掌
本を読んでいる最中、突然視界が闇に閉ざされた。出来事に多少は驚いたものの、焦りはしなかった。目の上にぴったりと貼りついた掌の主、このような悪戯を仕掛けてくる人間は、一人しかいない。
「……何をしているのですか?」
溜息と共に吐き出せば、犯人はクスクスと笑う。どこでどのようにして、何のために覚えたのか、彼女は気配を消すのが上手い。もっともゲーチスもゲーチスで、考え事に気を取られ過ぎていたというのもある。まとめなければならない論文があるのだ。机の横には、付箋をそこかしこから飛び出させた本が山積みになっている。視界が塞がれていても、それは容易に瞼の裏に浮かぶ。
全く。
あの連中が嘘を吐いていないとすれば、あるいはまともな時間の数え方をしているならば、彼女は二十歳前後のはずである。外見は少なくともそれなりに見える。だからこそ、年齢にそぐわぬ子供っぽい振る舞いにしばしば調子を狂わされる。
初めて会った時からそうだ。「夫となる人物」という簡単な紹介もちゃんと聞いていたのだろうか。大きな青みがかった灰色の眼を更に丸く開いて、彼の周囲をぐるぐると歩き回りながら頭頂からつま先までをくまなく観察していた。サーカスの珍獣。そんな単語が浮かんだ。実際、彼女の眼に2メートルの身長をほこる自分はそう映っていたのかもしれない。
一体何なのだ。本能的に隣の男、ゲーチスをここに連れてきたハルモニアの血族に視線を走らせる。まともな答えが帰ってくるとは期待してはいなかったが、男は口を一文字に結んだままどこか壁を睨んでいた。彼にしてみれば、そもそも自分という部外者がここにいる事自体不本意なのだろう。
やがて立ち止まった気配に、ゲーチスがそちらを見やれば凪いだ水面のような瞳がこちらを見上げていた。冬の湖のようだ、と詩的な表現が浮かんだのは自分らしくもない事であった。
「論文の締切日が近いのですよ」
二度目の溜息に乗せて告げれば、漸く手を滑らせた。手は白く滑らかで、その下には、薄く柔らかい肉と華奢な骨がある。壊れやすそうでいてその実強靭な力を秘めた指は、骨ばったゲーチスのそれを一度握り締めると、なかなか離さない。
柔よく剛を制すとはよく言ったものである。
悪戯こそやめたものの、妻はゲーチスから離れようとしない。腕をそのまま彼の首に巻きつけ、肩越しに本を覗き込んでいる。基本的な読み書きは一応教えられたものの、使う機会はほとんどなかったと聞く。確かに屋敷の中でだけ生活していく分には、なくても別に困るものではあるまい。外の世界も知識を広げるという事も知らず、一生を籠の鳥で終わる事に何ら疑問を持たない。その方がハルモニアの血族たちにとっては都合が良いのだろう。
そんな事を考えていたら、耳に息を吹きかけられた。
「……やめて下さい」
俯くと、鈴を転がすような声で笑う。耳が熱い。意識を逸らそうと資料を見ても集中できない。
このような行為に対して、どのように対応すれば良いのかがわからない。邪魔、と一言言って追い出せば良いのかもしれないが、肝心の言葉は喉に魚の骨のように引っ掛かったまま出てこない。華奢な手首に自分の手を滑らせれば、何を勘違いしたのか抱きつく力を強めた。男女の違いや体格の差から言えば、振りほどく事が難しいはずはない。手首は握り締めれば容易く折れてしまうだろう。そうすれば、きっと邪魔はしなくなる。
もう二度と。もう二度とないだろう。彼女がまともな感覚を持っているならば、もう彼に近づく事はない。こんな風に触れてくる事もあるまい。
ゲーチスは長い息を吐いた。
ゲーチスの両親は早くに死んだ。死因が事故だったのか病気だったのか、二つの死の間にブランクがあったのか。それらについての記憶は定かでない。そもそもどのような人間だったのか、手がかりとなりうる写真すら手元にはない。元々なかったのか、それとも時間の流れの何処かで棄ててしまったのか。
孤児になったゲーチスは遠い地に住む親戚に引き取られたが、一つ所に長く留まる事はなかった。大人たちにとって、「血のつながり」というものほど面倒な物はなかったに違いない。いつも追い出す口実を探されていたような気がする。夜中に自分の事で言い争う声で目が覚めた事もあった。引き取られた先で同い年の子供と出会った事もあるが、「仲良く」遊んだ覚えはない。子供は周囲の大人を手本に育つ。そしてしばしば、大人たちが意図しないところで彼らの関係や視線をトレースし、自分のものとしていく。
そうして近いのから遠いのまで「親戚」たちの間を盥回しにされた挙句、彼は施設に放り込まれた。「捨てられた」のだ。だが、その事について感じたのは悲しいというよりも安堵の方が近いだろう。表面だけの「義理」でつながっている連中よりは、何の関係もない他人の間にいる方が、気が楽だった。何より良かったのは、本を読むためにカーテンや押し入れの中に隠れないで済む事だった。
その後、偶々勉学において優秀な成績を収めていた事から奨学金を得、飛び級で大学に入った。研究の道を選んだのは、他にしたいと思える事がなかったのも理由の一つと言える。彼の関心は、混濁した様相を呈し時として吐き気を催すような現在や未来の発展よりも蓄積されてきた過去に向けられた。複雑な組み紐を解くように、この生まれた国の起源に踏み入っていくのは楽しかった。建国をはじめとする様々な事象、それを成した張本人たちに興味があった。それにゲーチスにとっては、かつて彼を振り回した挙句に捨てた近親者たちや遠巻きにする周囲の他人よりも、膨大な時間を隔て直接触れ合う事のない故人たちの方がつき合いやすいとも言えた。彼らから学ぶ事も多かった。
そんなある日、膨大な資料を通して親しんできた「ハルモニア」の末裔を名乗る男が現れた。ゲーチスがその日、アーカイブに一人でいる事を、どんな方法を使ったのか男はあらかじめ知っていたようだった。
簡単で一方的な自己紹介の後、男は取引を持ちかけてきた。跡取り娘と結婚し、神聖な血の継承を手伝う事。そのかわり、彼らは研究資金と一族の持つ貴重な史料を提供する。断る理由はなかった。
何故自分だったのか。ゲーチスは、それについては何となくわかる気がする。彼にろくな身寄りがいなかったからだ。
ハルモニアの一族は、ハルモニアという名と自分たちの中に流れる血に強い誇りを持っていた。伝説のドラゴンを従え、イッシュ地方の礎を築いた英雄を神にも等しい存在と崇め、彼らの「血」を受け継いだ己という器を特別な物と見なしていた。彼らにとって、世界は二つ、神聖なるハルモニア一族とその他の賤民たちに分かれており、両者の間に距離を置こうとした。純粋さを保つためなら、彼らは「常識」を踏みにじる事も厭わなかった。
家系図を見れば、従兄妹同士は勿論の事、伯父と姪、片親の違う姉弟が結婚する事も珍しくはない。だが、その代償として濃くなりすぎた血は彼らの心身や未来を蝕んでいた。ひ弱な子供は次々と早世するか奇形を抱えており、母親はほとんどが出産に耐え切れずに死亡した。若い世代で残っているのは、男と彼にとっては姪でもある二番目の妻との間に生まれた娘しかいなかった。
絶対的に上位にあったはずの彼らの世界は崩れようとしていた。しかし、生き物の常として滅びを受容する事はできなかった。彼らは種の存続のためには下賤な連中の力を借りる事も止むを得ないと悟ったが、卑しい人間に「聖域」を踏み荒らされる事、また取り込んだ人間を通して芋づる式に他の多くの下賤な連中とつながる事には耐えられなかった。
その点に限らず、ゲーチスは都合の良い条件をいくつも持っていた。一族は過去の栄光に憧憬を抱き、それを取り戻す事を長年の悲願として受け継いでいたが、憐れな事にそのための方法論らしきものは何一つ持っていなかった。
新鮮で優秀な血と、悲願の達成に寄与しうる知識。それらをもたらすだろうゲーチスを、しかし一族は選び出したのと同じ理由で見下していた。
目を上げれば、うねる道の向こうに巨大で毛深い灰色の動物のように蹲る母屋がある。そこではゲーチスをここに連れてきた舅をはじめとしたハルモニアの末裔たちが暮らしている。彼らは唯一生き残った駒を別の棟に住まわせ、王女のように傅いた。室内は冷暖房が完備され、一年を通して過ごしやすい工夫がされているし、窓から外を覗けば、綺麗に整えられた庭が目を楽しませる。高い塀で囲われた一画に限れば、そこに出て散歩する事は許されており、愛らしい姿のポケモンが放たれる事もあった。母屋の人間が訪ねてくる事もあったが、彼女の方から出向く事は禁じられている。
特にゲーチスが来てからは母屋から人が来る頻度はさらに減った。彼らにとってゲーチスはやはり「下賤の民」の一人であり、できる限り触れたくない存在だった。直接顔を合わせる事はほとんどないものの、彼らの監視と値踏みの視線は常にこちらに向いていた。
不安。憎悪。妬み。
先方がどのような感情を抱いているにせよ、ゲーチス本人は大して気には留めていない。一族が苦渋の決断の末に出た行動も、彼にとってはこれまでの人生において幾度となく繰り返してきた「取引」の一環に過ぎなかった。
「これまでの研究を我々は評価している」
これは嘘ではないだろう。
「研究を続けるための資金と、必要な史料を提供しよう」
彼らは、ゲーチスが欲している物を正確に把握していた。
「跡取り娘と結婚し、ハルモニアの血を継ぐ子をなせ」
確かに、一人では子供は作れまい。
「お前がこれまで蓄積してきた知識と、これから得る全てを一族の復興のために提供せよ」
その理由づけとして、彼らはどこの馬の骨とも知れない孤児に、誇り高いハルモニアの名すら与えた。
それほど彼らは焦っていた。
妻は何も知らない。
滅びの匂いや、一族全員が共通して持っていた焦燥や不安からも離れたところに彼女は置かれていた。限られた空間から出る事なく、外から訪れるものはどんなものであれ、全て受け入れる。そのような己の境遇に疑問を持たないよう周囲から入る情報は統制されていた。
新しい血を入れる実験台にされた事についても、反発などは感じていまい。だが、埃が積もって層をなすように蓄積されていく時間の中で、彼女はやはり何かに飢えていたのかもしれない。
珍獣。
まさに彼女にとって、自分はそう映っているのだろう。
本家の人々の中でゲーチスが実際に顔を合わせたのはほんの一握りに過ぎないが、その顔立ちに目立つ差異はなかった。廊下の壁一面に並べられていた肖像画の中にも彼らと全く同じ顔が2,3人ずつは見いだせた。時代を示す衣装を剥ぎ取ってしまえば、同一人物として通りそうである。
ある日、そのような連中とは全く異なる存在が現れた。自分の用事が済めばすぐに去ってしまう「同族」たちとは違って、今のところ珍獣、いや男は彼女の家に留まり続けている。空き部屋の一つに本や紙束を持ち込み、一日のほとんどをそこで過ごしている。「ケッコン」や「ケッコンアイテ」の意味はよくわからないが、「同族」が連れて来たからには自分にとっては何らかの意味を持った、重要な存在に違いない。
観察していると、男や男の行動は何もかもが目新しく、彼女の好奇心を大いに掻きたてた。
たぶん、そういう事なのだろう。
「どうしたの?」
顔を上げれば、大きな目が間近にあった。反射的に目を逸らせば、相手はそれを追う。吐く息が頬をくすぐる。
「どうしたの?」
視線が穴を開けられそうなほど強く注がれ、その個所が熱を帯びていく。彼女に詰問の意はない。ただ、ゲーチス本人にとっては何気ない行動か何かが彼女の琴線に触れてしまった。
そこまでは分析できたものの、問題はこの先である。視線は相変わらず彼の上にあったが、首はもう動かなかった。椅子から立ち上がろうかと思った時、いつの間にか服を掴まれている事に気づいた。鼓動が一つ大きく鳴った。
落ち着かない。他人との距離の置き方について、このパターンは今までになかった。ゲーチスは元々自らのテリトリーに人を招き入れる事を好まなかった。招き入れた相手がどのような行動をとるのかがわからない。怖い。だから、他者と距離を置く術は呼吸をするように自然に身についていたし、これまで出会った人々も、状況を察知すれば深く踏み込まずにそっとしておいてくれた。
だが、この女は遠慮というものを知らないのだろうか。
彼は溜息をつくと、人差し指でこめかみを叩いた。恐る恐る首を戻せば、静謐な水面のような目があり、そこには自分の影が小さく映っている。
「ゲーチス?」
妻が首を傾げると、柔らかな髪が華奢な肩を滑る。その周囲を光の粒子が楽しげにまとわりつく。
ゲーチスにとって「結婚」とは取引の形態に過ぎなかった。自分の人生に大きな影響をもたらすこの出来事について、深く考えた事はなかった。相手についても、一方的な話から得られる以上の情報は知らなかったし、知ろうともしなかった。自分はある意味では、妻以上に無知なのかもしれない。
何にしろ、この状況を切り抜けなければなるまい。取りあえず離れてもらいたいが、どうするべきか。体格差からいえば突き飛ばすのは簡単だ。率直に「邪魔だからどけ」と言うのも方法の一つではあるが、余計に面倒な事になりそうだ。
思考は渦を巻き、終わりはなかなか見えない。だから漸く見出した策を口に出すのに迷いはなかった。
「……紅茶を持ってきていただけませんか?」
扉が閉まる音と同時に、後悔が襲ってきた。
何という事を言ってしまったのか。
以前、自分が台所でやっていたのを見よう見まねで入れてきたというのを飲んだ時の惨事は未だ鮮やかな記憶となって残っている。運ばれてきた物を深く考えもせず、口に含んだ数秒後には、机の上に広げていた原稿の上には無数の茶色い飛沫が飛び散っていた。勿論妻に悪気はなかったに違いない。味も昔親戚の家で故意に飲まされたものに比べればずっとマシとも言えたから、二回目以降は覚悟も決まり、最近は顔色一つ変えずに飲み干す事もできるようになった。
それにしても、本当に他に言う事はなかったのだろうか。
考えれば考えるほど、後悔は彼を苛む。頭が痛くなってきた。そういえば、ここ数日ろくな睡眠をとっていない。夫婦共用の寝室に行くのも面倒で、後ろの長椅子の上で寝ているせいか、体の節々が痛い。
やがて妻が銀のトレイを持って戻ってきた。上にはクッキーを乗せた皿と小花模様を散らした揃いのカップが二つ乗っている。本家の方から結婚祝いとして持ってきてくれたのだ、と嬉しそうに見せてくれたのを覚えている。
向かい側に椅子を持ってきて腰かけた妻の顔とカップの中身とをかわるがわる見つめる。大丈夫だ。覚悟はできている。言い聞かせながらカップを持ち上げる。仄かに花の香りが立ち上るそれを一口口に含む。そして目を見開いた。
「……上手に、なりましたね」
思わず口をついて出た言葉にまず自分が驚いた。誤魔化すように二口目を口に運ぶが、感想を訂正しようとは思えない。確かに前よりも上手になっている。素直にそう思う。
「本当に?」
「ええ」
砂糖の量もちょうど良い。甘い物を好んで口にする方ではなかったが、自分で思っていたよりも疲れがたまっていたのだろう。甘さは心地よく全身に沁み渡り、優しくほぐしていく。
「貴方は飲まないのですか?」
問いかけると、トレイの上で所在無げにしているカップを慌てたように手に取った。両手で包むように持ったものの、胸の辺りで動きは止まってしまう。ふっくらとした唇が物言いたげに開いては閉じる。
「あの…」
「何ですか?」
「……ありがとう」
[newpage]
「何がですか?」
ふつう逆ではないのだろうか。
「…誰かに褒められたのは、初めてで……とても、嬉しかったから」
桃色に染まった頬に睫毛の影が落ちる。
「私はいつもしてもらう側で、それが当然だった。私も同じように誰かに何かをしてあげたいと思っても、皆すぐにいなくなってしまうの。何もしなくて良いって言われたけど、本当は違う。何もするな、って事だったのよ。彼らは私が欲しいと言えば何でもくれたけど、私が何かをする事に関しては許してくれなかった。でも、貴方は彼らとは違う。貴方が紅茶を入れて欲しいって言ってくれた時、私は嬉しかった。それだけじゃない。貴方が褒めてくれた時、とても暖かくなったの。…ごめんなさい、上手く言えなくて」
「いえ」
訥々とではあるが、彼女がこのように長く話すのは初めてだった。そもそも一緒に過ごす時間というものをあまり取ろうとはしなかったし、そうしたところで何の話をすれば良いのかもわからなかった。それだけの事が、何故かひどく惜しまれてならなかった。
「…貴方の邪魔もしてしまっていたようね」
ごめんなさい、と呟いた声に、鈍い痛みを感じた。椅子を引き立ち上がろうとした、彼女の手を気が付けば捕まえていた。
「ゲーチス?」
一体自分は何をしているんだ。何か言おうにも、上手い言い訳が思いつけない。舌が強張って動かない。すまない、何でもない、とでも言えれば良いのに。手の力を緩める事もできない。放せば、どこかに行ってしまいそうな気がする。怖い。
怖い?何が?何故?
再び思考の渦に呑まれそうになった意識をひんやりした指の感触が引き戻した。熱くなった頬の上に、妻は空いている方の掌を滑らせていく。力を緩めると、解放された手が側頭部に添えられる。柔らかな掌に包みこまれると、気持ちが落ち着いてきた。重く暖かな脈の音が優しい子守歌のようだ。得体のしれない恐怖は既にさっていた。
大丈夫だ。彼女はここにいる。いてくれる。
引き寄せられるままに肩に顔を埋めながら彼は静かに瞑目した。