1日目 その1
私、やめます!
それを社長に伝えるだけ。
最後の仕事は単純にして簡単だ。
平日でも、ヒウンシティは昼間、あらゆる場所がごった返している。
黒に近い群青色のポニーテールに、ふんわりしたピンク色のワンピース。
この服装はこの女性のお気に入りである。
自販機で飲み物を購入する。
「あっ」
その飲み物を見た瞬間、女性は愕然とした。
「間違えちゃった……」
カフェオレを買ってしまったようだ。
コーヒーはブラック以外飲めない。生クリームなんて、自分の未来永劫の敵だ。
「どうしようかな……」
この少女の名前は青柳 愛華(あおやぎ あいか)。
今をときめくトップアイドル。それも、ほぼ全世界共通の。
彼女は今、中央通りにある自分の芸能プロダクション……
バルジーナプロダクションに向かって歩を進めている。
「あ、そうだ」
そういえば、事務所に連絡をするのを忘れていた。
ポケットから携帯電話を出そうとして……
「……あれ?」
しまった。どうやら携帯電話を家に忘れてきてしまったらしい。
「……はぁ。しょうがないか……」
青柳がバルジーナプロダクションに向かっている理由……
それはアイドルをやめるためだった。
「小悪魔系アイドル」だったり「夜の女王」だったり、様々な二つ名を持っている青柳。
今やファンクラブの人数は50万人を超え、出すCDは全て飛ぶように売れ、
全世界で彼女の名を知らない人物はいない。と言っても過言ではないだろう。
同時にそれは、
彼女の思いからはかけ離れていった。
青柳は小悪魔系など、目指したくなかった。
事務所の方針ゆえ、やむを得ず今まで従ってきたが……
もう、我慢の限界だった。
だって自分は……
清純派アイドルになるために、この世界に飛び込んだのだから。
と、言う他から見ればくだらない。実にくだらない理由なのだろうが、
青柳はいたって真剣だった。
モンスターボールを見ると、中にはメスのニャオニクスがいる。
「ごめんね。ニャオ。私に勇気をちょうだい」
言いたいことはもう決めている。
あとは社長の目の前で、それを実行するのみだ。
意を決して、力強く歩を進める。
その時だ。
ドン!
「あっごめんなさい!」
大柄の男の人とぶつかってしまった。
「……」
謝るが、大柄の男の人は何も言わずに……
タッタッタッタッ
「?」
猛スピードで走り出した。
「え?何……?」
「すいません!通してください!」
矢継ぎ早に声が聞こえた瞬間……
「きゃあ!」
青柳のすぐ横を、ゼブライカが走り抜けていった。
よく見ると、ゼブライカの上に男が乗っている。
青柳は尻餅をついてしまったが、服が汚れたぐらいで特にかわったところはない。
「……?」
はずだった。
「大丈夫ですか!?」
黒いシニヨンの女の人が、青柳に駆け寄る。
「わ、私は大丈夫です。でも、ポケモンが……!」
「ポケモンが……どうしたんですか?」
「いないんです!私のにゃオニクスが!」
「本当ですか?ちょっと待ってください!」
青柳は考えた。
おそらく、先ほどの男にすられたのだろう。
せっかく捕まえて、社長にメスのニャオニクスをこれ見よがしに見せて……
「私は小悪魔系の黒じゃなく、清純派の白が好きなんです!」
と、言おうとしたのに……
「あの、そろそろいいでしょうか……?急いでるんで……」
まぁしょうがない。
社長は自分の言葉のみで屈服させるしかないだろう。
「え?あぁ。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
男の人の声……おそらく先ほどゼブライカに乗っていた男の人の声が聞こえるのを確認して、
「では、失礼します」
「はい、ご協力、感謝します」
青柳は再び中央通りへ向かった。
中央通りにやってきた。
事務所が入るビルを目の前に、少しだけ尻込みする。
いや、ここで負けちゃダメだ。
「小悪魔系アイドル青柳 愛華」というカラを、自分の手で打ち破るんだ。
私はゆっくりと、事務所に入ろうとして……
「お?どこかに逃げるみてぇだぜ?」
「逃がすかよ。やれ。ズルズキン」
「えっ?」
ゴス!
「ぐっ……!」
ドサ……
ズルズキンのずつきを、頭に受け、昏倒してしまった……
「ん……んっ……!」
どれぐらい眠っていたのだろう?
気が付くと青柳は、暗くて湿っぽい……ヒウン下水道の中にいた。
「よう?マーシレスキングラーのヘッド様」
「んっ?ん!」
体を縄で縛られ、身動きが取れない!
しかも口にはテープを貼られ、言葉も発せなくなっている……
「お?どうした?こえぇか?」
「怖いのも無理はねぇよなぁ?いきなりこんな場所に連れてこられてよ」
金髪と青髪の男が、青柳を見下ろす。
その隣には、蠍のようなポケモンとズルズキンがいた。
「てめぇのやり方は正直甘すぎんだよ。虫歯ができるぜ。
せっかく力を持ってんだ。使わなきゃ損だろ?」
「てめぇのようなアマちゃんがいりゃ、マーシレスキングラーは腐っていくばっかりだ。
{あのお方}のためにもここで消えてくれっかな?」
「ん……んんっ!」
ズルズキンが近づく。……もっとも青柳にはポケモンの知識はほとんどない。名前を知っているぐらいだ。
「んんっ……んんん!」
涙を流す青柳。
「ギャハハハハ!おい!ヘッド様の{クロキ}が涙を流してんぜ!」
クロキ?
「やっべ!こりゃ写真撮らねぇとな!ギャハハハハ〜!」
その時だ。
「おい、何してる?」
「ハハハハ……ハ?」
ラフな姿の茶髪の男は、モンスターボールからとんぼのようなポケモンを出すと……
「エアスラッシュ!」
バシュ!バシュ!
ドラピオンとズルズキンを攻撃。
「てめぇ!桐生!またオレたちの邪魔する気か!」
「邪魔?何言ってやがんだ。黙ってオレたちのヘッドやらせっかよ!」
……ヘッド?
「さざめけ!」
「負けんなドラピオン!どくづき!」
3匹のポケモンが暴れまわる。
「……」
2分ほどの立ち回りの後、
「エアスラッシュ!」
真空波がズルズキンを切り裂き、
ドサ!
すでに倒れているドラピオンの上に、ズルズキンは落ちた。
「なっ……くぅっそ!」
「覚えてやがれ!」
ベタな捨て台詞を吐き、男二人は逃げていった。
「……」
助かった……?
「ヘッド!大丈夫ですか!?」
慌てた様子で話しかけると、青柳からテープをはがし、縄を解いた。
「……あ、ありがとうございます。怪我は……ないです」
「よかった。ヘッドに何かあったらどうしようかと……」
その瞬間……
「……ヘッド?」
「うわあああああん!怖かった!怖かったですよおおおおお!」
青柳は思わず涙を流しながら、その男に抱きついてしまった。
「ちょっヘッド……!」
男は慌てて青柳を引き離す。
「何してんすかヘッド!」
「え?……あ、ごめんなさい!ごめんなさい!」
青柳は慌てて頭を垂れる。
「ふぁ!?」
男は裏返った声で、驚いた様子だった。
「へへへ、ヘッドが……頭を垂れたァ!?」
「え?……そもそもヘッドって何ですか?」
「何言ってんすかヘッド?……とりあえずここは危険です。オレたちのアジトへ逃げましょう」
「えっちょっと!」
青柳は男に腕を引かれながら、ヒウン下水道をひた走った。
やがてヒウン下水道を抜け、とある空き地にやってきた。
「ヘッド!お疲れ様です!」
「ヘッド!大丈夫でしたか!?」
「クロキの姉御!おはようございます!」
あちらこちらから声が聞こえる。
一番奥には、黒い眼鏡をかけたキングラーの落書きがスプレーで書いてあった。
「ど、どうも……ど、どうも……」
異常な程の威圧感に、へこへこと頭を下げる。
「何やってるんすかヘッド。いつものようにもっと堂々としてくださいよ」
「いや、だから私はヘッドじゃなくて……」
「どうしたんですか?さっきの事から、まだ混乱してるんですか?」
混沌とした空間。
睨まれているような威圧感。
「……」
もしここで、
「私は青柳 愛華です!アイドルをやってます!今日引退しますけど!」
なんて言ったら、どうなってしまうだろうか?
きっと私は……
「お疲れのようですね?」
そこで察してくれたのか、紫色の髪の男が話しかけてきた。
「こちらをどうぞ。先ほど購入してきました」
その男が渡してきたのは……
「!?」
ユージーコーナーの、プチシュークリーム。
「えっあ、あの……」
青柳は甘いものが大嫌いだ。
「あれ?クロキヘッドって甘いもの大好きでしたよね?だから買ってきたんですけど……」
「……」
その瞬間、初めて冷静になって、青柳は事態を知るに至った。
ここにいる人物全員、自分が「クロキ」という人物だと勘違いしている……?