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ティータイム 2nd time-カフェ-
6杯目 ミルクのあじわい
 つばさは今、ポケモンセンターの受付にいた。
 ポケモンセンターとは、ポケモン専門医療機関。
 ポケモンについて困ったら、先ずはポケモンセンターへ。
 誰が言ったのが始まりか、大抵の人々はここに駆け込む。
 それはつばさも同じで。

「どうされました?」

 そうつばさに問うのは、ここのセンターの受付のお姉さん。
 であり、ここのセンターの女医さんだ。
 小さな街のポケモンセンター。
 他所のセンターと比べると、その規模は小さい。
 だが、この街では一番大きな医療機関。
 そして、なぜかな。
 この街のセンターのお姉さんは、小さな街のセンターに配属されたにしては、とても有能と評判で。
 受付、診察、治療、その他諸々。
 何事でもないかのようにこなしてしまう。
 そんなお姉さんだからか、常勤スタッフの姿は他に見たことがない。
 もしくは、お姉さんのサポートをするラッキーやハピナス達が優秀なので、他に常勤スタッフを必要としていないのかもしれない。
 そんなお姉さんが、再びつばさに問いかける。

「どうされました?」

 にこりと微笑む。
 それは、緊張しなくても大丈夫、そう語っている笑顔で。
 けれども別段、つばさは緊張をしているわけではなかった。
 その証拠に彼女の顔は、すごく難しい顔をしていて。
 そして、意を決して口を開くことにする。
 受付カウンターに身を乗り出すと。

「お姉さん、あの、実は…」

 勢いをつけようと身を乗り出したのだが、結局もごもごとしてしまった。
 落胆したように俯き、重い息を吐き出す。
 すると受付のお姉さんが、ふふっと小さく笑った。

「もう、何?つばさちゃん?」

 途端に、赤ふち眼鏡の奥にある灰白の瞳に、親しげな光が宿った。
 くすくす笑う様に、つばさは口をへの字にする。

「お姉さんが急に畏まるからでしょ」

 そう言い、口を尖らす。

「ごめんごめん。それで、何の用?」

 お姉さんが改めて問う。
 つばさはやっと肩の力を抜くことが出来た。
 お姉さんとは気心が知れた相手だ。
 それが急に畏まられると、戸惑ってしまう。
 お姉さんと初めて会ったのは、あの頃で。
 両手で抱えて駆け込んだ。
 ところどころが赤く汚れた、白銀の身体をその胸に抱いて。
 手は尽くしてくれた、でも。
 結局は間に合わなくて。
 彼は隻眼となった。
 そんな苦い出会いをしたのだが、いろいろとお姉さんは心を砕いてくれて。
 とても好きになった。
 つばさがこの街に留まろうと決めた、その一つがこのお姉さんだ。

「あのね、実はお姉さんに相談が…」

「いいのよ、相談なら何でもこいっ」

 軽くウインクを決めるお姉さん。
 ぱちっと音が聞こえてきそうで、星も飛んできそうな勢いで。
 何となく、ひょいっと身体を横へ倒した。

「………」

 沈黙するお姉さんに、つばさが申し訳なそうに言葉を紡ぐ。

「ごめん、星が飛んできそうだったから…」

 しばし、お姉さんは瞑目した。

「い、いいわよ。で、相談って?」

「う、うん。あのさ、お姉さんってポケモンに関することは得意だよね?」

「そうね。私はポケモンドクターで、スマートなお姉さんだもの」

 得意げに口を開き、どんっと胸を一つ叩く。

「では、そのスマートなお姉さんに質問があります」

 片手を上げて挙手姿勢のつばさだ。
 はい、どうぞ。
 そう言うように、お姉さんがびしっとつばさを指し示す。

「スマートなお姉さんは、モンスターボールにも詳しい?」

「そりゃ、ポケモンに関することだし、スマートなお姉さんだもの」

 きらりと赤ふち眼鏡が光る。

「では、そのスマートなお姉さんにお願いがあります」

「ん?お願い?」

 するとつばさは、おずおずと一つのモンスターボールをカウンターに置いた。
 それは収縮状態のボールだった。
 けれども、スマートなお姉さんは一目で見抜く。

「これ、内部でショートして開かない状態ね」

 肯定の意で、つばさは一つ頷く。

「やられたのは回路かしら。それなら修理するよりも、新しいものに交換…」

 する方がいいと続けようとしたお姉さんを、つばさが片手を上げて制した。

「それは分かってるんだけど、これ…」

「これ?」

「中身入りなの」

 中身入り。
 その言葉の意味を掴みあぐねて、お姉さんが首を傾げる。
 お姉さんの肩に届く白桃色の髪が、さらりとその動作に合わせて揺れた。
 不意にお姉さんが、つばさの背後へ目を向けた。
 その先にいたのは、ロビーで静かに待つ彼女のポケモン達。
 ファイアローが白イーブイの尾を足で掴み、その動きを封じていた。
 彼女が走り回ることへの抑止なのだろうが、当の彼女にとっては不服のようで。
 てりゃ、ちりゃ、と小さな四つ足で、ファイアローへ打撃攻撃を繰り出している。
 それを、おろおろと見守る茶イーブイ。
 やがて、その彼がお姉さんの視線に気付き、にぱっと顔を輝かせた。
 小さな彼の尾が左右に振られ、お姉さんはその愛らしさに、思わず頬が緩んだ。
 元気そうでよかった。
 初めてこのセンターに連れて来られたときには、とても鈍い光を、その小さな瞳に宿していて。
 それが今では、とてもきれいに輝いて。
 つばさに託してよかった。
 心の底から改めて思う。
 そこで、はたとして気付く。
 彼の姿がない。
 お姉さんが最もよく知る彼が。
 つばさのパートナーである、彼が。
 再びつばさに視線を戻して問う。

「もしかして中身って、りんくん?」

 灰白の瞳を見つめて、つばさはゆっくりと頷いた。



  ◇  ◆  ◇



 時は朝まで遡る。
 本日の喫茶シルベは定休日。
 休みの日は、いつもよりも遅くまで眠っていたい。
 今日は心置きなく寝坊する予定だった。
 だったのだが。
 布団の中から。

「………うっ…」

 呻き声がもれる。
 腹に衝撃を感じて目覚めたのだ。
 おもむろにまぶたを持ち上げると、白いものが視界を覆っていた。
 否、そこにくりんとした大きな瞳を見つけ、覗きこまれているのだと気付く。

「…………ら、て…?」

 眠たそうな声で名を呼ぶと、それはにぱっと笑顔を浮かべた。

―――つばさおねえちゃんっ!

 けれども、まだ夢半ばのつばさは、くしゃりとその頬を撫でただけで、すぐに夢の底へとおちてゆく。
 ぐいっと掛布を頭まで被ってしまう。
 だが、それを見過ごす白イーブイではなかった。
 口をへの字に曲げると。

―――つばさおねえちゃんっ!おねえちゃんっ!おねえちゃんっ!おねえちゃんっ!

 つばさの名を連呼すると、彼女の腹の上をぴょんぴょん跳び跳ねる。
 その度に掛布の中から、うっ、やら、ぐえっ、やらの潰れた声がもれた。
 それを何度繰り返しただろうか。
 だが、ついに決定打となる一撃が決まる。
 むむっと難しい顔をした白イーブイが、後ろ足に力を込めて跳躍する。
 そして、きらりと目を光らせ、着地地点を見定めて。

 どすっ。

 何とも鈍い音がした。
 勝ち誇った顔で着地を決めた白イーブイは、ふふんっと鼻をならして得意気だ。
 そして。

「………っ!!」

 掛布の中から悶える声が聞こえ、のろのろと手が伸びてくる。
 のそりと起き上がったつばさは、みぞおちを押さえながら唸った。

「………ら、てぇぇ」

 満面の笑みを浮かべる白イーブイがいた。

―――つばさおねえちゃんっ!あそぼっ!

 ぶんぶん振られる彼女の尾。
 つばさは鬱陶しそうな動作で前髪をかきあげると、壁掛の時計で時刻を確認する。
 確認して、目元が引きつったのを自覚した。

「嘘でしょ…」

 思わず呟く言葉は落胆の色で滲み。
 相も変わらずの白イーブイへと視線を向けた。
 この子供は、今の時間を分かっているのか。
 いつもなら、まだそこですやすやと眠っている時間だぞ。
 ちらりとクッションへ目を向ければ、丸まって眠る茶イーブイの姿がある。

―――あそぼっ!

 にぱりっ。
 そう笑う白イーブイを抱き上げる。

「ラテ。あなた、今の時間分かってる?」

 まだ早朝だ。
 言っている意味が分からないのか、彼女はにぱりと笑ったまま小首を傾げる。
 そこに。

―――あ、れ?つばさちゃん、早いね…

 寝ぼけ眼の声がする。
 ファイアローが起きたのだ。
 つばさは思わず遠い目をする。
 そうなのだ。
 毎朝ファイアローは、ミルクを配達してくれている。
 そのため、彼の朝はとても早い。
 朝早くにここを飛び立ち、牧場でミルクを受け取ったのち、ここに舞い戻る。
 それが習慣化された彼は、喫茶が定休日の朝でも、きちんと同じ時刻に目覚めるのだ。
 つまり、彼はこの中の誰よりも早起きなのだ。
 その彼が、今、起きたのだ。
 いくらなんでも、白イーブイが起きるには早すぎる。
 なぜ起きたのだ。なぜ。
 自分はまだ寝ていたい。
 本当なら、今日は心置きなく寝坊する予定だったのに。
 そして。

―――ねえーっ!あそぼおおっ!

 待ちくたびれた白イーブイが、抱き上げられた手の中で暴れ始める。
 一つ嘆息して、彼女を床に下ろした。
 期待の眼差しで見上げる彼女に、つばさは小さなボールを手に持った。

「パパに遊んでもらって」

 そう言うと、ボールを床に転がす。
 正確に言うと、パパが入ったモンスターボール。
 収縮サイズのため、白イーブイが追いかけるのには適した大きさ。
 それを転がせば、彼女は、きゃー、と嬉々して追いかけ始める。
 これでしばらくは大丈夫だろう。
 ありがとう、パパ。
 彼女に困ったら、先ずはパパ。
 ラテの取扱説明書の一文だ。
 さあ、寝よう。
 掛布を被り、眠り始める。

―――きゃーっ

 ころころころ。
 とたたたたっ。

 次第に意識は夢うつつの狭間に。

―――きゃーっ

 ころころころ。
 とたたたたっ。

 狭間に。

―――きゃーっ

 ころころころ。
 とたたたたっ。

 かっと、つばさの橙の瞳が見開かれ、がばりと起き上がる。

「寝れるかっ!」

 恨めしそうにボールを転がす白イーブイを見やる。
 寝られるはずなどなかった。
 一瞬、もう一度彼女を寝かし付けることも考えるが、そんなことは不可能だと思い出す。
 過去の惨事は記憶に新しい。
 暴れに暴れ、部屋の中は大惨事。
 あの子の辞書に、二度寝という言葉はないらしい。
 あれはもう二度とごめんだ。
 二度寝は諦めよう。
 ベッドから抜け出し、カーディガンを羽織ると机へ向かった。
 椅子を引いて腰かけると、机横で呆けていたファイアローが、むくりと身を起こした。
 そのまま歩み寄ってくると、自身の頬とつばさのそれを擦り寄せて。

―――えへへ。つばさちゃん、おはよう

 本当に嬉しそうな声音だった。

「ん、おはよ。私はまだ、おやすみがしたかったけど」

 ぶっきらぼうに呟くと、ファイアローが翼で彼女を包み込もうとした。

―――寂しいこと言わないでよっ。僕は、つばさちゃんと居られる時間が出来て嬉しいよっ

 少し不貞腐れ気味の声だった。
 だが、つばさが片手で彼の翼をやんわりと押し返すと。

―――つばさちゃんのいじわるー

 ぷくりと頬を膨らませた。

「はいはい、ごめんね」

 心の込められていない言葉に、彼は両頬を膨らませた。
 ちょっと冷たい。
 そう思って、ふいっと顔を背けてしまった。
 視界の端でそれをとらえるも、別段、つばさが行動を起こすわけでもなく。
 机上のノートパソコンを起動させた。
 起動するまでの間、背後でひたすらにボールを追いかける白イーブイの姿を眺める。
 そしてその、追いかけられているボールの中身へと思いを馳せた。
 あの出来事から数日が経った。
 だが、思わぬ形で己の気持ちを認めてしまったブラッキーは、それっきり一度もボールから出てきていない。
 いつまで、引きこもりりんくんをするつもりなのか。
 それまでずっと、白イーブイのおもちゃにするつもりのつばさなのだが、流石に心配になってくる。
 嘆息が一つもれた。
 当の白イーブイは、ひたすらに追いかけている。
 何がそんなに楽しいのか分からないが、その愛らしさには敵わない。
 彼女は常に全力で生きている気がする。
 何事にも楽しさを見いだし、それを全力で楽しむ。
 自分もそんな生き方が出来たら、もう少し楽だったのだろうか。
 それでも、やっと前に進もうと思った。
 そのためには先ず、然るべき順序がある。
 と、ぴろりんっという電子音で向き直った。
 これは、ノートパソコンが電子メールを受信した際に発する音。
 クリックをしてメールボックスを開く。
 受信フォルダを開き、差出人を確認したところで溜息をこぼした。

「おばさん…」

 そう呟いたところで、横からファイアローが覗きこんできた。

「イチ、邪魔」

 ノートパソコンの画面がよく見えない。
 だが。

―――やだ。僕も見たいもん

 口があれば、その口を尖らせていただろう。
 しょうがないな、とばかりに諦め、メールを開いた。

『つばさ、元気にしてる?
 私は今、アローラに旅行中でーすっ!
 南国の島々、アローラ地方。一度は来てみたかったのよねっ!
 今からホエルオーウォッチングに行くところなの。んん!楽しみっ!
 じゃ、またメール送るわね!アローラ!
 
 あ、そうそう。お土産送ったから!』

 そんな文面と共に添付されていたのは、青い空に青い海、白い砂浜をバッグにした一枚の写真。
 そこにレイを首に飾ったピカチュウが笑顔で写っていた。
 このピカチュウはおばさんのパートナーであり、現在は彼女と共にアローラ旅行を満喫中。

「いつの間にアローラへ渡ってたの。確か、カロス旅行を終えたら帰ってくるって…」

 呆れて何も言えなかった。
 けれども、それがおばさんという人。
 自由奔放な人だから。
 自由奔放過ぎて敵わないときもあるが、それに救われたのも確かで。
 彼女に振り回されたから、振り回してくれたから、うじうじと過去に囚われ過ぎることもなく。
 こうして、自分の足で立てているのかもしれない。

―――メールはレモさんから?

 問うてくるファイアローに、こくりと一つ頷く。
 気持ちは疎通できても、彼には人間の文字は読めない。
 けれども、添付写真にレモのパートナーが写っていたのだから、メールの差出人がレモだとは判断ができる。

「おばさんがね、お土産送ってくれたって」

―――お土産っ!

 その言葉に、お土産何かな、と踊る気持ちが隠せなかったようで。
 ふんふん、と上機嫌に身体を揺らすファイアローに頬が緩んだ。
 おばさんの名は、レモ。
 つばさの父の妹で、実は、この喫茶シルベの正式な店主だ。
 ポケモントレーナーを辞めた彼女は、嬉々として送り出してくれた両親の家には帰れなかった。
 だって、あれほど応援してくれたのに、夢を途中で投げだして、逃げて帰ってきてしまった。
 両親に会わせる顔がなかったのだ。
 そんなつばさに、家へ来なさい、と声をかけてくれたのがレモで。
 それから喫茶シルベに転がりこんで。
 そして、ずっと部屋に引きこもっていたつばさを引っ張りだして、喫茶の仕事を手伝わさせ、仕事のノウハウを叩き込ませ。
 気が付くとレモは。
 アデュー、と一言告げて旅行に行った。
 そう、旅行に行った。
 行ったのだ。
 それからつばさは必死に頑張った。
 頑張って、頑張って、今は何とか、レモなしでも喫茶を回せるようになった。
 それまでが必死過ぎて、過去の痛みの感傷に浸っている暇がなかったのだ。
 数日前みたいに、ときたま、思い出したように痛むときもあるが、それも一時的なもの。
 それに、前に進むと決めた。
 だからもう、立ち止まらない。
 今振り替えれば、これも全て、レモの思惑だったのかもしれない。
 けれども先程のメールを見ると、ただ単に、彼女が旅行へ行きたかっただけなのかもしれない。
 おばさんの真意はいずこに。
 そう思ったところで、考えを放棄した。
 考えたって仕方がないことだ。
 そう思ったとき。

 どんがらがっしゃーんっ。

 盛大な音がした。

「!?」

 がばっと振り返ると、そこに白イーブイの姿はなく。
 かわりに見付けたのは、いつの間に起きていたのか、こちらに駆けてくる茶イーブイの姿で。

―――ラテがっ!

 慌てて椅子から立ち上がる。
 踵を返して茶イーブイが向かうのは、階下へ続く階段。
 一緒に駆け下りて階下に辿り着いたとき、その光景に思わず、つばさは天を仰いだ。

―――あちゃ…

 後から下りてきたファイアローが呟いた。
 眼前に広がるのは、床にぶちまけられた水。
 そこに転がるはバケツで。

―――わーいっ!

 楽しそうに転がるバケツで。
 その中には、バケツに頭から突っ込んだままの白イーブイがいて。
 それで全てを察することが出来た。

「これは、昨日の私が…」

 ずっと天を仰いだままのつばさがぽつりと呟く。
 そうなのだ。昨夜のことだ。
 明日は定休日。
 いつもなら、その日のうちに済ませる拭き掃除は、定休日である次の日に回す。
 それなのに。昨夜は何を思ったのか、その日のうちに終わらせようと思った。
 そう思ってバケツに水を張った。
 なのだが。
 バケツに水を張った瞬間、そのやる気もなぜか失せた。
 だから。
 明日にすればいいやと、バケツに水を張ったまま、階段付近に置き、そして就寝した。
 水を張ったまま。階段付近に置いて。
 そして今、この眼前に広がる光景を作り出した。
 白イーブイが階段から、おむすびころりんの如くに、白イーブイころりんとしたのだろう。
 そしてバケツに突っ込み、バケツはひっくり返り、水をぶちまけ。
 白イーブイは、本当に何が楽しいのか、転がり続けている。
 何事にも楽しさを見いだすのはすごいと思ったが、ここまでだとは思わなかった。
 いっそのこと、衝撃のあまりに泣きだしてくれた方が楽ではないだろうか。
 そんなことさえ思うほど、今日も彼女は元気です。

―――わーいっ!

 ごろごろごろー。
 
 本当に楽しそうに転がっている。
 なぜかな。
 身体の力が一気に抜ける。
 さて、拭かなければ。
 これは叱れない。
 中途半端にした自分が悪いのだから。
 床を拭こうと乾いた布を探す。
 すると、足をちょんっとつつく感触がして、足元に目を向けた。
 そこにいたのは、乾いた布を咥えた茶イーブイで、少し申し訳なさそうにこちらを見上げていた。

―――ごめんなさい。ボクがラテをとめられなかったから

 彼の瞳が揺れた。

―――ボクも、おてつだいしていい?

 彼なりに責任を感じているようで。
 茶イーブイも実は、白イーブイがつばさを起こす騒ぎで目覚めていた。
 けれども眠さが勝った彼は、もう一度眠りつこうと目を閉じた。
 頑張って寝ようとした。
 頑張って頑張って、寝ようとした。
 でも眠れず。
 少し静かにしてと、白イーブイに訴えようと身体を起こしたときだった。
 階段から白イーブイの姿が消えた。
 慌てて駆けて、階上から下を覗き混んだら、バケツに突っ込む彼女の姿があったのだ。
 もう少し早くに行動をおこしていれば、つばさにこんな顔をさせなかったのに。
 そう思うと、ちくちくと小さな胸が痛んだ。
 だから、自分も手伝う。
 少しでも、つばさの手伝いになればと思う。
 ちらりと彼女を見上げる。

―――おてつだい、したいの

 そう訴える茶イーブイに、つばさは胸を撃ち抜かれたような錯覚がして。
 慌てて胸元を押さえる。
 だがもちろん、そこに風穴などがあるわけもなく、錯覚なのだと理解する。
 ならば、この動悸は何だ。
 この息苦しさは何だ。
 目の前にいる、この愛らしい生き物は何だ。
 そんな潤んだ瞳で、自分を見つめないで欲しい。

「カフェはわる…」

 カフェは悪くないよ。
 何とか必死に、 そう言葉を紡ごうとした。
 したのだが。

―――わーいっ!

 ごろごろごろー。

 そんな楽しげな音で、何かが弾けた。
 転がる愉快なバケツを足で止めると、中身がひょこっと顔を出した。
 小さな瞳が小さな怒りで煌めいて。

―――じゃましないでよっ

 と、反抗するものだから。
 思わず白イーブイの首根っこを掴んだ。

―――やだやだ、はなせえーっ!

 じたばたと小さな四つ足が暴れる。
 だが、それににやりと笑う。
 あ、これは。悪いときの顔だ。
 傍観者のファイアローがそう思った。

「いくら暴れたって、ムダだよーんっ」

 これがブラッキーなら敵わないが、まだまだお子ちゃまな白イーブイには勝てる。
 大人の本気をなめるなよ。
 首根っこを掴んだままずんずん歩く先は、傍観者を決め込んだファイアローで。
 当の彼は、怯み混乱する。

―――え、え、なに??なに??

 おろおろしていると、彼女に掴まれもがく白イーブイを、片翼の懐に突っ込まれた。

「ラテ、濡れてるの。そのままだと風邪ひくから」

 きっとこの方が早い。

「イチが乾かしてあげて」

 彼の持つ特性は、焔のからだ。
 生命を育むあたたかさ。
 彼から発される熱は、それはそれはとてもあたたかく、心地がよいのだ。
 身体の水気を拭いてから、ドライヤーで乾かすことも考えたのだが、この白イーブイが大人しくしていることなどあり得ない。
 況してや、今は興奮気味なのだ。
 余計に考えられない。
 それならば、動きを封じた方が早い。
 それに、ファイアローのあたたかさは白イーブイも大好きな場所。
 きっとすぐに大人しくなる。
 ちらりと見やれば、ほら。
 頭から突っ込んだそのままの体勢で、だらりと垂れ下がった尾だけがゆらゆらと揺れている。
 気持ちがいいのだ。
 当初は混乱していたファイアローだが、状況を理解したようで。
 その場に沈みこむと、片翼からはみ出た白イーブイの尾を、器用に嘴で中へ押し込む。
 そして、いそいそと居住いを正すと、ふう、と一息吐き出した。
 ここは任せろ、とでも言うように、つばさへ一つ頷いて見せる。
 それに頷き返したつばさは、一生懸命に布で床を拭く茶イーブイのところへ戻る。
 いしょいしょ、と一生懸命のその姿に、愛らしさを感じて、また動悸を覚えて胸元を押さえる。
 だが。駄目だ、彼に任せては駄目だ。
 これは自分の行いのせいなのだから。
 気を取り直し、自分も拭き作業に入ろうと身を屈めたときだった。
 足にこつん、と何が触れた。
 何か、嫌な予感がしたのだ。
 おそるおそる、そちらに目を向ける。
 そこに在ったのは、収縮サイズのモンスターボール。
 ずぶ濡れのモンスターボール。
 彼が。ブラッキーが。
 引きこもったままの、モンスターボール。
 見付けた瞬間、さあと血の気が引く音を聞いた。



 その日の朝は、そんなわちゃわちゃした朝だった。

ばす ( 2018/06/21(木) 00:35 )