01
花間一壺酒 花間 一壺の酒
独酌無相親 独り酌みて相ひ親しむ無し
挙杯邀明月 杯を挙げて明月を邀(むか)え
対影成三人 影に対して三人と成る
月既不解飲 月既に飲むを解せず
影徒随我身 影徒らに我が身に随(したが)う
暫伴月将影 暫らく月と影とを伴って
行樂須及春 行樂須らく春に及ぶべし
我歌月徘徊 我歌えば月徘徊し
我舞影零乱 我舞えば影零乱す
醒時同交歓 醒むる時同(とも)に交歓し
醉后各分散 醉いて后(のち)は各おの分散す
永結無情遊 永く無情の遊を結び
相期獏雲漢 相い期せん 獏(はる)かなる雲漢に
李白 「月下独酌」
砂塵が飛び交う中、群れも作らぬまま一人で、いや、一匹で生きてきた。
いつからそうだったのか。いつ私という存在は生じたのだろうか。私にとって、時間の流れとはあってなきが如き物だった。
両の翼を動かして宙を行くように、周囲一帯に念をこめれば、翼や胴にぶつかってきた砂粒やそれを運ぶ風の流れは私から少しずつ遠ざかっていく。
砂粒の帳を払われた空は既に暗く、そこに半円をほんの少し削り取ったような月が浮かんでいた。
私はダルマッカや、あるいは遺跡の内部に棲むデスマスやメグロコのように進化はしない。生まれてから死ぬまでこの姿のままだ。
人間には「鳥もどき」などと中途半端な名をつけられられている。もどき、すなわち似てはいるが、その物ではない。
念力で持って作り出した無風地帯に、影が薄く落ちている。
球体の体。その頂には小さな紡錘型の突起。両端から伸びる翼はマメパトなど他の飛行タイプのポケモンの持つ柔らかく強靭なそれとは異なり、骨を連ねたように歪だ。
「花間、一壺の酒」
淡い光の中、声にならない声を聞く。
「独り酌みて相ひ親しむ無し」
ここには私だけしかいないはずだ。そうなるように念をこめたはずだ。
「盃を挙げて明月を迎え」
いや、月がいる。辿りつけない高みから、白く朧に光を放ちながら砂漠を見下ろしている。
「影に対して三人と成る」
そして影。砂嵐を一時的にせよ遠ざけたおかげで、こうして私の前に形となって現れる。
「月既に飲むを解せず」
どのくらい前だったか、月に憧れて、少しでも近づこうと試みた事もあった気がする。
「影徒らに我が身に随う」
だが、ふと見おろした時に、やや小さくなった影が少しさびしげに見えて、私はそれ以上上には行かなかった。
「暫らく月と影とを伴って」
夜空には月。下には一面の砂。その間(あわい)で、私はこうして生きている。
「行樂須らく春に及ぶべし」
私だけが、息をしている。
命は、どこから来るのだろうか。
デスマスは、元々は人間であったらしい。実際に人間だった頃の記憶を保持している個体もいるようだ。
どのような感覚なのだろう。宙を浮遊する事もできず、直接触れずには物を動かす事もできないというのは、不便そうだ。
だが、人間はできない事があるという事実に決して悲観はしていないだろう。
私が、こうして砂漠で生きる事を、私自身である事を受け入れているように。
だが。
雲が薄い紗を投げかけるように、ふと薄暗い物が私の中に現れた。
「我歌へば月徘徊し」
「私自身」とは一体何を指しているのだろうか。
「我舞へば影零乱す」
私は、私についてどれほどの事を知っているのか。
念力が緩み、砂の帳が狭まってくる。
月は、その形がぼんやりと見えるだけ。星は宙を舞う砂粒の中に紛れてしまった。
砂が絶え間なく羽や尾や胴体にぶつかってくるが、ポケモンとしての特性のおかげで、痛みを感じる事はない。
だから特別そうする必要はなかったのにも関わらず、気が付けば砂嵐を除ける場所を求めて、ある場所に向っていた。
砂漠の奥に立つ、人間が石を積んで建てた城。その成れの果て。
「ずっと昔から」在るもの。
生まれつき備わった念能力は、時に私自身がはっきりと意識していないところに作用する。
この時も、まさにそうだったらしい。
私が向かった廃墟のその入り口。そこにいたのは見慣れたポケモンたちのどれでもなかった。
人間が、長い髪を後ろで結んだ軽装の娘が私を見つめていた。
逃げようと思えば逃げられたはずだった。
私はそれなりに力があったし、ふきとばしで、彼女が連れていたポケモンをボールに戻してしまえば、その騒ぎに気を取られている隙に砂嵐の中に紛れてしまえば良かった。催眠術でトレーナーもろとも眠らせてしまう事もできた。
だが、私は、彼女の繰り出したレパルダスと戦う事を選んだ。投げられたボールに入った時も、抗うだけの力が残っていなかったわけではない。
「醒むる時同(とも)に交歓し」
あの砂漠にいた頃の私は、砂のようだった。私の体に当たってはさらさらと滑り落ちていく砂粒のように乾いていて、そしてとるにたらない存在。
実際に、いつか命が尽きれば、砂の一部と成り果てていただろう。
「…醉いて后(のち)は各おの分散す」
私は私でしかない。砂漠に住まう多くの命の一つ。生まれては消えるだけ。
ほう、と吐いた息も、詩を口ずさむ声も虚空に消える。
「永く無情の遊を結び、…」
「…ミアーノ」
「相ひ期せん 獏(はる)かなる…」
「ダミアーノ」
低い声に振り向けば、レパルダスは長い尾をしならせ、歩み寄ってきた。
「何一人でブツブツ言ってるのさ」
切れ上がった目に、鳥もどきと呼ばれる自分と、トレーナー付きのポケモンになったあの夜に比べて少しやせた月とが映り込んでいる。
「……何でしょうね?」
正直に言うと、私もどこでこの詩を覚えたのかがよくわからない。砂漠にやって来る人間が口ずさんでいたのを聞いたのか。
デスマスのように、ポケモンとしての命が生じた時から、持っていた記憶の一かけらなのか。
あるいは。
「…私が作った詩、ということにでもしておきましょうか」
「は?」
口が半開きになる。そのまま固まったのを見ていたら、弾むような、今までに感じた事のない暖かな感覚が私の内に生じた。
そのまま内に生じた波に身を任せてみればこんな言葉が口を衝く。
「月が綺麗でしたから」
一瞬の沈黙の後、相手はくつくつと笑い出した。
「…お前がロマンチストとは知らなかった」
「私もです」
そして、こうして誰かと会話ができるのが、自分は「嬉しい」らしい。
それもまた新たな発見の一つだった。
「発見」は楽しい。まるで、陽光に煌めく海面を見ているようだ。
窓から差し込んだ淡い光。背後を見れば、長々と伸びる影が二つ。
私が羽を広げると、それらは一つに繋がる。
「つか、鳥目じゃないんだな」
「ええ。それに、エスパータイプですから、膚で感じる部分もあるのでしょう」
「便利だな」
相手は目を細めると、身を翻して部屋の奥へと歩き出す。
「何処へ?」
「何か取ってくる。トウコ、さっきサイダー買い込んでいたから、2本くらい鞄からちょろまかしたところでかまわないだろ?」
「れいこくポケモン」の二つ名を持つ仲間は片目を瞑って見せた。
「そうだ、即興で何か作ってよ」
「できなかったら?」
「罰ゲーム」
「それは困りました」
悪タイプの技に加えて、彼はシャドークローまで覚えている。空こそ飛べないが、スピードは私を上回る。
困りましたねえ、と宙を行ったり来たりしながら、私は彼を待つ。
本当に、どうしようか。
何か適当な言葉を思いつければ良いのだけれど。
ああ、彼が戻ってくる。足音を立てないが、空気の僅かな震えや体表から立ち上る温もりの気配でわかる。
それらの気配に私は愛しさすら感じ始めている。
飾り尾を揺らし、私の方から彼への距離を縮めていけば、影も私に随う。それを爪を押し付けた跡のような月が見つめている。
月と私と影と、そして彼。
まずはもう一度、彼の名前を、種族名ではない、彼だけの名前を教えてもらおう。
私に「ダミアーノ」という名が与えられたように、きっと彼にもあるはずだから。