01
「ミケーレは置いていけ。それが条件だ」
低い声に、手足の先が冷たくなった。
何故。私の子を。
腹の中で1年近くを共に一体として過ごしてきた。あの子が生まれてまもない頃の、柔らかい頬や髪の感触を思い起こし、私は膝の上で拳を握り締めた。
「…私が、そんな事を許すとでも思っているの?」
あの体が中心から裂けるような痛み。それと引き換えに得た、あの小さな温もり。貴方は何もせず、部屋の外で待っていて、あの子を受け取っただけ。ああ、あの時は、貴方はあの子に笑いかけていた。慣れない手つきであやしながら、いくつか名前の候補を口にもしていた。ミケランジェロ、と仰々しい名前をつけようとしたが、長すぎると私に反対されて困った顔をしたのが、まるで子供のようだった。
そう、あの日、あの時が最良だった。これまでの生を思い返しても、あの一点は燦々と輝きを放っている。頂点に達した時が降りの始まりであるという事実など知らなかったし、知りたくもなかった。
「だって貴方、あの子を… 」
半ば叩きつけるように口にすると、あの男は天井を仰いで瞑目した。ややあってから、乾いた唇が、かすかに動いた。
「…そう、見えていたのか」
あの子の親権は私の物になった。
それから数年が過ぎた。あの子は7歳。母子二人暮らしが当たり前で、自分に「父親」という存在がいる事すら知らない。私も今や他人となったあの男の事を、積極的に語り聞かせてやろうとは思わなかった。
その朝、私は台所で朝食の支度をしていた。あの子はまだグズグズと布団に車って寝ているのかと思えば、外に遊びに行っているらしい。確かに雲ひとつない良い天気だ。あの子が帰ってきたら、一緒に洗濯物を干そう。きっと気持ちいいだろう。
「おはよう、マンマ」
後ろから聞こえてきた声に、口元も自然と綻ぶ。あの子が駆け寄ってくる気配を感じ、私は包丁を置くと、体を屈める。間髪いれずに小さな塊が、太陽と風の匂いと共に腕に飛び込んでくる。私は抱きしめ、髪を撫でようとする。しかし、手に触れたのは滑らかで硬質な皮膚の感触だった。後頭部が妙に盛り上がり、それをたどれば、額にかけてモヒカンのような硬い突起が形成されているのがわかる。
一頭の小柄な緑色のドラゴンポケモンだった。口の両端からは、白い牙が横向きに突き出ている。種族名はたしか、キバゴ、と言っただろうか。それは赤い目を輝かせ、小さな短い前肢をさし伸ばしてくる。
『マンマ?』
数瞬後、悲鳴と共に、私はそれを宙に放っていた。なるべく自分から遠くへ、という思いも働いたのか。キバゴの体は放物線を描いて飛び、『ぎゃっ』と短い声と共に、家具の角に激突し、床に転がった。
肩で息をしながら、私はその場に崩れるように座り込んだ。同時に、自分がしてしまった事を思った。何という事をしたのか。ポケモンという生き物に馴染みがなかったわけではない。夫もトレーナーの端くれだったから、その周りにポケモンを侍らせていることはよくある光景だった。
そう、ただ純粋に驚いたのだ。何故こんなところに、ポケモンがいるのか。そして、そのポケモンは言葉を発し、自分に触れてきたのだ。そう、あの声には聞き覚えがあるどころではない。むしろ、慣れ親しんでいる。あれは、あの声は。
「ミケーレ・・・」
背中を一筋冷たい物が伝った。
恐る恐るキバゴを投げた辺りに目をやろうとすれば、骨どうしの擦れ合う嫌な音がする。透明な冷たい指が喉を抓む。見ろ、と言う声を聞いた。
ちゃんと見て。見るんだよ。
目の下が痙攣する。対して、床に転がった小さなドラゴンポケモンは、ぴくりとも動かない。そして突然、その輪郭がぐにゃりと歪んだ。まるで飴細工のように前足が、突き出した牙が溶け、それらは子供特有の丸みを帯びた手や頬へと変じていく。
「あ…」
どこからともなく迷い込んだと思われた「野良ポケモン」は、今や人間の子供の姿に、そう、それは私の子供に他ならなかった。
「ミケーレ!」
私はあの子に駆け寄り、抱き起こした。顔の前に手をかざすと、かすかだが呼吸がある。良かった。脳震盪を起こしただけのようだ。そして、こめかみに濡れた感触があるのに気づき、恐る恐る拭ってみると、血だった。
「ミケー、レ…」
私は、一体、何をしてしまったのか。
そしてこの子には、何が起きているのか。
窓から差し込む陽光が、急速に温度を失っていった。