第一章 名無しの少女
第一話 任務
 この部屋の空気は、外に比べて冷たすぎる。その上、やたらと乾いている。
 張り詰めた沈黙の糸の上を、キーボードを叩く音だけが、けたたましく走り回る。静かなのか騒がしいのか、よく分からない。ただ一つ確かなのは、デスクに向かう者達が酷く忙しくしているということぐらいである。揃ってスーツで身を包み、指先だけで踊る彼らはまるで眼前の機械と一体化しているかのようにも見えた。
 そんな光景を一瞥しながら、男は悪びれず言った。

「待たせたな」

 その声に、ふとキーボードの音の連続が途絶える。すると、部屋は途端に静まり返る。窓から差し込む日の光の音さえ聞こえそうなほどの静寂だ。
 この部屋の住人達から見れば、彼は異民族だ。
 日の光のように明るい髪を軽くハネさせ、切れ長の紅い瞳に不遜な笑みをたたえている。着崩した黒いジャケットとカッターシャツ。その襟から覗く、決してたくましいとは言い難い胸元。その風貌の全てが、この部屋の空気に馴染んでいるとは言い難い。

「31分と25秒。遅刻だ、ヒューゴ」

 ふと、部屋の奥から抑揚のない女の声が響く。それが合図であったかのように、キーボードを叩く音が再び部屋を支配し始めた。
 ヒューゴと呼ばれた男は、頭を軽く掻いて笑う。

「いや悪いな、ルツィア」
「なに、いつものことだ。今更構わないさ」

 女――ルツィアはやれやれとかぶりを振った。ウェーブがかった灰色の髪が乾いた空気を撫でる。

「まあ、座るといい」

 そういって彼女は部屋の一角、応接間と思しきスペースにあるソファを顎で指す。

「ああ」

 言うが早いか、ヒューゴはデスクの合間を縫うように歩き始めた。乾いた靴音が、キーボードを叩く音と折り重なって不規則に反響する。途中、誰かの椅子に腰をぶつけたが、軽く頭を下げるだけで構う様子も無い。
 そうして、ヒューゴは半ば飛び込むようにソファに腰掛けた。馴れた動きで背もたれに両腕を預け、長い脚を組んで仰け反る。
 その姿を一瞥したルツィアの唇から、小さなため息が漏れた。

「相変わらずで安心したよ」

 言いながら、彼女もヒューゴの向かいに腰掛けた。ガラスのテーブルを挟んで、二人の目が合う。
 彼女は、一言で表せば無機質だ。金属にも似た光沢をたたえた灰色の髪も、辺りの景色をガラス玉のように映す瞳も、彫刻のように綻び一つ無い顔立ちも、この部屋の空気を体現していると言っていい。ただ一つ、スーツを身に纏ってもなお女性らしさを主張する体つきだけが、彼女が人間である事を示す証拠であった。ブラウスから覗く胸元は、その端整な顔立ちも相まって見る者の目に毒であるかもしれない。視線を引き付ける、ある種の重力を持っている。
 ヒューゴはわざとらしく虚空を見つめ、言った。

「で、今回は。また、いつものか」
「さあな、君次第だが」

 言いながら、ルツィアは数枚綴りの資料を差し出す。それを受け取るなり、ヒューゴの表情が歪んだ。明らかな拒絶反応だ。羅列されたゴシックは、彼にとって解読不能の暗号でしかない。

「読む気が無いならいい。いつも通り、私が説明する」
「ああ、そうしてくれると助かる」

 ヒューゴは悪びれず言い、資料をテーブルに放り投げた。

「で、君次第ってのは」
「そのままの意味さ」

 ルツィアが口元にかすかな笑みをたたえる。
 違和感。ルツィアが笑うのは、珍しい。普段から機械のようだなどと揶揄されているだけに、彼女の笑顔には妙な魅力がある。たとえそれがほんの僅かな表情の綻びだとしてもだ。

「今回の仕事だが。君に、探してもらいたい人がいるんだ」
「は? 人探し?」

 ヒューゴが素っ頓狂な声を上げる。

「俺に人探しをやれってか」

 かぶりを振って、彼は乾いた笑みを浮かべてみせた。その瞳に動揺と不満、そして僅かばかりの自嘲の色を滲ませながら。

「俺も舐められたもんだな。それとも、天下のイージスもついに人手不足か」
「まあ人手不足に違いは無いが……。特にうちの支部は」

 ルツィアはため息混じりに答える。
 部屋のデスクのいくつかの空席にぼんやりとした影が落ちた。気付けば、空は黒い雲に蝕まれ始めていた。

 イージスは建国より続く唯一の警察組織だ。元々は民間の小さな自警団に過ぎなかったものが、およそ1000年もの時を経て数万人規模の巨大な組織へと成長を遂げるに至った。その総戦力は、仮に政府軍と正面からぶつかり合ってたとしても互角に渡り合えるとさえ噂される程強大なものである。そして今日までの発展は、彼らがその力をひたすら人々を守るためだけに使ってきたが故にもたらされたものであろう。
 しかし、それほどの勢力をもってしても、未だこの国の全ての市民を守るために充分であるとは言い難いというのが現実だ。そして、その不足分を補うために、イージスでは特例として有志の市民に任務を委託する場合があるのであった。

「だから、君に頼っているんじゃないか」
「ああ、そう」

 ヒューゴは吐き捨てる。

「いつもの頼られ方とは随分毛色が違うようだが」

 冷たい空気の中を這うような声色。棘の刺すような感情の色を隠そうともしない。ルツィアの返答を待たず、彼はまくし立てる。

「俺の専門はゴミどもの掃除だったろ。人助けなんてぬるい仕事……!」
「まあまあ」

 顔色一つ変えず、ルツィアは言葉をさえぎる。
 少しの沈黙の後、小さな舌打ちがこだました。ヒューゴの切れ長の瞳が、よりいっそう、研ぎ澄まされた刃物のように鋭くなる。どこか軽薄であったはずの二人の間に流れる空気が、重々しく淀んでゆく。
 何度目かのため息を吐き、ルツィアは再び口を開いた。

「言ったろう? 君次第だよ」
「……じらすなよ。そいつを早く説明しろって言ってんだ」
「そうさせてもらうよ」

 言いながら、彼女はテーブルに無造作に放られた資料を再び丁寧にまとめる。

「"名無しの少女"を、知っているかい」
「……おい、二度も言わせんな。回りくどいのはヤメだ」

 ソファに体をだらしなく投げ出しながらも、ヒューゴの顔色は険しい。
 だが、そんな彼には目もくれず、彼女は綺麗に整えられた資料を静かにめくった。
 
「じらしてなどいないさ」

 彼女の表情に、再び微笑みが滲んだ。

「なにしろ、君に探して欲しい人物というのが、その名無しの少女なのだから」
「は?」

 ヒューゴはまたしても素っ頓狂な声を上げた。
 つい先程まで不満に満ちていた目を大きく見開き、怒りに歪んでいたはずの口元はいつの間にかだらしなく開いてしまっている。
 彼女はその顔があまりにも可笑しくて、遂に小さく笑い声を漏らしてしまった。

「く、ふふ……。なんだ、もっと怒るかと思っていたのに」
「いや……、もう、なんつーか」

 ヒューゴは呆れ顔で続けた。

「名無しの少女って、ただの都心伝説だろ。居やしないものを探せってか?」
「都市伝説には違いないが、居ないと決まったわけではないだろう」
「ああ?」
「目撃証言だってある。それに、イージスは2年前、彼女の捜索願をしっかり受理しているんだ」

 そう言って、ルツィアは手元の資料を指差した。その細い指の先に、一枚の写真がある。

「ほら。これが名無しの少女だよ」
「……へえ」

 ヒューゴは思わず声を漏らした。そして、資料を乱暴に手にとり、今にもその紅い眼で食ってしまいそうな程熱心に見つめる。
 そこには、一人の女性が写っていた。
 それが白黒の写真であると分かっていても、なお白く美しく見える肌。すらりと通った鼻筋。真っ直ぐ前を見据えた、気高ささえ感じられる瞳。そこに彼女が実在するわけでもないのに、まるで金縛りにでもあったかのように、ヒューゴは視線を動かせずにいた。

「可憐だろう。君が見とれてしまうのもわかるよ」
「馬鹿、違えよ」

 ヒューゴは資料を握り締めたまま、ふと窓の外に目をやった。
 彼の瞳の中を、無数の雫が流れていく。雨だ。乾いた部屋は、いつの間にか雨音で潤っていた。

「どこかで見た事があるな、ってな」
「ほう。まあ、さほど不思議な事でもないさ」

 ルツィアは静かに腕を組み、続ける。

「今でこそ下火だが、彼女はかつて国中が躍起になって探した人間だからな」
「へえ」 
「写真ぐらいなら、君が目にしていてもおかしくはない」
「……なるほどな」

 ヒューゴはそう呟くと、ぐしゃぐしゃになった資料をテーブルにそっと置いた。

「そんなに凄かったのか、こいつは」
「ああ。差出人不明、それどころか肝心の捜索対象の名前すら不明。手がかりはこの写真だけ。そんなふざけた内容の捜索願いが、巨額の懸賞金と一緒に送りつけられてきたんだ」

 ルツィアは両手を軽く広げ、薄っすらと笑う。

「イージスはもちろん、懸賞金目当てで国中の人々が探し回った。だが困った事に、未だに彼女を保護することはできていない」
「だったら、やっぱりハナから存在しないか、とっくに死んでるか、だろ」
「いいや、目撃証言がいくつもある。全てに信憑性があるとは到底言い難いがな。そして……」

 そこまで言うと、ルツィアは不意に言葉を止めた。

「え、なんだよ」

 急な肩透かしに、ヒューゴの口から勢い余って声が飛び出る。
 その様子を眺めながら、ルツィアは満足気に唇を吊り上げた。

「つい昨日、新たな目撃証言が入ったのさ。この街の南端で、名無しの少女を見た……と」

 ゆっくりと噛み締めるかのような、それでいて珍しく高揚を隠そうともしないルツィアの言葉に、ヒューゴは思わず押し黙った。
 雨音が強まっていく。どこまでも遠く、深く黒に閉ざされた空。今日はもう、太陽が再び顔を覗くことは無いかもしれない。

「どうせまたデマじゃねえのか」
「彼女の存在が風化した今だからこそ、信憑性があるのさ」
「そんなもんかね……」

 ヒューゴは苦虫を噛み潰したような顔で続ける。

「だが、そいつを何で俺が探さなくちゃならねえ。さっきも言ったが、俺は……」
「分かってるさ」

 鉛色をしたルツィアの瞳が、不意にヒューゴを見据えた。

「正確な目撃証言はこうだ。『名無しの少女に似た女性が、妙な集団に連れ去られるのを見た』」
「……ほお」
「どうだ、少しはやる気になっただろう」

 彼女が言葉を言い終わるよりも早く、ヒューゴは笑った。その鋭く尖った紅い瞳は、血に飢えた獣のそれに良く似ている。吊り上げられた口元から覗く八重歯に鈍い輝きをたたえながら、彼は静かに笑っていたのだ。

「そいつを早く言えってんだよ、クソが」
「悪かったな」
「ちッ……。つまりは、こうだな? 女を連れ去ったクズどもの駆除。コイツが本命。女はついで、まさに俺の気分次第ってところだ。本当にいるかどうかすら、分かったもんじゃねえからな」
「理解が早くて助かるよ」

 ルツィアは表情一つ変えずに続ける。

「人身売買に関与のある組織が、この街の南端の廃工場を根城にしているという情報がある。その妙な集団とやらは、恐らくそれだ」
「なるほどな」
「正確な位置や規模は資料に載せておいた。それくらいは読んでくれるな」
「ああ」

 食い気味に答えながら、ヒューゴはくしゃくしゃになった資料を鷲掴みにした。あまりの乱暴な扱いに、紙の端が悲鳴を上げて破ける。

「じゃあ、ゴミの掃除が終わったらいつも通り連絡すればいいな」
「ああ。それでいい。報酬はいつもの口座に」
「ああ」

 流れるようなやり取り。もはや作業的と言い換えても良い。二人が幾度も同じ言葉を交わしてきたことが窺い知れる。
 ふと一息吐いて、ヒューゴは跳ねるようにして立ち上がった。ソファがの脚が軋み、悲痛な叫び声を上げる。

「じゃあ、またな。毎度あり」

 それだけ言い捨てると、ヒューゴは足早に部屋を後にした。
 

いわお ( 2015/05/05(火) 00:15 )