く日にちが分かった時も、その日が来るのが待ち遠しくてしょうがなかったのを覚えているわ。遊んでいる時も時間があっという間に過ぎて、何と言うか――うん、上手い言葉が見つからない」
 手を合わせたり尻尾をいじったりと普段は見せない仕草をしつつ、嬉しそうに話すシオンの様子を見ていると、知る事が出来た喜び以上に心に何か大きなもやもやしたものが渦巻くのを実感していた。その正体が何かは分からないが、とにかく良い感じのするものではなく、それでも何とか表に出さないように気を張っていた。普段こんな感情を抱くことに疎くて慣れていないせいか、気づかない内にやけに敏感になっていたのである。
「それでね――」
「ちょっと待って!」
 オルカやグラスレイノの事を掘り返して聞く内に危機を感じたアルムは、思わず言葉を遮ってしまった。別に聞きたくないわけじゃない。でも、何かここ数分の間つっかえていたものを取り除きたい――そんな想いから、つい出てしまった大きな声。叫んだ後になって気を悪くしていないかと不安になって顔色を窺ったが、シオンの暖かな笑顔を見ると全てが杞憂に終わった。
「あ、そうね。ちょっと話がずれちゃってたけど、そもそもはヴァローたちの行方を捜すんだったわね。ちゃんと元のところには戻れると思うから」
「あっ、うん。そ、そうなんだけど、ね」
 無視されたくないと躍起になっていたとは言え、自分でも大胆な行動に出たことを恥じてアルムは顔を赤らめていた。相槌を打つのにもぎこちなさが見られ、耳の良いシオンはそんな些細な心境の変化を声の震えから敏感に感じ取っていた。それでもアルムが言いたげなのを察して、敢えて返事を待っていた。案の定覚悟を決めたアルムが時間を空けて返した。
「――あの、中断させちゃってごめん。い、いいよ。もっと話を続けてっ」
「そう? それじゃあ、次は何を話そうかしら」
 過去の話を聞いてもっと自分のことを知ってほしいと思うシオンと、オルカとの仲の良い時代の事を好んでは聞きたくないと思うアルム。二人の間には、決して悪い兆候ではない、だが当人達には複雑な齟齬が生まれていた。意図せず楽しくも苦しくもある会話になりながらも、二人は目の前も塗り潰される真っ白な世界の中を、行く手を阻まんとする吹雪の猛威に頓着する事無く歩いていくのだった。



コメット ( 2013/01/11(金) 23:56 )