ふれあい
雨のおとずれで
「ねえ?お前は幸せだった?」

 そう問いかけても、写真の中のお前は答えてくれない。
 もし傍にいてくれたとしても、人間の言葉を持たないお前は、やっぱり答えてはくれないよね。
 雨がふる。
 ふる。
 ふる。
 降りしきる雨は、涙。
 何を想って空は涙するのか。
 私は雨が苦手だ。
 雨がふると思い出す。
 お前が遠くへと旅立ってしまった日を。
 その日も、朝から雨がふっていた。
 そっと写真の額縁をなぞる。
 額縁の中で笑うのは、一人の少女と一匹のエネコ。

「ねえ?ハレは幸せだった?」

 答えのない問いかけをする。
 名を呼べば。

「……………」

 答えが返ってくるわけもないのに。
 沈黙の中に、音が降り積もる。
 壁掛け時計の針が時を刻む音。
 別部屋にいる母が観るテレビの音。
 そして。
 窓の外から、雨の音。
 うるさい。
 うるさい。うるさい。
 うるさい。うるさい。うるさい。
 耳を両手でふさいで。
 聞きたくない。
 聞きたくないの。
 そのまま勢いよく部屋のドアを開け放つ。
 廊下を走り抜け、玄関へ。
 玄関のドアを手にかけたとき、母の声で我にかえる。

「あら?どこか出かけるの?」

 振り返れば、リビングから顔を出した母がいた。

「うん、散歩に行こうと思って」

 慌てて顔を取り繕う。

「雨が降っているのに?」

「うん。今、行きたいの」

 そう言って、傘立てにある自分の傘を手にした。
 じゃあ。
 そう告げて家を出た。
 家を出る間際、母に名を呼ばれた気がするが、聞こえなかったことにした。



◇ ◆ ◇



 傘をさして住宅街を歩く。
 雨の中、好き好んで外を歩く人もいない。
 懐から一つのモンスターボールを取り出した。
 もう、主のいない空のボール。
 これをあの日から、ずっと肌身離さず持っていることに、きっと母は気付いているのだろう。

―――もう、半年経つもの。いいのよ、別のポケモンを迎えても。

 この頃母は、そう口にするようになった。
 半年。
 そう、半年前だ。
 あの子が、ハレが旅立ったのも。
 その日も朝から雨がふっていた。
 部屋の隅がお気に入りだったハレは、そこを自分の寝床の場所としていて。
 目が覚めて、いつもと同じようにハレの元へ。
 私の一日の始まりは、ハレを起こすことで始まる。
 けれども。
 もう、そのときにはすっかり冷たくて。
 そこから先のことは、あまり覚えてはいない。
 ただ、覚えているのは。
 何が悲しいのか。
 空が大粒の涙をこぼしていた。
 ただ、それだけだ。
 そして今日もまた、空は涙する。
 何が悲しいの。
 私は何を想って、こんなに。

 ぴちゃん。

 水が跳ねた。
 水溜まりに片足を突っ込んでしまった。
 靴はずぶ濡れ。
 お気に入りの靴だったのに。
 ま、こんな日に履いてしまった私が悪い。
 そして。
 立ち止まったところで、見つけてしまった。

「…………」

 雨の音が降り積もる。

 ぴちゃ。

 視線の先にあったのはダンボール。
 みかん、と書かれたダンボール。

 ぴちゃ。ぴちゃ。

 我ながらベタなものを見つけたと思った。
 覗かなくても何となく予測できる。

 ぴちゃ。ぴちゃ。ぴちゃ。

 だから、このまま気付かなかったことにして。
 立ち去ればいい。

 ぴちゃっ。

 それなのに。
 意思に反して足は動く。

 ぴちゃっぴちゃっ。

 それは次第に駆け足となって。

 ぴちゃぴちゃっぴちゃっ。

 豪快に水は跳ねる。
 お気に入りの靴は、ずぶ濡れどころか泥だらけ。
 駆け寄って、ダンボールを覗きこんで。



 後悔した。



「まだ、子猫じゃない」

 呟いた先にいたのは、身を丸くして震える黒い毛並みの子猫。
 ニャビーだった。
 声に気付いて顔を上げる。
 その瞳に私が映った。
 私を見上げないで。
 だめよ。だめ、だめだめ。
 そんな声で鳴かないで。
 鳴かないでよ。
 ぐっと傘の柄を握った。

「これをやるわ。少しは雨を凌げるでしょ?」

 そう言って、傘を屋根代わりにそっと置いてやる。
 それでもニャビーは鳴き止まない。
 まるで、親を求めるような声。
 そうか。

「お前、捨てられたのね」

 そもそもニャビーは、本土にはいないはず。
 ここよりもずっと遠い、島々からなる地方、アローラ地方に生息が確認されているポケモンだ。
 そんなポケモンが本土にいる理由。
 それは。
 人の手によって連れ込まれた。
 それはきっと、歓迎されるような方法ではなかったはず。
 でなければ、この子は今、ここにはいなかっただろうから。
 あれ。
 そこで気付いた。

「お前、この傷痕はどうしたの?」

 そっと手を伸ばして、ニャビーの頬に触れる。
 頬に刻まれた一筋の痕をなぞった。
 すると、ニャビーはくすぐったそうに目を細めた。
 そうか。お前は“傷物”とか“残り物“。
 こんなに可愛いのに。
 こんなに。
 そこではっとする。
 だめだ。これ以上は。
 手を離すと、ニャビーが首を傾げた。
 その姿を見ないようにして立ち上がる。

「きっと、いい人がお前を拾ってくれるよ」

 そうやって口早に告げて駆け出す。
 水が、泥が、跳ねる。跳ねる。
 汚れるのも、もう、構わなかった。
 傘を手放した。
 だからもう、全身ずぶ濡れだ。
 雨に打たれて、頭を冷やしてしまいたい。
 何を想ってしまった?
 それはだめだ。
 私は向き合えない。
 向き合えなかった。

 ぴちゃっ。       ぱしゃ。

 別の音が混ざる。
 そのことに気付いても、私は気付かない。

 ぴちゃちゃ。       ぱしゃしゃ。

 それは歩幅を変えれば、それに合わせて変化する。



 歩みを止めれば、それも止まった。

 ざー。ざー。

 雨音だけが降り積もる。
 何が着いてきているのか。
 気付いても、私は気付かない。
 振り向いてしまったら、もう、戻れない気がした。
 だから、私は気付かない。
 気付いてはいけないのだ。
 けれども。
 変わらず雨音は降り積もって。

「…………………っ!!」

 それに耐えられずに振り向く。
 そこにいたのは。
 目が合うと、顔をぱあっと輝かせたそれは。
 それ以上来ないで欲しかった。
 それ以上。
 私に踏み込んで来ないで。
 そんな想いも届かず、それは胸に飛び込んでくる。
 すっかり濡れたそれは。
 すがり付くように、その身を押し付けた。

「ニャビー。お前、すっかり身体が冷えてるじゃない」

 濡れたそれを、上着の懐で包むようにして抱く。
 塞き止めていた何かに、ひびが入った気がした。
 あたたかい。
 生きている。
 聴こえる、生命の鼓動。
 そして、聴こえる奥底からの声。
 けれども、それはすぐに蓋をした。
 何も聴こえなかった。
 私は何も聴いていない。
 だって私は、向き合えなかったのだから。

 刹那。

「……っ!?」

 慌てて目で追いかけた。
 視界の端にちらりと見えた、桃色。
 あれは。
 追いかけた先の角を曲がった。
 気付いたら、駆け出していた。
 ニャビーを懐に抱え、走る。
 驚いたニャビーが顔を出すが、それに構わず走る。
 角を曲がったら、また次の角を曲がる桃色の尾が見えた。

「………っ!待ってっ!」

 あの桃色の尾は。
 間違いない。
 見間違えるはずなんてない。

「ハレっ!」

 曲がる。
 曲がる。
 曲がる。
 何度目かの角を曲がる。
 けれどもそこで。

「…………?」

 肩を上下させながら、足が止まる。

「行き止まり?」

 住宅の塀があるだけで、その先に道はなかった。
 けれども、確かに桃色の尾が、この先に曲がったはずなのだ。

 ざー。

 今日はやけに雨音が聴こえる。
 何が悲しいのか。
 空は涙する。
 それとも、お前が泣いているの?
 私が最期まで向き合えなかったから。
 泣いているの?ハレ。
 そのとき、ずっと懐に抱えられていたニャビーが飛び出した。
 どうしたの?
 そう問いかけても、ニャビーは一点を見つめるだけ。
 その先は、塀に閉ざされて道はない。
 けれども、ニャビーは迷うことなくその小さな足を踏み出した。
 と思うと、すぐに駆け出して消えた。

「………え?」

 消えたのだ。
 塀の向こうへ、飛び込んだように見えた。
 そんな、まさか。

「…………」

 一歩踏み出す。
 呼ばれた気がした。
 懐かしい声で、呼ばれた気がした。


  ◇  ◆  ◇



 白い光に包まれて、あまりの眩しさに腕をかざして目を庇った。
 一陣の風が吹いて、目を開けたら。

「……………うそ」

 そこに拡がる光景に目を奪われた。
 そこに在ったのは、どこまでも続く草原。
 なぜ?
 先程まで住宅街にいたはず。
 辺りを見渡しても、家などどこにもない。
 見えるのは、地平線まで続く果てしない草原。
 空を仰げば、どこまでも澄み渡る青い空。
 先程までの涙はない。
 穏やかに微笑む空がそこに在った。
 呆然と立ち尽くしていたとき、かさりと足元で音がした。
 視線を落とせば、足にすり寄るニャビーの姿。

「お前、ここにいたの」

 そっと抱き上げれば、みゃっ、という元気な返事。
 自然と頬が緩んだのを自覚する。
 けれども。
 すぐに影が差す。
 空は微笑むも、私には変わらず聴こえる雨音。
 まだ、空は涙する。
 頬に感じるあたたかな感触。
 ニャビーが自身のそれと重ねた感触だ。
 そこに在るからあたたかい。
 そこに無いから冷たい。
 腕に力を込めたら、腕の中で潰れた声がした。
 はっとして腕を緩めたら、小さな怒りで瞳を煌めかせたニャビーがいた。
 いつの間にかニャビーを抱き締めていたらしい。
 ごめん、と謝ると、不機嫌そうに鼻をならされた。

「ホント、ごめんってば…」

 再度呟き、今度はやさしく抱き締めた。
 あたたかかった。
 確かに伝わってくる、ニャビーの鼓動。
 これが、生あるものが刻む音。
 雨がふった。
 否、空からではない。
 ここにある空は微笑んでいる。
 それは優しい程に。
 痛い程に微笑む。
 雨がふったのは。
 見上げてきたニャビーが、そっと私の目尻を舐めた。
 そこで初めて気付いた。
 自分の目から溢れるものに。

「………はっ、何で今さら」

 そう、何で今さら。
 思わずその場に座り込んでしまう。
 向き合えなかったのに。
 朝起きたら、あの子の身体は冷たくなっていて。
 そう、それから。
 本当に最期の別れのとき、私は怖くて、あの子に触れられなかった。
 ありがとう。楽しかったよ。
 それも言えなかった。
 あの子の身体を優しく抱き上げ、然るべき場所へと運んだのは。
 母だった。
 本当は私の役目。最期の役目。
 けれども、ただ怖くて。
 脱け殻となった身体。
 それだけで怖かった。
 ありがとうも言えず、触れてやることも、見送ることも出来ず。
 あの子の“死”と向き合えなかった。
 耳と目をふさいで、閉じこもって。
 それは、生きていたあの子への冒涜ではないだろうか。
 きちんと向き合えなかった私に、命と共に在る資格は。



 ない。



 だから、腕の中のこの子を拒んだのに。
 それでもこの子は、私を追って。

《その子が決めちゃったから。君と在りたいって》

 突然聴こえた声。
 聞き覚えのない声。
 否、聴いたことのない声。
 なのに、どこか懐かしさの感じる声。
 顔を上げた。
 顔を上げなくとも、そこに誰がいるのか分かった。
 自然とその名が口からもれでた。
 まるで滑るように。

「ハレ」

 名を呼ばれて、ハレは笑った。
 それは嬉しそうに。
 けれども、ハレはその場から動かなかった。
 私も駆け寄りたい衝動があったが、それを何とか抑え込む。
 その場から動いたら、きっとハレは消えてしまうと思った。
 ここに、見えない壁がある。
 それは直感だった。

《ありがとう、分かってくれて。ちょっと無理を言って、ここに君達を呼んでもらったから》

 想いは重なる。
 そういえばハレは、よく気持ちを察する子だったなと思い出す。
 私が笑ってても、心のどこかで落ち込んでいるとき、必ず傍に居てくれた。
 黙って心に寄り添ってくれた。

《本当はね、次への順番を待たなきゃいけないの。でも、君に会いたくて》

 うん。
 私も会いたかった。

《最後のわがままだよ》

 そう言って、ハレは切なそうに笑った。
 きっと、気軽に出来ることではなかったはず。
 曲げてはいけないものがあったはず。
 それを曲げてまで来てしまったのは、きっと私のせいだ。

「ご…っ」

 咄嗟に謝りの言葉を紡ごうとして、紡げなかった。
 ぽむっと、柔らかな何かが口をふさいだのだ。
 飛び出しかけた言葉を飲み込んだあと、非難めいた視線を向ける。
 だが、臆することはないニャビーは、静かにその前足を降ろした。
 その瞳が揺れる。
 これは言うべき言葉ではない。
 そう語っている気がして、何も言えなかった。
 すると、くすりという声が聞こえて。

《私が来なくても、君はもう、前を向いてるじゃないか》

 顔を向ければ、そこに笑むハレがいた。

「心配で会いに来てくれたの?」

 その問いかけにハレは頷きかけて、でも、すぐにふるふると首を横に振った。

《君が心配で。それは嘘じゃないけど、本当は…》

 そこで一旦言葉をきり。

《本当は終わりを告げるために来た》

 真っ直ぐ私を見つめて、ハレは続ける。

《今のままじゃ、次に進めない。私は次に進む覚悟が欲しかった》

 私は静かに聞く。
 これはきっと、私が招いた小さな綻びだ。

《私の時間は、あの時から止まったまま。だから、ちゃんと君と終わりにしたかった》

 そしてそれは。
 そう続けて、ハレは淡く笑った。

《君も同じだと思ってたけど、君の時間は、少しずつだけど流れていたみたいだね》

 ハレの視線が、私に抱かれたニャビーへ向く。
 つられて私も視線を落とす。
 当のニャビーは何がうれしいのか、みゃっ、と元気よく鳴いた。

《よかった。君が前を向けていて》

 その言葉に、ごめんね、と返しそうになって、再び言葉を飲み込んだ。
 違う。
 今、言いたい言葉は。
 伝えたい言葉は。
 伝えるべき言葉は。

「ありがとう、ハレ」

 その言葉で、ハレが息を呑んだのが伝わった。
 落としていた視線を再び持ち上げれば、目を見開いた気配のハレがいた。

「私、ハレと出会えてよかった。とっても楽しかったよ」

 笑顔を向けたら、ハレも笑ってくれた。
 あの時言えなかった言葉を、やっと伝えられた。

《私も楽しかった。君と出会えてよかった》

 ハレの目尻に、光るものがあった気がした。
 けれども、それを確認する前に、ハレの身体は燐光に包まれ始める。

《やっと、次に進める》

 えへへ、と笑うハレの姿。
 飽きるほど見てきたいつもの姿。
 懐かしいその姿。
 手を伸ばしかけて、やめた。
 だめだ。
 ここで触れてしまっては、きっとハレは次に進めない。
 ここで小さな綻びを広げてはいけない。
 曲げてはいけないものが、確かにあるのだ。
 触れられないのがもどかしくて。
 なぜ、最期のあの時。
 あの子に触れてあげられなかったのだろうと。
 今さら悔いている自分がいる。
 これが後悔。
 遅すぎる。遅すぎた。
 もう、あの子に触れらない。
 触れてあげられない。
 目頭が熱くなる。
 よく見ていたいはずなのに。
 あの子の姿を目に焼き付けておきたいのに。
 歪んでよく見えないよ。

《そうだ》

 歪む視界の中、ハレの声がした。

《私、ちゃんと幸せだったよ?》

 それを最後に、視界は真っ白に染まった。



  ◇  ◆  ◇



 みゃっ。

 ニャビーの声ではっとした。
 腕に抱いたままのニャビーを見やれば、大丈夫かと問いたげな瞳があった。
 なぜか、あの屏の前で立っていた。
 いつの間に戻っていたのか。
 それともあれは。

「まさか、夢…?」

 そんな不安がわいて、そっと屏に触れてみた。
 やはり、ただの屏だった。
 あれは夢だったのだろうか。
 けれども、頬のひきつる感じ。
 これは乾いたあと。
 涙の跡だ。
 これが、夢ではないよと教えてくれている。

 みゃっ!

 腕からニャビーが飛び出した。

「ちょっ」

 ぱしゃっと、ニャビーが飛び込んだ水溜まりが跳ねた。
 楽しそうに水は跳ねる。
 ニャビーも楽しそうに跳ねる。
 空を仰げば、空は笑っていた。
 それは嬉しそうに。
 いつの間にか雨は上がっていたようで。

「あっ………!」

 見つけたものに、思わず感嘆の声がもれた。
 不思議そうに見上げてくるニャビーを抱き上げ、一緒にそれを仰いだ。
 私が示した先にあるものを見つけると、ニャビーの目が輝く。

「虹、綺麗だね」

 それに元気よく鳴くニャビー。
 が、そこで気づく。

「お前…!」

 服が泥だらけだった。
 それもそうだ。
 先程まで水溜まりではしゃいでいたニャビーなのだ。
 当たり前のように、ニャビーも泥だらけだった。
 重い嘆息を一つついて。

「家に帰ろうか、アメ」

 聞き慣れない言葉に、ニャビーは首を傾げる。

「お前の名前だよ、アメ。雨に出会ったから、アメ」

 ハレと出会った日は、とても澄んだ青い空だった。
 だから、ハレだった。

 みゃ!みゃ!

 嬉しそうに鳴いたかと思うと、自身の頬と私のそれを擦り付けた。
 ちょっと、泥!
 と言う気は失せ、代わりに呟いた言葉は。

「大好きだよ」

 それだった。
 けれども、呟いてから恥ずかしくなる。
 だって、こんな言葉。
 好きな相手にも伝えたことはない。
 アメの頬ずりが一層激しくなる。
 分かった。認めよう。
 実は一目惚れだった。
 一目みて、惹かれた。
 その愛らしさに。
 それでも、その気持ちに蓋をしたのは。
 自分の中で区切りがついていなかったから。
 あの時伝えられたかった言葉を、ハレに伝えられた。
 心が軽くなった気がした。
 それでもやはり。
 なぜ、あの時触れてあげられなかったのだろうか。
 その想いはきっと、この先もずっと抱えていくことになる。
 だから、今度はきちんと向き合いたい。
 アメと別れるその時まで。
 そうじゃないと、きっとアメも次に進めなくなってしまう。
 そして自分も。

「さ、帰るよ。アメ」

 そうだ。
 帰り道の途中で、置いてきた傘も拾っていかなければ。
 アメを連れ帰ったら、母はどんな顔をするだろうか。
 きっと驚くだろう。
 それでも、優しく迎えてくれると分かっている。
 泥だらけのアメを腕に抱いて、私は歩き出した。
 もう、雨音は聴こえない。
      

■筆者メッセージ
2018年1月頃
ばす ( 2019/04/14(日) 08:00 )