赤い果実
紡いで作る糸
 あと、どのくらいの―――。



 これは、とある老いたリーフィアのお話。


*


 空を見上げるも、厚い雲に隠されてしまった月は見えない。
 耳を傾ければ、小さな虫の合唱が聞こえ、風が吹けば、合唱に合わせ木々が踊り出す。
 今はこの森が俺の居場所だ。
 いや、あれがこの森にいるから、ここが俺の居場所なのだ。
 背を向けた木の洞から、すやすやと幼い寝息が聞こえる。
 その寝息の主を起こさないようそっと立ち上がった俺は、静かにその場を離れた。


 虫達は俺の気配を察知して姿を消したのか、その場に聞こえるのは己が踏みしめる草の音だけ。
 辺りを見渡しても、見えるのは木ばかりで。
 とうに森のポケモン達は眠る頃。
 こんな時間帯に出歩くのは、俺みたいな物好きか、彼のように夜を得意とするポケモンくらいなものだろう。
 見上げた先にいるのは、木の枝にとまり、こちらを見下ろしている梟。
 人間からは、ヨルノズクと呼ばれる。

「こんばんは、おじいさん。こんな時間にお散歩かい?」

「まあな」

 そのまま通り過ぎようと歩を進めるが、ヨルノズクの言葉がそのあとを追いかけてくる。

「あの子は一人で大丈夫なのかい?」

「寝ている」

「でも、傍にいてあげなくていいのかい?」

「ああ」

 振り返らずに答えるも、さらに言葉を続けようとする気配がする。
 その場を離れようと、自然と歩む足が早くなる。
 彼は話好きで有名だ。
 悪いやつではないのは確かだが、問題は俺が苦手だということ。
 会話は得意ではない。
 こればかりは性格なので仕方がない。
 その辺りは彼も重々承知の筈。それでも語りかけてくるのだ。
 気にかけてくれているのは分かっているし、有り難いのだけれども。
 足を止めると、ふうっと一つ息を吐き出す。
 空を見上げると、相変わらず月は雲に隠されたままで。
 鈍い金の瞳が瞬いた。
 吹き抜けた風が、草木と一緒に俺の耳や尾も撫でてゆく。
 ちらりとそれが視界の端に掠める。
 改めて己の体を見下ろすと、まだ緑といえるぎりぎりの色合い。
 昔は青々とした緑だったのに。
 随分と年をとったものだ。
 瞳が揺れる。
 あと、どのくらいの時があるのだろう。少しでも長く、あれと共に。
 再び空を見上げ、目を細めた。
 もしかして、彼女もこんな想いだったのだろうか。



*****



 俺にはかつて、人間と共に暮らしていた頃があった。
 彼女の元で生まれ、彼女の元で育ち、これからも彼女と共にゆっくりと老いていくのだと思っていた。
 けれども、うすうすは気付いていた。
 彼女と俺とでは、始めから生きる時間の長さが違うということに。どうしても、俺が先に遠くへいってしまうということに。




 ある日の昼下がり。
 縁側に腰をかけた彼女の膝に頭を乗せ、俺は眠りかけていた。
 彼女はそんな俺の頭を、しわが目立ち始めた手で優しく撫でるのだ。
 この頃はよく、日暮れまで彼女と共にこうして過ごすことが多く、穏やかなこの時間が堪らなく愛しかった。

「ねえ、みて。あの雲、少しあなたに似ていないかしら?」

 うふふ、と穏やかに笑う彼女につられ、俺も空を見上げた。
 確かに変わった形の雲だとは思ったが、俺に似ているとは到底思えなかった。
 だが、彼女が似ているといえば、似ているのだろう。
 彼女が笑うから、俺も笑った。
 そのときふいに、彼女の瞳が揺れたことに気付いた。
 小首を傾げて彼女を見上げる。
 そんな俺の頭を、彼女はそっと撫でた。
 その手つきは、先程よりも優しくて、あたたかくて。
 その心地に思わず目を細めた。

「どうしても、先にいってしまうのよね…」

 そっと呟かれた言葉の意味を掴みあぐねて、俺はきょとんとした顔で、彼女の切なさそうな瞳を見つめることしかできなかった。
 けれども、すぐに彼女の瞳は普段通りの穏やかな瞳に戻る。
 そのまま虚空を見つめる彼女の横顔は、とても美しくて、でもどこか儚くて。
 そして、まるで詩のように言葉を紡ぐ。

「糸はね、綿花を紡いで作るのよ。私とあなたが綿花だとしたら、二人で紡いだ時が、思い出という糸になるのね」

 風が吹き、彼女の柔らかな髪で遊んでいく。

「あと、どのくらいの時を、あなたと共に紡いでいけるのかは分からないけれども、少しでも長く紡いでいきたいわ」

 俺の背をそっと撫で、彼女は笑った。

「ねえ、つむぎ?」

 その笑顔を、俺はきっと一生忘れないだろう。



*****



 時を紡ぎ、思い出という糸に。
 そこから彼女は俺に名をくれた。
 だがそれは、彼女と紡いだ糸と共に、心の奥底にしまいこんだ。
 今の俺は『つむぎ』ではなく、『おじいさん』。
 名は、この世で一番短く、無条件に相手を縛ってしまうみえない鎖。だが、それがあたたかく、あまりに心地よいから、いつでもそうしていて欲しくなる、厄介なもの。
 でもそれは、彼女だからであって、彼女以外に呼ばれても、ただ苦しいだけなのだ。

「おじいさん」

 森に住むポケモン達は、気付いたらそう呼ぶようになり、いつの間にか定着してしまっていた。

「おじいさん…!」

 俺としては、わりとこれも心地がよく悪い気はしない。

「おじいさんっ!!」

 耳朶を叩き付ける声に顔をしかめる。
 鈍い金の瞳を不機嫌で煌めかせながら、声のする方へと顔を向ける。
 いつの間にか俺の隣まで降りたっていたのは、先程の話好きの梟こと、ヨルノズクのはなすきさんだ。

「聞こえている」

 不機嫌に呟く俺に対し、はなすきさんは渋面をつくる。

「それなら、もっと早くに反応がほしかったよ」

 重い息を一つ吐き出したはなすきさんは、さて、と呟いてからくるりと体の向きを変える。

「私はもう寝るのでね。おじいさんも早く戻らないと、あの子が心配するのではないのかな?」

 そう言って、はなすきさんは明るくなり始めた空へと音もなく飛び立った。
 夜が明け始めていたのか。
 わざわざこれを知らせるために、はなすきさんは声をかけてくれたらしかった。

「俺も帰ろう」

 今の帰る場所は、居場所は、あれのいるところ。



*****



 彼女は嘘をついた。


 その日は小雨だったのを覚えている。
 夫も子供もいなかった彼女は、小さな家で俺と暮らしていた。
 そんな家に、彼女の姪夫婦が朝からやってきていた。
 いつもみたいに他愛ない話で花を咲かせるのかと思えば、その日は何だか沈んだ顔つきで。
 姪夫婦は、自分達が乗ってきた自動車に彼女を乗り込ませようとしていて。
 どこかに出掛けるのならば、俺も一緒にと慌てて追いかけた。
 けれども、突然彼女の姪が俺の行く手を遮ってしまう。
 訝しげに顔を上げれば、姪が膝を折って目線を俺に近づけると、沈んだ面持ちで口を開いた。

「ごめんね、つむぎ。これから行く病院は、ポケモンは入れないのよ」

 ごめんね、と再度呟き、俺の頭を一撫でしたあと、姪はそっと立ち上がる。
 姪の夫に助けられながら自動車に乗り込んだ彼女と、窓越しに目が合った。
 病院というのは、人間が体調を崩したときに行く場所だ。
 何度か彼女の付き添いで行ったことがある。
 ポケモンが入れない病院があることも知っている。けれども、その時は外で待たせてくれたではないか。
 なのになぜ、今回はだめなのか。
 ねえ。
 やけに、雨音が大きく聞こえた。
 鈍い金の瞳が不安で揺れると、自動車の窓を開けた彼女が口を開く。

「大丈夫よ、つむぎ。少し遅くなってしまうかもしれないけれど、あなたのところに必ず戻ってくるわ」

 そう言って、彼女は優しく微笑んだ。
 姪が自動車に乗り込み、それを確認した姪の夫が自動車を走らせる。
 自動車が走り去った方角を、体が雨に濡れるのも構わずに、いつまでも見つめていた。



 そして、彼女が戻ってくることはなかった。



 彼女がいない間も、毎日のように姪が彼女の家に通ってきてくれた。
 俺の食事の用意や補充、家の掃除など、身の回りのこともやってくれた。
 それについては、すごく感謝をしている。
 けれども、ある朝。
 いつものように俺の食事の用意をしてくれた姪が、膝を折って目線を俺に近づけると、ためらい気味に口を開いた。

「ねえ、つむぎ。わたしたちと一緒に暮らさない?」

 鈍い金の瞳が音をたててひび割れる。
 その姪の言葉で、俺は察してしまった。
 もう二度と、彼女は戻ってこないのだと。
 微動だにしない俺の頭を、慰めるように撫でる姪の手も嫌いではなかった。
 彼女にどこか似た感触。けれども、彼女の手ではない。
 触れられることは二度とないのだ。
 撫でていた姪の手が止まった。
 何かを思い出したかのように、壁にかけられた時計を見ると、姪は直ぐ様立ち上がり、口早に告げた。

「ご飯はここに置いておくから食べてね。また夕方に来るわ」

 じゃあ、と言って、姪はぱたぱたと玄関まで駆けて行った。
 その姿を見送ったことまでは覚えているが、その後の記憶はほぼない。



*****



 それから気が付いたら、夜の森でうずくまっていて。
 そんな俺を見つけてくれたのが、ヨルノズクのはなすきさんだった。
 森住むポケモン達は、余所者であるはずの俺に、とても親切にしてくれた。
 俺がこうして今もこの森で生きていけるのは、彼らのお陰に他ならない。

「む」

 ふと空を見上げると、先程よりも白くなっている空。
 もしかしたら、すでにあれが起きているかもしれない。
 自然と帰路につく足が早くなる。
 あれがうずくまっているのを見つけたのも、夜の森だったなと思い出す。
 始めは同情だったのだと思う。
 帰る場所を失った自分とあれを、どこかで重ねていた。

「………」

 足が動きを止める。
 視線の先にいたのは、木の洞に背を向け、白く染まる空を見上げているあれの姿。
 若草色の体に四肢を持ち、最大の特徴は頭に生える大きな葉。
 人間はチコリータと呼ぶ。
 気配に気付いたのかあれが振り向くと、そこに涙で揺れる林檎色の瞳があった。
 俺をその瞳でとらえるや否や、一層瞳は涙で揺れ、脱兎の如く、それは俺へと突っ込んでくる。

「………っ」

 突然の衝撃で息が詰まった。
 突っ込んできたこれの体が、小さく震えていることに気づく。

「リンゴ?」

 これの名を呼ぶと、涙で歪ませた顔が見上げてきた。

「怖い夢をみたの…」

 そう言って、ひしと抱きついてくる。
 こんなとき、どう言葉をかけたらいいのかが分からず、ただ黙って自身の尾で、優しくリンゴの背を叩くことしか出来なかった。
 それがどうしてももどかしくて。



 それから落ち着きを取り戻したリンゴは、俺の横で幼い寝息をたて始めている。
 目元にたまった涙を尾で拭ってやると、くすぐったそうに仄かに笑った。
 木の洞から見える空はすっかりその色を変え、新たな朝を迎える。
 幼い寝息を聞いていると、俺もやがて睡魔に襲われ始める。
 少しばかり寝てやろうか。
 重ねた前足に顔を乗せ、ゆっくりとそのまぶたを閉じた。


 始めは確かに同情だった。
 けれどもそれは、いつしか愛しさに変わり。
 自分が離れがたく思っていることに気付く。
 けれども、終わりの時はいつかやって来るもので。
 それまで、あと、どのくらいの時を、これと共に紡いでいけるのだろう。
 今は、共に紡いでいける時が、穏やかでありますようにと切に願う。


*


 うっすらと寝惚け眼で開いた目に、だらしない笑顔を浮かべて眠るリンゴの表情が映る。
 その笑顔が、彼の日の穏やかに笑った彼女の表情とどこか重なってみえて。
 そこで僅かに目を見張る。
 耳の奥で木霊する声があるのだ。


―――少し遅くなってしまうかもしれないけれど、あなたのところに必ず戻ってくるわ


 まさか。
 まさかな。
 しかし、そこで思考は途切れる。
 夢現だった意識は、今度こそ夢の世界へと落ちていった。

■筆者メッセージ
2017年5月頃の短編です。
ばす ( 2019/01/17(木) 22:31 )