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ティータイム 6th time-イチ-
60-3杯目 熱



   *   *   *



 はっ。はっ。弾む息。
 すばるがそこへ辿り着いた頃には。
 彼の息はすっかり弾んでいて、肩を上下させていた。
 たまらずに掴んだ橋の欄干。その手に力がこもる。
 浅い呼吸。それを整えるように努めながら。
 頬を伝う汗を手の甲で拭った。

「――……先、越されちまったか……」

 すばるの視線の先。
 つばさがファイアローの羽毛に顔を埋めていた。
 彼女達だけ、まるで別の空間に切り取られたような雰囲気で。
 その証拠にすばるの気配には気付いていないようだった。
 ようやく落ち着き始めた呼吸。
 欄干に背を預け、肘を付く。
 目線だけ背後へと動かせば。
 きらきらとした光の装飾が、彼の桔梗色の瞳の中で動く。
 がやがやとした人々の喧騒。
 その中に。陽気で軽やかな祭りの音楽も聴こえる。
 その音楽が祭りの始まりを告げる。
 さわりと吹いた風が栗色の髪を撫で、その感触に目を閉じた。
 汗ばんだ身体も共に撫でて行き、火照った身体を冷やしていく。
 それを見計らったのか。
 そろりと忍び寄るように、耳には川のせせらぎが届く。
 火照った身体。火照った気持ち。
 それらを急速に冷してくれる。
 しばらく川のせせらぎに耳を傾けていたところで。
 ばさり。羽ばたきの音が響いた。
 薄くまぶたを持ち上げ、僅かに覗いた桔梗色を向ける。

「ニアか」

 欄干に舞い降りたファイアロー。
 彼の呟きに視線を向けて、くくるう、と一つ鳴いて応えた。
 彼女がつばさ達の方へ視線を向けて、瞳を瞬かせて。
 もう一度、彼の方へ向き直ってから、首を傾げて、くるっ、と問うように鳴いた。

―――つばさちゃんさんに用があるんじゃないの……?

「いんや、今はいい」

 視線を足元に落として答える彼に、彼女はまた首を傾げた。

―――?

 さらに言葉を続けようとする彼女を遮って。

「つーか、さ。その“つばさちゃんさん”って呼び方なんだよ?」

 少しだけ苦笑を含んだすばるの問い。

―――だって、兄ちゃんが“つばさちゃん”って呼ぶから、なら、あたちが呼ぶならつばさちゃん“さん”でしょ?

「いや。そうだけど、そうじゃねえつーのか……。――んじゃ、俺の名前は?」

―――すばる

「――んで、呼ぶなら?」

―――すばる“さん”

「…………あ、そう」

 うーん、と唸るような声をもらすすばる。
 ちらりとファイアローへ視線を向ければ。
 彼女はきょとんとしていて。至って真面目そうで。
 まあ、そういう感じか。と、一人で勝手に納得することにした。

―――なあに?

 首を何度も左右に傾げる彼女は、とても不思議そうだった。
 すばるは、それに一つ微苦笑をもらして。
 なんでもない、と片手をひらりとひらめかせた。
 そう言われてしまえば、彼女も黙るしかないので。
 くるうー。と、空気が抜けるように鳴いて、あまり気にしないことにした。
 それからしばらく。夜色の沈黙が落ちて。
 一人と一羽は川のせせらぎに耳を傾けていた。
 ときたま、ぽちゃりと何かが跳ねる音がして。
 その度にファイアローが橋下を覗き込む。
 川に住む小魚が跳ねたのかもしれない。
 美味しいのかな、なんて彼女が考え始めた時。
 隣の気配が動いた。意識がそちらに向くと。
 彼も同じように橋下。否、遠くへ視線を投じていた。
 水面に浮かぶは一人と一羽の姿。
 それでも、穏やかながらにも流れる川。
 水面に浮かぶ姿は不規則に揺らめいて。
 遠くから、街から届く賑やかな光がそれを煌めかせる。
 ファイアローがすばるとは別の存在の様子を伺う。
 変わらずな体勢の一人と一羽。
 体感的にそれなりに経ったような気がした時間。
 けれども、実は然程経っていなかったのかもしれない。
 何だか感覚が分からなくなって、少しだけ混乱してきて。
 小さく眉間にしわをよせて、少しだけ難しい顔をした。そしたら。

「――ふっ。お前、楽しいな」

 隣から小さく吹き出した声がして、そちらを向く。

「お前と居ると、飽きなさそーだ」

 くしゃっと笑うすばるに。

―――??

 意味が掴めずに困惑するファイアロー。
 ますます眉間のしわを深くした彼女に、すばるはまた小さく吹き出した。

「褒め言葉だ。気にすんな」

 すっと伸びてきた彼の手が、彼女の首もとを優しく撫でる。
 その手付きに堪らず声をもらす彼女。
 何だか、先程の言葉の真意を問う機を逸した気もするが。
 まあ、これが気持ちいいからいいや、と流されることにした。
 くるるくるると鳴く彼女に、すばるは穏やかに目を細めた。
 そんな中で、彼女の声が問いかけてくる。

―――ねえ、つばさちゃんさんはいいの? 兄ちゃんが邪魔なら、あたちが追い払うよ?

「いや、いいよ。あとでいい」

―――えー?

 やっぱり、最初と同じ答え。
 ファイアローが訝しげに眉をひそめた。
 いつの間にか首もとから離れていた彼の手。
 それを欄干に乗せて、彼はまたぼんやりと橋下に視線を落とす。
 しばらくそれを見ていた彼女。
 だが、何かを閃いたのか、突如目を見開いて。
 くるっ。鳴き声一つ、彼を呼んだ。

「………………何?」

 すばるが鳴き声に呼ばれて振り向けば。
 何だかきらきらとした眼差しのファイアローがいて。

―――いいよっ!

「だから何が」

 桔梗色の瞳が半目になる。
 その時、そんな彼女の背後がちらりと一瞬視界に入って。
 彼女の意図していることが分かった気がした。

「やらねーからな」

 眉間にしわを寄せて拒否。

―――え?

「やらねーからな」

―――なんで? だって、兄ちゃんをもふっとしたいんじゃないの? だから、つばさちゃんさんを待ってるんじゃ?

「違う」

―――確かにあたち、兄ちゃん程はもふもふしてないかもしれないけど、あたちだって負けないてないと思うの

 だから、ほら。いいよ。と、彼女は胸を張った。
 まるで、自身の羽毛を強調するかのように。

「違うから、しねーから」

―――もう、わがまま言わないのっ! 今はあたちで我慢してっ!

 一向に首を縦に振らないすばるに、彼女は痺れを切らしたようで。
 ぷっくりと頬を膨らませた。

「なあ、お前。俺の話きいてんのか?」

 心なしか、すばるの目が据わった気がする。

―――きいてるよ。兄ちゃんをもふってしたい話でしょ?

「違う」

―――えっ……違ったの……?

 ここにきて、ようやく話がずれていることに気がついたらしい彼女。
 すばるは堪らずに呆れの息をこぼした。
 え、じゃあ。なんだろ。悩み始めた彼女に。
 またさらに、深いその息をこぼしたところで。
 すばるは腰のベルトへ手を伸ばして探る。
 かつん、と手に当たったそれを掴む――掴もうとした時。

―――あっ、分かったよ

 えへへ、と笑った彼女が嬉しそうにこちらを見やった。

「俺の言いてーこと、やっと分かったか?」

―――うんっ

「んで?」

―――つばさちゃんさんをもふってしたかったんだね

 刹那。掴みかけたそれをすばるは手にして。
 そして、流れるような速さでその突起を彼女に向ける。

―――えっ……何で……? ちょ、待ってよ、すば

 すばるさん。
 それを最後まで形にさせず、赤と白の球――モンスターボールから伸びた光が彼女を包む。
 困惑気な表情を浮かべる彼女を、それは問答無用で吸い込んでいった。
 しばらく。すばるはモンスターボールを握ったままそれを凝視していた。
 火照った気持ちは気のせいで。
 熱を灯して、熱いとすら感じる頬は。
 別に紅潮などはしていないはず。気のせいだ。
 穏やかな川のせせらぎ。と。遠くからの賑やかな音。
 それらを捕まえて耳に突っ込む。
 凪いだ空気に心地よさを覚えようとした時。

「すばる……?」

 凪いだ空気を震わせる声が、自分の名を紡いだ。
 瞬間――どくんっ。鼓動が跳ねた。



   *



―――あの、さ、つばさちゃん

 戸惑うような声に。

「なに?」

 と、つばさは答えた。

―――そろそろ、放してくれないかなって、思って?

「やだっ」

 懇願のするような声を。
 つばさは一言でばっさりと切り捨てた。
 そして態度で示すように、ファイアローの首へ回した腕に、ぎゅっと、より力を込める。
 それをしっかりと感じたファイアローは、困ったようにえへへと笑うしかない。
 自分から追って、彼女にあしらわれるのが彼の常で。
 だから、こうして彼女の方から追いかけるというか、求められる状況には戸惑いを覚えてしまう。
 けれども、彼女がこうなった理由は分かっている彼であるから。
 だから、彼女をあしらう、なんてことも出来るわけがなくて。
 今はただ、彼女の気が済むようにしてあげるしかないのだ。
 と、その時。不意に彼の耳に賑やかな声が届く。
 遠くからではなくて。近くから。
 ちらりと視線だけを動かすと、そこになにやら言い合いをしている風情な。
 自分の妹と、この度晴れて、妹のパートナーとなった彼を見つけて。
 あ。と思った頃には、妹がモンスターボールへと吸い込まれてしまった。
 何だか頬を紅潮させている彼。

―――すばる

 その様子が気にかかって、思わずぽつりとその名を紡いでしまった。
 彼にはその声は届かなかったようだけれども。
 すぐ傍のつばさには、その声はしっかりと届いたようで。

「すばる……?」

 と、その名を口の中で反復させれば。
 ファイアローに回されていた彼女の腕がゆるんだ。
 その隙にと、ファイアローは両翼を軽く広げて彼女の腕をほどく。
 それに少しだけ顔をむっとさせながらも、つばさは渋々彼から離れた。
 そして、視線を動かしたファイアローにつられるように、つばさもそちらへ視線を投じて。

「…………」

 頬を紅潮させているすばるを見つけた。

「――なに、赤くなってんの?」

 訝しげに眉根を寄せて問うつばさに。

「あ、ああ……これは、その……」

 歯切れの悪い声で返すすばる。
 続けて慌てた声音で。

「――あっ! ああ、あれだっ! その、走って来たから、その、息が上がっちまって」

 ああ、暑い。と、わざとらしく手で仰ぎ始めた。
 そんなすばるの視線が先程から合わないのは、つばさの気のせいだろうか。
 眉間にしわを寄せて胡乱な目付きになる。
 それに気付いたすばるの視線が、ますます明後日の方向に向けられる。
 先に呆れの息をこぼしたのはつばさだった。
 まあ、彼は理由を知られたくないらしいから、それを問うつもりはない。
 ないのだけれども、何とはなしにすばるを見やって、それに気付く。

「すばる、その頬の傷――」

 彼の頬に走るそれ。
 瞬間。足は勝手に動いていた。
 すばるに近寄って、それを覗き込む。

「つば――」

 急に近寄ってきたつばさにすばるは硬直。
 近付いて来る顔に息を詰まらせた。
 そんな彼女の手が頬に触れて。
 ぴくりと身体が小さく震えた。

「この傷、痛む……?」

 まるで吐息のような彼女の声。
 それでも、確かな響きを持っていて。
 その声が不思議と、火照った気持ちを冷やしていった。

「いや、もう痛まねーよ……」

 橙の瞳がゆれる。その中で、幾つもの街の灯り、光の装飾が動いていた。

「――ごめんね」

「……は? なんでお前が謝る?」

「だってすばる、電話で言ってた。いろいろあったって……」

「ん? ああ……まあ、そーだけど」

 記憶を手繰れば、確かにそう言った覚えはあった。
 けれども、なぜ彼女が謝るのか。
 それとは繋がらない。

「いろいろあったって言ってたのに、私、すばるに八つ当たりした。だから、ごめん」

 目を伏せるつばさ。

「こんな、怪我するくらいな何かがあったんでしょ?」

 よく見れば、頬だけじゃない。
 つばさの瞳が動く。
 腕とか、服から出ている肌の部分。
 そこに深くはないけれども、小さな裂傷のような傷が幾つも視認できる。
 そっと、腕のそれにも触れた。
 触れた感触。きちんと手当てはしてあるようで。
 小さくそっと、安堵の息をこぼす。
 けれども、彼からこぼれた言葉で息を詰めた。

「気にすんな。ちょっと森でポケモンに襲われただけだし」

 つばさの喉がひゅっと鳴った。

「まあ、それも勘違いだったみてーだしな――」

 だから、大したことない。
 と、すばるは言葉を続けようとして、続けられなかった。
 見開かれた橙の瞳。
 そこに。心配だとか。不安だとか。
 もしかしたら、怖れだったのかもしれない 。
 そんな何かが揺れ動いていた。

「大丈夫だっつーの。こんなのわりとあることだぞ?」

 努めて、明るい口調で伝える。

「慣れてる」

 すばるから放たれたその一言。
 けれども、そのたった一言には、つばさが衝撃を受ける程の威力を持っていた。
 見開かれた橙の瞳から、はらはらと何かがこぼれ落ちる。

「慣れてるって……慣れてるって……」

 わなわなと震える唇から、同じ言葉を繰り返して。
 つばさはふるふると首を横に振る。
 だって。慣れてるって。
 それはつまり、慣れるだけの経験があったってことで。
 それだけ場数もあるってことで。
 もしかしたら、自分が知らないだけで。
 今日以上の怪我を負ったことも、あったのかもしれない。
 そこまで考えが至って、さあと血の気が引いていく音を耳にした気がした。
 刹那。あたたかな感触が頭に触れた。
 少しだけ視線を上に動かせば。
 それが重なったとき、ふわりと桔梗色の瞳が笑んだ。

「わりとあるってだけで、しょっちゅうじゃねーし」

 頭に乗せられた手が、宥めるように幾度と優しく撫でる。

「それに俺には、ふうもいて、あるばもいて、ほたるもいて。まあ、つまり、俺は一人じゃねーからさ」

 ぽんっ、と一つ。彼が頭に手を置いた。

「あんま、心配すんな」

 つばさの顔を覗き込んだ桔梗色の瞳。
 それが、穏やかに細められる。

「な?」

 こくりと小さく頷いたつばさ。
 それに満足したすばるが顔を上げた時。
 こちらを睨む隼を見つけて、思わず身構えた。

―――すばるがつばさちゃん、泣かせた

 きろっと睨むファイアローに。

「おい、今のはちょっと待て」

 眉間にしわをよせたすばる。
 つばさの頭の上に乗せていた手を下ろして。

「これはあれだろ?」

―――あれって? つばさちゃんが泣いたのは事実じゃんっ

「――――っ」

 彼へ詰め寄ろうと、すばるは彼女の横を通り過ぎる。
 けれども、通り過ぎたところで。

「!」

 すばるの身体がつんのめって、寸前のところで踏みとどまる。

「つばさ……?」

 戸惑いを含んだ声。
 すばるはそっと、自身の腰に回されたつばさの手に触れた。
 そんな彼の後ろから抱き着いた形になるつばさは。
 こつんと彼の背に額を当てて。

「安心はできるかもしれないけど」

 くぐもった声が空気を震わせる。

「心配するなっていうのは、無理だよ」

 ぎゅっ。すばるの腰へ回す腕に力がこもった。
 それに息を、言葉を詰まらせたのはすばるで。
 びくっと身体を跳ねさせた。

「でもね」

 続けられるつばさの言葉に、すばるは肩越しに彼女を見やる。

「それですばるに、傍に居てっていうことでもないの」

 つばさは知っている。
 彼が外の世界への興味を手放せないことを。
 彼が外の世界への好奇心を抑えられないことを。
 だから、飛び出す。だから、旅をする。
 それが彼――すばるだから。
 外に飛び出して、その一面に触れて怖じ気づいた自分とは違う。
 だから、彼にはそれを大切にして欲しいと思っている。
 彼の邪魔をしたいわけではない。
 ただ、彼に知っていて欲しいだけ。
 ただ、彼に覚えていて欲しいだけ。

「だだ、ね。私が心配してるってことを、知っていて欲しいだけ。覚えていて欲しいだけなの」

 つばさを見やる桔梗色の瞳が瞠目する。
 そして、ゆっくりと視線を戻して、伏せられて。
 触れていたつばさの手を握った。
 背中越しに彼女の身体が震えたのが分かった。

「知ってる。覚えてる。だから、俺はお前のところに帰るんだ」

 はっと息を吐き出した音は誰のものか。
 ただ、つばさがすばるへ身体をくっつけて。
 互いのそれを引きよせたのは確かだった。

「すばる、汗くさい」

「わりーな」

「ん。別にいい」

 つばさとすばるは、互いにそれ以上の言葉は発しなかった。
 もう、必要なかったし。それで良かったから。
 静かに光を落とす月と。穏やかな川のせせらぎ。
 それから、遠くからの賑やかな喧騒と。
 揺れ動く街の光。それが装飾となりて、賑やかせている。
 風がぶわりと吹いて、その場の者達を撫でて行く。
 それにつられて空を仰いだファイアロー。
 その時、とあるものを見つけて瞳が瞬いた。
 一瞬首を傾げ、目を凝らして見てみるも。
 やっぱりそれはそれだったから。
 もう一度反対に首を傾げて、とりあえず、それを拾ってくることにした。
 それで、先程からずっとその姿のままのすばるとつばさを。
 特にすばるの方を睨んで、ファイアローは両翼を広げ、ふわりと舞い上がった。
 その勢いのままに、彼らの頭上を通り過ぎる際、軽く脚ですばるの後頭部を蹴った。

「――ってーっ!!」

 飛び出た彼の叫び。それは無視。
 けれども、そんな彼から身体を離したつばさはしっかりと確認する。

「イチ……?」

 彼女の呼びかけ。
 それにはきちんと返す。

―――木に引っかかってるりんくん見つけたから、ちょっと拾ってくるねー

 と、ファイアローは飛び去って行った。

「は……? りん?」

 困惑だけがその場に残った。
 木に、引っかかってる。何が。彼が。なぜ。
 いや、困惑というか疑問だけが残る。
 しばし頭を捻っていたつばさ。
 だが、背後で悶えるすばるの声に我に返る。
 慌てて彼に駆け寄り、大丈夫かと問いかけた。
 後頭部を手で抑えてうずくまる彼。
 その手に触れて、彼の後頭部の状態を確認しようとした。
 こぶが出来ているのかもしれない。
 けれども、つばさが彼の手に触れたところで。

「――――!」

 つばさは息を詰まらせる。
 かっと熱が弾けた気がした。
 思い出すのは、自身の手に触れた彼の手の感触と。握り返してくれたその感触。
 それから、自分から引きよせた彼の感触、熱はまだ腕の中に残っている。
 今更ながらに羞恥の気持ちが競り上がってきて。
 それが熱となって弾けた。
 咄嗟に触れていた手を離す。
 けれども、離れかけたところで今度は彼の手に掴まれてしまって。
 驚きで小さく、悲鳴のような声がもれた。
 その瞬間、彼の方からはっとするような声が聞こえて。
 掴まれていた手が放される。
 彼の様子をちらりと伺えば、耳まで熱で染める後ろ姿があった。
 掴まれていた手の感触。それが何だか名残惜しくて。
 つばさはそっと、もう一つの手で自身のそれを握った。
 逃がさないように、と。
 さわっと風が遠慮がちに吹いて。
 その風が、つばさの耳に音を運ぶ。

「――……され……まった……」

 すばるの声だ。

「すばる?」

 名を口にすれば、ぴくりと彼の身体が跳ねた。

「何か言った?」

「あ、ああっ。……いや、その、ニアがな」

 がばっと勢いよく立ち上がったすばるは、つばさの方へ振り返る。

「もふっとしてーんだろって言うから」

「もふっ?」

「けど、逆にもふっとされちまったなって……思って……」

 後半になるにつれて言葉尻が萎んでいく彼の声に。
 つばさがこてんと首を傾げれば。
 頬を朱よりも、さらに深味ある色に染めた彼がぱっと視線をそらした。

「こっちの話だ。忘れろ」

 顔もそらされてしまえば、影になった横顔からその表情はもう分からなかった。
 けれども、その影の中でも。彼のその熱は見えた気がした。
 それがまるで、伝熱のように。ちりりとつばさの身も焼いた。
 時折吹き抜ける風が冷たくて心地よい。
 熱を逃がさないようにと握った自身の手。
 それをきゅっと握って、つばさは口を開く。

「ねえ、すばる」

 空気に溶けるような、そんな柔らかな声音だった。
 幾分か下がった熱に安心しながら、すばるの桔梗色の瞳が動く。

「…………」

「さっきの言葉の意味、深く捉えてもいい?」

「さっきの言葉……?」

 眉をひそめるすばる。

「すばるが私のところに帰るんだって言葉」

「…………深くもなにも、そのままじゃん。俺の帰る場所はつばさのとこだし」

 桔梗色の瞳が瞬く。
 深くとは一体どういう意味なのか。
 困惑気な雰囲気をまとうすばるに、つばさが小さく口を尖らせる。

「だから、すばるの帰る場所が私のところなら、すばるも一緒にシルベで暮らすってことでしょっ」

 不貞腐れた響きの彼女の声に。

「は……?」

 思わずもれたすばるの、間の抜けた声。
 だが、つばさの言葉をじっくりと噛み砕いた彼は。

「はあ!?」

 素っ頓狂な声をあげる。
 びりりとその場の空気が震えた気がした。

「なんっ、な、なんでそーなんだよっ!」

「だって、そういうことになるじゃんっ!」

「なんねーよっ!」

「なるもんっ!」

「物理的じゃなくて、こう、内面的な、気持ち的なあれだっつーのっ!!」

 ふーふーと、互いに息を荒くさせての言葉の往来。
 けれども、ここでつばさがふつりと黙った。

「つばさ?」

 すばるが呼びかけるも、返事はない。

「つばさ」

 再度呼びかけた時。今度は動きがあった。

「すばるは、物理的なのは嫌なの……?」

「え」

 うつむいたつばさ。
 上目遣いになった橙の瞳が、静かに揺れていた。
 どくん、と跳ねた心臓を抑えて。
 すばるは視線をあちらこちらに彷徨わせながら、言葉を紡ぐ。

「嫌とか、そんなんじゃないっつーか。その、俺も……だけど……」

 ぱっとつばさが顔を上げる。

「でも、俺達って、ただの幼馴染じゃんか」

 そらした桔梗色の瞳。
 そりゃ、その関係からは脱したいけどさ。
 ぽつりと呟いた一人言。
 声が小さかったようで、つばさには届かない。

「――すばるのばか」

 彼女のその声も、風に溶けてしまいそうな程に、小さな声だったのだけれども。
 それでも、その声はしっかりと、確かに彼に届いた。
 そらされた桔梗色の瞳が動いた。

「私、知ってるんだからね」

「な、何を……?」

 すばるを真っ直ぐに見据える橙の瞳に。
 その中に宿る力強さに、彼は思わず怯む。

「すばるって、私のこと好きでしょ?」

 ごほっ。すばるがむせた。

「な、何を急に」

「急にじゃないもん。昔から知ってたもん。さあ、好きか嫌いかで言えば?」

 むっとした響きをはらんだ声に。
 一歩踏み出し、すばるとの距離をぐっと詰めるつばさに。

「…………好き、だな」

 しどろもどろになりながらも、何とかそれだけを形にしたすばる。

「よし」

 満足気な光を宿した橙の瞳。
 安堵とも、疲れともとれる息を吐き出したのは。さて、どちらなのか。

「ね、問題ない。これで“ただの”幼馴染じゃない」

 少しだけ距離を離したつばさが一つ頷く。

「いやいやいやいや」

 展開に思考が追い付かない。
 だって、まあ、確かに。
 互いの気持ちは知っていたし、知っているだろう。
 それでも、互いに長い間そこから動かなかった。カタチに、言葉にしてこなかった。
 それは内面では知っているけど、表では知っていないということで。
 それをなんで。そう、簡単に壊そうとするのか。
 最早、きちんとした言葉が出てこないすばる。

「む、まだ分かってない?」

「いやいやいやいや」

「すばる?」

「いやいやいやいや」

「…………」

 同じことしか繰り返さない彼に肩を竦めて。

「すばるは私が好きで、私はすばるが大好きで、これでお互いの気持ちを“知った”わけで。なら、もう“ただの”幼馴染じゃないよね」

 事も無げにそんな言葉を彼女が放るから。

「ああああ……」

 すばるがその場に踞って、頭を抱えるはめになるのだ。
 確かに自分は思っていた。今の関係から脱したいと。
 けれども、その関係はとても居心地が良くて。
 その関係が壊れるのは嫌だなと思ってしまった。
 それでも、その先に続くことを考えて、繋がりを変えたいと思った。
 なら、それを変えるためにはどう動けばいいのか。いいのだろうか。
 そう悩んでいたのに、悩んでいたのが馬鹿みたいではないか。
 こうも簡単に、あっさりと。容易く。
 その境界線を踏み越えてしまう。
 顔を上げたら、こちらを覗き込もうとした彼女と目が合った。
 そんな彼女の顔を恨めしそうに見やる。

「何かムカつくよな、お前」

「は?」

「ホント、ムカつく。ああっ! ホント、ムカつくっ!」

「――は?」

 少しだけ彼女の声に怒気がはらんできたところで。

「こっちの話だ。気にすんな」

 気持ちに区切りをつけるべく。
 すっくと立ち上がり、つばさに背を向けた。
 けれども、そんな彼の手を。
 手を咄嗟に掴んでしまったのは、今度はつばさだった。
 すばるが振り返ったのは反射だ。
 絡まる桔梗色と橙の瞳。視線。
 熱を含んだそれらが絡まり、ほつれて、また絡んで。
 夜の静寂に、じんわりと熱が伝わり始めた頃。
 堪らなくなって手を放したのはつばさだった。
 絡んでいたそれがほつれる。
 だが、ほつれた先を手繰りよせたのはすばるだ。
 自身の手を放した彼女の手を、今度は彼が掴んでそのまま引き寄せる。

「あ」

 と。彼女が吐息混じりの声をもらした時には。
 すっぽりと彼の腕の中におさまっていた。
 背にまわされた彼の手。
 頬に触れるのは、彼の胸板。
 その硬さに、思わず身体が震えた。
 瞬時に頬が熱を灯して、彼の腕の中で身動ぐ。

「は、放して……」

 思ったよりも情けない声だった。

「やだ」

 彼の声が響く。
 いつもよりも近くで聞こえる声に。
 いつもよりも近くで耳を震わす声に。
 堪らずにきゅっと目を瞑った。
 同時に、ぎゅっと自分を包む腕の力も、ちょっとだけ強くなった。

「つーか、今は俺の顔を見ねーで欲しい」

 響く声に、耳を震わせるその声に。
 身を硬くしながら、声を返す。

「な、なんで……?」

「たぶん、俺。今は浮かれてっから、ニヤついてんのかもしんねーし、つか、ニヤついてんし」

「それはちょっと興味あるかも」

 彼の腕に包まれている、という状況の恥ずかしさよりも。
 彼のその表情への興味が勝った瞬間だった。
 ぐっと自身に力を込め、彼の腕から抜け出そう動く。
 けれども、敏感にそれを察知した彼が、彼女の後頭部を手でしっかりと抑え込んでしまう。

「今はちょっと勘弁」

 動きを封じられたつばさ。
 頬が彼の胸に押さえつけられる体勢になる。

「気になるんだけど」

 それでも諦めずに動こうとしたが、身動ぎだけで終わってしまう。
 自分と彼――すばるとの力の差を実感して、妙に心臓が跳ねた。
 分かってはいたが、改めてすばるが“男の子”なのだと思い知らされる。
 否。年齢的には、すでに青年の域に達するはず。
 幼い頃からの付き合いで、同じだけの時間が流れているはずなのに。
 決定的に違うそれは、つばさをどきどきさせるには十分だった。
 鼓動が早鐘を打ち始める。
 つばさの思考が、うわあ、と叫び始めた頃。

「ニヤついた顔なら、この先飽きるほど見せてやるから」

 すばるの熱のこもった息が耳にかかって。
 くしゃっと。彼がつばさの髪に顔を埋めた。

「だから、今は――」

 うわああああ。と、つばさの思考が絶叫している中で。
 つばさは自分のとは違う鼓動に気づく。
 自分と同じように早鐘を打つ鼓動。
 いや、もしかしたらそれ以上の速さかもしれない。
 それが肌を通じて伝わる。
 これは、すばるの鼓動だ。
 それに気付いた途端に、不思議とあれほど叫んでいた思考が落ち着き始めた。
 すっかり落ち着いた頃には、彼の鼓動が心地よくなっていた。
 少しだけ身動ぐと、今度は腕の力をゆるめてくれたから。
 だから、つばさはそっと自身の腕を彼の背中にまわしてみた。
 彼はびくりと身体を跳ねさせたけれども。
 応えるように、ぎゅっと腕に力を込めてくれた。

ばす ( 2019/10/11(金) 19:35 )