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ティータイム 6th time-イチ-
60-1杯目 指針

   ◇   ◆   ◇



 ぴちゃ。ぱちゃ。ぴちゃ。ぱちゃ。
 石畳で舗装された街の道。
 ひんやりとした空気に包まれた中。
 つばさは水溜まりに構わず、夜の街を歩いていた。
 あたたかく灯りを落とす街の街灯が、つばさの金の髪を橙に染めて。
 そんな彼女の隣で、ブラッキーも共に歩く。
 時折、つばさが飛ばす水溜まりの飛沫を迷惑そうに避けながら。

《おい、いい加減にしろ》

 ぎろりと鋭い視線をつばさへ向ける。

「だってー……」

 不貞腐れた声に、口を尖らせたつばさは。
 えいっ、と小さく跳ねて、目の前の小さな水溜まりに飛び込んだ。
 ばしゃっ。思ったよりも大きな音が響いて、驚いた水面が飛沫を飛ばす。

《――――》

 傍のブラッキーが吐息をもらした。
 襲いかかった飛沫が、彼を包む夜闇色の体毛を濡らしたのだ。
 藍から深いそれへと染まる空に瞬くものと同じ色の瞳。
 それが、ぎろっとつばさを睨んだ。

「……あはは。るんるん、ぴちゃぴちゃ、たのしーなあー……」

 直ぐ様、ブラッキーから視線をそらしたつばさは。
 明後日の方向を向いて、感情の込もっていない即興の歌を口ずさむ。

「らんらん、るんるん、あめあがりー」

 とたとたと歩みを再開させる。
 それを半目で睨みながら、彼はぶるりと身体を振って水気を飛ばした。
 少しだけ駆けて彼女の隣に追い付いた時。
 若い男女とすれ違った。
 何となく目で追ったブラッキーに気付いたつばさがぽつりと呟く。

「春告げ祭りは今日だっけ」

《春告げ祭り?》

「そう、メイン会場はあそこ」

 と言って、つばさは親指をくいっと後方へ向けた。
 振り返ったブラッキーが小さく目を見張る。
 つばさが示したのは、この街の中心部に位置する大広場。
 植えられた、大きくて太い木。
 そこをぐるりと円を描くようにして舗装された石畳の道。
 そこから伸びる幾つもの道が、この街のメインストリートとも呼ばれる大通りになっている。
 と、それはいいのだが。彼が小さく目を見張った理由は。
 大広場に植えられた大きな太い木。
 祭りらしく、鮮やかに飾られているのだけれども。
 その頂点を飾る、星形の電光装飾の主張が激しかった。
 ぴかぴか光るお星さま。
 それは、たぶん。冬の一大行事の飾りが合っている気がした。
 春の要素が皆無な飾り付けに、彼はあまり気にしないことにした。
 周りの様子を伺えば、大広場に向かう人達とすれ違う。
 親子連れ。楽しみだな、と呟きながら駆けて行く子供達。ポケモンを連れて歩く男性。
 様々な人達とすれ違うが、皆、大広場に向かっているのは同じだった。
 空気が高揚しているのが感じ取れる。
 うきうき。わくわく。どきどき。楽し気な雰囲気が伝わって来る。
 その中でも異様な存在だったのは。
 大広場に背を向けて歩く、彼らだった。
 すれ違う人達が時折、不思議そうな視線を向けてくるのには気付いていた。

「りん、ちょっとそこの角で曲がろうか」

 だから、居心地の悪さを感じていたブラッキーも。
 つばさのその言葉に素直に従った。
 大通りから外れた細い小道。
 小道でも、カフェや雑貨屋の在る通りなため、日中ではそれなりに賑わいのある道。
 けれども、今は閉店時間を迎え、さらに皆は祭りに出払っているようで。
 しんっと辺りは静まり返っていた
 大通りから聞こえてくる喧騒。
 それが、この小道を別世界に切り取ってしまったように。
 より、静けさを際立たせてもいた。
 それでも、今の彼らにとっては、その静けさは心地がよかった。

「雨、あがってよかったね」

 空を仰いだつばさがぽつりとこぼす。
 大通りに並ぶ屋台。大通りを彩る装飾に、光が飾る電飾。
 大がかりな準備は何週間も前から。
 細かな準備はここのところ数日で行われていた。
 雨が降り続いていては中止だっただろうが。
 ぎりぎりのところであがってくれた。
 皆の準備が無駄にならなくて良かった。
 それはつばさが確かに思ったこと。でも。それでも。
 橙の瞳がゆらめいた。そこに、拗ねの色が滲む。

「すばるのばーか」

 彼への文句は、ひゅうと吹き抜けた風が拐っていった。
 先程まで抱えていた彼への怒の気持ちはとっくに消えていた。
 その代わりに燻るのは、たぶん、寂しさ。

《ああ、誘うつもりだったのか》

 納得したような声音に。
 視線を落として、ブラッキーを見やる。
 彼の輪模様が淡く明滅を繰り返していた。
 それは、シンクロの作用を意味するもの。
 けれども、別段驚きはしない。不快を感じてもいない。
 心を覗かれている感覚はあったから。
 つばさは俯いて歩きながら、ぽとりぽとりと言葉を落として行く。

「まあ、約束なんてしてないし、誘ってくれるのを待ってたなんて、私の勝手だし」

 そうだ。一緒に行きたかったのならば、自分から誘えばよかったのだ。
 なのに。もしかしたら、彼も同じ気持ちかな、なんて。
 もしかしたら、彼から誘ってくれたりするのかな、なんて。
 淡い期待に胸を膨らせていたから、こんなことになるのだ。

「一緒に行きたかったなあ、なんて思ったって、察してよって喚くのとは違うと思うし」

 そもそも、思ってることの全てを察してよなんて、ただの我が儘だ。
 とぼとぼと歩くその足音は。
 どこか寂しげに響いて聴こえた。

《なあ》

 そこに、ブラッキーの声がするりと滑り込む。
 橙の瞳が動いて、彼の足はぴたりと止まった。
 半瞬遅れて、つばさの足も止まる。
 金と橙の瞳。二対の視線が絡み合う。

「何? りん」

《いや、前から気になっていたんだ》

「……?」

《お前の指針》

「指針……?」

 眉間にしわを寄せて首を傾げるつばさの姿に。
 ブラッキーは、ふっと笑いを一つする。

《今のお前は、何を指針にしている?》

「だから、何の――」

《――ポケモンリーグ》

 つばさの言葉を遮って発されたブラッキーの言葉。
 それに、つばさの肩がぴくりと小さく跳ねた。

《子供だったお前は、それを指針としていた。ならば、子供ではなくなったお前は、今は何を指針とする?》

 真っ直ぐ見上げる金の瞳。
 ひゅっと小さく吹き抜ける風が、遠くの賑わう気配を連れてくる。
 ついでとばかりに、つばさの金の髪もゆらして去ったあとは。
 少しだけ痛みを感じる静寂が降り積もる。

「私の、指針――」

 小さく呟いて、不意につばさは空を仰いだ。
 夜闇色の空に瞬く星と、月。
 雨に洗われた空は、いつもよりもよく見えた。

「ちょっと、場所を変えよう」

 ブラッキーへ再び視線を落として、つばさはふふっと笑った。



   *



 川のせせらぎに耳を傾けながら。
 つばさは橋の欄干に手を置いた。
 ふわりと飛び上がって、欄干に飛び乗ったのはブラッキー。
 橋から見える景色は、きらきらとしていた。
 大広場が遠目から望めるそこは。
 光で飾る装飾に彩られた景色が広がる。
 一人と一匹の視線は、自然と橋の下を流れる川に注がれた。

「この川をライラに乗って上って、それが始まりだったよね」

《ああ、“今”のな》

 橙の瞳が瞬いて、ブラッキーを見やった。

「うまいこと言うね。何かその言い回しカッコいいじゃん」

 くすりと一つ笑う。
 そして、再びつばさの視線は川に注がれる。

「この川を上って、いろいろと壊れたわけだけど」

 隣で、小さく息を呑む音がした。

「その壊れた先にね、見つけたことがあるの」

 金の瞳が瞬く。
 その中に、怯えの色が滲んだ。

《何を、と訊いてもいいか?》

「うん。たぶんね、それが私の指針なんだと思う」

《?》

「壊れてからね、ずっと迷子みたいな気持ちだった。それまで、そっちばかりを見て歩いていたんだもん。いきなりそれがなくなっちゃえば」

 そりゃ、迷子になるよね、と。
 つばさはブラッキーの方を向いて苦笑する。

「でも、その彷徨っている中で見えたこともあるんだ」

 空を仰ぐ。
 仰いだ先の星は賑やかに瞬いて。
 月は静かに光を落としていた。
 彼女につられてブラッキーも空を仰ぐ。
 彼の輪模様が月に呼応するように。
 仄かな明滅を帯びながら淡く光る。
 その気配を感じながら、つばさは穏やかに目を細めた。

「ほら。あの頃ってさ、すばるがよく連絡してきてくれたじゃん?」

《ん。ああ、そうだったな》

 それはブラッキーも知っている。
 同時に、すばるに感謝もしていた。
 あの頃の自分では、まだつばさを支えるのには不十分で。
 すばるからの連絡で、やっと“素直”に笑えるようになったつばさ。
 それまでは笑っているようでも。
 それは。ただ“笑っている”だけだった。
 それが、やっとちゃんと笑えるようになったのだ。
 話していたことは他愛のないことだったとは思う。
 今日はお互いにどんなことをして過ごしたのか。
 その中で何を感じて、何を思ったのか。
 たった、それだけだったようだけれども。
 つばさにとっては――。

「――って、思ったの」

 つばさの声に、ブラッキーがはっとする。
 いつの間にか思考の海に浸かっていたようだ。
 気がつけば、くるりと身体の向きを変えて。
 欄干に背をもたれさせた彼女が、こちらへ視線を投じていた。

《つばさ……》

「りん、聞いてなかったでしょ?」

《……すまん》

「いいよ、別に」

 再び、つばさは空へと視線を投げた。
 ブラッキーも同じく見上げたところで。

「私の指針は、あいつなんだと思う」

 その声は、何だか鮮明に聞こえた。

「壊れた先に居たのは、あいつだった。すばるだったんだ」

 金の瞳がつばさを映す。

「気が付いたら、私はすばるの方を向いて歩いてた。迷わずに歩いてた。――でもさ」

 不意に彼女は苦笑をもらす。

「すばるって、いつ帰って来るか分からない存在じゃん。なら、あいつを目指して歩くよりも、あいつの帰りを待ってた方がいいじゃんって思ったの」

《それが、お前の指針か――》

 彼女の言葉を、引き継ぐような形で言葉にしたのはブラッキー。
 橙の瞳が静かに動いた。

「私が立ちたい場所は、昔からすばるの隣。これだけは、この先もずっと変わらないような気がする」

 口の端に小さく笑みを乗せて、つばさは続ける。

「カタチが変わったとしても、ね」

 ふふっ、と笑うつばさを視界にとらえて。
 ブラッキーは目を細め、穏やかに笑んだ。

《そうか》

 つばさの中でぶれることのない、確かなそれがあるのならば。
 ならば、もう。自分はそんなつばさの傍に在るだけでいい。
 そして同じく、自分もあの存在の、彼女の帰りを待てばいい。
 つばさの傍が、自分の在る場所。
 それは自分にとっても、これまでもこれからも変わらない――たった一つのこと。
 だから、彼も。そのたった一つのことに気付ければいいのだけれども。

《――イチは、何をしているのだろうな》

 呟いた言葉は、意図したものではなかった。
 ただの、一人言のようなもので。
 けれども、それをしっかりと聴いたつばさは眉間にしわを寄せた。

「そうだよ、イチだよ」

 途端に機嫌を悪くしたつばさ。

「連絡を忘れてたすばるもだけど、帰って来ないイチもイチだよ。雰囲気的にすばると一緒な感じだったけど」

 いつもならば。
 つばさちゃん、つばさちゃん。
 と、時折煩く感じる程に名を呼んで。
 すり寄ってきて、えへへと笑って。
 鬱陶しいからと少し邪険に扱えば。
 しゅんっと落ち込んだり、頬を膨らませたり。
 それほどに好いてくれているのに、何で帰って来ないのか。
 すばると一緒に居たようだし、何だかもやもやとする。

「もしかして、すばると居た方が――」

 彼はいいのだろうか。
 唐突に辿り着いたそこ。
 そうしたら、一気に不安になった。けれども。

《それはない》

「……りん?」

 ブラッキーの方を向けば、力強い何かを宿した金の瞳が在った。

《イチにとってお前は絶対だ。あいつにとって、お前だけが唯一だ》

 だから、大丈夫。
 そう、ブラッキーは言葉を結んだ。

《だが、勝手に居なくなるな、とは言ってもいいとは思うけどな》

「そ、それはそのつもりだよ」

 ふいっとつばさはブラッキーから目をそらした。
 絶対、とか。唯一、とか。
 そんな言葉が、じわりと溶けては広がる。染み渡るように。
 自惚れるつもりはないが、そう思っていてもいいのだろうか。
 そもそも、だ。
 ここまで考えが拗れてしまったのは、彼が帰って来ないからだ。
 そうだ、全て彼が悪いのだ。
 早く帰って来ればいい。そうしたら、うんと文句を言ってやるのに。
 空を仰ぐ。腹が立つくらいにきらきらと瞬く星。そこに。

「あ」

 一つの点を見付けた。
 つばさの声に促されるように。
 ブラッキーも空を仰いで、目を凝らした。

《ん》

 不意にブラッキーの耳がぴくりと動いた。

「どうしたの?」

《いや、何か聞こえないか……?》

「ん?」

 彼に言われて、つばさも耳をすましてみた。
 彼女の耳に届くのは。
 傍の川のせせらぎに。遠くの人々の賑わい。
 けれども。別のところの、その中に、微かなそれが混ざる。

―――……ァァァ

「――確かに、聞こえるね」

《だろ?》

 一体、何だろうと。互いの顔を見合わせた。
 けれども、同時につばさは眉をひそめる。
 今のは“聞こえる”と言ったが、この感覚は“聞こえる”というよりも。

「それに、この声どこかで聞き覚えがあるけど。――いや、聞き覚えというより、聴き覚え……?」

 そう、この感覚は“聞こえる”というよりも“聴こえる”。
 記憶の海からそれを拾い上げようと、つばさは思案するように指を顎に添えた。
 何かが思い出される。
 こう、もふっとして。こう、ふわっとして。
 難しい顔をして、橙の瞳が細められる。
 そう、こう。もふっと、ふわっとした。
 そう、白のあれだ。元気のある、白の。
 あ。と、橙が見開かれたのと。

《おい、つばさ》

 焦燥の滲んだブラッキーの声がしたのはほぼ同時だった。
 視界の端で、彼の金が空を仰いでるのをとらえて。
 反射的につばさも視線を空へ投じた時。
 それは今度ははっきりと聴こえた。

―――パパァァァーーっ!

 空に浮かぶ一つの点。
 それは黒だと思ったのだが違った。
 優しい夜闇の空に映える、一点の白。
 それがだんだんと大きく見えるのは、気のせいではない気がする。

「あれ、落ちて来てるよね?」

 思わず半目になったつばさが隣に確認する。

《そうだな、満面の笑みで落ちてるな》

 心なしか、遠くを見ている目をするブラッキーが答えてくれた。
 遠くを見ている目。
 というのが、物理的な距離ではないのは察して欲しい。

「私の落下予想地点はりんだね」

《いや、お前かもしれない》

「いやいや、パパってご指名くださってるじゃん? ラテのパパさん」

《…………》

「羨ましいね。あんな遠くから、思いっきり飛び込んでくれる程に想われてて」

《…………俺には重すぎる》

 呑気に繰り返されている会話。
 のように思えるが、その間でも上から降る彼女の声は彼らに届いている。
 そして。ブラッキーが座していた体勢から腰を浮かして。
 つばさが持たれていた橋の欄干から離れた時。
 ぴゅっ、と。気まぐれな風が、少しだけ強めの風を吹かせた。

「あ」

《ラテっ》

 二つの声と声が重なった。

―――わっ!

 と、驚いた幼子の声が響いて。
 ブラッキーへと向かっていた白イーブイの身体がふわりとあおられる。
 落下地点がそれた。このままでは――。
 それが最後のそこまで辿り着く前に、既に動いていた。動いてしまっていた。

《――っ》

 金の瞳がしっかりと白をとらえていて。
 中空でそれとすれ違う刹那。
 夜闇は足に在った硬い感触を蹴りあげた。
 同時に、かぱりと開いた顎。
 柔らかな白の尾を、確かに噛む。
 だが。幼子を捕らえられたところで、重力が増しただけ。
 すぐに浮遊感に包まれた。
 自身の持つ唯一の念の力――サイコキネシスを駆使すればよかった、と。
 どこか妙に冷めた頭で思うも、身体が勝手に動いてしまった以上は今更だ。
 エーフィのように、その力を自身に発動出来ればいいのだが。
 悔しいけれども、そこまでの力は自分にない。
 ならばせめて、水面に叩きつけられる前に――。
 捕らえた白を包み込むように、そっと懐へ抱き寄せようとしたところで。

「りんっ!」

 つばさの声がブラッキーの耳朶に叩きつけられた。

《なっ……! 馬鹿っ》

 金の瞳が見開かれる。
 咄嗟だったのだと思う。
 ブラッキーの瞳に映り込んだのは。
 橋の欄干から身を乗り出して、こちらへ手を伸ばすつばさで。

「ラテを放さないでよっ!」

 同時に、尾に痛みが走った。
 つばさが掴んだのだ。
 そう理解しても、身を包む浮遊感は終わらない。

《馬鹿かっ、お前ま――》

 お前まで落ちてどうする。
 そう紡ごうとした言葉が止まる。
 刹那的なことだったとは思う。
 見上げたつばさの顔。その彼女の口の端が不適なそれをのせた。
 そして、彼女の声が一つの名を乗せた。

「イチ」

 それは。叫ぶでもなく、怒鳴るでもなくて。
 そっと紡がれたように、優しい響きを持っていた。
 そっと、小さく紡がれたようにも思えたのに。
 遠くから、ぴいいっと確かに応える声がして。
 こちらへ急降下をする橙の隼を、ブラッキーは確かに見た。

ばす ( 2019/09/27(金) 14:35 )