ようこそ、喫茶シルベへ











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エピローグ
61杯目 ようこそ、喫茶シルベへ

 あれから季節は何度も巡って――。
 幾度目かになる春が、すぐ目の前にまで迫った――とある日。



   ◇   ◆   ◇



「――ん、さびぃー……」

 声と共に吐いた吐息が白い。
 春は目の前だと言っても、まだ寒さは色濃く残る、そんな時期。
 石だたみの道を歩く少年――あさひは、擦り合わせた手に息を吹き掛けて。
 おもむろにそれをパーカーのポケットへ突っ込んだ。
 手袋してくればよかった。そんなことを胸中で呟きながら、重い息を吐き出した。
 やっぱり、吐く息は白い。思わず首を竦める。ああ、寒い。

「母さんの言う通り、厚手の上着でも着てくりゃーよかった……」

 刹那。びゅおっと風が吹き抜けた。
 あさひの淡い色合いの金の髪を乱暴に撫で回して。
 ついでとばかりに、ひんやりとした空気があさひの首筋を撫でて行く。
 その通りだよ、とまるで同意するような間合いに。
 思わず桔梗色の瞳を半目にする。そこに滲むのは不機嫌の色。
 無意識下にパーカーの首もとを手繰るも。
 フードに入った二つの毛玉の重さでそれも出来なかった。
 仕方ないと諦めたあさひは、また冷えた手を、無造作にポケットへ突っ込んだ。
 この頃はあたたかくなってきたからと。
 母の助言も聞かず、薄手で外に飛び出した自分が悪い。油断した。
 今日の冷えは、ここ最近では一番の冷えではないだろうか。久々に急激に冷えた。

「さびぃー……」

 再び飛び出した言葉。思わず言ってしまう。
 これはもう反射だろうなあ、なんて。
 あさひがぼんやりと考えていた時。
 周囲の空気が、ほんのりとあたたかくなっていることに気がついた。
 ちらりと左隣を見やる。
 あさひを見上げる彼――ブースターと目が合った。
 どうかな。なんて、具合を訊いているのか、ブースターが首を傾げて一つ鳴いた。
 それにふわりと笑みをもらして。

「サンキュ、カフェ。あったけーよ」

 と、頷いてみせれば。
 彼は嬉しそうににこりと笑った。
 ほんのりとあたたまった周囲の空気。
 はあ、と息を吐いてみた。息は白く染まらない。
 これなら、ポケットから手を出しても大丈夫そうだ。
 まあ、面倒だから出さないけど。
 と。フードの中で、もぞもぞと毛玉が動き始めた。
 あたたかくなった空気に気付いたのかもしれない。
 だが、歩いている最中に動かれるのは、ちょっとだけ心地が悪い。

「おい、ちょっと大人しくしてろ」

 肩越しにフードへ振り返る。
 すると、ぴょこんっぴょこんっと二つの毛玉が顔を出した。
 不機嫌そうに自分達を見やる桔梗色に気付けば。
 一つはにぱっと笑って、あさひの肩へ移動し、催促するように頬と頬を擦り寄せた。

「仕方なねーなぁー……」

 諦めの声をもらして、あさひはポケットに突っ込んでいた手を出す。

「ほら、チョコタルト」

 チョコタルト、と呼ばれた茶イーブイが、その腕の中へ飛び込んだ。
 その腕にすっぽりとおさまれば、彼女は満足そうにきゅいっと鳴いて尾を降った。
 彼女の首もとを飾るチョコレート色の飾りリボンが、その動きに合わせてゆれる。

「ホイップはどする?」

 肩越しにフードを振り返る。
 前髪をホイップクリームのように一つに結われた白イーブイは、ぷいっとそっぽを向く。
 拒否するように、彼は尾でびしんばしんとあさひを軽く叩いた。

「あっそ」

 興味が無さそうに呟けば、あさひは再び視線を前に戻す。
 けれども、視界の端でひらりとリボンが伸びて。
 思わずそれを目で追ってしまう。
 伸びたリボンは、そのままフードの中の白イーブイをすくって。
 はい。と、それをあさひの前へ差し出す。
 眉間にしわを寄せて、あさひがそのリボンの主を見やれば。
 桃色の瞳がにこりと笑って、ぴやっと一つ鳴いた。
 ああ、なるほど。あさひは納得する。
 青い妖精、ニンフィア――彼女が同意するように一つ頷いた。
 白イーブイが顔だけニンフィアへ向いて、きゅい、だの、きゃい、だのと鳴いて抗議する。

「遠慮すんなってラテは言ってんだよ。ほれ、ホイップも来いよ」

 にやり。あさひがからかうように笑う。
 それに対して、しばらく唸っていた白イーブイも。
 最後には降参して、不機嫌な顔で大人しくあさひの腕の中へおさまった。
 そんな彼の尾は、嬉しそうにひょんひょんと揺れていた。
 それに苦笑をもらしながら、あさひは彼の気持ちが分かるような気がした。
 ちょっと格好をつけたい年頃なのだ。
 それは自分にも少しだけ覚えがある。

「格好つけたい複雑な年頃なんだよなあ、おれって」

 そう、例えば今の状況とか。

「おれ、今度の春には四年生だぜ?」

 小学四年生。それは、法的にポケモンの所持が認められる年齢。
 ポケモンを持つ者を、この辺りでは“トレーナー”と呼ばれる。
 そして、自分は今度の春から初めてのポケモンを持つことになっている。
 そう、ちょっと憧れていた“トレーナー”になるのだ。
 まだ淡い夢だけれども、自分も“ポケモントレーナー”として旅をしてみたい。
 母も一時期は旅をしていたと聞くし、父は今でも各地を旅し、家を留守にしていることは多い。
 そんな父が見せてくれる数々の各地の写真は、心踊るものが多いのだ。
 それをいつかは、自分もこの目で見てみたいなあ、なんて。

「なのに、なんだよ。トレーナーになるまでは一人で外を歩くなって。おれはガキかっつーのっ!」

 ふんっと、鼻息が荒くなる。

「ただ、フレンドリーショップに行くだけだっつーのっ!」

 フレンドリーショップに行ってくると母に告げれば。
 まだ子供達だけでは不安があるから、と。
 母のポケモンが、護衛を兼ねての付き添いをしてくれることになったのだ。

「チョコタルトとホイップだって、いざとなればバトルできるしー……」

 少し前からバトルの練習は始めている。
 腕の中の毛玉達は姉弟イーブイで。
 あさひが物心つく頃にタマゴから孵ったからなのか。
 あさひにとっては家族みたいで、親友みたいな、そんな存在だ。
 はあ、と吐き出す重い息は。諦めか、嘆きか、どれなのだろうか。

「母さんが言うには、昔、子供達で勝手にどっかに行っちまうこと多かったとかなんとかで、真っ直ぐ帰って来るか不安だからーとか言ってたけどぉー」

 ちらり。ちらり。と、半目になった桔梗色が左右へ交互に投じられる。

「まさか、カフェとラテのことじゃねーよなぁー……?」

 ブースターは苦笑をもらすだけだったけれども。
 ニンフィアの方は明らかに目が合わなかった。どうやら、覚えがあるようだ。
 そんな過去をお持ちの二匹に護衛が勤まるのだろうか、と。頭を捻るのだれけども。

「まあ、そうなると、カフェとラテしかいねーかぁ……。りんは面倒がるし、イチは母さん大好きだし」

 それに、と。
 腕の中の二匹へ視線を落とす。

「それに母さん曰く、子供の旅立ちは見守りたいもの、らしいしなぁ」

 旅立ちなんて、そんな大それたことではないのだけれども。
 母も一緒に行きたかったらしいが、喫茶の仕事があってそれは無理だった。
 まあ、あさひとしては、それで良かったのだけれども。
 この歳になってもまだ母と一緒なのは嫌だなと思う。
 別に、母が嫌いとかではないのだが。
 こんなときに友達に会ったら、何だか恥ずかしい。
 と、その時。しゅるっと右隣からリボンが伸びてきて、あさひの腕に巻き付いた。
 驚いて目を向ければ、嬉しそうな桃色の瞳があった。
 これはニンフィアである彼女の愛情表現だと母が言っていた。
 いや、それは確かに嬉しいのだけれども。

「なあ、ラテ。ちょっと恥ずいんだけど……」

 放してくれないか、と目で訴えてみる。
 けれども、彼女は気付かないふり。
 放す気はないらしい。
 それに、はあ、と息をこぼして。
 何となく辺りに視線を走らせてみる。
 ここで学校の同級生に会ったら恥ずかしいではないか。
 今度の春にはトレーナーになるというのに。
 まだ一人での外出時に親のポケモンと仲良くしてるなんて。
 この光景ではまるで付き添われているみたいで。
 未だに一人で外出出来ないのかと思われてしまう。
 そんなことを考えていると。

「!」

 左隣から衝撃。
 ブースターがあさひの身体を押したのだ。
 よろけそうになるのを何とか堪える。
 腕の中の毛玉も、きゅいっと小さく驚きの声を上げた。
 何をするんだ、と苛立ちを感じてブースターを睨んだ時。
 ぶろろろ。自動車のエンジン音。
 慌ててそちらに視線を向ければ。
 自動車があさひ達の横を通り過ぎたところで。
 あさひはそこでようやく気付く。
 自分が道の端に寄らされる形で、彼に押し退けられたのだと。
 いつの間にか車道側に寄り過ぎていたらしい。
 ぶすたっ。ブースターの鋭い声に、あさひは情けなく視線を落とす。
 彼の瞳に諌めるような色を認めて。

「ごめん……」

 と、小さく呟いた。
 あさひの反省の色を見たのだろう。
 ブースターはふわりと笑って、自身の頭をあさひに押し付けた。
 分かればいいよ。次からは気を付けようね。
 そう言ってくれている気がして、あさひはこくりと一つ頷いた。
 そして、彼らはまた歩き出す。
 今度は自動車にも気を付けながら。

「――あ」

 あさひの呟きに、他の四匹も顔を上げた。
 目指すものは、フレンドリーショップ。
 その目印になるのは、大きな青い屋根。

「あ、ちょ、タンマッ! ラテっ!」

 あさひの腕にはニンフィアのリボンが巻き付いたままで。
 フレンドリーショップを目指して、一直線に駆け出したニンフィア。
 早く早く。と呼ぶように、彼女はぴやぴやと声を上げる。
 転ばないようにと、必死に足を動かしていたあさひだったのだけれども。
 結局は転んでしまったのは仕方のないことだと思う。
 彼に押し潰された二つの毛玉が、ぎゅいっと潰れた声をもらして。
 のろのろと彼の下から這い出た毛玉達が、ニンフィアを追いかけ始めたのを。
 起き上がったあさひと、それに手を貸していたブースターが呆れながら眺めていた。
 ぴやぴやと慌てたニンフィアの声が響いて、助けを求める桃色の瞳に。
 ブースターがそっと嘆息して、毛玉と彼女の間に割って入った。



   *



 ポケモンセンターには、同じ敷地内にフレンドリーショップが併設されている。
 フレンドリーショップというのは、モンスターボールとか、キズぐすりとか、所謂“トレーナー御用達のお店”。
 この街唯一のトレーナー専門店のため、常に人の出入りは賑やかだ。
 それでも、フレンドリーショップが併設されたのは、あさひが生まれる少し前だというから驚きだ。
 昔はそれなりに遠い隣街まで行っていたらしい。
 大きな赤い屋根の建物。その隣。
 ガラス張りの外壁の、大きな青い屋根の建物。
 その自動ドアをくぐれば、ぶわりとあたたまった空気があさひ達を包み込んだ。
 いらっしゃいませ。来店に気付いた店員の声があさひ達を出迎える。
 それにぺこりと会釈をしながら、あさひは目的の物が売られている棚を一直線に目指す。
 その後にぞろぞろと続くニンフィアとブースター。
 彼らを見送っていた店員は、その微笑ましい光景に思わず頬を緩ませていた。

「あ、あの棚の隣」

 棚を通り抜けて、その角を曲がれば目的の棚で。
 目的の物が陳列されているはずで。
 逸る気持ちを抑えながら、その角を曲がり、目的の物を――見つける前に違うものを見つけて、思わず立ち止まる。
 背に広がる紺の髪は、肩甲骨の高さで切り揃えられていて。
 被っている帽子は、使い込まれているためか、少しだけくたびれた感じはするけれども。
 それでも綺麗な真っ白で、猫耳が付いているのが特徴。
 それだけであさひは気付く。
 母の友人で、幼い頃から時折遊んでくれるお姉さん。

「るいのねーちゃん……?」

 あさひの声にその背が振り返って。
 赤紫の瞳が驚きで見開かれた。

「あれ? あさひ君じゃんっ!」

 久しぶり、の言葉と共に、目線をあさひの高さに合わせた彼女は、あさひの頭を撫でる。

「や、やめてよ……るいのねーちゃん……。恥ずかしいじゃん」

 と言って俯くも、るいの手を振り払わないあさひ。

「んー? でも、大人しく撫でさせてくれるじゃん。ふふ、あさひ君は可愛いなあ」

 可愛い。の言葉に、ぽっとあさひは頬を朱に仄かに染める。
 一頻り撫でて満足したるいは、手を戻してあさひの後方を見やる。
 るいと目の合ったブースターが、ぶすたっ、と一言鳴いて挨拶。
 それに彼女が小さく手を降って応えれば。
 眉間にしわを寄せたニンフィアが、ブースターの前に割り込んで彼の視界を遮ってしまう。

「ラテは相変わらずだなあ……」

 思わず苦笑がもれるるいだ。
 過去の出来事が、未だにニンフィアの心に燻っているようで。
 るいに対しては、あまり友好的な態度ではないのだ。
 そんな彼女達を交互に見やって、状況を理解出来ないあさひと、彼の腕の中の毛玉二匹は揃って首を傾げた。

「あれ? そういえば、るいのねーちゃん。ヴィヴィはどうしたの?」

 いつもならば、るいの傍らにはグレイシアが居るのだが、今はその姿がない。

「ああ、今は兄さんの仕事手伝ってる。ヴィヴィの姪が、イーブイコンテストに興味があるみたいで、その指導を勝手出てくれてる」

「へえー……」

 あさひの生返事に、るいは苦笑する。
 るいは元々“ポケモントレーナー”として、各地を旅していたらしいのだが。
 今は実家の家業を継いだ、彼女の兄の手伝いをしている。
 母とはポケモントレーナー時代からの知り合いで。
 今ではメールや電話での交流、時折遊びに行ったり、来てもらったりの友人関係が続いている。
 あさひ自身も、幼い頃から可愛がられてきたので、彼女のことは慕ってはいる。
 けれども、彼女の家業のことは、はっきり言ってしまえば難しくてよく分からない。

「ふふっ。まあ、そのうち分かるよ」

 それが分かっているるいは、あさひに対して気分を悪くすることもない。

「ところで、あさひ君は何しに? お母さんと一緒じゃないみたいだけど」

「今日はおれ一人だよ。ま、母さんが一人じゃ危ないからって、カフェとラテが一緒だけど」

 ちらりと背後を振り返れば。
 えっへん、と胸を張るニンフィアと、にこりと笑うブースター。

「おれ一人でも行けるって思ったけど、やっぱりまだだったみたいだし、母さんの言う通りだった」

 車道側に寄ってしまっていて、ブースターに注意をされた。
 それは、未だに少しだけ引きずっているらしかった。
 しゅん、と気持ちが沈んで、少しだけ俯いてしまう。
 腕の中の毛玉も同時に両耳が垂れた。
 きゅう、と。か細い情けない声をもらしたのはどちらだろう。
 そんな子供達の様子に。
 るいはどう言葉をかけてやればいいのか分からず、少年の名だけが口からもれた。

「あさひ君……」

「もう一人で大丈夫って思ってたけど、そんなことなかった……」

「一人、か」

 るいが口の中で言葉を転がす。
 それが何だか、鮮明に響いて聞こえて、あさひは顔を上げた。

「そういうときは、周りを見るといいよ」

 にこりと笑む赤紫の瞳。

「傍には仲間が居るから。名前を呼んだら、振り返ってくれる存在が居るの。そのことを忘れなければ大丈夫」

 るいの視線が落ちる。
 それを追ったあさひも視線を落として。
 行き着いた先は腕の中の毛玉。
 呼べば振り返ってくれる存在。
 振り返って、駆け寄って来てくれて。
 そしてまた、彼らも自分のことを呼んでくれる。
 呼んでくれた声は、絶対に自分に届くから、いつでも振り返る。

「チョコタルト、ホイップ」

 名を、呼ぶ。
 そうすると、あさひを見上げていた二匹は。
 きゅきゅいっ。と、元気に鳴いて、彼の腕から抜け出して、肩に飛び乗った。
 あとは頬擦り合戦の始まりで。
 左右から頬擦りをされて、あさひは堪らずに声をもらして笑った。

「ははっ。くすぐってーよ。やめろよ、お前ら」

 そんな子供達を見つめながら、るいは口を開く。

「人ってさ、一人で出来ることが限られてるから、周りの存在を忘れちゃ駄目だよ」

 と、あさひと子イーブイ達の頭を撫でると。
 足元に置いてあった買い物かごを持ち上げる。

「あたし、スマートなお姉さんの用事ついでに、先に買い物に来てただけだから、もう行かないと」

「あ、そうだったんだ」

「うん。じゃ、お母さんによろしくねっ!」

 軽く手を振って、るいはあさひ達の横を通って行く。
 けれども、通り過ぎたところで一度振り返って。
 彼女の視線がニンフィアに向けられた。

「ラテ」

 彼女に名を呼ばれたニンフィアは、露骨に嫌そうな顔をする。
 そんな顔をするニンフィアを初めて見たあさひは、困惑気味に眉根を寄せている。

「お店の中ではしゃいで、棚の物を落としちゃ駄目だからね」

 その言葉に苦笑をしたのはブースターだった。
 それを目敏く見つけたニンフィアは、軽く彼を睨んでそっぽを向く。
 もう、そんなことしないもんっ。
 と、言っている雰囲気であった。

「何かあったの?」

 不思議そうなあさひの声。
 一人と二つの毛玉が、同時に首を傾げた。

「あれ、お母さん達から聞いてないの?」

「何を?」

「カフェラテが進化した時の話」

「ラテが進化したのは、母さんと父さんが結婚して直ぐの頃だってのは聞いたことあるけど……」

 家で共に暮らす皆のことが大好きなニンフィア。
 その彼女が、イーブイからニンフィアへ進化したのは、もしかしたら、必然だったのかもしれない。
 と、あさひはその時思ったのを覚えている。
 何とも彼女らしい進化だとも思った。
 ニンフィアは、むすびつきポケモンと呼ばれているのだから。
 でも、と。あさひはそこで思う。
 視線は自然と下へ落ちて。それに気付いたブースターが、にこっと笑った。

「そういえば、カフェの話は聞いたことないや」

 視線を持ち上げて、るいを見やる。

「そうなんだ。じゃあ、あたしが話しちゃってもいいものなのかな……?」

 思案するようにるいは首を捻った。
 彼に話していないのは、もしかしから何か意図があってのことかもしれない。
 確認するような視線をブースターに向けてみると。
 ぶすたっ。彼は元気に鳴いた。
 別にいいんじゃないかな。そんな感じだ。
 けれども、素早く反応を示した存在がいた。ニンフィアだ。
 ぴやぴやっ。まなじりをつりあげて、桃色の瞳に否の色を滲ませて。
 ニンフィアはブースターへ何かを訴える。
 だが、ブースターはそんな彼女を気にする素振りもなくて。
 るいを見上げて、どうぞ、と瞳で促した。
 まあ、彼がいいと言うのならばいっか、と。
 るいはあさひを見やって口を開く。
 ああっ。口を開けて叫んだニンフィア。
 たぶん、人の言葉に置き換えるならば、そんな言葉だろう。

「その頃、ラテは進化したばかりだったから、新しい身体にはしゃいでた時期だったんだとは思うんだ」

 あさひは何となくニンフィアを見やった。
 まあ、そんな彼女の姿を想像するのは容易かった。

「どこでもはしゃぐから、あさひ君のお母さんは手を焼いててね。それはどこへ言っても同じ。で、とある日、ここへ買い物に来た時に――」

 含みを持たせたるいの言葉に。
 あさひはニンフィアから視線を外して、るいを見やった。

「まあ、はしゃいで、棚にぶつかったと」

「――うん」

 何だか展開が。

「そしたら、棚から“とある物”が落ちてきたと」

「――ほお、“とある物”」

 見えてきた気がする。

「それでカフェがね、咄嗟にそれを受け止めようとダッシュをして」

 あさひの桔梗色の瞳。それがブースターへ向けられた。

「んー、まあ、ね。見事に受け止めたから、それは無事だったんだけど、無事じゃなかったというか……」

 そこでるいは苦笑する。

「ねえ、るいのねーちゃん」

 あさひの視線はブースターに向けられたままだ。
 彼の尾がふさりと揺れた。
 ちなみにニンフィアを見やっても、彼女はもう目を合わせてはくれなかった。

「その“とある物”は、もしかして“ほのおのいし”だったり……?」

「そうだね、そうとも言うね」

 あさひの言葉に頷きながら、るいはブースターの頭をさわりと撫でた。

「でも、結果論かもだけど、あたしはカフェっぽくていいと思うよ」

「カフェっぽい?」

 彼女の手はブースターの頭を撫で続ける。
 それに彼は気持ち良さそうに目を細めた。

「だって、カフェはさ。傍によりたくなるような、そんなあったかい何かを持っている気がして」

「ああ、それは分かる気がする」

 桔梗色と赤紫の瞳が絡まって、ふわりと笑った。
 頷き合う二人に、ブースターは照れたのか、仄かに頬を朱に染めた。

「と、そんなことだから、ラテは気を付けるんだよ」

 と、るいがニンフィアに向けて注意をしてみると。
 彼女は眉間にしわを寄せて、ふいっとそっぽを向く。
 それにはやっぱり苦笑をもらするいだけれども。
 それほど気にしてはいないので、すぐにブースターへ向き直って。

「じゃ、今度はヴィヴィも連れて遊びに来るね、カフェ」

 ふわりと笑って見せた。
 ブースターが嬉しそうに笑って、ぶすたっ、と返事をしたところで。
 そんな彼の後ろから、勢いよく彼に飛び付いたニンフィアは。
 前足で器用に彼を抱き抱えるような体勢になる。
 そして、明確な敵意をるいに向けて唸る。
 彼は渡さないからね。桃色の瞳の中に、そんな意思を見つけたるい。
 くすりと一つ笑って、唸るニンフィアの頭を一撫で。
 くるりと背を向ければ、肩越しにあさひを見やる。

「じゃあ、お母さんによろしく。それと、そこのモンスターボールはぴっかぴっかみたいだから、新たな気持ちで始めるにはぴったりだよ」

 柔らかな光を宿す赤紫の瞳が、あさひの背後の棚へ向けられる。
 あさひも振り返れば、そこに陳列されたモンスターボールが輝いて見えた。
 肩に乗った二つの毛玉は、興味津々と身を乗り出して覗き込む。
 そのうちの茶色の方が、特に瞳をきらきらとさせているのが気配で分かった。

「じゃっ」

 るいの声にもう一度振り返った。
 彼女と目が合えば、彼女はくしゃりと笑って。

「ま、がんばれよ」

 片手をひらり。それを最後に、彼女は今度こそ去って行った。
 彼女の後ろ姿を見送ったところで、あさひは棚へと改めて向き直った。
 べっと舌を出して見送っていたニンフィアと。
 それに呆れた笑みを浮かべていたブースターも。
 共にあさひと並んでそれを見やる。
 陳列されたモンスターボール。スーパーボール。ハイパーボール。
 順々にそれらへ視線を送って。
 ごくり。あさひは唾を飲み込んだ。
 両脇に並んだニンフィアとブースターがあさひを見上げた。
 ニンフィアのリボン状の触角があさひの腕に巻き付いて。
 ちらっと視線を投じれば、桃色の瞳がにこりと笑んだ。
 反対側。ブースターの尾が、少し強めにあさひの背を叩いた。
 ちらっと視線を投じれば、ブースターが一つ頷いた。

「うん、そうだよな。ここで呑まれてたら、だめだよな」

 息を大きく吸って、吐いて。
 そして、ぐっと手を握った。

「チョコタルト、ホイップ」

 名を呼ばれた両肩の子イーブイ。
 茶イーブイはすりすりと嬉しそうに頬を擦り寄せてきて。
 白イーブイの方は、きゅっ、と返事を一つ。

「お前達のモンスターボールを決めるぞ」

 うん、と一つ頷いたあさひは。
 陳列されているモンスターボールに、そっと手を伸ばした。
 種類はたくさんあるけれども。
 とりあえず初心者には、やっぱりこれだよな。
 と、赤と白の球に触れた。



   ◇   ◆   ◇



 扉を押しやれば。
 からんころん。ドアベルの音が響き渡る。
 それが、来客を告げる音――。


 喫茶シルベ。
 店内はほんのり彼があたためてくれている。
 ほっとするような、そんな心地よさ。
 ここの店主のポケモン――ファイアローが持つ特性、焔のからだ。
 彼は今、日の当たる窓の下でまどろみ中で。
 その傍では。窓辺で寝そべるブラッキーがあくびを一つ。
 どたばた。どたばた。と。
 こんな賑やかな音が響く中で、よく寝ていられるなあ、なんて。
 カウンター席に腰かけたあさひはいつも感心する。
 彼にとっては、もう見慣れた日常の風景なのだけれども。
 そんな彼の対面。
 金の髪に、サイドテールを揺らす彼女はここの店主。
 あさひの母でもある。
 ちなみに賑やかな音の正体は。
 駆ける茶イーブイに、それを追いかけるニンフィアで。
 まあ、つまり。おいかけっこに勤しむ彼女達。

「ほいっ。新たな門出を祝って、特別パフェ」

 そんな声と共に、カウンター席に座るあさひの前に出されたのはパフェ。
 様々な色の果物が盛り付けられた上に鎮座するのはバニラアイス。
 チョコソースとウエハースで飾り付け。
 美味しそうだ。ごくり。喉を鳴らす。

「喫茶やすらぎから送られてきた、アローラ産のフルーツ盛り合わせパフェだよ」

 にこり。彼女の橙の瞳が笑った。

「てことは、レモおばさんから?」

 パフェを手に持ったスプーンでつつこうとしていたところで、あさひは顔を上げた。

「そうだよ。向こうで喫茶店始めて数年経つけど、賑わってるみたいで安心した」

 ほら。と、金の髪をさわりとゆらしながらあさひに見せたのは絵はがき。
 アローラ地方の海を背景にして写っているのは。
 金の髪に、枯れ葉色の瞳を持つ妙齢の女性と。
 アローラライチュウにラプラス。
 これは先程、彼女にレモと呼ばれた彼女の叔母とその手持ち達。
 他に写っているポケモン達は、向こうで仲良くなったポケモン達なのだろうか。

「おばさん、楽しそうだね」

「まあ、カロス旅行だと思ったら、いつの間にかアローラ旅行に行ってて。気が付けば、そこで喫茶店経営してたんだもんねえ……」

「何か、母さん。遠い目してるね」

「そりゃ、まあ、ね」

 苦笑する母に苦笑で返しながら、ちらっとパフェへ視線を落とす。
 盛られたバニラアイスが溶け始めていた。

「ああ。いいよ、食べて」

 母の言葉を待たずして、あさひはスプーンでバニラアイスを一口すくう。
 それを、どきどきしながら口に運んで。
 冷たさとバニラの甘さが舌に転がった。

「美味しい」

 頬をゆるませながら、その味を堪能する。

「そっか、美味しいか。よかった」

 母もふわりと笑った。
 けれども、次の瞬間には。
 母の視線はあさひの背後に向けられて、橙の瞳が鋭くなる。

「――ところでさ」

 低く唸る母の声。
 どたばた、どたばた。
 あさひは構わずにバニラアイスの二口目を口に運ぶ。

「ラテ、チョコタルト。騒がない」

 途端。どたばた、どたばた、どた――。
 背後から聞こえていた、どたばたと騒がしい音が止んだ。
 二口目のバニラアイスを舌に転がせながら、あさひがちらりと顧みる。
 はっはっ、と息を弾ませた茶イーブイは。
 なになに、と何も分かっていない顔で首を傾げた。
 一方のニンフィアは、ぷっくりと頬を膨らませて。
 何やら、ぴやぴや、と鳴いている。

「ラテは文句言わないっ」

 母がびしっと。一喝。
 さらにむうっと頬を膨らませたあと。
 諦めたように、彼女はおもむろに動き出して。
 やけにゆっくりとしたその動作で、彼女が歩き向かう先はブラッキー。

「あ、りん……!」

 何かを察した母が彼を呼ぶも、それは少しばかり遅かったらしい。
 名を呼ばれたブラッキーが、ん、と眠そうな顔を上げた時には。
 跳躍をしたニンフィアが、そんな彼へ落ちて行くところで。
 まるで、夜闇色のクッションに身を投げ出すような軽さだった。
 それがちょうどいいところに入ったのだろう。
 ぐえっ、と。ブラッキーから蛙が潰れたような声がもれた。
 傍のファイアローは、その声にびくっと一度跳ね起きたのだけれども。
 何もないと知ると、再びすぴすぴと眠り始める。
 本当によく眠れるなあ、なんて。
 あさひは呑気に考える。
 と、そこで。あ。
 いつの間にかパフェのバニラアイスはなくなっていた。
 食べ終わってしまっていたようだ。
 じゃあ次は、クリームを彩っている果物をつつこうかな。
 そう考えていた時だ。下の方から視線を感じた。
 ん、と嫌な予感がして、ゆっくりと視線を落としてみた。

「チョコタルト……」

 何を食べてるんですか。
 と気になる様子で、茶イーブイがきらきらした瞳で見上げていた。
 これには思わず、少しだけ嫌な顔をするあさひ。
 このパフェは自分のだ。だから、彼女に食べられるのは嫌である。
 きらきらとしたそれと、十何秒かにらめっこしたあとだ。
 あ、そうだ。とあることを閃いた。
 ふふん、と得意気に鼻を鳴らして、あさひは指を指す。
 その指された先は、窓辺。

「チョコタルト。あそこあったかそーだから、飛び込んできたらどうだ?」

 あさひに指された方を向いた茶イーブイ。
 そこにニンフィアと、彼女に抱き込めれたブラッキーが見えた。

「母さんとじーちゃんに遊んでもらってこいよ」

 な、と茶イーブイを促せば。
 ぱっと顔を輝かせた彼女は、あさひを見上げて元気に頷いた。

「よしっ、いけっ!」

 それを合図に、茶の毛玉は弾丸のように解き放たれた。
 あさひはパフェの果物をつつき始める。
 瞬間。またもや、ぐえっ、と蛙が潰れる声が響いた。
 今度はしっかりと二匹分だ。
 まあ、たぶん。茶の毛玉が飛び込んだのだろうけれども。

「あーさーひー……」

 そんな一部始終を見ていた母が半目で睨んでいた。

「チョコタルトは、よそに興味を持っていっちまえば、追い払える」

 べっ、と小さく舌を出し、肩を竦める。
 そして、果物を口へと運んだ。あ、桃だ。甘い。

「んじゃ、そこの親子二匹はどうするの?」

「ん?」

 母の指が示す方を見やる。そうしたら。

「…………」

 お座りしたブースターと、その頭には白イーブイ。
 ただ、じっとあさひを見上げていた。
 先程の茶イーブイのように、きらきらとした瞳じゃなくて。
 ふーん、パフェ食べてるんだ。
 と、まるで観察するように。じっと。
 思わず、あさひは顔を引きつかせる。
 これでは、食べにくい。
 ちらり、と。母の様子を伺うように、ゆっくりと顔を見やると。
 母と目が合った。瞬間、橙の瞳が仕方ないなあ、と笑った。

「カフェ、ホイップ。おいで、きみたちの分も用意あるから」

 と、母は一瞬窓辺にも視線を投じるが。

「ホントはりんやラテ達の分もあるけど、あれじゃ無理だね。イチは寝てるし」

 ブラッキーやニンフィアは、いい感じに茶イーブイに絡まれていた。
 たぶんあれは、じゃれている。のだと、思う。
 一方のファイアローは寝ているのだろうな、とあさひが視線を向けた時には。
 もう、その姿がそこにはなくて。
 不思議に思った頃。彼の姿はキッチンにあった。
 呼んでくれたよね。
 なんて顔を輝かせて、母を見上げる姿に。
 その行動の早さに。
 あさひは母と顔を見合わせて笑った。
 そんな彼らを引き連れて、母はカウンター奥のキッチンへと消えて行く。
 その背を見送りながら、パフェ攻略をあさひは再開した。



 パフェを食べ終えた頃。
 その器を片付けた母が、一枚の絵はがきをあさひに見せた。

「これ見てよ、あさひ」

 とっても嬉しそうに、あさひの前へそれを差し出した母。

「すばるから」

「えっ! 父さんからっ!」

 がたっ。
 思わず身を乗り出してしまっまあさひに。
 母はくすりと一つ笑った。
 それに瞬時に頬を染めた彼は、さっと座り直して、改めて絵はがきを見やる。
 手にしたはがきに風景写真が刷られていた。

「父さんって今はガラル地方だったけ?」

「そうだよ」

 風景写真には、白と黒の組み合わせのジグザグマ。
 ガラル地方特有の姿らしいそれ。
 そのジグザグマがこちらを背に向けて夕空を眺めている。
 そんな砂漠の一面だった。
 絵はがきを裏返してみる。裏返して。
 あ。父の手書きだと思われる文字を見つけた。

「父さん、来月には帰ってくるってさ」

 まあ、母はもう知っているだろうけれども。
 そう思っていたのに。

「えっ! ホントっ!」

 がたっ。
 今度は母が身を乗り出した。

「知らなかったの?」

 あさひの冷静な声に。
 ぽっと母の頬が色付いた。
 こほんっ。と、わざとらしく咳をして。

「べ、別に知ってたもんっ」

 慌てて表情を取り繕った。

「ふーん……」

「そ、それより。来月なら、あさひのお祝い一緒にできるね」

 彼女はカウンターに頬杖をついて、あさひが手に持つ絵はがきを覗き込む。

「お祝いって。別に学年が上がるだけじゃん」

「でも、トレーナーになるじゃん?」

 小首を傾げて彼へ問いかける。

「……まあ、そうだけどさ」

「じゃ、やっぱりお祝い」

 ふふ、と笑った彼女。
 それにふいっとあさひは顔を背けるも。
 母は手を伸ばして彼の頭を撫で始める。

「良かったね。すばる――お父さんと一緒にお祝いできて」

「……別に」

 母の手を払い除けるも。
 たぶん、熱の灯った頬は誤魔化せなかっただろう。
 何だかむず痒い何かを感じて。
 あさひはカウンター席を飛び降りた。
 その時。そんな彼の足元に。
 ころころ、と何かが転がって。
 こつん、と彼の足先に当たった。
 それは、赤と白の球で。
 たたた、と駆けてきたのは茶イーブイ。
 そして、彼の存在に気付いて、慌てて背を向けて逃げようとした彼女を。

「逃がすかよ、チョコタルト」

 彼は慣れた手付きでその毛玉を捕まえた。
 同時にモンスターボールも拾って。
 それを彼女の前にちらつかせながら。

「おれ、お前に言ったよな? これはおもちゃじゃねーってさ」

 めっ。と、その毛玉を軽く睨めば。
 そんなの私は知らないもん。
 さっと目を反らす茶イーブイ。
 というか、どの角度から見やっても目が合わない。

「チョコタルトー……」

 はあ。先に降参したのはあさひ。
 瞬間。ぱっと顔を輝かせた茶イーブイが、真っ直ぐにあさひを見やる。
 きゅいっ。一つ、元気に鳴いた。
 もう終わりですか。言葉にすれば、そんな感じだろうか。

「――こいつ」

 あさひの片眉が跳ねた。
 ん。首を傾げる彼女。
 正直に言ってしまえば可愛かった。
 うっ、と言葉をつまらせたあさひに。

「あさひの負けだね」

 母の声が笑っていた。

「もう行っていいぞ」

 諦めて彼女を下ろせば。
 嬉しそうに駆けていく茶の毛玉。
 それはそのまま勢いよく、真っ直ぐに、青の背に向かって行く。
 足音で気付いたのだろう。
 その青――ニンフィアが振り返って、ぴやっ、と驚いたような声を上げる。
 だだだだ。ごふっ。やけに彼女らしくない声だったけれども。
 茶イーブイがニンフィアへ体当たりをした音だ。

「元気だなあ、あいつ」

 ニンフィアに同情気味な気持ちを感じるけれども。
 あさひの声音は呑気なものだった。

「チョコタルトは確実にラテの性質を受け継いでるね。いや、もしかしたら、それ以上……?」

 うーん。唸る母の声。
 それを聞きながら、あさひは手に持ったモンスターボールを見つめる。

「てか、これどこから持ってきた?」

 確か、部屋の机に置いた気がするのだけれども。
 茶イーブイは部屋の扉を開けるなんて、器用なことは出来なかったはずだ。
 おかしいな、と首を傾げた時。
 こと、ことと。音がした。
 その音に振り向けば、階段から落ちてきた別のモンスターボール。
 新しいそれの、特有の光を弾く様は。
 間違いなく、あさひが本日手にした新品のモンスターボール。
 続いて、階段からぽふっと転がり落ちて来たのは。

「ホイップ、何してるの?」

 白イーブイだった。それを母が抱き上げる。
 けれども、彼はすぐにじたばたと母の腕から逃れようとする。
 彼の意識はモンスターボールに向けられているようで。
 あさひが歩み寄ってそれを拾い上げれば。
 それをよこせ。と、言わんばかりに懸命に前足を伸ばす。
 そんな白イーブイとモンスターボールを交互に見やったあさひが口を開く。

「部屋を開けたのはホイップか」

 その言葉に、ぶんぶんと首を横に振る白イーブイ。
 僕じゃないから。
 きゅっ。一つ鳴いて、彼が勢いよく前足で示したのは。

「カフェ」

 聞こえた声は母のもの。
 ちょうど階段から下りてきたブースターだった。
 何か呼んだ。と、母の元へ歩み寄った彼は、ぶすたー、と鳴く。

「あなたね、あさひの部屋の扉を開けたのは」

 こくん。ブースターは頷く。

「何でだよー」

 あさひが口を尖らせれば。
 ぶすたぶすた、と何かを彼に訴える。

「おれには伝わんねーよ……」

 眉間にしわを寄せる。
 そんな彼へブースターの言葉を伝えたのは母だった。

「ホイップがモンスターボールを気にしてたから、部屋を開けたらしいよ」

「気にしてた?」

 思わず、母に抱かれる白イーブイを見やる。

「ホイップにとっても、大きなイベントだもん。あさひと一緒で楽しみにしてるんじゃないの?」

 腕の中の白イーブイを撫でながら、母はあさひにによっと笑いかける。
 瞬時に頬を朱に染めるあさひ。
 そして、彼は母に食って掛かる。

「べ、別に、トレーナーになるのが楽しみとかじゃなねーからっ! 楽しみだから、待ちきれなくてモンスターボール買いに行っちまったとかじゃないからっ!」

 そこまで言葉にして、あさひははっとする。

「ほらー、やっぱ楽しみだったんじゃん」

 にやり。母がいやらしく笑った。

「お、おれは別に――」

 刹那。母の橙の瞳が真剣な光を帯びた。
 その瞳が外へと向けられていて。

「――はい。それはあとで聞いてあげるから」

 あさひの言葉を遮れば、彼女は腕の白イーブイを下ろして。

「そろそろ、午後のお客さんが見え始める時間帯になるから、あさひも手伝って」

 むむむ、と唸るあさひの、その額を軽く指で弾く。
 いてっ。彼の声が響いて。
 痛みの走った額を抑える。

「母さんっ」

 少しだけ涙目になる桔梗色の瞳。
 それで一生懸命に母を睨むも、既に母はカウンターに入って準備を始めていた。
 ブースターと白イーブイが歩み寄って、大丈夫かと彼を見上げる。
 けれども、今はそれすら気にならなかった。

「ほら、あさひ」

 自分の名を呼んだ母の声は。
 すでに気持ちを切り替えて、仕事のそれな響きを持っていた。
 それに対し、声にならない声をもらしながら。文句を言いながら。
 からんころん。店内に響くドアベル。
 それは、喫茶シルベへ客が訪れたことを告げる音。
 最後に母を一睨み。橙の瞳は怯むことなく彼を促す。
 もうっ、言われなくとも分かってるよっ。
 胸中で悪態をつきながらも、あさひが振り返った頃には。
 いつも通りの桔梗色の瞳で。いつも通りの声音で。

「ようこそ、喫茶シルベへ」

 見事に取り繕うことに成功したのは、きっと日頃の成果かもしれない。
 ぶすたー。きゅいっ。
 側の二匹は客を出迎えるべく、一番いい声で鳴いて駆け出した。
 それに続いて、元気よく横から駆け出して来たのは茶イーブイ。
 その後ろでは、なぜだかよろめきながら客を出迎えに向かうニンフィア。
 そして、母のいつもの声。

「当店自慢のカフェラテで、一息つきませんか?」

ばす ( 2019/10/22(火) 20:48 )