ようこそ、喫茶シルベへ











小説トップ
ティータイム 6th time-イチ-
50杯目 ちいさなはじまり

 繋がりが名を変えるということは。
 “今”を壊すということ。
 それでも、変わらない確かなものは。
 たぶん、より強く繋がるのかな、と。
 自分は思うんだ。


 小さな変化は、少しずつ、少しずつ――。



   ◇   ◆   ◇



 ファイアローが朝になっても帰って来なかった。
 その事を知ったのは、起きてすぐのことだった。



 日が昇り始めた頃。夜明けの時間。
 喫茶シルベの二階。
 最初に目覚めたのは白イーブイ。
 まどろみに身をまかせ、むにゃむにゃと、ごろりと寝返りをうったとき。
 茶イーブイ枕から落ちて、ぽふっとベッド代わりのクッションで弾んで沈んだ。

―――むー……

 呻き声がもれて、前足で枕を探す。
 しばらく探して、前足に柔らかな毛の感触を見つけて、抱き寄せた。
 茶イーブイの尾を抱えて、顔を埋めて、肺いっぱいに息を吸い込んで。
 ふう、と深く吐き出す。

―――ふふっ……

 仄かな笑みがもれる。
 ああ、やっぱりこのにおいは安心する。
 眠気が重くなってきて、抗うことも諦め、そのまま沈みそうになってきた頃。

「ねえ、りん?」

 つばさの吐息のような声がした。
 いつもなら、それに構わず意識は底へと沈んでいくのに。
 その日は、その声一つで引き上げられた。
 無意識下に茶イーブイの尾を口元へ押し当てる。
 静かにしないと。そう思った。
 耳だけを傾けて、息をひそめる。

《なんだ?》

 短い、応え。ブラッキーの声だ。
 つばさと父が話している。

「イチって、帰ってきた?」

《いや、まだだ》

「そう」

 その、つばさの呟きを最後に。
 つばさと父の会話は途切れた。
 きゅっ。と。抱えた茶イーブイの尾を強く抱き締めた。
 何の話をしていたのだろうか。それが分からない。
 ファイアローが帰ってきていない。
 そういえば、昨日彼が出かけたままその姿を見ていない。
 帰ってきていないとは、どういうことだろう。
 どういうことだろうと考えても、どういうことだろうか。分からない。
 ただ、一つだけ分かることがある。
 と、不意に木目の床が軋む音がした。
 二つの足音が、横を通って、階段へ向かう。
 その間、白イーブイはずっと、茶イーブイの尾へ顔を押し付けていた。
 一人と一匹は白イーブイの様子に気付くことなく、階下へと降りて行った。
 それを音で確認して。そのあともしばらくは息をひそめて。
 十五程呼吸を数えた。数えようとした。けれども。
 七つまで数えて、六と七を三度往復して、十までやっと数えて諦めた。
 別に数えられなかったとか。そんなことはない。
 そっと、茶イーブイの尾から顔を離す。
 くるっと階段へ視線を向けて、たたっと駆けて階下を見下ろす。
 上がってくる気配はない。話している様子もなさそうだ。
 しばらく階下を眺めて、両耳と尾がぱたりと垂れた。

―――ラテ、むつかしいことはわかんないけど

 尾をゆっさゆっさと、何度も静かに揺らす。
 ざわっとして、気持ちが落ち着かなかった。

―――つばさおねえちゃんに、げんきないのはわかるの

 つばさの声音から感じた色は。
 たぶん、寂しさとか、悲しさとか。そんな色に近い。
 一度ざわついた気持ちは、そう簡単には落ち着いてくれそうもなかった。
 そんな時。ふわあ、と穏やかなあくびの音がした。
 白イーブイが弾かれたように振り返ると。

―――ふああ……。ん、あれ……ラテ、はやいね……

 あくびを噛み殺した茶イーブイが、目尻に涙をためながら。
 白イーブイの方へ視線を投じていた。
 白イーブイが駆け出したのは。
 たぶん。反射に近い動作だったのだと思う。
 駆け出した彼女は、そのまま茶イーブイの首もと目掛けて飛び付く。
 飛び付いて、彼のふわっとした首もとの長毛に顔を埋めて
 肺いっぱいに息を吸い込んで、安心できるにおいで心を満たす。
 それを何度か繰り返して、ざわざわとした気持ちが落ち着いて行くのを自覚する。
 落ち着いたところで、そろりと身体を離すと。

―――あ、ごめんね

 少しだけ顔を青白くした彼がいた。
 どうやら首を絞めていたらしい。
 そんな彼は、恨むような目付きで彼女を一回睨んだあと。

―――どうしたの? まだ、よあけじゃん

 少しだけ不機嫌な響きを持った声音。
 窓の方を見上げて、空の色を確認する。
 そして、何となくベッドの方へ視線を動かして気づく。
 つばさとブラッキーの姿がない。
 訝しげに首を傾げて呟く。

―――あれ? つばさおねえちゃんとりんパパは?

 いつもなら、まだ寝ている時間だと思ったのだけれども。
 彼がそう思った、刹那。

―――カフェっ!

 名を呼ばれた。だから、反射的に振り返ったところへ。
 再度彼女に飛び付かれた。
 反動で、背中から彼女ごと倒れ込んだけれども。
 幸いベッド代わりのクッションにいたので。
 床に背中を打ち付けることはなくて。
 それがぽふっと、柔らかく、優しく受け止めてくれた。

―――ちょっと、ラテ……

 すぐに抗議の声を上げたけれども。
 顔を上げた彼女の瞳を見たら、その言葉もすぐに呑み込んでしまう。
 ゆれる瞳で白イーブイは茶イーブイへと訴えた。

―――つばさおねえちゃん、げんきないの

 口をきゅっと結んで。

―――そんなの、ラテはいや

 つばさには笑っていて欲しいから。

―――どうすれば、げんきなる? ラテ、かんがえるのむつかしいから……

 考えるのが得意ではないという自覚はある。
 考える前に身体が先に動いてしまう。
 気持ちが先に走ってしまう。
 今も気持ちが先に走って、どうすればいいのか分からなくて。
 ざわざわと気持ちが疼いていた。それを落ち着けるように。
 彼を求める。たぶん、ここが。
 自分にとっての落ち着ける場所。安心できる場所。
 だって。ずっと。“いつも”が始まって、“いつも”が終わる場所は、ここだから――。
 その“いつも”を、たぶん。“日常”と呼ぶのだと、最近気付いた。
 白イーブイが見つめる先。茶イーブイの瞳が瞬く。

―――じょーきょーがよくわからないから、とりあえず、こっそりしたへいこっ

 茶イーブイの瞳に優しげな光が宿る。

―――ぼくも、つばさおねえちゃんにげんきがないのはやだもんっ

 刹那。白イーブイの中で、何かが熱を帯び始めた。

―――だから、いっしょにかんがえれば

 優しげな光を宿した茶イーブイの瞳。
 それが、ふわりと笑んだ。

―――だいじょーぶ

 瞬間。白イーブイの中で、その熱が爆ぜた――気がした。
 だって。仄かな柔らかな熱が、頬にぽっと優しく灯ったから。



   *



 ずっと前からそこに在ったもの。
 それが、熱を帯び始めた瞬間だった。
 まるで、気付いてよ、と訴えるみたいで。
 その感覚を、今でも鮮明に覚えている。
 彼の笑顔。それ一つで灯った熱。
 我ながらちょろかったな、と。
 今でも時々、彼を見つめながら思うのだ。

ばす ( 2019/06/19(水) 23:36 )