エトワール・フィランテ〜星降りの夜の導かれし出逢い〜 - 第十章 渓谷にある氷の国の現状〜王子と不審な影〜
第七十一話 連れて行かれた先で〜冷たく、寒く、暗い空間〜
 綺麗に削られた平らな敷石を畳のように敷きつめた――俗に言う石畳の通路には、背筋も凍り付くような冷気を伴った風が吹き抜けていた。一気にその冷たさが石全体に均一に伝わり、否応なしに冷却されていった。いくら密着して積み立てようとも、どこかに綻びが生まれるようで、その石と石の隙間には、外の世界から迷い込んだ雪がうっすらと溜まっていた。
 濃い灰色の石と真っ白な雪のコントラストが目にも美しいが、極寒の狭い道を作り出している事を認識させられると、観賞に没頭する心など文字通り冷めていってしまう。加えて通路の片側は鉄柵で区切られた空間――牢となっており、気象条件も相まって、寂寥感を身に染みて味わう事になるのは間違いなかった。
「ここ、寒いね」
 この非情とも言える空間の重苦しさに耐え兼ねたアルムは、気を紛らわそうと体を揺すっていた。座り込んでしまえば冷えが一気に襲ってくるが、かと言って立ちっぱなしも辛いものがあった。吐息の白さが寒さを物語っており、毛皮の保温性が無効に感じられる程だった。
「本当ね。この牢屋のある場所は外と近いから、特に寒かったはずよ」
 あくまで平然と振る舞いながらも、シオンは隅の方で体を震わせていた。自分以上にシオンの体調が心配になったアルムは、急いで駆け寄って身を寄せ合った。互いの温もりが辛うじて伝わり、先程までよりはましになってシオンの表情も綻んだ。
「あ、あの、一緒にくっつきませんか? 皆で寄り添った方が暖かくなりますし」
「おれはいい。お前ら二人だけで勝手にやってろ」
 腕組みしながら壁に寄り掛かっているザングースの言葉には棘があり、ぶっきら棒なのは変わらなかった。グラスレイノでも随一と言われる寒さを誇る牢獄に閉じ込められた三人は、幸いにも同室ではあったが、牢獄特有の殺伐とした雰囲気に完全に呑まれていた。気温のせいで眠る事も許されず、堅固な鉄格子を壊す事も、間も摺り抜ける事も不可能とあっては、ただ徒に時間を過ごしているしか無かった。
「ねえ、シオン。勢いで王子の前に飛びだして捕まっちゃったけど、これからどうなるんだろう」
 何とか気丈に振る舞おうとはしていたが、内心は不安で押し潰されそうになっていた。ふとした拍子に零れた弱気な発言にはそれが全て凝縮されており、行く末を案ずるより他に無かった。アルムが身震いしているのが寒さだけが原因ではない事が分かると、シオンは手を伸ばして優しくアルムの頭を撫でた。
「大丈夫よ、私が何とかするわ。王子にはもう横暴な振る舞いはさせないから。もちろん彼を上手く導ければだけどね」
 決して気休めなどではなく、そこには確固たる意志が篭められていた。全てを包み込むような暖かさと優しさ、そして力強さを直に心に感じ、アルムは触れ合っている事に照れ臭くなりながらも、不安が和らいだ事を暗示するようにはにかんで見せた。しかし、頃合いを見計らってシオンが手を離すと、緊張が舞い戻ってきてその表情を一瞬にして曇らせた。
「あのさ、さっきから気になってたんだけど、何だか町で会った時から王子の事を見知ったような口ぶりだったよね。シオンはあの王子と知り合いなの?」
 敢えてずばり直球で核心を突いた。解決せねばならぬ事は山積みだが、まずは目先の疑問を取り除こうと考えての事であり、シオンも快くそれに応じた。
「ええ、そうなの。この辺には国家と呼ばれる社会集団が少ない事もあって、ステノポロスとグラスレイノは度々王族の者同士で交流があったの。私もお父様に連れられてこの国に来る事も多かった。その時に何度も顔を合わせて仲良くしていたのが、この国の王子の“オルカ”よ」
 わざわざ聞き返すまでもなく、オルカというのが先程のフタチマルである事は明白だった。だが、それで話は終わりでは無かった。まだまだ知らないシオンの過去について触れている事もあってか、アルムは普段以上に傾聴しており、興味深さを示すように耳が天井に向かってぴんと立っていた。シオンはその熱心さを受け止めつつ、思いを馳せるように牢の外に視線を投げ掛けた。
「以前ここに来た時はね、彼もあんな感じじゃなかったの。国民から慕われてた上に、父である国王との関係も上手く行ってて、傍から見ても理想的だった。それが、何故かあんな風になっててびっくりしたわ」
 辺りに谺する程の深い溜め息が、シオンの小さな口から零れた。話に終わりが見えたと判断したザングースは、鋭い目つきでシオンの方を見据えた。
「おい、そこのマリル――シオンって言ったか? お前は一体何者だ」
「人に誰かを尋ねる時は、まず自分から名乗るのが礼儀じゃない?」
 この状況下にあっても、シオンは至って強気な物腰だった。ザングースは不機嫌そうに鼻を鳴らすが、情報と引き換えにする為に妥協する事にしたらしく、頭上で腕を組みながら壁に寄り掛かってぎらぎらとした目を対象から逸らした。
「おれはアカツキ。元はこの城で用心棒として雇われていた。……ほら、これで良いだろ。次はお前が話せよ」
「ええ、良いわよ。私はシオン。ステノポロスの王女よ」
 予期せぬ単語を耳にした途端に、ザングース――アカツキも思わず目を見張って幾らか動揺が窺えた。もたれていた状態から素早く体を起こし、つかつかとシオンの方へ大股で歩み寄った。
「おいおい、何故お前みたいな身分の奴がこんなところにいる。わざわざ捕まるような事をして、一体何の目的があるんだ」
 至って静かな、しかしどすの利いた声でアカツキはシオンに詰め寄った。低い声が冷え切った空間を貫いていく。シオンは自分よりも大きな体が迫ってくる事に一切動じる様子もなく、堂々と向き合っていた。
「あなたには関係ないでしょ。私は私でオルカに用があるし、あなたもあなたで何か用があるんだから、必要以上に干渉しなくても良いんじゃない」
 シオンは簡潔かつ明瞭な弁舌でアカツキの問い掛けを一蹴した。いつもは見せない冷たい態度と視線が、自分に向けられているのではないとは言え、アルムにとっては畏怖さえ抱かせられる程のものだった。
「尤もだな。だが、わざわざあの状況で飛び出してきたと言うと、余程逼迫していたと見える。違うか?」
 アカツキもシオンの態度に怯む程に柔では無かった。ずいと一歩踏み出し、より接近した状態でシオンの表情の変化を観察していた。あまりに強迫じみた行動にアルムも間に入ろうとあれこれ思索するが、今は勇気を出して踏み切るような心の余裕を失い、詮方無く成り行きを見守っていた。
「そうよ。オルカが民を困らせていて、国も何か乱れている状態。それが分かったなら、同盟国である以上は、一刻も早く栄えた頃の状態に戻って欲しいと思ってるもの」
「まあ、妥当な答えだな。真意がどうか分からないが」
 含みのあるアカツキの言葉は、シオンを煽るような直截(ちょくせつ)だった。シオンの耳には届いていても、一々突っ掛かる事は無く、嘆息を吐いて冷たい床の石に視線を向けて俯いた。
「あなたがどう思おうと勝手よ。私は私ですべき事を実行に移すだけだから」
「――あの、シオン。僕もそのお手伝いが出来ないかな?」
 独断で話が済んだと踏んで、アルムは遠慮がちに声を掛けた。活路を見出だせずにいる状況に追いやられ、せめて何かしなければと思い立ったが故の行動だった。珍しく冴えない表情をしており、今までアルムの事が眼中に無かったシオンの心配を誘う事に繋がった。
「ありがとう、アルム。その気持ちは嬉しいけど、これ以上アルムには迷惑を掛けたくないわ。それよりごめんね、何だか私だけ勝手に話を進めてて。まずはヴァロー達と合流して安心させてあげるのが先ね」
「おい、大事な事を忘れてないか。夢を見るのは勝手だが、そもそもここを脱出しない事には始まらないだろ」
「それは余計なお世話よ。作戦を練っておくのに越した事は無いもの。それとも、あなたには脱獄する手筈でも整ってるのかしら?」
「さあな。この鉄の棒を力ずくでぶち破るくらいか」
 それが本気なのか冗談なのか、顔色を窺っても判断しかねた。この際アカツキの助言は無視する事にして、アルムとシオンは監房の中を隈なく探りを入れ始めた。体を動かして少しでも暖を取ろうという目的もあり、(かじか)んでいた手足も僅かに元の暖かさに近づいていった。
「どう? そっちは何かある?」
「ううん、全然だめみたい。どこもかしこもすごく堅いよ」
 しかし、真の目的の方は思い通りには運ばなかった。どこか壁が脆くなっているところは無いか、隙間は無いか、と必死に探索を続けるが、成果は上がらなかった。次は試しにシオンが尻尾の先に水を湛えて勢いよく打ち据えてみるが、壁の石には罅一つ入らなかった。諦めずに別の技を繰り出してみようとも、結果は同じに終わった。
「無駄だって言ったろ。おれの爪でも削れやしなかったんだ。いい加減諦めろ」
「はぁ。やっぱりここから逃げ出そうなんて、甘い考えだったのかしら。でも、ここで諦めては王子が――」
 遂に万策尽きて、全員が抵抗を止めようとした頃だった。冷えた空気を伝って、通路の方から石を踏み鳴らす音が響いてきた。最初は小さかった音が徐々に音量を上げていき、反響で拡散していたのが明瞭になった時には、その主である長い影が目前の通路の壁面にまで伸びていた。三人は固唾を呑んで接近する相手を待ち構える。
 威風堂々とした足取りで姿を現したのは、全身が真っ白な体毛で厚く覆われており、両手にはそれぞれ三本の鋭い爪を持つツンベアーという種族だった。太い二本の足で大股気味に歩みを進める様は、とても威圧感がありながらも、その顔つきは至って穏やかなものだった。
「また君だったのか。それに、そっちの二人は」
 呆れ果てたような口ぶりでアカツキの方を見る辺り、先に一悶着あった時に現れたツンベアー――ルッツと同一の存在である事は確かだった。その視線がアルムやシオンと合った際には、互いにばつが悪そうだった。
「ルッツさん――でしたよね。国王直属の戦士で、確かこの国の三闘士の一人と言われていた」
「そういうあなたは、ステノポロスの王女様ではありませんか。まさか捕らえた者達の中にあなたがいるなんて、思いも寄りませんでした」
 ルッツは膝を着いて深々と頭を下げ、敬意を払う素振りを見せた。獄内という特殊な状況で無ければ、立場を心得た適切な対応だった。しかし、やはり柵を隔てていては、相手の素性を分かっているルッツとしては居た堪れないものがあった。
「数々のご無礼をお詫び申し上げます。誠に申し訳ありません」
「そんな、謝らなくても良いんですよ。あなたが悪い事をしたんじゃないんですから」
 いくらシオンが制止しようとも、友好国の高貴なポケモンを幽閉している罪悪感が拭えないルッツは、執拗に謝罪を繰り返していた。それを前にして心苦しくなったアルム達は、ルッツ自身の意志で終えるまで口を噤んでいた。
「こんな事になってしまった責任の一端は、私にあります。私が気づかなかったばかりに」
 長く下げていた頭を持ち上げるや否や、ルッツは神妙な面持ちのままに立ち上がった。その動きに合わせてアルム達も視線を移動させると、小さく口を開けて冷気を放出しているのが見えた。白く冷たい息が何を示すのか知る由も無く、目を合わせなくなったルッツをただ呆然と見つめていた。
「重ね重ねすいません。ですが、王子が実権を握っている現状では、私にはこうするしか無いのです。危ない事をされては困りますからね」
 それは唐突だった。沈痛な表情が一瞬にして消え失せたと同時に、ルッツの口内に溜められていた冷たい空気が一気に解き放たれた。白い結晶を伴って乱れ飛び、その規模は周辺を銀色の輝かしい世界へと塗り替えてしまう程だった。しかし、それは余波に過ぎず、獄中には三つの真っ白な氷像が完成していたのだった。




コメット ( 2012/11/12(月) 23:28 )