赤い果実
赤い果実
朝露が朝日の光を弾き、草木をきらきらと輝かせる。
朝のしんとした空気の中、土を踏みしめる音を響かせながら、私は森の中をゆっくりと歩いていた。
若葉のような色の体に四つ足、頭からは二本の触角を生やし、首には私の最大の特徴といえる、大きな花を咲かせている。
そんな姿に人間は、メガニウムという種族名をつけた。
だがそんなことなど、この森に住む、私を始めとしたポケモン達には関係のないことだ。
私達には自然と定着した個々の呼び名が存在し、それがあれば充分だった。

「………あら?」

口から声がもれた。
歩を進めていた足を止め、足下をじっと見つめる。
視線の先にあるのは、小さな名も無い草花達。懸命に小さく可愛らしい花を咲かせている。
けれども、その中の一輪だけが、花を咲かせることもなく頭を垂れてしまっていた。
そっと首を下げ、顔をその子に近づける。
地から吸い上げる栄養が足りないのか、もしくは日の光が足りないのか。
自身の首もとから蔓を伸ばし、その子の側の土を少しすくってみた。
土をぺろりと舐めてみると、仄かな甘味を感じた。
この子が育つには充分な栄養が含まれている土だ。
では、他の要因か。
顔を持ち上げ、くるりと辺りを見渡して気がついた。
今の季節はちょうど、この子がいる場所は樹の影が出来てしまい、植物が育つための日の光が充分に得られないのだ。

「ちょっと、顔を出す場所を間違えちゃったのね」

そう言うと、そっと蔓を伸ばし、その子を優しく土ごとすくいとる。根を傷つけないよう慎重に。
そして、この子の友達が懸命に花を咲かせている場所へ再び植えてみる。

「ここなら大丈夫だと思うわ。あ、でも、まだ日の光は出てこないわね…」

空を仰ぐが、まだ朝を迎えたばかりで、充分にこの子には日の光があたらない。
けれども大丈夫。私にまかせて。
にこりと微笑むと、首の花が光をまとい始める。
その光は粒子となり、足下の草花達へと注がれる。
その時、懐かしい声が聞こえた気がした。

―――よくみてろ。

はっとして辺りを見渡すが、声の主の姿はみえない。
もうその姿をみることはできないと分かっているのに、まだ、彼の姿を探してしまう。
本来は自身の体力を回復するための光合成という技でも、使い方を少し変えるだけで、先程のように草花達へ向けることもできる。
その使い方を教えてくれたのは、私に教えてくれたのは。

「おじいさん……」

ぽつりと呟いた言葉は、虚空へと消えてゆく。



*



私にはもともと、人間のパートナーがいた。
けれどもあの日、パートナーであった彼女と些細なことで喧嘩をしてしまい、勢いのままに外へと飛び出してしまった。
今思えば、私の生きる道の大きな分岐点は、あそこだったのかもしれない。
勢いのまま飛び出して、走って走って走り続けた。
ようやく頭が冷え、我に返ったときには、自分がどこに居るかなど分からなくなっていた。
日はとうに沈み、辺りは闇に包まれ何もみえない。街しか知らなかった私は、街灯もない道をただ歩くしかなかった。
まだ寒さも残る春の夜。まだチコリータだった私には堪える寒さだった。
やがて眠さに襲われ、近くの木の根本で丸くなると、次第に私の意識は闇の中へと溶けていった。



干し草の匂いで目が覚めた。
しっかりと日に干された干し草の上で、あの子と一緒に寝そべって笑ったことを思い出す。

「…………い」

会いたい。
けれども、もう二度と会うことは叶わない。
そんな気がして、そんな予感がして、それが余計に、当時の私の心を締め付けた。

「…………」

そのとき不意に、何かが動く気配がした。
その何かを確認しようと、閉じていた瞼を持ち上げる。
あたりをきょろきょろと見渡しても、見えるのは闇ばかり。
そのうち、自分が目を開いているのか、閉じているのかさえ分からなくなってくる。
気のせいだったかと目線を落としたとき、視界の端に星の煌めきが掠めた。
はっとして目線を戻しても、そこにあるのは闇。
と、よく耳をすましてみると、息づかいが聞こえた。
これは私の息づかいではない。
そう気付いた途端、ほぼ反射的に振り仰いだ。
そこに星の煌めきがあった。
いや、あれは星の煌めきではなかった。あれは、金の瞳を持つ二対の眼。



ひんやりとした寒さで目が覚めた。
今度は干し草の匂いなどなく、ただあるのは木の匂い。
あたりを見渡すと、どうやら私は木のうろにいたらしい。
朝日が射し込んでいるうろの口から顔を出せば、そこに広がるは深緑の世界。

「………森?」

そんな言葉が、自然と口から漏れ出る。
いつの間にこんな森奥に。
呆然としていると、草を踏みしめる音が聞こえ、さらに昨夜感じた干し草の匂い。
私はそちらの方へと顔を向けた。
そこにいたのは、小さな木の実を器用に葉に包み込み、それをくわえていた一匹の四足の獣。
そよぐ耳に尾は葉の色をしており、足にも草が生えているかのような四足の獣。
獣と目が合った。
あ、とまた声が漏れる。
獣の瞳と、昨夜みた星の煌めきが重なる。だが、獣の瞳は星のような金ではなく、くすんだ色合いの金だった。
それでも私は、昨夜の星の煌めきは、この獣の瞳なのだと思った。
暫く互いの目線が交差する。
いつまでそうしていたのか、あまりよくは覚えていないが、先に動き始めたのは獣の方だと記憶している。
くわえていた葉の包みをそっと足元に置いた獣は、口をゆっくりと開いた。

「腹、空いてないか?」

低いけれども、よく通るその声。
その声が、私に安心感を与えてくれたのを今でもよく覚えている。
私が首を縦に振ろうとしたとき、いち早く答えたのは私の腹の方だった。
静かな早朝の森に響く、私の腹の音。
顔から火が出るとはこの事だと思った。
視線を獣からそらす。
おそらく、頬も僅かに朱に染まっていたことだろう。
居心地の悪さを感じながら、自身の腹を呪っていたとき、視界の端に何かが掠めた。
ちらりとそちらに目を向けると、葉の包みを拡げ、そっとこちらに木の実を差し出す獣の姿があった。
再び、あの星の煌めきと視線が交差する。

「食え」

そう告げられ、最後の緊張の糸が切れた気がした。
差し出された木の実は、一口で食べられる程の赤い木の実だった。
まずは一つ口に入れ、ゆっくりと噛んでみた。
じわりと口にひろがるこの味わい。
僅かに目が見開く。
酸味の効いた甘さ。これは。
いつかのとき、あの子が刃物を使って危なっかしい手付きで剥いていた、赤い果実。
はらはらしながら見守っていると、やっと剥けたと言いながら差し出してくれた果実。
あの子が大好きだった、あの赤い果実に似た味わいの木の実だった。

「りんごみたい…」

思わず呟いた言葉に、獣の耳がぴくりと動いた。
そして向けられる、射るような鋭い視線。
あまりの鋭さに、無意識のうちに一歩後ずさる。
あの子と一緒に寝転んで読んだ、図鑑というものに記されていたのを思い出す。
四足の獣。その体は植物に近く、綺麗な空気を作り出せるという。
温厚な性格の種族だとあの子は教えてくれたが、今、私に向けられているのは敵意ではないだろうか。
おそらく、戦いに発展したら確実に負けるのは私だ。
どうする。
様々な考えが脳裏をよぎっているとき、獣の視線が一瞬和らいだ。

「………お前、人間のポケモンだったのか?」

突然投げられた疑問に、小首を傾げてしまった。

「………まあ、いい。この味をりんごだと言うのは、この森では俺達くらいだろうからな」

「なんで?」

「………りんごは、人間が作り出した果実だ。それがこんな森にあるわけがない」

ということはつまり、この森に住むポケモン達は、りんごという果実を知らないし、りんごがこの木の実の味に似ているということも知らないということだ。
なるほど。それでこの獣は、私が人間のポケモンだと思ったのか。
そこまで考えて、私ははたと気づく。
獣は俺達と言った。確かにそう言った。
つまりそれは。

「あなたも、人間のポケモンだったということ?」

その言葉にぴくりとし、木の実を食べていた獣は動きを止めた。
返されるのは、先程よりも鋭さが増した視線。
くすんだ金の瞳が苛烈に光る。
ああ…これは、これ以上踏み込むなという合図だ。
何を言われたわけでもないが、唐突に理解してしまった。
証拠に獣自身についての話を、彼の口から聞かされることは、彼と共に過ごす時の中で、一度もなかった。

「別に、話したくないならいいけど」

少しばかり不機嫌な感情が混ざった声音に、彼は何も返すことなく、再び木の実を食べ始める。
さっさと木の実を食べて終わないと、自分の分がなくなりそうな勢いだったので、仕方なく私も木の実を食べることにした。




「ねえ、リーフィアさんはこの森に住んでいるの?」

ちらりと彼がこちらを一瞥したあと、空を仰いだ。
私も釣られて空を仰ぐ。
数羽のポッポの群れが見えた。
それを目で追いながら、耳は彼の方へと傾けていた。
やがて、木々に遮られてポッポの群れが見えなくなる。
それから暫く待っても、彼から言葉は返ってこなかった。
少し苛立ちを覚え始めた頃、再び彼を見やった。
相変わらず飽きずに空を仰いでいた。
別に答えなど、初めから期待はしていなかったけれども。
重い息を吐き出したとき、重かった彼の口が開いた。

「まあ、そうなのかもしれない」

伏せていた目線をあげると、こちらを見ていた彼の瞳と交差した。
かもしれないとは、また曖昧な。
この獣はよくわかない。それは結局変わることなく、彼は最期までそうだった。

「お前、名はあるか?」

唐突の問いに、私の眉間にしわがよる。
名はあるかとは、どういうことだ。
あの子が私を呼ぶときに紡いでいたのは。

「………チコ」

小さく紡いだ言葉は、あの子が私を呼ぶときに紡いでいた言葉。
これが私の名になるのだろうか。
私はよく、周りからチコリータと呼ばれていた。でもそれは、私と同じ種族のポケモン達も呼ばれていて。
それが果たして、私という個の存在を現す名なのかと問われれば、私は何も答えられないかもしれない。
そんな考えを察したのかは知らないが、彼は言った。

「それは名ではない。人間が、己達の都合で振り分けただけの名だ」

そう語った彼の瞳が一瞬、寂しげな色で揺らいだ。
少しそれが気になったが、彼との間に引かれた見えない線を超えることは出来なかった。
私に出来たのは、ただ黙ることだけだった。
重い空気が降り積もる。
彼が再び口を開いた。

「ならば、俺が名を考えよう。そうだな、こんなのはどうだ?」

その時の優しげな笑みが、私が初めてみた彼の笑みだった。
彼の口が紡いだ音を聞いて、私の林檎のような赤い瞳は嬉々として輝いたことだろう。
その名で私は、この森で、彼と共に生きていくことになる。

「お前は………」



*



「………ちゃんっ!リンゴちゃんっ!」

突然、耳朶に叩きつられた声。
私の意識は、過去から一気に現在へと呼び戻される。
まだ耳朶に残る余韻に顔をしかめながら、声の主へと抗議の声をあげる。

「んもう、声が大きいわ。驚くじゃない、ハンちゃん」

ハンちゃんと呼ばれた彼女は、心外なとでも言うように、短い手を腰だろう位置に添える。

「あたしがいくら呼んでも、リンゴちゃんが上の空だったからじゃん」

ぷくりと頬を膨らませた。
一言で言ってしまうと、青い球体だろうか。可愛らしい手足に耳。球状の尾は、水中では浮き袋のかわりになる。
人間はマリルと呼ぶ彼女は、森の皆からハネと呼ばれており、私は愛称としてハンちゃんと呼んでいる。
相変わらず膨れっ面の彼女は、先程からぶつぶつと文句を並べていた。

「だいたいね、リンゴちゃんはちょっとしたことで、すぐに考え込んじゃうから」

「だから、ごめんなさい」

私の返事に、彼女はわざとらしくため息つく。

「はあー、それ何度目かな?数えるのも飽きちゃった」

どこか諦め気味に聞こえたのは、きっと気のせいではないだろう。
私は乾いた笑みしか返せなかった。
いつも口先だけなのは自覚している。
それを私の表情から読み取ったのか、少し悪戯めいた笑みをうかべるハンちゃん。

「なんなら、次からチコちゃんって呼んでみようか?すぐに戻ってくるかも」

チコ。
その音に、私の中を形容し難い様々な感情が駆け巡る。
それに呼応するように、林檎の瞳がゆれ動く。
心の何処かで、気付かないでと彼女に告げる。
けれども、彼女がそれを見逃すはずもなく。

「やっぱり、戻りたい?」

どこか寂しげな表情で問う彼女。
何のこと?と問い返さずとも分かる。
彼女が問うているのは、『リンゴ』から『チコ』に戻りたいのかどうか。
彼女に問われ気付く。
もう、自分の気持ちに気付かないふりはできないなと。
それを認めてしまったら、彼女達を否定することになってしまう気がして、今までその気持ちに背き続けてきたのに。
きっと、彼女には気付かれている。
『チコ』という、その呼び名を捨てきれていないことを。

「………もし…」

ようやく口を開いた私を、彼女は弾かれたように見上げる。

「もし、あの子のもとに戻れていたらと、考えることは何度もあったけれども」

「けれども?」

幼子のように私の言葉を繰り返す彼女に目線を近付けながら、私は目元を和らげた。
きっと、彼女に出会うこともなかったし、今の『私』もいなかった。
私はこの森が大好きだ。
そして、彼女のことも大好きで、彼のことも大好きだった。
その出会いが無くなることなど想像も出来ないし、したくもない。
だから、『チコ』が捨てきれていないなんて認めたくなかった。
でも、『チコ』として過ごしたあの子との時間も、あの子も大好きだった。
それも紛れない事実。
じっと私に見つめられ、そろそろ恥ずかしさが勝ってきたらしい彼女の頬が、僅かに朱に染まる。
それを受け、一つ目を閉じると、私は空を仰いだ。彼女も釣られて空を仰いだのを気配で感じる。
風が吹いた。
優しく撫でて行く風が気持ちよく、私は目を閉じた。



*



私がベイリーフに進化して間もない頃、彼はある日言った。

「あれも、お前の名なのかもしれないな」

空を仰ぎながら呟かれた彼の言葉は、そのまま虚空に溶けてしまいそうで、辛うじて私はその言葉を捉えられた。

「………?」

だが、その真意は読み取れなかった。
気配で察したのか、おもむろに彼は私の方へ顔を向けた。

「お前のことを想って、お前を呼ぶために発したのだとしたら。それを受けて、お前もまた振り向いたのだとしたら…何処にいても、呼ばれたのに気付いたとしたら、それは」

そこで彼は口を閉じた。

「………それは?」

続きが聞きたくて、私は言葉を繰り返して促す。

「それは……」

少しの間をおいて、彼は続けた。

「お前の名かもしれないな」

やはり真意が分からない。
一体何が言いたいのか。
私の顔が渋面で染まる。
その表情に彼はくすりと小さく笑うと、視線を空へと戻し言った。

「名前というのは、この世で一番短く、無条件に相手を縛ってしまうみえない鎖だ。だが、それがあたたかく、あまりに心地よいから、いつでもそうしていて欲しくなる。厄介なものだな…」

最後の言葉は、呟きのようにも聞こえた。
けれども、やはり難しい。
時々彼は、難しい言葉を並べては私を悩ませる。
しきりに首を左右に捻る私をみて、彼は笑みを深めた。
それが何だか附に落ちず、口を尖らせる。

「おもしろがってる…」

膨れる私をみながら、いや、と否を唱えると、彼は問うてきた。

「名を呼ばれると、嬉しいだろ…?」

「うん…嬉しいよ…」

眉間にしわをよせながら答えると、そういうことだ、と彼は笑いながら答えた。



*



今なら、あの時の彼が言っていた言葉の意味が分かる気がする。
『チコ』も私。
『リンゴ』も私。
過去があるから今の私がある。
だから、悩む必要などなかったのだ。どちらも棄てられないもの。それでいい。
ふふん、と口ずさむ旋律は、いつかのときにあの子が歌っていた曲。人間の言葉は複雑で難しく、全てを理解することなどは無理だったので、曲の意味することは分からないが、旋律はとても好きだった。

「ご機嫌だね、リンゴちゃん」

突然の声に、鼻歌がぴたりと止む。
目だけを動かして背後をみやると、いつの間にか私の背に乗っていたハンちゃんの姿があった。
彼女と目が合ったとき、その可愛らしい丸い目がつり上がる。

「その目は、いつの間にそこに乗ってたのって言っている目だよね」

「まだ何も言ってないわ」

「言葉で言わなくてもわかるよっ」

少しばかり語気が強めになっている。
どうやら、また怒らせてしまったらしい。
ぷいっと明後日の方向へ向いてしまった。
やはり私は乾いた笑みしか出来ず、視線を前方へと戻した。
先程から歩みの足は止めていない。
言葉を紡ごうとして口を開くが、言葉が詰まり口を閉じる。
それを何回も繰返して、結局口を閉ざしてしまう。
ちらりと彼女をみると、まだこちらに背を向けたままだった。
きっと聞くと、また怒らせてしまうだろうなとは思ったが、意を決して口を開く。

「………ねえ、ハンちゃん?」

「…………………………………………なに?」

長い間が重かった。
視線は前方を向いたまま、少し臆し気味に聞く。

「………………今、どこに向かっているの?」

「!?」

がばりと勢いよく彼女が振り向いたのが、音だけで分かった。

「そこから…!?」

「……う、うん」

怒らせてしまうと思っていただけに、彼女の驚きように逆に私が驚いてしまった。
彼女はやれやれと首を竦めるような動作をしてから、呆れ気味に私の問いに答えてくれた。

「あそこに行くところだったでしょ」

あ、そうだ。
あそこに行くところだったのだ。
あそこ。彼との思い出の場所。
未だにふとしたことで、彼の存在を探してしまう。
何処にもいないのは分かっているのに、探してしまうのだ。
次第に彼女の声が遠退いていき、脳裏に霞むのは、まだそんなに遠くない記憶のかけら。



*


メガニウムに進化して、二度目の秋を迎えた頃。
その頃の彼は、体調を崩すことが多くなっており、日中の殆どを床に伏せって過ごしていた。
体が大きくなってしまった私は、彼のねぐらである木のうろを出て、すぐ真向かいにある、別の木のうろを自分のねぐらにしていた。
自分のねぐらで目を覚まし、真向かいの彼のねぐらのそばで日中を過ごす。寝ていることが多くなった彼の横で、私も一緒に寝て過ごすことも少なくはなかった。
それが、その頃の私と彼の一日の過ごし方。

ある日、落ち葉の匂いでふと目が覚めた。
ぼんやりとした頭を持ち上げると、ちょうど立ち上がった彼と目が合った。
立ち上がった彼の姿は久しぶりで、思わず目を丸くしてしまった。
そんな私の様子に彼の目元は柔らかくなり、小さくくすりと笑う。
少し恥ずかしさを感じた私は、頬が熱を帯びたのを感じた。
ふいっと目線をそらす。
彼は気にする素振りもなく、私の横を通りすぎっていった。
すれ違うときに感じたのは、先程の落ち葉の匂い。頭のどこかで、出会った頃は干し草の匂いだったなと思う。
目で彼を追う。
林檎の瞳に映るのは、色が抜け落ちてしまった、葉のような耳と尾。
昔は、緑が深まったような色だったのに。今ではまるで、枯れ葉のような…。
そこまで考えて、はっとする。
首を激しく振り、考えるのをやめた。
そんなことはない。これは気のせい。そう、ただの杞憂。
沸き上がった不安を、無理矢理に心の奥底へ押し込めると、急いで立ち上がり、彼のあとを追った。


その日は体調がとてもよかったようで、気が付けば私達のねぐらから少し離れたところにある、小川の畔にまで来ていた。
昔はよく、ここで彼と昼寝をしに来ていた場所だ。
そこに辿り着くと、彼は崩れるようにして倒れこんでしまった。
大丈夫かと私が慌てて駆け寄ると、心配をかけまいとしたのか、辛さを微塵も感じさせない笑みを浮かべ、大丈夫だ、と一言言った。

「けれども、少し疲れた。少しの間、寝る」

「え…」

思わず不満が顔に出てしまった。
折角の遠出なのに。いつも殆どを寝て過ごす彼と、久しぶりに話が出来ると思ったのに。
結局いつもと同じように寝るのか。

「ふっ」

声がして、はっと彼の方をみる。
私から視線を外して、堪えるように笑っている。堪えようとしているようだが、堪えきれていないのだ。
彼の体が小刻みに震えている。
私の眉間にしわが寄る。

「ふふふふはは」

声までもがもれだした。
彼の笑いがおさまった頃には、私は頬を膨らませてそっぽを向いていた。
それに対しても、彼はくすりと小さく笑い、口を開いた。

「お前は昔から変わらない」

投げられた言葉に、暖かさを感じた。
そらしていた視線を彼に再び向ける。
そこにあったのは、昔から変わらない星の煌めき。
あの日、あの闇の中で、星の煌めきを見つけたとき、本当に安堵したのだ。だから、あの時すぐにまた眠ってしまったのだ。

「おじいさんだって、昔から変わらないわ」

昔に想いを馳せながら、虚空に消えてしまいそうな感じでぽつりと呟く。
当の彼には聞こえなかったようで、呑気に欠伸をしている。
欠伸をした彼が、眠りに落ちるのは時間の問題だ。
ならば。

「………ね、ねぇ。あの…」

何だか恥ずかしくて、その先の言葉が出てこない。

「……?」

彼は続きを待ってくれている。
思いきって言ってしまおう。先程笑われたのだ。もう一度笑われたって、同じではないか。

「い、一緒に、寝てもいい…?」

そっと彼の様子を伺う。
星の煌めきがきょとんとしている。
しばらくの間ののち、彼の体が小刻みに震え出す。
笑った。笑っている。
やはり笑われた。覚悟していたはずなのに。
一気に込み上げてくるのは恥ずかしさ。
頬が火照り、朱に染まるのを自覚する。

「いいぞ」

ひとしきり笑ったあと、涙で瞳を揺らしながら彼は言った。
恥ずかしさはまだ残っていたが、それを上回るのは嬉しさ。
いつぶりだろうか、彼の懐に潜り込んで眠るのは。
嬉々として傍に駆け寄り、はたと気づく。
自身の大きさに。
彼よりも大きく成長してしまったこの体では、懐に潜り込むなど到底出来ない。
ぴたりと立ち止まった私を見上げ、彼は尾でぺしりと地を叩いた。
彼の意図が掴めず、小首を傾げる。
もう一度、彼は尾で地を叩く。先程よりも力強く。
そこでようやく理解をする。
ここに横たわれと言っているのだ。
もう慣れてしまったが、言葉にした方がはやく伝わるのにと、いつも思う。
彼が示したところへ体を横たわらせる。
と、そこに彼が潜り込んでくる。
思わず固まる。
が、嬉しさが込み上げ、すぐに彼を包み込むようにして、彼ごと自身の体を丸めた。
すると、少し彼が身じろぎをした。
苦しかったのかと思い、少し体の力を緩めると、すぐに彼のか細い寝息が聞こえてきた。
ああ、寝てしまったのか。
このまま少し話が出来ればと、期待をしたのだが。
久しぶりの遠出だ。疲れてしまったのだろう。
では、彼が起きるまで私も寝ていよう。
そう思って、私は目を閉じた。
聞こえる彼の寝息。
伝わる彼の体温。ぬくもり。
あの頃は彼に包まれている安心感で、眠ることができた。
今の私は、あの頃の彼からもらっていた安心感を、同じように彼に与えていることができているのだろうか。
そう考えているうちに、私の意識は眠りの底へと落ちていった。

目を覚ませば、彼はきっと起きているはず。
目を覚ました私をみて、起きたか、と笑うのだ。
なにも言わず立ち上がり、尾だけで帰るという意思表示をするのだ。
私はそんな彼に文句を言って追いかける。
言葉にした方が速く伝わるのに。
いつもそう思うのだが、本当は分かっている。ただ、不器用なだけなのだ。彼はとっても優しい。
だって、私に『リンゴ』という名をくれた。居場所になってくれた。
星の煌めきが、私にとっては道しるべ。







 目が覚めた。
 まぶたを持上げれば彼がいると思っていたのに、彼は未だに私の懐で眠っていて。
 起こそうかとも思った。
 けれども、あまりにも心地良さそうに眠っているものだから、何だか忍びないなと思ってやめておいた。
 私は音をたてないようにそっと立ち上がると、あれを求めて歩き出した。
 求めるは赤い小さな木の実。
 赤い果実の味のする木の実。
 私の瞳と同じ色で、私の名前と同じで。
 ふと、彼の名前を知らないなと、唐突に気付いた。
 名前を聞いても、答えが返ることはなくて。
 リーフィアと呼べば、返ってくるのは不機嫌に煌めく二対の金の瞳で。
 いつの間にか、おじいさんの呼称で落ちついてしまっていた。
 今ならば、名前を聞いても答えが返ってくるだろうか。
 彼が起きたら、そっと聞いてみよう。
 きっと返ってくるのは、何も語らぬ星の煌めきだけだろうけれども。



 大きな葉で包み込んだ赤い木の実を、潰してしまわないよう丁寧に運んで。
 慎重になりすぎて、思ったよりも時間がかかってしまった。
 とうに起きているはずだから、彼が心配しているかもしれない。

 そう思っていたのに。

 目の前にいるのは、相変わらずに心地良さそうに眠っている彼。
 いい夢を見ているのだろうか。
 心地良さそうな寝顔は、うっすらと笑っているようで。
 あとで聞いてみよう。

 あれ、おかしいな。

 そこで気づく。彼の背が上下していないことに。
 呼吸をする度に浮き沈みするはず。
 それがないということは…つまり、それを意味することは。
 何だか、視界が歪んでみえる。
 とさっと音をたてて地に落ちたのは何。
 転がっていく小さな赤いものは何。
 そして、瞬く度にこぼれ落ちる熱いものは。頬を伝う熱いものは、何。
 でも、そんなはずはない。
 そうだ。揺すぶってみよう。
 さすがの彼も、これでは起きないわけにはいかないはずだ。
 きっと、不機嫌な光を宿した星の煌めきが顔を覗かせるはず…。



*



 彼がいない。
 遠くへと行ってしまった。
 頭では理解しているのに、心はついていかない。
 ぽかりと空いてしまった心の穴は、一体何で埋めればよいのだろうか。
 それすらも分からない。
 いつしか、時がそれを埋めてくれるのだろうか。
 否。
 それが埋まることはないのだろう。時が癒してくれるかもしれない。だが、忘れた頃にそれはじわじわと痛みだすのだ。
 家族も同然だった。
 彼がいなくなる。
 そんなことなど考えもしなかった。いや、考えようとしなかった。
 自分が成長する度に、彼はその分だけ老いていく。
 そのことに気付いていたのに、気付かないふりをしていた。
 彼から発する干し草の匂いが、落ち葉のような匂いになってきたのはいつのことか。

―――秋も深まってきたから。

 そのように結論付けて。
 身体の色だって、すでに落ち葉のような色合いだった。
 覚悟をしていたのならば、悲しくなることなどなかったのだろうか。

 そんなことを考える日々が続いていた頃、私は意味もなくあの場所へと訪れていた。
 自然と足がそこに向かっていたのだ。
 季節は秋から冬へと移り変わり、辺り一面は銀世界。
 そういえば昨夜は雪が降っていたなと、ぼんやりとした頭で思い出す。
 以前の私ならば、この銀世界に目を輝かせたことだろう。
 そんな私を、彼は飽きれ半分にみて、私が彼の方を向くと、目元を和ませて小さく笑うのだ。
 けれども、そんな彼はもう何処にもいない。
 その事実だけが、私の心をぎりぎりと締め付ける。
 ここに居ても仕方ない。
 私がねぐらへ踵を返そうと足を一歩踏み出したとき、後方から声がした。

「ちょっと待ったっ!!」

 その声が、地に着く寸前だった私の足を縫い止める。
 と同時に私の視界に滑り込んでくるのは青い球体。
 私は慌てて足を引っ込める。
 その球体は、私が足を引っ込めたのを確認すると、小さな手で足元の雪を優しく払った。
 すると、雪の中から姿を現したのは小さな芽。

「ああ…よかった…無事ね」

 そっと安堵の息をついてから、球体ことマリルのハンちゃんはこちらを見上げる。
 そして目が合ってから、はたと気付いたように瞬きをした。

「あ…リンゴちゃんだったんだ」

 今頃気付いたようで、丸い目がさらに丸くなっている。
 これは、驚きというよりも、珍しい物を見つけたときのような目にも思える。
 暫し見つめられ、流石に居心地が悪くなってきた私は口を開いた。

「な、何かあるの?」

「………あっ、ごめんっ!」

 私の言葉で我にかえったようで、彼女は慌てて侘びを口にする。

「リンゴちゃんが外に出ているなんて、珍しいなと思って…」

「…………」

 彼女にしては珍しく歯切れが悪い。
 少し躊躇いがちだ。
 それもそうかと、私は心の内で納得する。
 あの日以来、私はあまり外を出歩かなくなってしまった。

「今日は…」

 口を開くと、落とされていた彼女の視線が再びこちらを見上げた。

「今日は、気付いたらここにいたのよ。どうしてなのかは、私も分からないけれども」

 苦笑気味に彼女へ告げる。
 そんな私を、彼女は暫くの間見つめていた。
 風が吹き抜け、地に降り積もった雪をふわりと舞いあげる。
 日に反射して輝く雪の結晶は、まるで六つの花弁を持つ花のようで。
 沈黙が雪の如く降り積もる。

「ねぇ、リンゴちゃん。これをみて」

 そんな沈黙を破ったのは彼女だった。
 彼女が指し示すそれは、先程私が踏みかけた小さな芽だった。
 寒さが続くこの冬に芽吹くとは、何と力強いことか。
 だが、久方ぶりに積もったこの雪は流石に応えたらしく、萎れ始めている気がする。

「この子、このままだと冬には耐えられないかもしれないわ」

 私の言葉に、彼女は弾かれたように顔をあげた。

「えっ!うそっ!」

 折角見つけたのに…と呟く言葉は、そのまま失速し、地に落ちる。
 そんな彼女を横目に、私は口元を小さな芽へと近付けた。
 そっと、芽へ向けて吐息を吹きかける。
 吐息を受けた小さな芽は、ぶるりと身震いしたようにみえた。

「………あ、あれ?」

 彼女の口からこぼれ出た言葉は、驚きの声。

「元気になったみたい…何で…」

 こちらを見上げる彼女の目が、答えを待っているようだった。

「おじいさんが教えてくれたの。私の吐く息には、植物を元気にさせる力があるって」

 そう、いつの日か教えてくれた。
 私の吐く息には、植物を元気にさせる力があるのだと。
 だったら序でに教えておく。
 そう言って教えてくれたもうひとつのこと。
 技“光合成”の応用だった。
 本来は自身の傷を癒し、体力を回復させる技。だが、それを応用させれば、他者、或いはこのように植物へと力を分けることもできる。
 自身の首を飾っている大きな花が光をまとい、芽へと光の粒子となって注がれる。
 一連の動作を終えたのち、彼女を改めてみやると、花のように笑った彼女がいた。

「リンゴちゃん、ありがとうっ!すごいじゃんっ」

「お礼を言われることなんてしてないわ。おじいさんから教わったことをやっただけよ」

 対したことなどない。
 すべては彼が教えてくれたこと。
 しかし、彼女はかぶりを振る。

「すごいのは、それをちゃんと受け継いでるリンゴちゃんだよ。リンゴちゃんの中に、ちゃんとおじいさんが生きてるってことだよ」

 その言葉に、私ははっとした。
 私の中で、生きてる。彼が。
 居なくなってしまっても、無にはならないのだ。
 あふれでる、彼との思い出。
 そして彼への想い。
 それが、涙となって目からこぼれ出る。
 その時初めて、私は声を上げて泣いた。



*



 ハンちゃんを背に乗せ辿り着いた場所は、彼との別れの場所。
 私の背から飛び降りた彼女が駆け寄ったのは、彼女の背丈とほぼ同じくらいに成長した、あの小さな芽。
 傍まで駆け寄った彼女が、感嘆の声をあげた。

「ねぇっ!きてきて、リンゴちゃんっ!」

 彼女の言葉に急かされ、私も傍まで駆け寄る。
 そして目に飛び込んできたのは、小さな小さな赤い木の実。
 赤い果実と同じ味の、私の瞳と同じ色の。

「この子、あの木の実の芽だったのね」

 思わず言葉がもれる。
 もしかしてあの日、彼に食べてもらおうと採りに行った赤い木の実のひとつが、芽吹いたものなのかもしれない。

「ちょうど、食べ頃みたいだよ。まだ小さいけど」

 そう言って彼女は赤い木の実を手にし、そのうちの一つを私へと差し出す。
 それを自身の蔓で受け取り、口へ運ぶと、じんわりと広がる酸味の効いた甘さ。
 刹那。風が駆け抜けた。
 無意識のうちに風で舞った木の葉を追う。
 そして息を呑んだ。

『リンゴ』

 彼がいた。
 私の名を呼んで、仄かに笑う。
 けれども、私が瞬きをした次の瞬間には、もう姿はなく。
 暫く、彼がいたその一点を見つめていた。

「あれ?リンゴちゃん、どうかした?」

 私の様子に気付いた彼女が声をかける。
 それに、何でもないよと答えながら、再びちらりと先程の場所を見やる。
 自然と笑みがこぼれた。
 彼がいなくなって迎える初めての冬は、もうすぐ終わりを告げる。
 そして、訪れる春の足音はすぐそこに。

「私は大丈夫。元気にやってるわ」

 呟いた言葉は、吹き抜けた風に溶けて消えた。
 彼のところまで届くといいな。

■筆者メッセージ
2017年2月頃の短編です。
ばす ( 2019/01/17(木) 22:29 )