第二話 マギサ
ひとつ小さなため息を吐いて、ヒューゴは濡れた髪を乱暴にかきあげた。
街は、黒く病んだ空の啜り泣きに満たされていた。普段であれば行き交う人々の活気で溢れるこの石畳の道も、雨が降ればたちまち静まり返る。雫の一つ一つが弾けて消えゆく音さえ聞こえてしまいそうな程だ。その静寂の中で、彼の重々しい靴音だけがひたすら不協和音を響かせ続けている。
魔女の帽子を連ねたかのような家々の明かりが、彼の紅い瞳に淡く滲んだ。夕暮れ時だからか、雨粒の合間を縫って、どこからともなく香辛料の匂いが漂ってくる。
「腹減ったな、クソ」
ヒューゴは思わず独りごちた。
ランプを模した街灯が、そんな彼をあざ笑うかのように奇怪な音を立てては点いたり消えたりしている。
この街――シックザールは贋物だ。およそ数千年前、西の海の遥か彼方で栄華を極めたとされる国々の風景を切り取ってきて、そのまま表面的に貼り付けただけのものだ。だから、ガス灯のように見えるものの光も、実際には蛍光灯のそれである。
とはいえ、この街は一見美しいその景観により、ベッドタウンとして非常に高く評価されているのも事実である。加えて、地理的な要因や、つい先程ヒューゴが後にしたイージス・シックザール支部の職員達の懸命な治安維持も、それをより確かなものにしているといっていい。
彼は任務に赴く前に腹ごしらえをしようと、一旦住処に帰る道中であった。
「こんななら、ルツィアの奴に傘借りときゃ良かったな……」
その声は誰に届くこともなく、雨音に溶け込んでいった。
濡れたジャケットがずっしりと肩に重くのしかかる。髪を伝って落ちてゆく雫が、毛先で跳ねる。
ヒューゴの紅い瞳の色が、雨雲のように暗く沈んでいった。彼は、雨の日は決まって同じ顔をするのである。
路地裏に足を踏み入れると、景色はたちまち一変する。
息が詰まるほど窮屈な道の奥で、暗闇が大口を開けている。不意に指先で触れようものなら、そのまま腕ごと引きずり込まれてしまいそうなほど、深い闇だ。
剥がれた石畳を蹴飛ばしながら、ヒューゴは慣れた足取りで闇の中へと歩んでゆく。細まった紅い瞳の隅に、ひしゃげた自転車が、ひからびた動物の死骸のように映った。
「おい! 止まれ」
背後からの怒号が、ヒューゴの足を止めた。
彼は一つ大きなため息をこぼし、静かに振り返る。その瞳に、一人の男が映った。
「金だ。おとなしく出しゃ、何もしねえよ」
そう言いながら、男はごつい手の平を突き付けた。その腕は逞しく鍛え上げられており、黒いカッターシャツの肩も窮屈そうに張り詰めている。食い縛った口元からは鋭い犬歯が覗いており、逆立った黄金の髪も相まって、その風貌はまるで猛獣のようであった。
ところがヒューゴはその男を一瞥するなり、ただ不敵に笑うのみであった。
「物乞いの割に、随分態度がでけえんだな」
「なんだとお!?」
「ほら、これで美味いもんでも食えよ」
ヒューゴは小さく鼻を鳴らしながら、左手をポケットに突っ込みまさぐり始めた。そして、そこから取り出したであろう小さな何かを、不意に暗がりの中に放り捨てる。それは鈍く光りながら放物線を描き、男の足元で鈴のような甲高い音を立てて跳ね回った。小銭だ。錆色をしたそれは、この国で扱われる硬貨の中でも最も価値が低いものであった。
「て、てめえ!」
男は雄叫びを上げながら、それを思い切り踏み付けた。
「ああ? お前、せっかく人が……」
「黙れ! こんなんじゃジュースも買えねえだろうが!」
爪が食い込むほどに硬く握り締められた男の拳が、わなわなと震え上がる。
「くっそ、コケにしやがって……。ただじゃすまさねえぞ!」
言うが早いか、男は拳を振り上げヒューゴに飛び掛った。
その刹那だった。
男は見た。闇の中で、彼の瞳が血塗られた刃物のように鋭く光ったのを。
次の瞬間、男はとてつもない力によって吹き飛ばされ、地面に叩き付けられた。そのあまりの衝撃に、脆くなった石畳が悲鳴を上げてひび割れる。男は力無く呻いた。
「ぐ……てめえ……」
息も絶え絶えに、男は顔を上げた。その瞳が震える。顎がガタガタと不愉快な音を立てる。時折苦しそうに咳き込むその姿に、狩る者の威厳は既に無い。
ヒューゴは彼を冷たく見下しながら、口角を吊り上げた。
ひしゃげ、力無く横たわっていた自転車が、奇怪な呻き声を上げて路地裏を這う。剥がれた石畳の破片が宙を舞う。風だ。暗がりの奥底から闇が流れ出しているかのような冷たい風が、辺りを支配していた。そしてそれはヒューゴを中心に渦を巻き、その濡れた髪をなびかせる。
「マギサか……!」
男は枯れた声で叫んだ。
ヒューゴはその問いに、冷笑でもって答えた。