分岐
「君の望みは何だい?言ってみたまえ。僕が叶えてあげる」
わたしを抱えている男は、笑みを浮かべてはいるのだろう。わたしの乏しい語彙や覚えている限りの表情のヴァリエーションを色々引き出してみても、答えは揺らがない。
わたしたちを乗せたゴンドラは地上に到達し、男はわたしを抱えたまま軽やかに降り立つ。
どこへ向かおうとしているのか。伸びあがると肩越しにあの人の姿が目に入ってきた。投げ出された手足はぴくりとも動かず、物のように横たわっている。
ふと、これが演技レッスン、あるいは撮影中の映画の一場面ではないか、という思いが頭を掠める。
飛び降りるわよ、ぶぶちゃん!
閉じ込められていた空気が外へと吸い出されていく、その音や風圧に負けじと声を張り上げていたあの人。
受け止めてあげるから!
必死で伸ばされる手。いつもわたしを抱きしめてくれた手。ダンスや演技が上達すると褒めてくれて、わたしの手をとって一緒に喜んでくれた。
一緒に来て!
行けば、また平和な日常に戻れる。今日の事は「悪い夢」だったのだ。「事故」だったのだ。
きっとあの人はそう言い聞かせたと思う。
ぶぶちゃん、ぶぶちゃん!
必死で、わたしに、そして自分に言い聞かせて、時間が経つのを待つ。「芝居」が跳ねれば、わたしたち役者は演じていた役から元の日常に戻る。
元の日常に。
BWエージェンシーの看板女優。演技もルックスも完璧。ポスターでもドラマでも引っ張りだこの売れっ子。
それがわたし。
あの人の目に映る、あの人が求める「わたし」。
A
「どうしたんだい?」
平坦な声は相変わらずだったが、首を傾げる仕草は、どことなくあの人よりも幼く見えた。
「心配しなくて良いよ。それよりも君の望みは何だい?欲しい物があったら言ってごらん」
欲しい物。
沢山あると思っていたのに、何故か出てこなかった。
かわいいリボン。レース。洋服。クッション。お花。
あの人と一緒にそれらを眺め、手に取ったりするのは楽しかった。今頭につけている青いリボンもあの人と一緒に選んだ。
「似合うわよ」
あの人の笑顔を見ていると、わたしも胸の辺りが温かくなってきた。
音楽に合わせて踊ったり、何かになりきって演技をするのも好きだった。
いつも傍にいてくれたあの人のおかげでもあるのだろう。音楽が流れれば一緒に踊り、台本を読みながら仕草を考えたり、難しい言葉の意味を調べて教えてくれもした。
体調が悪くなったときはつきっきりで看病してくれた。
楽しい時は一緒に笑い、哀しい時は一緒に泣いた。会社を立ち上げたばかりの頃、仕事がなかなか入らなかった時もわたしたちは一緒だった。
ポケモンと人間。種族は違っても、わたしたちはとてもうまくやっていたと思う。
あの人はわたしの事をよくわかってくれている、とずっと信じていた。
受け止めてあげるから!
確かに、わたしが行けば、そうしただろう。バトルを怖がっていたけれど、わたしたちタレントを守るためならきっとチョロネコの爪を受ける事も厭わない。
そういう人だと、知っている。でも、
「君の声を受け止めてくれなかった」
男の言葉に、わたしは無言を通す。否定しようがないからだ。
最初は怖くてたまらなかった。気が付けば、あの人と一緒に、いきなり観覧車の中に連れ込まれ、逃げ場のないまま地上を遥かに見下ろす場所に来ていた。
そして男と一緒にいた、冷たい眼差しの緑色の蛇のような姿をしたポケモンにわたしは襲われた。
助けて。
叫ぼうとしたが、できなかった。もがく度に、長い尾が首や胴体により強く食い込み、締め上げる。
助けて。
ポカ、いや、進化してより強い力を手に入れたチャオなら、あるいはチャオのトレーナーの男の子なら、怒ってこの不気味な緑色の髪の男もろともやっつけてくれただろう。
助けて。
でも、わたしはあの人に助けて欲しかった。たぶんチャオがこの場にいたとしても変わらなかっただろう。
やめて!
あの人は抗議の声をあげた。
戦う意志がないポケモンを傷つける事はプラズマ団の主張と正反対なんじゃないの!?
声に応じるように、拘束が強まる。
苦しい。早く、助けて。
戦う意志がない?
蛇ポケモンの主の声は、冷え切っていた。
本気で、そう思っている・
そう。わたしはバトルをしたことがない。
女優として、事務所の顔としてわたしにはやる事が沢山あった。
仕事が立て続けに入って、なかなか休めない事もあったが、充実していた。
しあわせだった。
やりがいのある、楽しい仕事。一緒に笑い、泣いてくれるパートナー。
ボーイフレンドだってできた。
これ以上、何を望めば良いというの。
何を。
宙に持ち上げられ、ひどくなる痛みの中で、わたしはそれに対する答えを見つけ出した。
B
力だ。
必死でヒウンジムで、チャオが進化した時の事を思い出す。彼がイシズマイの岩に押し潰された時は駄目か、と思った。
その前の攻撃で、既に彼は傷だらけだった。わたしは何故か、その姿から目がそらせなかった。
傷は痛い。
ひどければ体に残る。
だから、女優であるわたしは傷を負ってはいけない。
あの人に言い聞かせられたのか、それとも自分でたどりついた結論なのかは定かではない。
だが、痛みに対する嫌悪感というものは確かにあったし、そのためかバトルをする自分というものを想像したこともなかった。
だが、わたしの目の前で、同じ種族だったはずのチャオは体を震わせ、進化した。胴体に、そして短い手足に今まで感じた事もない力が満ちはじめ、大きく膨れ上がった。
それまで彼を押し潰していた岩は、逞しくなった腕によって粉々に砕け散った。
すかさず距離を詰め、敵を殴り倒した彼は、自分の体に起きた変化を自然に受け入れているように見えた。
すごい。
二倍の大きさになった彼の周りをめぐっていたわたしに、笑いかける顔は精悍で力と自信に溢れていた。
わたしは、彼のようにうまくは戦えない。
彼にはトレーナーの男の子がいてサポートしてくれる。でも、わたしは…。
空しく宙を掻く足を見つめ、そして攻撃の手を緩めないポケモンを見つめる。
わたしには何ができる?
体当たり。駄目だ。動けない。
他に何かできる事は。
チャオなら、どうする。
あの後、バトルをするのだって見たはずだ。同じ動きはできなくても、「技」なら使えるはずだ。
殴りつける以外に何をしていた?
考えれば考えるほど、頭が熱くなっていく。
わたしには何ができる?
音楽に合わせて踊る事。あの人が噛み砕いて説明してくれた台本に従って演技をする事。
今は何の役にも立たない。
だが、この不気味男の言うとおり、わたしにもあるはずだ。使える「技」が。
それは、何?
答えを求めて視線を彷徨わせる。目に入ったのは、顔をこわばらせたあの人だった。
こんな状況に遭わなければ、わたしも戦いたい、とか自分にどんな技が使える、とかは考えもしなかっただろう。
バトルが好きか嫌いかと問われても、答えは出せなかっただろう。そもそもどんなものかすら知らなかったのだから。
男は色々と非難していたけれど、わたしはあの人が好きだったし、あの人もきっと同じ気持ちだったはずだ。
わたしは、あの人を助けたかった。
そのためにも、この蛇をなんとかしなければならない。
念じると同時に体が熱くなってくるのを感じた。
わかる。
わたしが何をすべきか。何が必要なのか。
流れる音楽に自然と体が対応するように、満ちてきた力をどのように放つべきか、イメージが浮かび上がる。
わたしだって、このままやられっぱなしで済ませたくはない。
力があるというなら、見せてやろうじゃないの!
C
橙の火球は見事にジャノビーの頭に命中した。甲高い悲鳴を上げ、倒れたポケモンの傍にわたしは着地する。
毎日のレッスンの中にスタントの基礎が組み込まれていた事が、思わぬ役に立った。
ポーズも完璧だったはずだ。きっとあの人もそう言ってくれるだろう。
そして何より注目すべきは、わたしの放った技の結果だ。いつも入るモンスターボールと同じくらいの大きさのものしか作れなかったが、床の焦げ跡や倒れたまま動かないジャノビーを見れば、そう悪くはないはずだ。
「すばらしい火の粉だよ」
ああ。
わたしは男の評価を少しだけ改める事にした。
「はじめて放った技で、ジャノビーに相当のダメージを与えたよ」
そう、生まれて初めて。
わたしにはこんな事ができる。
新しい振付を教えてもらった時と同じ。
とても、嬉しい。
「これほどの力なら、チャンピオンだって倒してしまいそうだ」
わたしが?
信じられない思いで、男を見上げる。
「そんな未来が、見えるようだよ」
すごい。
お世辞でもかまわない。
ただ、嬉しい。
自分について新しい事を知った事。
自分の力で、困難と思われた事を達成できた事。
そして、わたしに「可能性がある」事。
チャンピオンと言うのは、チャオたちが目標にしている物の事だろうか。
よくわからないが、とても素敵な事が自分に起きているのは間違いない。
あの人も一緒に喜んでくれる。
よかったね、と笑い合ってくれる。
そうなると、信じていた。
信じて、いたのに。
D
『あ』
強い風が耳を揺らした。思わず頭に伸ばした手に、リボンが触れた。
初めての仕事の日に、あの人が、お気に入りのコレクションの中から選んで結んでくれた物だった。
―かわいいわ、ぶぶちゃん
ミュージカルなど役や場所によっては別の物に代わる事もあったけれど、わたしはこれが一番好きだ。
大好きなあの人からの最初の贈り物。
わたしのお守り。
わたしたちの心のつながりの象徴だと思っていた。
あの人があんな目をわたしに向けるとは思ってもいなかった。
わたしが何をしたの?
わたしは、あのままジャノビーに締め上げられていれば良かったの?
映画のヒロインみたいにヒーローが助けにきてくれるのを待っていれば良かったの?
貴方がヒーローにはなれない事を知っていたから、わたしは自力で何とかしようとした。
貴方を助けたかった。
なのに、何故?
何故、わたしをバケモノでも見るような目で見るの?
飛び降りるわよ!
そう、それが、貴方の答え。
もしもあの人の言葉に応じていたとしても、わたしたちはもう前のようにはなれなかったと思う。
わたしがまた力をふるってみたいと思っても、許してはくれない。
ましてや進化など叶えられない事はチャオの件で立証済みだ。
わたしは、技を出す事を嬉しいと思ってはいけない。
傷ついてはいけない。
女優だから。
BWエージェンシーはわたしで持っているようなものだから。
あの人が意図していなかったにせよ、自分の夢のためにチャオやチャオのトレーナー、チャオの仲間たちの夢を潰そうとしていたのも事実だ。
わたしについては、わざわざ考えるまでもない。
それに、とわたしはもう一度草叢に横たわったあの人の方を見やる。すぐ隣に佇む、沈みかかった日が長く影を伸ばすそのポケモンは、先ほどわたしが倒したジャノビーだ。
わたしはもうあちら側には戻れない。
『ねえ』
うつむいたまま、絞り出した声はかすれていた。
「何だい?」
『遠くに行きたい。どこでもいいから』
できるだけ遠いところ。
あの人が見えなくなるところ。
あの人がすぐには追いつけないところ。
わたしが、走っても戻れない、戻り方がわからないように。
知らない場所に連れて行って。
暫く彼らを見たくない。
「いいよ」
男は少しだけ笑ったようだった。
「君の声、叶えてあげる」