龍の涙
04
「ああ、そうだ」
 と、男が唐突に手を打ったのは、日がちょうど大地の真上から少しずれた頃だったでしょうか。
「お前に伝えたいことがあったんだ。私の名前についてだ」
「名前?」
 それは、女にとって初めて聞く単語でした。
「私の名前はナムカと言うんだ」
 女は目を瞬かせました。
「ナムカ。呼んでみてくれないか?」
「おい、待て。そもそも名前とは一体何だ?」
 憮然と問う女に、男は笑って続けます。
「名前とは、あるものを、他のものと区別するための記号のようなものだ。私が私である事、お前がお前である事、それを証明してくれる。名前があれば、自分が自分である事を確認できる。名前があれば、誰かにそれを呼んでもらえる。私たちもまた、他の誰かの名前を呼ぶ。そうする事で、私たちは互いの存在を認め合う。それが繋がるための一歩となるんだ。龍だった頃のお前にも、きっと種族としての名前があったはずだよ」
「我にも?」
 女は息をつきました。
 名前。種族としての名前。そんなものを、どうして知り得ましょうか。
 冷気と雪をもたらす龍が聞いた意味のある言葉といえば、まず「バケモノ」でした。それが決して良い意味で使われたのでない事くらいは、龍も理解していました。
 敵意。恐れ。
 それらは鋭い槍の穂先となって、氷の鎧を透過し、龍を内側から傷つけてきたものでした。
 その事を思い出し、女は目を伏せました。
「実は、お前の名前もずっと考えていたんだ」
「我の?」
 思わず顔を上げれば、男の黒い瞳とぶつかります。
「アルマ、というのはどうだろう?」
「アルマ?」
 アルマ。
 女は、胸に手を当て、口の中でその音を転がしてみました。
 アルマ。
 気のせいでしょうか、その言葉はまろやかで優しい響きを伴っています。
「…もう一度、言ってくれ」
「アルマ」
 大きな掌がそっと、熱を帯びた頬に触れると、吐息が女の唇を震わせました。
「もう一度だけ」
「アルマ。気に入ってくれたかい?」
 女は黙って頷きました。
 ナムカの声で紡がれたせいでしょうか。これ以上に良い名は無いように思えました。
「もう一つ、頼み事をしても良いかい?」
「何だ?」
「私の妻になってくれないか?」
「は?」
 また聞きなれない単語が出てきました。
「お前は、どこに行っても一人だと言っていたな。誰もいない。誰も、自分と共にいてくれない。いられない、と」
 覚えていたのか。
 そう口にするよりも先に、女の、アルマの目に涙が溢れました。龍だった頃の、あの各地を彷徨った無限ともいえる時間、鎧の奥深くにあるはずの心臓に直接突き刺さってきた孤独の痛み。どこに行っても、そこに留まる事を許されなかった痛み。それが、誰かに理解してもらえるものとは、あの頃は思ってもみませんでした。
「ああ…」
 アルマは目を伏せました。涙の大きな珠が頬を転がり、ナムカの指に落ちます。
「アルマ。私は、お前と共に生きる存在に、なれないだろうか?」
 アルマは黙って、頬に当てられた掌に触れました。そのまま、両手で頬からはがすと、上に向け、そこに顔を押しあてました。
「…約束しろ。我を一人にするな。我を、置いていくような事があれば許さない。そうなれば…」
 お前がどこにいようと、我は、きっとお前を食らいに行く。
「ああ。約束する」
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■筆者メッセージ
蛇足の後編に入る前に、ちょろっと書きたい事があったので^^
「アルマ」は適当につけましたが、「ナムカ」の方はチベット語で「空」です、一応
透(変更の可能性あり) ( 2014/04/25(金) 20:39 )